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屋烏の愛  作者: 又一
9/16

木こりのダンテ

部屋へ入ってすぐ、ダニエルがそこへ座るときは、たいてい何か話したいことがある時だ。

ヴィクトリアはそれをよく知っていた。

ダニエルが椅子へ腰を下ろす様子を見て、静かに席を立つ。そしてテーブルの上に置かれていたティーポットへ手を伸ばし、新しく紅茶を淹れ始めた。湯気の立つカップを、そっとダニエルの前へ差し出す。それは、先ほどヴィクトリア自身が飲んでいたお気に入りの紅茶だった。この茶葉は、ダニエルが常に切らさないよう手配してくれているものだ。


「ありがとう。この紅茶、毎日飲んでも飽きないよね!」


ダニエルは嬉しそうにカップを受け取り、香りを楽しむように一度息を吸い込む。


「あ、それでね」


どうやら今日は、相当話したいことがあるらしい。ヴィクトリアは微笑みながら椅子へ戻り、軽く相槌を打って続きを促した。


「今度の舞踏会なんだけどさ! せっかく貴族と平民が一緒に参加できる舞踏会なんだから、身分の差で不公平になるのは許せないっていう理由で……」


ダニエルはそこで一度言葉を切り、少し声を弾ませる。


「なんと全員、仮面をつけることになったらしいよ! 入場のときに受付で配られるんだって!」


「まあ……仮面舞踏会?」


ヴィクトリアはわずかに目を丸くした。


「うん! しかもね、ドレスの質や装飾で貴族か平民かわからないように、会場の照明も少し落とすんだって! 徹底ぶりがすごいよね!」


確かに、貴族同士であれば顔を知らぬ者のほうが珍しい。しかし、平民の娘からすれば、身分だけで見向きもされない不安を消すには絶好の策だ。仮面で素顔を隠し、照明で装いを曖昧にする。そうすれば、誰もが公平に王太子に選ばれる機会を持つことになる。


「公平になる、素敵な工夫ね。……一体、誰が考えたのかしら?」


ヴィクトリアがそう言うと、ダニエルは待っていましたと言わんばかりに身を乗り出した。


「それがさ、僕も今日聞いたばかりなんだけど……レオンハルト殿下が自ら提案したらしいんだ!」


「王太子が……?」


ヴィクトリアは小さく目を瞬いた。

国王や王妃が主導したのだと思っていた。

だが、まさか当の張本人がその案を出したとは。貴族の娘たちが聞いたら落胆しそうな提案だ。それでもあえて押し通したということは、それだけ本気なのだろうか。


(些か平民の肩を持ち過ぎている気がしなくもないけど……)


そんな感想を胸の奥にだけしまい込み、ヴィクトリアは静かにカップを持ち上げた。

どうやらダニエルはまだ続きがあるらしい。

期待に満ちた目で、じっとこちらを見ている。

ヴィクトリアはその視線に気づき、ふっと小さく笑った。そして軽く首を傾ける。


「……それで?」


そう促すと、ダニエルはさらに身を乗り出し、楽しそうに次の話を続けた。


「あとね! 今回の舞踏会では本名を名乗っちゃいけないんだって! みんな“二つ名”で自己紹介するルールらしいよ!」


ダニエルは声を弾ませながら、まるで秘密を打ち明ける子どものように身を乗り出した。


「……二つ名? どういうことなの?」


聞き慣れない言葉に、さすがのヴィクトリアも聞き流すことができず、思わず問い返す。


「僕も最初は『二つ名?』って首をかしげたよ」


ダニエルはそう言いながら、少し考えるように視線を上へ向けた。


「えっとね、たとえば僕だったら――」


そこで一度言葉を区切り、ほんの少し照れたように笑う。


「【木こりのダンテ】って名乗ろうかなって思ってるんだ」


言い終えると、彼は「へへっ」と小さく笑い、頬をかきながら視線をそらした。


木こり―その言葉の選び方が、いかにもダニエルらしい。ハイム男爵領は緑豊かな土地であり、森こそがこの地の象徴だ。男爵でありながら木こりという素朴な肩書きを選ぶところに、彼らしい謙虚さがよく表れている。そして“ダンテ”は、遠い異国に実在した詩人の名。翻訳された詩集を、ダニエルは何度も読み返すほど気に入っていた。昔はヴィクトリアにもよく勧めてきたものだ。つまりこれは、彼が密かに敬愛している詩人から取った名なのだろう。そのさりげない選び方に、ヴィクトリアは素直に感心した。


