特別育児支援法
静寂に包まれた車内は走る要塞のようだった。
外部の騒音が完全に遮断された空間で、向かいの席に座る桜さんが口を開く。
「ご安心ください奥様。これらは全て『特別育児支援法』に基づいた正規の手続きです」
「法……法律、ですか? 私、そんなの申請した覚えが……」
「申請は不要です。男児の出生が確認された時点で自動的に最高ランクの支援が適用されますから」
桜さんの説明は淀みなく、まるで教科書を読み上げているかのようだ。
膝の上に置いたタブレット端末を操作しながら続ける。
「病院から『男児誕生』の報せが入ったのが数日前。その瞬間から国家プロジェクトとして東条家の警護および生活支援体制が敷かれました。私が派遣されたのもその一環です」
「ええ……そんな、プロジェクトだなんて。うちは普通の家庭ですよ?」
「いいえ奥様。龍弥様が生まれた時点で、もはや『普通』ではありません。この国の至宝を預かる聖域なのです」
聖域。
また大層な言葉が出てきたな。
俺はチャイルドシート代わりの、これまた高級そうなベビーバスケットの中で耳をそばだてていた。
桜さんの言葉を信じるなら、男が生まれただけで国が動くということか。
いくら少子化対策が進んだ未来だとしても、これほどの厚遇は異常だ。
税金の無駄遣いだと野党が黙っていないだろう。
「今後、龍弥様の身の回りのお世話は全て私にお任せください。オムツ交換から沐浴、離乳食の調理に至るまで、国家資格を持つ私が完璧に遂行いたします」
「で、でも……自分の子供くらい自分でお世話したいわ」
「奥様には母乳育児という最重要任務がございます。それ以外の雑務で体力を消耗させるわけにはいきません。それに――」
桜さんが一瞬、言葉を切って俺の方を見た。
その瞳が少しだけ潤んでいるように見えたのは気のせいか。
「……男児の肌は極めてデリケートです。素人の手によるケアで万が一、龍弥様の玉の肌に傷でもついたら……それは国家的な損失です」
「こ、国家的損失……」
美月さんは完全に気圧されていた。
無理もない。俺だって困惑している。
ここまでの話を聞いて、俺の中で一つの仮説が浮上していた。
もしかして母さんは、とんでもない上級国民なんじゃないか?
あるいは隠し資産を持つ大富豪か、世界的な有名人の隠し子を産んだとか。
そうでなきゃ説明がつかない。
あの群衆、この装甲車、そして専属メイド。
きっと俺の実家は白亜の豪邸で、プール付きの庭があって、執事がズラリと並んで出迎えるに違いない。
そうと決まれば悪い気はしない。金持ちの息子としての第二の人生、悪くないじゃないか。
「到着いたしました」
心地よい振動にまどろみかけていた俺の意識を、運転手の声が引き戻した。
さあ見せてくれ。俺の暮らす城を。
期待に胸を膨らませて、俺は抱き上げられるのを待った。
「こちらでございます」
桜さんが恭しくドアを開ける。
眩しい日差しと共に俺の目に飛び込んできたのは――
築三十年は経っていそうな、ごく普通の木造二階建てだった。
「……うぇ?」
思わず変な声が出た。
庭?
猫の額ほどのスペースに雑草が生えているだけだ。
プール?
あるわけない。
執事?
野良猫すらいない。
どこからどう見ても、昭和の香りを残した庶民的な一軒家だ。
表札にはプラスチックの文字で『東条』とある。
「懐かしい我が家だわぁ。やっぱりここが一番落ち着くのよね」
美月さんは何の感慨もなく、慣れた足取りでその古びた玄関へと向かっていく。
俺はあんぐりと口を開けたまま、腕の中で揺られていた。
待て待て待て。おかしいだろ。
あの装甲車から降り立つ場所がここ?
ベンツで百円ショップに乗り付けるような違和感があるぞ。
「お足元にお気をつけください」
桜さんが素早く先回りして玄関のドアを開ける。
ギイ、と少し立て付けの悪い音がした。
中に入っても印象は変わらない。
狭い廊下、生活感のある散らかったリビング、使い古されたソファ。壁にはカレンダーが画鋲で留められている。
完全に、どこにでもある一般家庭だ。
大富豪説は脆くも崩れ去った。
「ふう、やっと座れた。龍弥、お家よ。狭いけど我慢してね」
ソファに腰を下ろした母さんは、愛おしそうに俺の頬をつつく。
俺は部屋を見回しながら混乱の極みにあった。
この庶民的な生活水準の家に対して、あのVIP待遇。
バランスが狂っている。
普通なら金持ちだから特別扱いされるものだが、ここでは因果関係が逆なのか?
それとも、このボロ家(失礼)に住んでいることがカモフラージュなのか?
「早速ですが奥様、龍弥様のお部屋を整えます。南向きの最も日当たりの良い部屋をリフォームさせていただきますので」
「えっ、リフォーム? 今から?」
「はい。工兵部隊が待機しております」
「工兵!?」
桜さんが無線で何かを指示すると、外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
俺は天井を見上げながら、遠い目をするしかなかった。
一体、この世界はどうなっているんだ。
ただの一般ピーポーの子供として生まれたはずなのに、世界の方が俺を放っておいてくれないらしい。




