幼稚園の卒業
桜の蕾が膨らみ始めた頃、俺は人生最大の危機に直面していた。
幼稚園の卒業。それはいい。喜ばしい成長の節目だ。
問題はその後だ。
「……たつやくんとは、別の小学校なんだね」
お別れ会の日、静が悲しそうに眉を下げて言ったその一言が、俺の心臓を撃ち抜いた。
俺が進学するのは『国立初等教育機関・本校』。
最高レベルの教育と警備体制を誇る、選ばれし者(というか俺のような希少男児や超上級国民)のための学校だ。
対して静が進むのは、地元の公立小学校。
住む世界が違う、と言われればそれまでだが、俺にとってこの数年間、静のいない生活など考えられなくなっていた。
「イヤだ……」
帰りの車中、俺はチャイルドシートに沈み込みながら呟いた。
「龍弥様? どうなさいました?」
「イヤだ! しずかちゃんがいない小学校なんて行きたくない!」
俺は桜さんのエプロンを掴んで懇願した。
子供のわがままだと分かっている。
だが、これは俺の精神的支柱に関わる重大事だ。
静と離れ離れになって、またあの飢えた女たちの群れの中に一人で放り込まれるなんて、想像しただけで地獄だ。
「お願いだよ、さくらおねえちゃん! ボク、しずかちゃんと一緒がいい! しずかちゃんがいないと、勉強も頑張れない! ご飯も喉を通らない! 不登校になる自信がある!」
俺は必死だった。
なりふり構わず、涙目で訴えかける。
桜さんは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに冷静な表情に戻り、俺の手を優しく包み込んだ。
「……龍弥様のお気持ちは、痛いほど理解いたしました。静様は、龍弥様の精神安定において極めて重要な『アンカー』としての役割を果たしておられますからね」
桜さんは懐から端末を取り出すと、素早い手つきで何かを入力し始めた。
「少々お待ちを。教育委員会および公安局と調整を行います」
「えっ、公安?」
桜さんの指が残像が見えるほどの速度で動く。
「もしもし、こちら東条家付きメイドの桜です。コード・レッド。龍弥様の進路について緊急の変更要請です……ええ、予算は問いません……特例枠の発動を……」
不穏な単語が飛び交う通話を、俺は固唾を呑んで見守ることしかできなかった。
翌日。
朝食の席で、桜さんが焼きたてのトーストと共に一枚の書類を差し出してきた。
そこには『入学許可証』の文字と、静の名前があった。
「ご安心ください、龍弥様。常山静様の『国立初等教育機関・本校』への入学手続きが完了いたしました」
さらっと言った。
トーストにバターを塗るような気軽さで、国家レベルの特例措置をやってのけた。
「ほ、ほんとに!? でも、あそこは試験とか、学費とか……」
「学費に関しては全額免除の特待生扱いといたしました。試験に関しても、これまでの龍弥様との交友実績および知能検査の結果、十分な資質ありと判断されましたので、推薦入学という形で処理しております」
桜さんは事も無げに言うと、コーヒーを注いでくれた。
「静様のご両親にも連絡済みです。お母様は受話器の向こうで泣いて崩れ落ちておられましたが、快諾いただきました」
「そ、そうなんだ……」
響子さんが腰を抜かす姿が目に浮かぶようだ。
地元の公立校から、いきなり超エリート校への特待生入学。
まさにシンデレラストーリーだ。
だが、俺にとってはもっと単純で、もっと大切なことだった。
「ありがとう、さくらおねえちゃん! 大好き!」
俺は椅子から飛び降りて、桜さんに抱きついた。
桜さんは一瞬ビクッと体を硬直させたが、すぐにおずおずと俺の背中に手を回し、優しく撫でてくれた。
「……もったいないお言葉です。龍弥様の笑顔が、私の何よりの報酬ですので」
こうして、俺のわがまま(と国家権力の乱用)により、小学校でも静との日々が続くことになった。
新しい制服、新しいランドセル。
そして隣には、変わらず静がいる。
それだけで、これからの六年間が輝いて見えた。