「ダニエルらしい素敵な名前ね。【木こりのダンテ】なんて名乗られたら、わかるのはきっと私くらいだわ」


ふふっと微笑みながらそう言うと、ダニエルは一瞬だけ目を瞬かせる。それから、途端に背筋をぴんと伸ばし、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせた。


「そ、そうかな……!」


どうやら褒められるとは思っていなかったらしい。


「それでヴィクトリアは? 何て名乗る?」


今度は期待を隠しきれない声音だった。

身を乗り出し、まっすぐにヴィクトリアを見つめてくる。ヴィクトリアはその様子を見ながら、少しだけ思案するふりをした。


「んー……そうね」


指先でカップの縁をなぞりながら、小さく首を傾げる。


「今はまだ思い浮かばないけれど、当日までには考えておくわ」


その言葉を聞いた途端、ダニエルの肩がわかりやすいほどしょんぼりと落ちた。


「そっか……」


だがすぐに顔を上げる。


「でも、絶対に当日僕に教えてね? 約束だよ!」


念を押すように身を乗り出すその様子は、どこか必死だ。


「じゃないと、もし会場ではぐれた時に、ヴィクトリアのことわからなくなっちゃうかもしれないから」


子どものように心配するその姿に、ヴィクトリアは思わず苦笑する。


仮面をつけ、名も偽る舞踏会。

確かに、そうなれば互いを見失うこともあるだろう。


「……わかったわ」


ヴィクトリアは静かに頷いた。その返事を聞いたダニエルは、ようやく安心したように息をついた。


ダニエルが舞踏会の詳細をここまで把握している理由は、今日まさに王都で月例の貴族院議会が開かれたからだった。議会では目前に迫る王太子の婚約者選びの舞踏会が主要議題として取り上げられ、国王と王太子をはじめ、公爵家の当主、各地の有力貴族、宰相・内務卿といった国家の中枢を担う面々が一堂に会したという。

そこで王太子自らが意見を述べ、仮面の着用や偽名を名乗るといった、通常では到底考えられない提案が、彼の強い意志で正式に決定されたらしい。議会で採択された内容は即座に文書化され、王宮の公布版へ掲示されると同時に、各領地へも記録官と伝令が走った。夕刻を待たずして、ハイム男爵領で最も人の集まる街―フォルスベルクの大通りの掲示板にも、新しい舞踏会告知が貼り出されたという。


洋館の外に容易に出られないヴィクトリアにとって、その情報は決して手の届かないものだった。だからこそダニエルは、完成したドレスを持って真っ先に知らせようとここまで足を運んでくれたのだろう。今頃、掲示板を目にした娘たちの間では、さまざまな思惑が渦巻いているに違いない。平民であっても王太子に見初められるかもしれないと胸を高鳴らせる者。どうすれば興味を引けるか、魅力的な“二つ名”を必死に考えている者。あるいは、あらゆる策を巡らせてチャンスをつかもうとしている者。色とりどりのドレスに身を包み、鏡の前で何度も名乗りの練習をしている娘たちの姿が、まるで目に浮かぶようだった。その光景を思い浮かべながら、ヴィクトリアも負けじと面白い二つ名を考えようとした。


―終焉のルイーゼ。

―冥界のシャルロッテ。

―哀哭のエミリア。


口の中でそっと転がしてみるが、どれもしっくりこない。そもそも彼女が舞踏会へ向かう理由は、華やかな夢とはほど遠いものだった。王太子に振り向いてもらうためではない。三百年前、自分にかけられた呪い。

その手がかりを、ほんのわずかでも掴むためだ。そう自覚した瞬間、胸の奥でふっと熱が引いた。先ほどまで胸をくすぐっていた舞踏会への淡い高揚は、まるで潮が引くように静かに消えていく。


三百年。

その歳月を、ヴィクトリアは人とカラスの間を行き来して生きてきた。人として過ごせる時間は夜から朝までの、わずかな半日だけ。数えきれないほどの夜を越えてきたというのに、呪いの真相に近づけたことは一度もない。

だが、今回は違う。

王宮の舞踏会。それも王太子自らが趣向を凝らした、奇妙な仮面舞踏会。国中の貴族が集まり、王家の記録や古い伝承を知る者も少なからずいるだろう。


(……きっと、何か見つかるわ)


ヴィクトリアは窓の外へ目を向けた。満月が出ている空を、一羽のカラスが静かに横切っていく。それが、まるで自分の影のように見えて、彼女はほんの一瞬だけ、苦く微笑んだ。

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