静の母親
佐藤先生は言葉を詰まらせた。
教育論で返そうとしかけた口が、パクパクと開閉する。
俺の言ったことは「子供のわがまま」の皮を被っているが、その本質は「個人の尊重」だ。
特に、男性の権利が極端に制限されているこの世界において、俺自身の口から出た「嫌だ」「これが好きだ」という意思表示は、大人たちにとって重く響くはずだ。
「……そ、そうね」
先生は困ったような、でもどこか感心したような表情でしゃがみ込み、俺の目線に合わせた。
「龍弥くんの言う通りだわ。無理やり遊んでも、楽しくないものね。先生が間違ってたわ。ごめんなさい」
さすがはプロの教育者。
自分の非を認め、子供相手でも頭を下げられる。
その柔軟さに俺は少しだけ感動した。
「みんなも聞いた? 龍弥くんは今、静ちゃんと本を読みたいの。みんなが龍弥くんと遊びたい気持ちは分かるけど、お友達の『やりたいこと』を邪魔するのは違うわよね?」
先生が園児たちに向き直る。
彼女たちは不満そうに口を尖らせたり、モジモジしたりしていたが、先生の真剣な眼差しに渋々頷いた。
「……はーい」
「ごめんなさーい……」
蜘蛛の子を散らすように、園児たちがすごすごと離れていく。
嵐が去った後のような静けさが戻ってきた。
「ふぅ……」
俺は大きく息を吐き出して、もう一度座り込んだ。
隣では、静がまだ信じられないといった顔で俺を見つめている。
大きな瞳から、ポロリと一粒、涙がこぼれ落ちた。
「……たつやくん」
「だいじょうぶ?」
「う、うん……ありがとう……」
彼女は涙を拭うと、握られたままだった俺の手を、おずおずと握り返してきた。
小さな手。でも、確かな体温。
彼女の顔に、さっきまでの怯えの色はなく、代わりに見たことのないような信頼と安堵の色が浮かんでいた。
「……わたし、たつやくんといっしょで、うれしい」
消え入りそうな声だが、その言葉は俺の胸にじんわりと染み込んだ。
ハーレムだ、モテ期だのと浮かれていた自分を殴ってやりたい。
一人の女の子を笑顔にすることが、こんなにも満ち足りた気分にさせてくれるなんて。
「ボクもうれしいよ。さあ、つづきを読もう」
俺たちは再び『銀河鉄道の夜』を開いた。
周囲からの視線はまだある。
先生や桜さんが遠くから見守っている気配もする。
だが、この四半畳ほどのスペースだけは、誰にも侵されない俺たちだけの世界だった。
* * *
それからの日々、俺と静の関係は盤石なものとなった。
相変わらず他の園児からのアプローチはあるものの、「読書中は邪魔をしない」という不文律がクラス内で形成されつつあった。
静も、俺が守ってくれたことが自信になったのか、以前より少しだけ声が大きくなり、笑顔を見せる回数が増えた。
そんなある日の降園時。
いつものように装甲車へ乗り込もうとした時だった。
「……あの、東条様」
背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには上品なスーツに身を包んだ女性が立っていた。
年の頃は三十代半ばだろうか。
理知的な顔立ちだが、どこか疲れたような影があり、そして何より――静によく似ていた。
「しずかちゃんの、ママ?」
俺の問いに、彼女は深くお辞儀をした。
「はい。常山静の母、響子と申します。……娘から聞きました。東条様が、いつも娘と遊んでくださっていると」
東条様。
幼稚園児相手に使う敬称じゃない。
彼女の態度は、親同士の挨拶というより、王族に対する拝謁に近い緊張感があった。
「娘は……静は、口下手で、トロくて、何の取り柄もない子です。クラスのお友達とも上手くやれず、いつも一人ぼっちで……私は、この子の将来を案じておりました」
響子さんの声が震えている。
「そんな娘が、まさか東条様のような……この国で最も尊い方のお傍にいさせていただけるなんて。夢を見ているようです。……本当に、ありがとうございます。娘を見捨てないでいてくださって、ありがとうございます」
彼女は涙ながらに、アスファルトに額がつきそうなほど深々と頭を下げた。
俺は言葉を失った。
この母親にとって、静が俺と仲良くすることは、単なる「お友達」以上の意味を持っているのだろう。
「あたまをあげてください、おばさん」
精一杯の子供らしさで言った。
「ボクは、しずかちゃんといるのが楽しいから一緒にいるんです。しずかちゃんは、おもしろい本をたくさん知ってるし、やさしいし、すてきな女の子ですよ」
俺の言葉に、響子さんは顔を上げ、驚愕の表情を浮かべた。
そして、まるで救世主を見るような目で俺を見つめ、再び涙を流した。
「……あぁ、なんて勿体ないお言葉……。静、聞いた? 龍弥様が、こんな風に言ってくださっているのよ」
彼女の足元には、静が隠れていた。
母親のスカートを握りしめ、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに俺を見ている。
静に向かってニッと笑いかけた。静も、はにかむように微笑み返してくれた。
その様子を、一歩後ろで見ていた桜さんが、静かに、しかし鋭い眼光で何かをメモしているのを俺は見逃さなかった。
『常山家、要調査。龍弥様のパートナー候補としてランク引き上げを検討』
そんな不穏な文字が見えた気がしたが、俺は見なかったことにした。
今はただ、この小さな友情を大切にしたい。
大人たちの思惑がどうあれ、俺と静の間に流れるこの穏やかな空気だけは、本物だと思いたかったから。




