嫉妬する園児
俺と静の時間は、この騒がしい世界における唯一の凪だった。
登園すると、俺は挨拶もそこそこに絵本コーナーへ直行する。
そこには必ず静がいて、俺の姿を認めると、ほんの少しだけ口角を上げて本を差し出してくる。
言葉はいらない。
隣に座り、肩を並べてページをめくる。
『ぐりとぐら』のカステラに二人して喉を鳴らし、『三びきのやぎのがららがどん』のトロールに身を縮める。
転生者であるという驕りも、男という重圧も忘れ、俺は純粋な子供としてこの子との時間を楽しんでいた。
だが、そんな楽園が許されるはずもなかった。
「ずるーい!!」
ある日のこと、突然の絶叫が静寂を切り裂いた。
顔を上げると、仁王立ちした園児たちの集団が俺たちを取り囲んでいた。
その目は怒りと、それ以上の焦りに満ちている。
「たつやくん、さいきんしずかちゃんとばっかりあそんでる!」
「そうよ! わたしもえほんよみたいのに!」
「しずかちゃんなんかより、わたしのほうがえほんくわしいもん!」
口々に喚き立てる彼女たちの主張は「自分とも遊べ」という一点に尽きる。
この子たちに悪気はないのかもしれない。
ただ、親からのプレッシャーや、本能的な独占欲がそうさせているのだ。
しかし、その剣呑な空気は、内気な静にとっては暴力に等しい。
「……っ」
静がビクッと体を震わせ、開いていた絵本を顔に押し付けるようにして身を縮めた。
俺の影に隠れるようにして、震えている。
その小さな肩を見た瞬間、俺の中でカチリと何かが切り替わる音がした。
「みんな、ちょっとしずかにしてよ。しずかちゃんがこわがってるじゃないか」
「だってェ! たつやくんがひとりじめするからァ!」
収拾がつかない。
騒ぎを聞きつけて、佐藤先生が早足でやってきた。
「こらこら、どうしたの? 喧嘩はだめよ」
「先生! たつやくんが、しずかちゃんとしかあそばないの!」
「わたしたちとなかよくしてくれないの!」
園児たちの訴えを聞いた先生は、困ったように眉を下げた。
そして、俺の方を向いて、諭すように言った。
「龍弥くん。お友達と仲良くするのは良いことだけど、特定の子とばかり遊ぶのはよくないわね。みんな龍弥くんと遊びたいのよ? たまには他のお友達とも遊んであげたらどうかしら」
先生の言っていることは正しい。
教育者として、集団行動において、偏りは是正すべきものだ。
「みんな仲良く」は幼稚園の鉄則であり、仲間外れを防ぐための正義だ。
だが……俺は納得できなかった。
「……イヤだ」
俺の言葉に、先生が目を丸くした。
「え?」
「イヤだよ、先生。ボクは、しずかちゃんと本をよみたいんだ」
立ち上がり、座り込んだままの静の手をギュッと握った。手は冷たく、小刻みに震えている。
「みんなはさ、ボクとあそびたいんじゃなくて、『おとこのこ』とあそびたいだけでしょ?」
教室が水を打ったように静まり返った。
先生が息を呑む音が聞こえる。
俺は周囲の園児たちを見回した。
「みんな、ボクが本をよんでるとき、なにしてた? 『それつまんない』とか『おにごっこしよう』とか、ボクのすきなことをやめさせようとしたよね。でも、しずかちゃんはちがう。しずかちゃんは、ボクのすきなものを、いっしょにすきになってくれたんだ」
それは子供の屁理屈かもしれない。
だけど、これだけは譲れない真実だった。
俺という「希少価値」ではなく、俺という「人間」を見てくれたのは、この教室で静だけなのだ。
「先生は『みんなとなかよく』って言うけど、ボクがイヤがってること無理やりさせるのが『なかよし』なの? ボクは、ボクといっしょに楽しんでくれる友達といたい。それがいけないことなの?」
俺は真っ直ぐに先生の目を見つめて抗議した。
ただのわがままじゃない。
これは俺の尊厳と、そして俺の初めての友人を守るための戦いだ。
静が驚いたように本から顔を上げ、涙の溜まった瞳で俺を見上げている。
大丈夫。
君の安息地は、俺が守る。
例え相手が先生だろうと、世界中の女たちだろうと、この小さな「読書の時間」だけは奪わせない。




