自室
静まり返った廊下を進み、自室へと戻る。
洋館の中はところどころ床が抜け、
窓ガラスも砕け散ったままだ。
夕陽が差し込むたび、荒れた廊下の影が、
まるで生き物のように蠢いて伸びていた。
だが、彼女が手をかけた扉の向こうだけは、
まるで別の世界だった。
扉を開けた途端、
外よりもわずかに暖かな空気が肌を包む。
きちんと整えられたベッド、埃ひとつない床。
差し込む夕陽すら穏やかな色に感じられるほど、
その空間には丁寧な手入れが行き届いていた。
――今日も、ダニエルが来ていたようだ。
彼が手を入れたあとの空気は、不思議とすぐに分かる。
整えられた部屋の静けさや、微かに残る石鹸の香り。
どれもが、彼の仕事の跡だった。
本来なら、目覚めてすぐに机の上を確かめるのが常だ。そこには決まって、短く用件だけを書いた彼のメモが置かれている。
だが今日は、珍しく順番が狂っていた。
――招待状を届けに来た騎士のノックが、寝起きの彼女をそのまま玄関へ向かわせてしまったのだ。
「……あったわ」
いつもの場所に、いつもの紙切れが一枚。
差し出がましくもなく、しかし律儀に置かれた小さなメモ。そこには、たった一言だけが記されていた。
──《夜になったらまた顔を出すよ》
書き慣れた文字。
いつもの、変わらない言葉。
肩に止まったままのアデルを指先でそっと撫で、
ベッドの端へ置いてやる。
子ガラスは丸くなり、あっという間に眠りに落ちた。
少女は間を置かず、部屋の奥へと歩き出す。
自室に隣接した、小さく修繕された浴室へ続く扉を開けると、すでに室内にはほんのりと湯気が漂っていた。湯船には温かな湯が張られ、白い蒸気が淡く立ちのぼっている。これもまた、ダニエルのいつもの仕事だった。
少女はドレスの背へ、そっと手を伸ばす。
背を留めている緩やかな紐は、何度も自分の手で繕ってきたものだ。
指先は、その扱い方をすっかり覚えてしまっている。
ひとつ、またひとつと結び目をほどくたび、布地はふわりとゆるんでいった。
肩から滑り落ちるドレスは、長い年月を共に過ごしてきたせいか、わずかに色褪せている。
丁寧に畳んで籠の上に置き、少女は湯船へと足先を沈めた。
温かな湯が肌を撫で、一日の始まりともいえる安堵が、じんわりと広がっていく。
小さく息を吐き、頭を後ろへ傾けながら目を閉じた。
招待状を受け取ったのは、いったいいつ以来だろう。
――いや、正確に言えば、「舞踏会」という言葉そのものが、とうの昔に記憶の海の底へ沈んでいた。
ミーナ・ホルツとして生きるようになって、まだ十数年。
この名は、初めてダニエルと出会ったあの日、彼が少女に与えてくれた“新しい名前”だった。
ホルツ家は代々この洋館で暮らしてきた。
そういう設定が、三百年以上前から、まるで本当に存在していた家系のように語り継がれている。
この家そのものが、少女のために用意された隠れ蓑なのだ。
死んだことになっている彼女が、唯一生きていられるための偽装。そう思うと、胸の奥がひやりと冷える。
(……私は“ヴィクトリア”と名乗れなくなって、どれほどの時を過ごしたのかしら。三百年も経てば、正確な年数なんて思い出せなくなるものね)
湯船の中で、少女はそっと指を握りしめた。
(ヴィクトリアだった頃――社交界の季節になれば、よく彼と踊っていたわ……)
湯の静けさの中で浮かぶその記憶は、確かに存在していたはずの温もりなのに、今は触れようとすれば指の隙間から零れ落ちてしまう。
思い出すたびに痛むのか、それとも忘れていくことのほうが痛いのか。もう、自分でも分からなかった。




