原因
翌朝の教室は、昨日よりもさらに冷え切っていた。
俺が「おはよう」と言っても、返ってくるのは衣擦れの音と、気まずそうな沈黙だけ。
静が心配そうに俺の袖を掴んでいるが、今日ばかりは俺も黙って引き下がるつもりはなかった。
「いい加減にしろよ……」
俺の中の大人の部分が、堪忍袋の緒を切った音を立てた。
理由も分からず無視され、犯罪者扱いされるのは御免だ。
俺はランドセルを机に叩きつけるように置くと、教室の中央、一番目立つ席に座っている少女の元へ大股で歩み寄った。
「おはよう、西園寺さん」
俺は机に両手をつき、覗き込むようにして声をかけた。
西園寺麗華。
金髪の縦ロール(地毛なのか染めているのかは不明だが)が特徴的な、クラスの女王様的存在だ。
優雅に紅茶(教室に持ち込んでいるのが謎だが)を啜り、俺の存在などカケラも認識していないかのように、窓の外へ視線を向けた。
「……」
無視。
完全なる無視だ。
その横顔には「汚らわしい」と書いてある。
「聞こえてるだろ? 西園寺麗華!」
教室の空気がピリリと張り詰める。
周囲の女子たちが息を呑む気配がした。
ようやく、西園寺さんは億劫そうにこちらへ顔を向けた。
その瞳には、かつてのような熱烈な好意はなく、氷のような冷徹さだけが宿っていた。
「……うるさいですわね。朝から大声を出さないでくださる? 耳が汚れますわ」
そういってハンカチで耳を押さえる仕草をした。
あまりにも芝居がかった、そして人を小馬鹿にした態度だ。
「なんで無視するんだよ。ボクが何をしたっていうんだ? 文句があるならハッキリ言ってみろよ!」
俺は畳みかけた。
子供の喧嘩かもしれない。でも、ここで引いたら俺の尊厳に関わる。
すると、西園寺さんはカチャンと音を立ててティーカップをソーサーに戻した。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
身長こそ俺と変わらないが、その纏っている覇気は小学生のそれとは思えないほど鋭かった。
「……よくそんなことが言えますわね」
柳眉を逆立て、軽蔑の眼差しで俺を射抜いた。
綺麗な顔が、怒りで歪んでいる。
「何をしたか、ですって? 何もしていないから、こうして呆れているのですわよ!」
「はあ? 何もしてない?」
俺は呆気にとられた。
何もしていないことが罪なのか?
無遅刻無欠席、宿題も忘れずに提出しているし、授業態度だって真面目なはずだ。
「とぼけないでくださいまし! あなた、男の子でしょう?」
「そうだけど……それがどうしたんだよ」
「だーかーら! 男の子なら、わざわざ学校に来て、授業なんて受ける必要ないじゃない! 目障りなんですのよ!」
「……は?」
授業を受ける必要がない?
何を言っているんだ。義務教育だぞ。男だろうが女だろうが、学ぶ権利と義務があるはずだ。
俺の困惑をよそに、西園寺さんの口撃は止まらない。
堰を切ったように、溜め込んでいた不満が溢れ出してくる。
「どうせあなたなんて、勉強しなくたって将来は安泰でしょう? 国が勝手に守ってくれて、お金もくれて、何もしなくても偉そうにふんぞり返って生きていけるんですもの! そんな人が、なんでわたくしたちと同じ教室で、同じ空気を吸って勉強ごっこなんてしてるんですの!?」
声が教室中に響き渡る。
他の女子生徒たちも、西園寺さんの言葉に同調するように、静かに、しかし強く頷いているのが見えた。
そうか。そういうことか。
「男でよかったわね、東条さん。わたくしたちはね、この学校に入るために死ぬほど勉強したのですわよ? 将来のために毎日毎日、塾に通って、ピアノも英会話も習って、遊ぶ時間なんてありませんの! なのにあなたは……男というだけで、特待生? 試験もなしに入学? ふざけないでくださる!?」
西園寺さんはバンッと机を叩いた。
その目には涙が浮かんでいるように見えた。
それは悔し涙だ。
不公平な社会構造に対する、子供なりの、しかし切実な怒りの露呈だった。
「男なら楽できるんだから、家でゴロゴロしてればいいじゃない! わざわざここに来て、わたくしたちの努力を嘲笑うような真似しないでちょうだい! 『男なのにすごいですねー』って褒めてほしいの? バカみたい! そんなの、ただの道楽でしょう!?」
俺は言葉を失った。
この子の言っていることは、この世界の歪みそのものだった。
男性人口の激減により、男は「保護されるべき資源」となった。
それは裏を返せば、「努力する必要のない存在」へと堕ちたことを意味する。
社会の維持、労働、学問、政治。
それら全ての重責は、圧倒的多数である女性たちの双肩にかかっているのだ。
この子らは幼い頃から競争社会に放り込まれ、必死に努力して生き抜いている。
そんな子達にとって、特権階級に胡坐をかきながら、のうのうと「お勉強」に来る俺の姿は、まさしく「道楽」にしか見えないのだ。
「……っ」
俺は唇を噛んだ。
今まで感じていた「モテ期」や「ハーレム」といった浮かれた状況の裏側に、こんな冷ややかな現実が横たわっていたとは。
皆が俺を軽蔑していたのは、俺個人に対してではない。
「男」という、生まれながらにして勝ち組確定の、努力を放棄した(と見なされている)存在そのものに対してだったのだ。
かつての西園寺さんが俺にアプローチしていたのも、純粋な好意などではなかったのだろう。
「男を手に入れれば勝ち組になれる」という、生存戦略の一環だったに過ぎない。
だが、実際に同じ教室で学び、俺が普通に振る舞えば振る舞うほど、「不公平感」が刺激され、それが嫌悪へと変わっていったのだ。
「……もういいですわ。あなたと話しているとイライラしますの」
言いたいことだけ言ってスッキリしたのか、西園寺さんはフンと鼻を鳴らし、ドカッと椅子に座り直した。
再び、俺を存在しないものとして扱うモードに入ったのだ。
俺は立ち尽くしていた。
周囲の視線が、さっきよりも痛い。
そこには「よくぞ言ってくれた」という共感の色が混じっている。
俺は完全にアウェイだった。
唯一の味方である静が、心配そうに俺の手を握ってくれるまで、俺はその場から一歩も動くことができなかった。




