時間稼ぎ
ヴィクトリアが人間に戻れる十八時までの間、二人は馬車の中で静かに過ごした。
広場には絶えず馬車の音が響き、遠くからは人々のざわめきが波のように押し寄せては引いていく。ときおり笑い声や、緊張を含んだ高い声が風に乗って届いた。それらをぼんやりと聞きながら、時はゆっくりと過ぎていく。
やがてー
ゴーン、ゴーン、と空気を震わせるような重厚な鐘の音が、王都中へと響き渡った。
「…時間だね」
ダニエルは顔を上げると、すぐに立ち上がった。
「じゃあ、先に行ってるね!焦らなくていいから」
そう言い残し、馬車の扉を開ける。
外へ降り立った瞬間、ひやりとした空気がダニエルの肌を打った。すでに空は暗く、無数のランタンの灯りが広場を照らしている。
その光の中で、同じように駆け出す人影がいくつも見えた。
「鐘が鳴ってしまった…!急げ急げ!」
「まだ間に合うかしら…!」
貴族の青年や着飾った娘たちが鐘の音に急き立てられるように、正面入り口へと急いでいる。
ダニエルもまた、その流れに加わった。
裾を翻しながら、石畳を蹴る。
「すみませーん!待ってくださーい!」
声を張り上げながら、必死に駆ける。
城の大扉は、今まさに閉じられようとしていた。
息を切らしながら滑り込むように入り口へ辿り着く。
「はぁ……、はぁ……っ」
肩で呼吸をしながら、その場で一瞬だけ足を止める。肺に空気を押し込むように深く息を吸い、吐き出す。どうにか呼吸を整え、顔を上げると、すぐに衛兵へと向き直った。
「…はぁ、すみません。パートナーが少し体調を崩していて、馬車で休ませているんです。でもすぐ来るので、ほんの少しだけ待ってもらえませんか?」
だが、衛兵は首を横に振る。
「申し訳ありません。規則により、開場時間に間に合わなければ入れることはできません。さぁ、早く貴方も招待状を出してお入りください」
その声音は丁寧でありながら、まったく揺らがない。
「…そんな!本当にすぐ来るんです!」
ダニエルは食い下がるが、返ってくるのは同じ仕草、同じ拒絶。
「規則ですから」
冷たい一言だった。
ダニエルは、ぐっと奥歯を噛み締める。
(……時間を稼ぐしかない)
「はい…わかりました…」
そう言いながら、ゆっくりとポケットへ手を入れる。
「あれ…?おかしいな、さっき確かに…」
わざと焦ったように呟きながら、反対側のポケット、上着の内側を何度も探り直す。
もちろん、招待状は持っている。
だが、あえて見つからないふりをする。少しでも時間を稼ぐために。
「申し訳ありませんが、提示できない場合は…」
衛兵が言いかけたその時。
「あっ、ありました…!」
ようやく見つけたように差し出す。
衛兵の隣に控えていた侍従が、無言で銀の盆を差し出した。そこに並ぶのは、残りわずかとなった仮面。
「へぇ〜!仮面もいろんな種類があるんだ〜!」
わざとらしく声を弾ませる。
一つひとつ手に取り、じっくりと見比べるふりをする。
(まだだ……まだもう少し……)
その合間に、ちらりと背後へ視線を向ける。そして、見つけた。闇の中で、揺れる黒。
「あ!見てください!」
ダニエルは勢いよく振り返り、広場を指差した。
「あそこ!あの黒いドレスの彼女が、僕のパートナーです!」
***
その頃。
馬車の中で着替え終えたヴィクトリアは、急いで外へと飛び出していた。春先とはいえ、夜の空気が露出している肌を刺す。冷たさと同時に、緊張が一気に全身を駆け抜けた。
幾重にも重ねられた布地に広がるスカート、そして履き慣れないヒールのある靴がヴィクトリアの動きを鈍らせる。石畳のわずかな凹凸に足を取られ、身体がぐらりと揺れるが、とっさにドレスの裾を掴み、どうにか転倒を免れる。
「…くっ」
途中よろけそうになりながらも小走りで前へ前へと進む。視線の先には衛兵たちに囲まれているダニエルの姿が見えた。
何かを訴えているのが遠目にもわかる。
だが次の瞬間。ひとりの衛兵がダニエルに仮面を押し付けるように渡し、そのまま背を押す。
「…っ、待って!」
思わず声が漏れる。
ダニエルが衛兵に抑えつけられながらも振り返り、必死に何かを叫んでいる。
きっと、自分のことだ。
しかしそのままダニエルは、複数の衛兵により大扉の中へと押し込まれていった。
「……!」
ヴィクトリアは息を呑む。
(急がないと……!)
ドレスの裾をさらに持ち上げ、慣れない足取りで駆け出す。数歩進んだだけで、呼吸が乱れ、胸が焼けるように苦しい。
それもそのはずだった。
この三百年、走るという行為とはあまりにも無縁だったのだから。その代償が、今になって突きつけられる。
(こんな…たったこれだけで…)
自分の体力の無さに、自嘲にも似た思いがよぎる。
それでも足は止めなかった。
無数のランタンに照らされた広場を、黒いドレスを翻しながら、必死に前へと進む。
肺が悲鳴を上げても、喉が焼けるように熱くても、正面入り口だけを見据えて足を動かした。
「…っ、待って…、待ってください…!」
掠れる声で、必死に言葉を紡ぐ。
こんなにも息を切らし、必死になる自分がいることにほんの一瞬だけ驚きながら、ようやく扉の前へと辿り着いた。
固く閉ざされた大扉の前には、見張りとして残された衛兵が、直立不動の姿勢で立っていた。
先ほどダニエルと言葉を交わしていた者たちとは違う、無機質なほどに感情を感じさせない顔をしていた。その視線が、遅れて駆け込んできたヴィクトリアを捉える。
「開場時間はすでに過ぎております」
低く、淡々とした声だった。
「これ以降の入場は、一切認められておりません」
息を整える間もなく突きつけられる、冷たい現実にヴィクトリアは一歩、前へ出る。
「…あの…遅れてしまって…申し訳ありません…!…招待状は持っています…!パートナーも…中に……」
だが、衛兵は微動だにしない。
「いかなる理由があろうとも、規則は規則です」
その言葉に、情は一切なかった。
ただ規則をなぞるだけの、揺らぎのない声音だった。
ヴィクトリアは唇を噛み締める。
(どうしたらいいの…)
指先が震える。
胸の奥に、焦りと悔しさがじわりと広がっていくのをヴィクトリアは感じた。
呪いさえなければ。
人間に戻れる時間がもう少し早ければ。
そもそも呪いがあるからこの舞踏会に来ているのに、矛盾したことを考えてしまう。
そんな自分に嫌気が差した、その時。
背後から、足音が近づいてくる気配がした。
明日も12時に投稿予定です。
よろしくお願いいたします。




