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屋烏の愛  作者: 又一
3/4

ダニエル

ヴィクトリアはゆっくりと湯船から上がり、体を拭きながら深く息をつく。柔らかな布地のシュミーズドレスを身にまとい、濡れた髪を櫛で梳かしながら椅子に腰を下ろした。テーブルの上には、今日もダニエルが用意してくれた食事が並んでいる。湯気こそ立っていないのに、不思議と食欲を誘う香りが漂っていた。

蓋を開けると、ほろりと崩れる鶏肉の白ワイン煮。

根菜をバターで和えた温かなサラダ。

冷めても香ばしい、薄切りのライ麦パン。

どれも、冷めても味が落ちにくい料理ばかりだ。

こういう気遣いができるのも、彼らしい。


ダニエルは、ヴィクトリアが眠っているあいだを見計らい、毎日欠かさず部屋を訪れる。

床を清め、部屋を整え、湯船に湯を張り、湯上がりに袖を通せるよう新しい洋服を用意する。

食卓には、冷めても口にできる温度の食事を並べて。

それらすべてを終えると、来たときと同じように、そっと静かに去っていく。

彼がそれを続ける理由は、ただ一つ。

ヴィクトリアが人の姿に戻れるのは、毎日十八時からの限られた時間だけだからだ。その短い“人間でいられる時間”を、せめて何不自由なく過ごせるように。

ダニエルは今日もまた、彼女が目覚める前にすべてを整え、姿を消すのだった。



ゆっくりと、けれど気づけば夢中で。

皿の上は、あっという間にきれいになっていた。


最後のパンを口に運んだ、ちょうどそのとき⸻


コン、コン。


控えめに扉を叩く音が、静かな洋館に響いた。

ヴィクトリアは思わず顔を上げる。どうやら、気づかぬうちにダニエルが訪れる約束の時間になっていたらしい。


「やあ、ヴィクトリア。僕だよ、ダニエルだよ。入ってもいい?」


扉の向こうから聞こえる、聞き慣れた声。

いつものように、必ず許可を求める律儀さは相変わらずだった。


「ええ、どうぞ」


短く返すと、ダニエルはそっと扉を開け、まず顔だけを覗かせてこちらの様子を窺う。


「あ、ちょうど食事中だった?」


少し癖のあるヘーゼルブラウンの髪が額にゆるくかかり、垂れ気味の灰緑の瞳が心配そうに細められる。


「ちょうど食べ終わったところよ」


ヴィクトリアは手元の布巾で口元を静かに拭った。

ダニエルは遠慮がちに部屋へ足を踏み入れ、まるでそこが自分の定位置であるかのように、ヴィクトリアの椅子の正面へ腰を下ろす。

目が合えば、いつものようにふにゃりと笑った。

けれど今日は、その笑顔に、どこか落ち着かない色が混じっていた。


「……今日は何か、いいことでもあったのかしら?」


問いかけると、ダニエルは小さく首を横に振り、逆に問い返す。


「違うよ。むしろヴィクトリアの方じゃない? 部屋に入ったとき、なんだか……雰囲気がいつもと違ったんだ」


めざとい男だ。

招待状が届いたことで、自分の心がわずかに浮き立っていたことまで見抜かれてしまったらしい。そして、こちらの機嫌がいいと自分まで嬉しそうになるあたりが、いかにも彼らしい。


「いいことってほどじゃないけれど……招待状が届いたのよ。夕方に、王宮の騎士が持ってきたの」


ヴィクトリアは招待状を取り出し、テーブルの上へ置いた。


招待状に目を落としたダニエルは、はっとしたように目を見開く。


「あ! やっぱりヴィクトリアの元にも届いたんだね。平民の娘にも配ったって聞いてはいたけど……まさか、こんな森の奥深くに住んでいる“ミーナ・ホルツ”にまで届くなんて」


⸻ミーナ・ホルツ。

今年で二十歳になったことになっている、架空の娘。


今からおよそ二十年前。

現ハイム男爵に伴われてこの森を訪れた、当時五歳のダニエルと、ヴィクトリアは初めて出会った。


「この子が、私の息子のダニエルだよ」


男爵にそう紹介されたその日、ダニエルは恥ずかしそうに指先をもじもじと動かしながら、外套の影に隠れてしまった。こちらをちらりと覗いては、目が合えばすぐに身を引っ込める。あの小さな仕草は、今思い返しても胸が柔らかくなるほど愛らしい記憶だ。


五歳にしては驚くほど聡明で、ヴィクトリアの事情を多く語らずとも察し、「ぼく、だれにもいわないよ」

と、小さな拳をぎゅっと握りしめて誓った姿は、今もはっきりとまぶたの裏に残っている。


そして“ミーナ”という名を、ヴィクトリアに贈ってくれたのもダニエルだった。


(私には似つかわしくないほど可愛らしい名前だと、今でもときどき思う。でもきっと、五歳のダニエルにとっては一生懸命考えた“女の子の名前”だったのかしら)


ハイム男爵家はこの三百年のあいだ、まるでホルツ家が実在するかのように偽装の家系図を作り続けてきた。この洋館には常に“若い女性が暮らしている”という体裁が保たれている。


当時のヴィクトリアは、

「そんなものを作らなくても、平民の細かな家系など誰も確かめはしないわ」と反対したのだが、ハイム男爵に「いずれ必要な時が来るかもしれない」と押し切られてしまった。


⸻そして今。

招待状を手にして、ようやく理解する。

三百年前から続く布石は、確かに間違っていなかったのだと。


「実はね、今回の舞踏会には未婚の貴族の男性も呼ばれているんだよ」


そう言って、ダニエルはズボンのポケットから一通の招待状を取り出した。


王太子をめぐって、年頃の娘たちが火花を散らす場になるのだろう、そう思っていた。だが、未婚の男性、それも貴族までもが参加するとなれば話は変わってくる。裕福な貴族に見初められ、玉の輿に乗りたいと願う平民の娘。正妻にはせずとも、手元に置きたくなるほど美しい娘を愛人として迎える男。あるいは、隣国の姫に見初められ、逆玉を狙う野心家の貴族。


なんとも、思惑の渦巻く舞踏会になりそうだ。


だが、その中にダニエルも参加するというのなら心強い。正直、一人きりで臨むつもりでいたのだ。事情を知る者がそばにいるだけで、どれほど動きやすくなるか分からない。


「ダニエルが一緒に来てくれるなら、心強いわ」


そう告げてから、ヴィクトリアは招待状に記された一文【ドレス着用必須】を、指先で軽く叩いた。


「でも、一つ問題が残っているの。ドレスが必要なのよ。いつも着ているお気に入りのドレスは、もうだいぶ傷んでしまって……。ダニエル、用意してくれないかしら?」


その瞬間、にこやかだったダニエルの表情が、ぴたりと止まった。驚き、迷い、そして焦りが一気に浮かぶ。


「……ヴィクトリア。まさか、舞踏会に行くつもりなの?」


「ええ。ダメかしら? せっかく人が大勢集まる機会よ。あの日の真相について、何かわかることがあるかもしれないでしょう?」


ダニエルは苦悶の色を深め、下唇を噛みしめた。


「……ヴィクトリアのお願いは叶えてあげたい。できる限り、全部。でも……それでも危険だよ。もし万が一にも、ヴィクトリアが生きているって、世間に知られたらどうするんだい?」


声が、わずかに震えている。

それが、どれほど本気で彼女を案じているかを、はっきりと物語っていた。


ダニエルが、ここまで心配する理由は、ヴィクトリアには嫌というほど分かっている。

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