幼稚園の卒業式
桜舞う春の陽気の中、聖マリアンナ幼稚園の卒業式は厳かかつ盛大に執り行われた。
俺は卒園証書を受け取り、檀上で一礼する。
その瞬間だった。
「キャーッ! 龍弥ーッ! 素晴らしいわ! 世界一の返事よ! ママ感動して死んじゃいそう!」
保護者席から、悲鳴にも似た歓声が轟いた。
言うまでもなく、我が母、東条美月である。
周りの保護者たちも我が子を溺愛しているはずだが、母さんのテンションは頭一つ、いや三つくらい抜けていた。
ビデオカメラを構えながら半泣きで、しかもアイドルコンサートのようにタオルを振り回している。
俺は顔から火が出る思いで、逃げるように席へ戻った。
「頼むから静かにしてくれ母さん……」
SPとして同行している桜さんが、他人のふりをして遠くを見ているのが切なかった。
何はともあれ、式は無事に終了。
帰宅すると、玄関で桜さんが改めて俺に向き直り、深々と頭を下げた。
「龍弥様、ご卒園おめでとうございます。この桜、龍弥様のご成長を間近で拝見でき、感無量でございます」
「ありがとう、さくらおねえちゃん。美味しいご飯、楽しみにしてるね」
「はい。本日はお赤飯と、龍弥様の好物のハンバーグをご用意しております」
完璧だ。この平穏さこそが我が家の日常だ。
そう思っていたのだが。
夕食後、リビングでくつろいでいると、母さんがバスタオルを片手に近づいてきた。
その顔には、獲物を狙う猫のような、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「さあ龍弥、今日はお祝いよ! ママと一緒に『あわあわお風呂』に入りましょ!」
出た。
俺は内心で頭を抱えた。
赤ん坊の頃ならいざ知らず、幼稚園を卒業し、四月から小学生になろうという男子だ。
しかも中身は三十路越え。
美女とはいえ、母親と一緒に入浴など、理性がストップをかける。
「えっと……ボク、もう小学生になるし、ひとりで入れるよ」
俺は精一杯の大人アピールをして拒否を試みた。
しかし、そんな小細工が通用する相手ではない。
「……えっ?」
母さんの動きがピタリと止まる。
そして次の瞬間、その場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「うぅ……うわぁーん! 龍弥に嫌われちゃったぁ! ママのこと、もういらないのね! 汚いものでも見るみたいに拒否したわ! あぁ、なんて悲しいの! ママ、もう生きていけないっ!」
「……」
わざとらしい……
あまりにもわざとらしい号泣演技だ。
指の隙間からチラチラとこちらの様子を伺っているのが丸見えである。
だが、分かっていても逆らえないのが母という生き物だ。
ここで俺が突っぱねれば、泣きまねが本気の号泣に変わり、家中が修羅場と化す未来が見える。
それに、なんだかんだで俺はこの人を悲しませたくはないのだ。
「……わかったよ。いっしょに入るよ」
「ほんと!? やったぁ!」
母さんはバネ仕掛けのように飛び起きると、涙など一滴も出ていない満面の笑みで俺を抱き上げた。
切り替えが早すぎる。
「さあ行きましょ! 背中流してあげるわね、隅から隅まで!」
「じぶんで洗えるってば……」
抵抗も虚しく、俺は浴室へと連行された。
湯気の中、鼻歌交じりに俺の体を洗う母さん。
その豊満な肢体が触れるたびに、俺は「無」の境地を維持するのに必死だった。
「大きくなったわねぇ」と呟く声には、やはりあの、普通の母親とは一線を画す重たい愛情が滲んでいて。
俺は湯船に肩まで浸かりながら、この過保護で甘美な檻から抜け出せる日は当分来ないのだろうな、と観念の溜息をつくのだった。




