決着
運命のテスト返却日。
教室の空気は、これまでになく張り詰めていた。
先生が答案用紙の束を持って入ってくるだけで、クラス中が息を呑む気配がした。
「それでは、テストを返します。名前を呼ばれたら取りに来てください」
先生の声が響く。
科目はこの時期の一年生らしく『こくご』『さんすう』そして『せいかつ』の三科目だ。
内容は至ってシンプル。
国語はひらがなの読み書き、算数は一桁の足し算引き算、生活は学校のルールや植物の観察といったところだ。
正直、転生者である俺にとっては、目をつぶっていても解けるレベルの問題だった。
「東条龍弥くん」
名前を呼ばれ、俺は席を立つ。
西園寺さんが横目でこちらを睨みつけてくる。彼女の手元には、既に返却された二科目の答案があり、どちらも鮮やかな『100』の数字が躍っていた。
さすがは首席入学。
「男なんかに負けるはずがない」という自信は伊達ではなかったようだ。
俺は先生から三枚の答案を受け取り、席に戻った。
ペラリ、ペラリと捲る。
国語、100点。
算数、100点。
生活、100点。
当然の結果だ。
だが俺は安堵の息を吐いた。
字が汚いとか、トメハネがいい加減だとかいう理由で減点される可能性もゼロではなかったからだ。
大人の丁寧さで書き込んだ甲斐があった。
俺は三枚の答案を机の上に並べ、西園寺さんの方を見た。
「……っ!」
動きが止まっていた。
最後の一枚、国語のテストを受け取った西園寺さんの肩が、小刻みに震えている。
その背中は、自信に満ち溢れていた数分前とは別人のように小さく見えた。
「……うそ……ですわ……」
掠れた声が聞こえる。
俺は自分の答案を持ったまま、西園寺さんの席へと歩み寄った。
クラス中の視線が俺たち二人に集中する。
静も、心配そうに自分の席から半身を乗り出している。
「どうだった、西園寺さん。ボクは全部満点だったよ」
俺は自分の答案を提示した。
嫌味に聞こえないよう、あくまで事務的に事実だけを告げる。
西園寺さんは、まるで幽霊でも見るような目で俺の答案を見つめ、それから力なく自分の机の上にある答案へと視線を落とした。
算数、100点。
生活、100点。
そして国語――
右上に赤ペンで書かれた数字は『98』。
「……あ」
俺は思わず声を漏らしてしまった。
間違えた箇所は、問題文の最後の方にあった。
『「わ」と「は」のつかいかた』の問題だ。
『わたし( )がっこうへいく』という文の空欄に正しい文字を入れる問題。
回答欄には、綺麗すぎる字で『わ』と書かれていた。
正解はもちろん『は』だ。
いわゆる「くっつきの『は』」というやつだが、これはケアレスミスだ。
普段の口調からして、間違えるはずのない問題。
おそらく、テストという極限の緊張感、あるいは「絶対に勝たなきゃいけない」というプレッシャーが、冷静さを一瞬だけ奪ったのだろう。
あるいは、綺麗に書こうとしすぎて、無意識に音の響きそのままを書いてしまったのかもしれない。
たった一問。
たった二点の差。
だが、勝負の世界において、それは決定的な敗北を意味していた。
「……負け、ましたわ……」
西園寺さんは、蚊の鳴くような声で呟いた。
その瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、98点の答案用紙に染みを作っていく。
「わたくし……お勉強だけは……誰にも負けないように頑張ってきたのに……。
男の子に……遊んでばかりの男の子に負けるなんて……」
そして両手で顔を覆い、しゃくり上げ始めてしまった。
その姿を見て、俺の中にあった「ざまあみろ」という感情は、急速に冷めていった。
代わりに湧き上がってきたのは、強烈な罪悪感だった。
相手は小学一年生の女の子だ。
毎日必死に塾に通い、習い事をし、睡眠時間を削って努力してきた少女だ。
対して俺は、前世の貯金(知識)を使って、涼しい顔で満点を取っただけのオッサンだ。
「努力する女たちの神聖な学び舎」を汚しているのは、やはり俺の方なのかもしれない。
俺は大人げなかったかもしれん……
ムキになって、子供相手に本気を出して、プライドを粉々に砕いてしまった。
「……泣くなよ」
俺は溜息をつき、ポケットからハンカチを取り出して差し出した。
「たった一問のミスだろ。実力はお前の方が上だよ。字だってボクよりずっと綺麗だし」
慰めのつもりだったが、西園寺さんは涙に濡れた顔で俺を睨み返した。
「同情なんて……いりませんわ! 負けは負けですもの!」
「別に同情じゃないさ。事実を言っただけだ」
俺はハンカチを西園寺さんの手に押し付けた。
そして、周囲のクラスメイトたちにも聞こえるように、はっきりと言葉を紡いだ。
「約束通り、勝負はボクの勝ちだ。だからボクの言うことを聞いてもらうよ」
西園寺さんは唇を噛み締め、覚悟を決めたように頷いた。
「……ええ。おっしゃいませ。下僕でも何でもなりなさいよ!」
「誰が下僕にするかよ」
俺は苦笑した。
「ボクの要求は、最初の約束通りだ。これから先、ボクを避けないこと。無視しないこと。そして『男だから』っていう理由で色眼鏡を見ないで、一人のクラスメイトとして接すること。それだけだ」
「……え?」
西園寺さんが目を丸くした。
周囲の女子たちもざわめき始める。
もっと屈辱的な命令、例えば「荷物持ちをしろ」とか「靴を舐めろ」とか、あるいは「俺様を敬え」といった要求が来ると思っていたのだろうか。
「そ、それだけで……よろしくて?」
「ああ。ボクは普通に学校生活を送りたいだけなんだ。挨拶したら返してほしいし、間違ったことをしたら怒ってほしい。特別扱いも、無視もいらない。ただの東条龍弥として見てほしいんだ」
俺の本心だった。
ハーレムだ何だと浮かれる前に、まずは人間としての尊厳と、対等な関係が欲しかった。
西園寺さんはしばらく呆然としていたが、やがて涙を拭い、ハンカチを握りしめたまま立ち上がった。
その表情には、まだ悔しさは残っているものの、憑き物が落ちたような清々しさがあった。
「……わかりましたわ。西園寺家の誇りにかけて、約束は守ります」
そして俺に向かって、右手を差し出した。
「負けを認めます、東条さん。あなたは……わたくしが思っていたような、ただの甘やかされたお飾りではないようですわね」
その言葉には、初めて俺個人への敬意が含まれていた。
俺は手を握り返した。
「ありがとう、西園寺さん。これからもよろしく」
「ふんっ、勘違いしないでくださいまし!今回は油断しましたけど、次は絶対に負けませんわよ!いつか必ず、あなたを完膚なきまでに叩きのめして差し上げますから!」
そういってツンと顔を背けたが、握手した手は温かかった。
教室の空気が、ふっと緩んだ気がした。
遠巻きに見ていた他の女子たちも、何やら顔を見合わせて頷き合っている。
「男の子なのにすごーい」という盲目的な称賛ではなく、「あいつ、やるじゃん」という対等な評価。
それこそが、俺が最も欲しかったものだった。
席に戻ると、静がホッとしたような笑顔で迎えてくれた。
「よかったね、たつやくん」
「ああ。これで少しは過ごしやすくなりそうだよ」
俺は窓の外の青空を見上げた。
体育の授業はまだ別メニューかもしれないが、少なくとも心のバリケードは崩せたはずだ。
前途多難な学校生活だが、一歩前進といったところだろう。
俺は小さくガッツポーズをした。




