違和感
入学当初の熱狂が嘘のように、クラスは急速に静寂を取り戻していた。
それは俺にとって、願ってもない平穏のはずだった。
「……おはよう」
俺が教室のドアを開けて挨拶をする。
数日前までなら、まるでアイドルのファンミーティングかのように十八人の女子生徒が一斉に振り返り、「おはようございます、東条様!」と黄色い声を張り上げていた場面だ。
しかし今朝は違った。
シーン。
誰も答えない。
いや、聞こえていないわけではない。
数人がチラリとこちらを見たが、すぐに興味なさそうに、あるいは何か穢らわしいものでも見たかのように視線を逸らし、手元の教科書や端末に目を落としたのだ。
まるで俺という存在が、最初からそこになかったかのように。
「……なんだ?」
俺は言い知れぬ違和感を覚えながら、自分の席へと向かった。
静は既に登校していて、心配そうな顔で俺を見上げている。
「おはよう、静ちゃん」
「……おはよう、たつやくん」
静だけが、変わらぬ笑顔(といっても控えめだが)で返してくれる。
この安心感は何物にも代えがたいが、それ以上に周囲の空気の異常さが際立っていた。
幼稚園の頃も、一時的に飽きられたり、他の遊びに夢中になったりすることはあった。
だが小学生ともなれば、ここまで露骨な態度変容が起きるものだろうか。
俺はランドセルを片付けながら、教室全体を見渡してみた。
つい先日まで俺に猛アタックを仕掛けてきていた西園寺麗華という派手な女子がいる。
彼女は財閥の令嬢らしく、入学早々「東条様のお嫁さん候補ナンバーワンはわたくしですわ!」と宣言していた猛者だ。
その彼女と目が合った。
いつもならウインクの一つも飛んでくるところだが、フンと鼻を鳴らし、露骨に顔を背けたのだ。
無視。
あるいは、拒絶。
その態度は「興味がなくなった」というニュアンスではない。
もっと能動的な、明確な意思を持った「嫌悪」に近いものを感じた。
俺、何かしたか?
鼻くそでもほじったか?
いや、転生者としての自覚を持ち、品行方正に努めてきたつもりだ。
男というだけでチヤホヤされるこの世界で、調子に乗らず、謙虚に振る舞ってきたはずなのに。
授業が始まっても、その違和感は拭えなかった。
先生が俺を当てて、俺が正解を答える。
以前なら「さすが東条様!」「天才!」と拍手が起きた場面だ。
しかし今は、冷ややかな沈黙が流れるだけ。
背中に突き刺さる視線の数々。
それは熱烈なラブコールではなく、冷たい針のような敵意を含んでいた。
まるで俺がこの教室にいること自体が間違いであるかのような、居心地の悪い空気。
休み時間になっても、誰も近寄ってこない。
俺の周りだけ、見えないバリケードが張られているようだ。
かつての包囲網に比べれば物理的には快適だが、精神的には真綿で首を絞められるような息苦しさがある。
「……いこう、たつやくん」
重苦しい空気に耐えかねていた俺の手を、静がそっと引いた。
俺たちは逃げるように教室を出て、人気のない中庭のベンチへと向かった。
春の風が吹き抜ける中庭は、教室の陰湿な空気とは無縁だった。
俺は大きく深呼吸をして、隣に座る静に向き直った。
「ねえ、静ちゃん。ボク、何かみんなに悪いことしたかな」
単刀直入に聞いた。
これだけ露骨に避けられているのだ。何か理由があるはずだ。
静は困ったように眉を下げ、膝の上で指を絡ませている。
だがクラスの異変に気づいていないはずがない。
むしろ、周囲の空気に敏感な彼女の方が、何かを知っている可能性が高い。
「……わたしも、よくわからないの」
静はポツリと言った。
嘘をついている目ではない。本当に困惑しているようだ。
「でも……もしかしたら、わたしたちがいっしょにいるのが、うらやましいのかもしれない」
「羨ましい?」
「うん。幼稚園のときも、そうだったから」
静の推測は、一見すると筋が通っているように思えた。
