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屋烏の愛  作者: 又一
7/16

変身

ダニエルに別れを告げたあと、ヴィクトリアは静かな洋館へ足を踏み入れた。


玄関扉を閉めると、屋敷の中はしんと静まり返っている。長い廊下の壁にはいくつものランプが取り付けられているが、どれも火は灯されていない。古びた金具はくすみ、かつてここに灯りがあった名残だけが残り、今ではただ壁に掛けられたまま、役目を失った飾りのように沈黙していた。壁に貼られた古い壁紙も、ところどころ端がめくれ上がり、長い年月のあいだにすっかり色褪せている。かつては優雅な模様だったのだろうか、今では薄暗い廊下の中で、ぼんやりとその輪郭だけが残っていた。床板もまた年月には逆らえず、ところどころ傷み、踏み抜けてしまった箇所さえある。ヴィクトリアは慣れた様子でそれらを避けながら、静かに歩を進めた。割れた窓から差し込むわずかな月明かりだけが、廊下の床を淡く照らしている。風が入るたび、めくれた壁紙がかすかに揺れ、小さな音を立てる。長い年月のあいだ人の手が入っていないこの洋館では、夜になると物音ひとつしない。聞こえるのは、自分の衣擦れの音と、古い床板がわずかに軋む気配だけだった。


ヴィクトリアは暗い廊下を、足音を立てないよう静かに歩いていく。やがて自室の扉の前へ辿り着き、ヴィクトリアはそっと扉を開け、静かな部屋の中へ足を踏み入れた。


部屋の中もまた、夜の闇に沈み窓から差し込む月明かりだけがかすかに床を照らしている。

扉のすぐ横には、小さな木製の棚が置かれており、ヴィクトリアは慣れた手つきで棚の上からマッチを取り、一本擦る。小さな火花が散り、次の瞬間、橙色の炎がふっと生まれた。その火をそっと蝋燭へ移すと、揺らめく灯りが部屋の闇をゆっくりと押しのけていく。さらにいくつかの蝋燭へ火を移していくうちに、部屋は柔らかな光に包まれた。


ヴィクトリアは置いていくしかなかったアデルの姿を探す。視線を巡らせると、ベッドの上に小さな黒い影が丸くなっていた。どうやらそこで眠っているらしい。そっと近づいて覗き込むと、アデルは羽にくるまるようにして、ぐっすりと眠っていた。しかし、ヴィクトリアの気配を感じ取ったのか、小さな体がぴくりと動き、ふわりと目を開ける。


『……ふわぁ……? あれぇ、お姉様だぁ……おかえりぃ~……』


小さなあくびをしながら、まだ半分眠ったままの声でそう言うと、アデルはぱたぱたと頼りない羽音を立てて飛び上がり、ヴィクトリアの肩へと降り立った。


「アデル、ただいま。いい子にしていた? 今日は一人にしてしまってごめんね」


ヴィクトリアが優しく声をかけると、アデルは眠たげな目のまま首を振る。


『ううん、大丈夫だよ~! 僕だってお留守番くらいできるもん!』


そう言って、えっへんと胸を張るように羽をぱたぱたさせる。その小さな仕草があまりにも愛らしくて、ヴィクトリアは思わず頬を緩めた。たとえ見た目は子ガラスのままでも、三百年という歳月の中で、アデルの心も少しずつ成長しているのだろう。


「ふふ、そうね。アデルはもう立派なお留守番ができるのね」


優しくそう言ってから、ヴィクトリアはそっと肩へ止まる小さな頭を撫でた。


『えへへ……』


くすぐったそうに羽を震わせたあと、アデルの瞼は再び重く落ちていく。撫でられた温もりに安心したのか、アデルは小さく羽を丸めると、ほどなくして静かな寝息を立て始めた。ヴィクトリアはその様子をしばらく見つめ、そっと微笑む。夜の洋館は再び静けさに包まれていた。


アデルがすっかり眠ったのを見計らい、ヴィクトリアはそっとその小さな体をベッドへ寝かし直した。羽を丸めたアデルは、わずかに身じろぎをしただけで、すぐに再び静かな寝息を立て始める。ヴィクトリアはその様子をしばらく見守ってから、静かに立ち上がった。


ヴィクトリアはいつものように、朝六時の変身まで眠らずに静かな時間を過ごす。といっても、特別な日課があるわけではない。お気に入りのドレスにほつれを見つければ繕うために、糸と針を手に取る。それ以外の時間は、淑女の嗜みでもある針仕事が、長い夜の友となっていた。


古い机の上に手元を照らすための蝋燭を置き、ヴィクトリアは布を広げる。針を持つ指先は、三百年の年月を経てもなおしなやかで、迷いなく布の上を滑っていく。今では肌着も一時間あれば数着作れるほど上達していた。完成したものはダニエルを通じて孤児院へ届けてもらっている。死ねない時間をただ浪費するよりも、誰かのために使えることが、ヴィクトリアにとっては、ほんのささやかな救いだった。


静まり返った洋館の中で、針が布をすくう小さな音だけが時折響く。無心で針を動かしているうちに、ふと気づけば窓から淡い光が差し込み始め、朝の気配が静かに忍び込んでくる。


「……いつの間にか朝になっていたのね」


そう呟いた瞬間、部屋の隅に置かれた古い時計が、かすかに針を進める音を立てた。短針と長針が綺麗な一本の線となって六時を指し示す。


次の瞬間―

ヴィクトリアの身体が、やわらかな光に包まれた。輪郭が揺らぐように霞み、すうっと空気へ溶け込むように小さく縮んでいく。人の姿はひと息のうちに消え、本体を失ったドレスはふわりと床へ落ちた。重ねられたレースの隙間から黒い翼がひらりと覗き、代わりに現れたのは一羽のカラス。カラスになったヴィクトリアは、慣れた動作で羽を広げると、静かに宙へ舞い上がった。そのままアデルの眠るベッドへと飛び込み、声を発することもなく、そっと布団の奥へ身を潜める。すぐ隣では、小さな子ガラスが穏やかな寝息を立てていた。目覚めるのは、十二時間後。夜だけに存在を許されたヴィクトリアは、アデルに寄り添い、深く眠りについた。

読んでくださりありがとうございます。

またすぐに続きをアップする予定です。

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