母親のお願い
麗華と静が京都へと旅立った翌日。
俺は自宅の部屋で、山積みにされたプリントと格闘していた。
「修学旅行に参加できない代わりに、同等の学習時間を確保すること」という名目で出された特別課題だ。
内容は難しいものではないが、親友たちが八ツ橋を食べたり金閣寺を見たりしている間に、一人で分数の計算をするのは精神的に来るものがある。
「はぁ……今頃、新幹線の中でお弁当食べてるのかなあ」
シャーペンを置いて天井を見上げた、その時だった。
バンッ!
ドアが勢いよく開き、母さんが飛び込んできた。
「龍弥ーッ! ヘルプ! ヘルプミーよ!」
「うわっ!? びっくりした……どうしたの、母さん」
母さんは髪を無造作に束ね、服のあちこちに糸くずをつけた、まさに「修羅場中のクリエイター」という姿だった。
しかし、その目はギラギラと怪しく輝いている。
「デザインに行き詰まっちゃって……どうしても実物のサイズ感が見たいの! ねえ龍弥、ちょっとだけママのお仕事手伝ってくれない?」
「手伝うって……ボクに何ができるの?」
「モデルよ、モデル! 今度の新作、ターゲット層がちょうど龍弥と同じくらいの身長なの! トルソーに着せるだけじゃ、どうしても生地の落ち感とか動きやすさが分からなくて……」
母さんは両手を合わせて拝み倒してきた。
ファッションデザイナーとして第一線で活躍する母さんが、ここまで切羽詰まっているのは珍しい。
いつも俺の世話を優先してくれる母さんが、仕事で頼ってきてくれる。
息子として、ここは一肌脱ぐべきだろう。
「いいよ。着てみるだけでいいなら」
「本当!? あぁん、やっぱり龍弥はママの天使ね!」
母さんは歓声を上げ、廊下に置いてあった大量の衣装カバーを部屋に運び込んできた。
俺は椅子から立ち上がり、準備運動でもしようかと肩を回した。
まあ、Tシャツとかパーカーの試着だろう。
そう高を括っていた俺の脳裏に、ふとある事実が閃いた。
「……待てよ」
ここは男女比1:100の世界だ。
市場に出回っている服の99.9%は女性向け。
母さんは、その業界のトップデザイナーだ。
ということは、母さんが作っている「新作」というのは……
当然――
「さあ龍弥、まずはコレからお願いね!」
俺の嫌な予感を裏付けるように、母さんが衣装カバーのジッパーを下ろした。
そこに現れたのは、淡いピンク色の生地に、これでもかと言うほどレースとフリルがあしらわれた、膝上丈のワンピースだった。
背中には大きなリボン。袖はパフスリーブ。
どこからどう見ても、可憐な少女のための勝負服だ。
「……母さん?」
「ん? どうしたの?」
「これ、女の子の服だよね」
「当たり前じゃない。ママはレディースブランドのデザイナーよ?」
母さんはキョトンとして言った。
悪気はない。一点の曇りもない。
母さんにとって「自分と同じくらいの背丈の人間」に「試作の服」を着せることは、ごく自然な作業工程なのだろう。
性差などという些細な問題は、クリエイティブの前では無力らしい。
「ほら、早く着替えて! 袖の通し具合を見たいの!」
「いや、無理だよ! ボクもう六年生の男だよ!?」
「何言ってるの、まだ声変わりもしてないし体型も変わらないじゃない。それに龍弥、顔立ちが可愛いから絶対似合うわよ~」
母さんの目が据わってきた。
「デザイナーの目」と「親バカの目」が融合した、最も危険な状態だ。
逃げようにも、ドアの前には衣装の山が壁となって立ちはだかっている。
「ちょっとだけ! 写真撮ったりしないから! ね?」
ジリジリと詰め寄ってくる母さんと、手にあるピンクのフリル。
俺は修学旅行に行けなかったこと以上に、今の状況を呪った。
留守番中に待ち受けていたのは、女装モデルという過酷なミッションだったとは。




