ダニエルの気遣い
それから、舞踏会まで残りわずかとなったある夜のこと。目覚めたばかりのヴィクトリアは、まだぼんやりとした視界のまま、いつものようにアデルの姿を探した。だが、ベッドの上にも、枕元にも、小さな黒い影は見当たらない。
「……アデル?」
そっと名を呼んでみるが、返事はない。
部屋の隅や机の下を見渡しても、やはり姿は見えなかった。どこへ行ってしまったのかと不思議に思いながら窓辺へ近づいたその時、ふと外で小さな黒い影が揺れた。視線を向けると、洋館の前に立つ枯れ木の枝の上に、数羽のカラスが並んでいる。その中央で、両親の羽根に守られるように、アデルがすっぽりと身を寄せて眠っていた。黒い羽に包まれた小さな体は、まるで巣の中にいる雛のように安らかだ。時折、片方の親がそっと翼を広げて、アデルを覆うように包み込んでいる。その光景を見つめながら、ヴィクトリアはしばらく窓辺に立ち尽くしていた。胸の奥が、かすかにきゅっと締めつけられる。
(……あの中に、私もいられたら)
両親の翼の下で、兄弟たちと身を寄せ合い、ただ眠るだけの夜。そんな当たり前の温もりを、ほんの一瞬だけ思い浮かべる。だが、すぐにその考えを振り払うように目を伏せた。
「…だめね」
小さく呟き、ヴィクトリアは窓から視線を外した。ほんの少しだけ、家族の温もりを恋しく思いながら。ヴィクトリアは気持ちを切り替えるように、部屋の奥へと歩く。
ダニエルが用意してくれた湯船からは、ほのかに湯気が立ち上っていた。まだ新しい薪の香りと、温かな水の気配が部屋の空気をやわらかくしている。衣服を脱ぎ、そっと湯船に身を沈める。肩まで浸かると、じんわりとした温もりが身体の芯へ染み込んでいった。古びた洋館の冷たい空気とは対照的に、この時間だけは穏やかな安らぎがある。ゆっくりと身体を温め、湯から上がった頃には、すっかり身体も軽くなっていた。湯上がりのヴィクトリアは身支度を整え、テーブルへと向かう。そこにはすでに、ダニエルが用意してくれた食事が綺麗に並べられていた。簡素ながらも温かみのある料理をゆっくりと味わい、食後には紅茶をカップへ注ぐ。ふわりと立ちのぼる香りが、静かな部屋に広がった。ヴィクトリアは椅子に腰掛け、紅茶を口に運ぶ。ダニエルが訪れるのは、いつもこの頃だ。今日もきっと、もうすぐ現れるだろう。
そう思いながら、
ひと口、紅茶を含んだその瞬間―
コン、と。ほとんど音も立てぬまま、扉が勢いよく開いた。
「ヴィクトリアー! あっ!ごめん、ノック忘れちゃった!」
勢いよく扉が開き、息を切らしたダニエルが飛び込んできた。その腕には、思わずヴィクトリアが目を丸くするほど、大きな箱がいくつも重ねて抱えられている。胸の高さまで積み上がった箱は、今にも崩れそうなほど不安定だ。しかも一番上の箱はわずかに傾き、ダニエルの視界を半分ほど塞いでいる。
「ようやく……ようやくドレスが完成したんだ! 早く渡したくて、急いで持ってきちゃった!」
本当に急いで来てくれたのだろう。箱を抱えてきたせいで、肩も少しだけ上下していた。額にはうっすらと汗まで浮かんでいる。
「ま、待って……ちょっと今置くから……」
前がよく見えていないのか、ダニエルはよろよろと足元を探るように歩きながら、どうにか部屋の中央までたどり着く。片腕で箱を支え、もう片方の肘でなんとか扉を押し閉めた。そのまま慎重にしゃがみ込み、ようやく床へ箱を下ろす。一番大きな箱は、美しい包装紙で丁寧に包まれていた。深い色の紙の上には、大きなリボンが結ばれている。まるで誕生日の贈り物のようだ。けれどヴィクトリアは、床に並んだ箱を見渡して首を傾げた。どう見ても、ひとつのドレスが入る量ではない。
「……ダニエル?」
「ん?」
「ドレスって……そんなに箱が必要だったかしら?」
ヴィクトリアの言葉に、ダニエルは一瞬きょとんとした顔をした。それから「あっ」と思い出したように笑う。
「いや、その……ドレスだけじゃないんだ」
少し照れたように頭を掻きながら、箱をひとつ指差した。
「ドレスに合うかなって思って、靴とか……あとアクセサリーも用意してみたんだ」
その言葉に、ヴィクトリアは思わず目を瞬かせる。
「靴と……アクセサリー?」
「うん。舞踏会だし、全部揃ってたほうがいいかなって思ってさ」
ダニエルはそう言いながら、小さな箱をひとつ持ち上げた。
「ドレスに合わせて選んだんだ。……似合うといいんだけど」
床に並んだ箱を見つめながら、ヴィクトリアはしばらく言葉を失っていた。そこまで考えてくれていたとは、思ってもいなかったのだ。やがて小さく微笑み、ゆっくりと顔を上げる。
「……ありがとう、ダニエル。でも、開けるのは当日までの楽しみに取っておこうかしら」
本当は今すぐ開けてみたい。
どんな仕上がりなのか、気にならないはずがない。けれど、この瞬間に開けてしまうのは、どこか勿体ない気がした。
「確かに! そのほうがワクワクするよね!」
ダニエルはぱっと顔を明るくし、本当に嬉しそうに笑った。がっかりした様子など、欠片も見せない。むしろ、ヴィクトリアと同じ楽しみを共有できることが嬉しいとでも言うような笑顔だった。その無邪気な反応に、ヴィクトリアの胸にも小さな温かさが灯る。ダニエルは慎重に箱を抱えたまま部屋の隅へ歩き、そっと床へ置いた。それから振り返り、いつもの定位置―ヴィクトリアの向かいの椅子へ腰を下ろした。
また近いうちに続きをあげます。
一人でも楽しみにしてくださる方がいたら嬉しいです。




