遅れた理由
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「…追いかけなくてよかったの?」
クラウスが、揶揄うように肩をすくめる。
その視線の先には、すでに人混みに紛れて見えなくなっていく黒いドレスの背中。
だが、レオンハルトは、わずかに視線を逸らすと短く息を吐いた。
「…今は無理だ。招待客たちが待っている。玉座へ戻り、皆に挨拶をしなければならない」
淡々とした口調だったが、それは紛れもない王太子としての責務だった。
「…王太子って、ほんと大変だねぇ」
その軽い声音に、レオンハルトは一瞬だけ眉をひそめた。
「…そもそも遅れたのは、誰のせいだと思っている」
「あはは、ごめんごめん」
悪びれもなく笑うクラウスに、レオンハルトは小さくため息をついた。
***
数刻前ー
王城の裏庭には、広大な薔薇園が広がっていた。今はまだ季節の変わり目で、薔薇たちは固く蕾を閉ざしたまま眠っている。だが、本格的な春を迎えれば、真っ赤な薔薇が一斉に咲き誇り、甘く濃密な香りで庭全体を満たすのだろう。
人の背丈を優に超えるほど高く仕立てられた垣根は、まるで何かを隠し守るように複雑に入り組んでいた。軽い気持ちで足を踏み入れれば、たちまち出口を見失ってしまいそうなほどの造りだ。
その生垣の迷路を抜けた先にあるのが、ひっそりと佇む白い東屋だった。
王城の華やかさから切り離されたようなその場所は、静寂だけを丁寧に集めたような空間で、昔は王族が人目を避けて密やかな逢瀬を重ねるために使っていた、そんな噂さえ残っている。
今ではその存在を知る者もほとんどいない。
だからこそ、誰にも聞かれたくない話をするには最適だった。
クラウスが呼んでいる―そう侍従から告げられたレオンハルトは、迷うことなくその東屋へ向かっていた。
クラウスがわざわざ人伝で呼んでくる時は、この場所を使うのはもはや半ば決まりごとになっている。
まだ花開かぬ薔薇の気配と、湿り気を帯びた早春の空気を掻き分けるように進み、複雑に入り組んだ垣根を抜ける。やがて視界が開けると、白い東屋の中央、半円状に誂えられた石造りのベンチに腰を下ろすクラウスの姿が見えた。
円形の石段を上がると、ひんやりとした空気が足元からすっと立ちのぼる。磨かれた柱は緩やかな螺旋を描き、触れれば冷たく、それでいてどこか柔らかな感触を残した。頭上には繊細な装飾の施された鉄のドームがあり、その隙間からこぼれる夕暮れの光が、床に淡い影模様を落としている。
その隣へ、レオンハルトは無言のまま歩み寄り、同じように腰を下ろした。
「もう待ちくたびれたよ〜」
にやり、と口角を上げてクラウスが言う。
わざとらしく肩をすくめるその態度に、レオンハルトはわずかに眉を寄せた。
「…僕は暇ではない」
きっぱりと言い放つ声音には、実際のところ少しも誇張がなかった。
舞踏会の開始時刻は、刻一刻と迫っており、警備の配置、招待客の受け入れ体制、楽団や侍従たちの最終確認をしていた最中だった。
それでも親友であり、従兄弟でもあるクラウスのもとへ、こうして足を運んできたのだ。
そんな事情などお構いなしに、クラウスは楽しげに身を乗り出す。
「そう言いながら、いつも来てくれるよね〜」
少し間を空けてクラウスは続ける。
「…それよりさ、今回の舞踏会に現れるかな?」
その問いに、レオンハルトはすぐには答えなかった。わずかに視線を伏せ、沈黙を挟んでから、低く言う。
「…わからない」
短く、それだけを返す。
「…だが、王家にかけられた呪いは、確かに存在している」
その言葉に、クラウスは満足げに目を細める。
「うん、だから僕が提案したんだよね」
どこか得意げな調子に、レオンハルトは小さく息をつきながらも否定しなかった。
「…ああ、感謝している」
レオンハルトは、次期国王として婚約者を決めるよう長く迫られ続けていた。名家の令嬢たちが集められ、何度も何度も舞踏会が開かれる。笑みを向けられ、取り繕った会話を交わし、値踏みされるような視線を浴びる。そのすべてに、彼はとうに倦みきっていた。
だから今回で終わらせたかった。
婚約者が決まるまで連日舞踏会を開くことを父上に認めさせ、さらに貴族の娘だけでなく、年頃の平民の娘にも門戸を開く案を通した。さらに仮面をつけ、名を偽り、身分の差を曖昧にする。これらすべてがクラウスの発案だった。そんな前代未聞の試みを、貴族院議会に半ば強引に採択させたのもまた、クラウスの立ち回りによるものだった。
「…あとは、見つけるだけだね」
クラウスの声音には、どこか愉悦が滲んでいた。まるで物語の結末を誰よりも楽しみにしている観客のように。
その時。
ゴーン、ゴーン、と荘厳な鐘の音が王城全体へと響き渡った。
「あれ?もうそんな時間…?」
クラウスはどこか呑気に立ち上がりながら空を見上げた。
「急ごう」
対してレオンハルトは即座に腰を上げ、足早に東屋を後にする。
二人は生垣の迷路を抜け、王城の回廊へと急ぐ。だが、開場時間中は正面入り口以外を封鎖する手筈になっていたため、彼らが入ろうとした先の通路はすでに閉ざされていた。結果として、二人は遠回りを強いられ、唯一入れてもらえる可能性がある正面入り口へ向かうことになる。
そしてそこでー
先ほどの思いがけない出会いがあった。
扉の前で足止めされていた、琥珀色の瞳を持った娘。名前も知らない、黒いドレスに身を包み、どこか気品に溢れた不思議な娘。
***
「でもさ、結果的には僕があの裏庭に呼んだおかげで見つけれたわけだよね?」
クラウスの言葉に、レオンハルトの意識が現在へと引き戻される。
レオンハルトは小さく息をはく。
「…まだ彼女と決まったわけではない」
これ以上、言葉を重ねるのはやめた。
だが、次の瞬間、レオンハルトの視線が強くなる。
「クラウス」
「ん?」
気軽に返したクラウスに、レオンハルトは真っ直ぐ告げた。
「僕の代わりに、彼女を追いかけてくれ」
その声音は先ほどまでとは違い、明確な意思を帯びていた。クラウスの眉が、わずかに上がる。
「分かったよ、"王太子"の命令には逆らえないからね」
わざとらしく肩をすくめ、軽やかな口調でそう返すと、クラウスはくるりと向きを変えた。
視線の先には、人の波へと消えていった黒いドレスの娘の背中。その姿を見失わぬよう、クラウスは自然な足取りで人混みへ溶け込んでいく。気配を消し、周囲へ違和感を与えることなく、獲物を追う獣のようにするりと人波を抜けていく。
一方で、レオンハルトはその場に一瞬だけ立ち尽くし、やがて踵を返す。向かう先は、玉座。
王太子としての務めを果たすために。