幼稚園時代、俺たちが二人だけの世界に閉じこもったことで、周囲の園児たちから「ずるい」という嫉妬を買った。
その再来だと言うのだ。
特定の女子(静)とばかり仲良くしている俺に対して、他の女子たちが集団で拗ねている。
「私達の相手をしてくれないなら、もう知らない!」という、ある種のストライキのようなもの。
だが、俺の中にある大人の理性が、その結論に「待った」をかけていた。
「うーん……でもさ、それなら静ちゃんがいじわるされるはずじゃない?」
俺は冷静に分析する。
嫉妬のメカニズムとして、攻撃の矛先は「奪った相手」に向くのが定石だ。
幼稚園の時は、実際に静が責められた。
だが今回は違う。
静に対しては、無視というよりは「無関心」に近い。
西園寺さんたちの冷たい視線や、教室に漂う棘のような空気は、明らかに俺――東条龍弥という個人に対してダイレクトに向けられているのだ。
「それに、ただ拗ねてるだけにしては、ちょっと空気が重すぎる気がするんだよね」
俺は教室での西園寺さんの態度を思い出す。
あの時の彼女の目は、「自分を見てくれない寂しさ」を含んでいなかった。
もっと根本的な、生理的な嫌悪感。
あるいは軽蔑。
まるで汚物を見るような、冷めきった目だった。
一週間前まで「結婚して!」と騒いでいた相手に向ける目として、あまりに落差が激しすぎる。
「そう、かな……」
静も自信がなさそうだ。
俺の手をギュッと握りしめてくれた。
「でもだいじょうぶ。みんながたつやくんをきらいになっても、わたしはずっと味方だから」
その言葉は嬉しかった。
世界中が敵に回っても、この子だけは俺の傍にいてくれる。
その事実は俺の心を大いに救ってくれたが、同時に不安の種も育てていた。
もし、この「嫌われている状況」の原因が解決できなければ、静まで巻き込んで孤立させてしまうかもしれない。
せっかく特待生として入ったこの学校で、静に辛い思いはさせたくない。
「ありがとう、静ちゃん。頼りにしてるよ」
俺は笑顔で答えたが、内心のモヤモヤは晴れなかった。
何かがおかしい。
この世界は男尊女卑(希少価値的な意味で)が常識のはずだ。
男である俺が、女たちから集団で無視され、軽蔑されるなんて状況、社会的にも生物学的にもあり得ないはずなのだ。
それとも、俺が知らないだけで、小学生女子の間で「男の子を無視するゲーム」でも流行っているのだろうか?
いや、そんな生易しい雰囲気ではない。
予鈴が鳴り、俺たちは重い足取りで教室へと戻ることにした。
廊下を歩いていると、すれ違う上級生らしき女子生徒たちが、俺を見てヒソヒソと耳打ちし合っているのが見えた。
「……あれが例の?」
「うわ、本当に入学してきたんだ」
「羨ましい……」
断片的に聞こえてくる言葉。
どういう意味だ。
俺は単なる新入生の男子児童だぞ。
それとも、俺の出生に何か秘密があるのか?
いや、それならもっと早く、幼稚園時代から問題になっていたはずだ。
教室のドアを開ける。
再び、あの冷たい静寂が俺を迎えた。
西園寺さんがこちらを一瞥し、すぐにフイと顔を背ける。
他の生徒たちも同様だ。
誰も俺と目を合わせようとしない。
まるで俺が、触れてはいけないタブーか、あるいは既に終わってしまった存在であるかのように。
俺は自分の席に座り、教科書を開いた。
文字を目で追いながら、思考は別のところを巡っていた。
この一週間の間に、俺の預かり知らぬところで何かが起きたのだ。
それは俺の平穏を脅かすだけでなく、この歪な世界の根幹に関わる何かなのかもしれない。
背中に突き刺さる冷たい視線を感じながら、俺は静かに拳を握りしめた。
原因を突き止めなければならない。
この不気味な悪意の正体を。
そうしなければ、俺の、そして静との平穏な学校生活は、音を立てて崩れ去ってしまうだろう。




