転生先は異世界じゃなかった件
暖かな闇から引きずり出された瞬間、世界は暴力的な光と騒音に満ちていた。
肺に空気が流れ込む激痛に耐えかねて俺は叫ぶ。つもりだったが口から漏れたのは情けない産声だけだった。
オギャア、オギャア。
……なんだこれは。俺は死んだんじゃなかったのか。
霞む視界で必死に状況を確認しようとする。全身が重い。手足が思うように動かない。巨大な人影が俺を覗き込んでいる。
なるほどな。流行りの転生ってやつか。
前世の記憶を持ったまま赤ん坊からやり直し。よくある話だ。
俺は内心でほくそ笑んだ。
さあどんな世界だ。
剣と魔法か? それともステータス画面が出るようなゲーム的な世界か?
「バイタル安定! 元気な子です!」
……は?
聞こえてきたのは流暢な日本語だった。
しかも電子音が鳴り響き、天井には無機質な蛍光灯が並んでいる。
どこからどう見ても近代的な病院だ。少なくともドラゴンが空を飛んでいるようなファンタジー世界ではない。
……嘘だろ。まさかまた受験戦争や、就職活動のある現代日本に逆戻りなんて勘弁してくれよ。
俺の期待は急速に萎んでいく。
異世界チートライフの夢が潰え、俺はふてくされて泣くのをやめようとした。
だがその時だった。
「……確認しました! 間違いありません!」
取り上げた医者らしき女の声が裏返っている。
まるで幻の宝石でも見つけたかのような、切迫した響き。
「ついています! この子には、ついているわ!」
「嘘……本当に? 本当に男の子なの!?」
「ええ、ええ! 正真正銘の男児です!」
おいおい何だってんだ。
男が生まれたくらいで大騒ぎしすぎだろ。田舎の跡取り息子じゃあるまいし。
俺は心底呆れながら、抱き上げられる感覚に身を任せた。
そこで初めて、俺は「母親」の顔を見る。
汗に濡れた髪が頬に張り付き、疲れ切っているはずなのに、その瞳は異様なほどの輝きを放っていた。
「あぁ……あぁ、嘘みたい……」
彼女は震える手で俺を受け取ると、壊れ物を扱うように胸に抱き寄せた。
温かい。
そして、雫が落ちてくる。
ひとつ、ふたつではない。大粒の涙が滝のように溢れ出し、俺の頬を濡らしていく。
「夢じゃないのね……私の、私の赤ちゃん……」
母親の顔が近づく。整った顔立ちの美女だ。だがその表情は単なる喜びを超えていた。
狂信的とさえ言えるほどの、信仰に近い愛おしさ。
「よく生まれてきてくれたわ……ありがとう、ありがとう……」
「おめでとうございます! 奥様、これは国家的な慶事ですよ!」
「すぐに院長へ連絡を! 警備の増員も要請して!」
「マスコミはどうしますか!? 隠し通せるわけがありません!」
周囲の看護師たちも興奮状態で走り回っている。
全員、女だ。医者も、看護師も。
俺の小さな脳みそは混乱の極みにあった。
ただ男に生まれただけで、国家的な慶事?
警備の増員?
俺はただの赤ん坊だぞ。勇者でも魔王でもない。
状況を整理したくても、口からは「あうー」という間の抜けた音しか出ない。
「見て、この可愛いお目々……この小さな手……」
母親が俺の頬に頬ずりをする。その肌の熱さが、彼女の興奮を直接伝えてきた。
「絶対に守ってあげるからね。あなたは、この世界で一番大切な宝物なんだから」
その「宝物」という響きが、比喩表現には聞こえなかった。
彼女の瞳の奥にある、飢えた肉食獣のような、あるいは崇拝対象を見る信徒のような熱量。
俺はようやく気づき始めていた。
ここは現代日本に見えるが、俺の知っている日本ではない。
何かが決定的に違う。
「……可愛い、私の坊や。誰にも渡さないわ」
母さんの瞳孔が、少し開いている気がして。
俺は本能的な恐怖と、それ以上の居心地の悪さを感じながら、再び大きな声で泣き出した。
オギャア、オギャア!




