朝仕度
翌日。
まだ空が白み始めたばかりの朝方、約束通りダニエルは洋館を訪れた。冬が終わりかけているとはいえ、朝の森の空気はまだ冷たい。吐く息がかすかに白くなり、足元の土には夜の霜がうっすらと残っていた。だが、枝先をよく見れば小さな芽がふくらみ始めている。春はもうすぐそこまで来ているようだ。
ダニエルの装いは、春先の冷たい朝風にもほどよく耐えられる厚みの布地で仕立てられていた。冬ほど重くはないが、まだ残る寒さをやわらかく防ぐ、季節の変わり目にちょうどよい生地だ。その意匠はヴィクトリアのドレスと対になるよう整えられており、黒い生地の襟や裾には淡い灰緑の糸がさりげなく縫い込まれている。朝の淡い光を受けて、その色が静かに浮かび上がっていた。
玄関を抜け、いつものようにヴィクトリアの部屋の前へ立つ。一応、礼儀として軽くノックをしてみる。
コン、コン。
だが、返事はない。
「……やっぱり寝てるよね」
小さく呟き、ダニエルはそっと扉を開けた。
室内は静まり返っている。
まだ朝の光が十分に差し込まない薄暗い部屋の中、ベッドへ視線を向けると、案の定、そこにはカラスの姿のヴィクトリアが丸くなって眠っていた。黒い羽をふんわりと膨らませ、体を小さく縮めている。まるで黒い毛玉のように、静かに寝息を立てていた。起こさないよう、ダニエルは足音を殺して近づき、そっとベッドの縁に手をつく。
すると気配を感じたのか、ヴィクトリアがゆっくりと目を開けた。黒い瞳がぼんやりとダニエルを映す。
「ごめん、起こしちゃった?」
ダニエルが苦笑すると、カラスのヴィクトリアは一度だけ瞬きをした。それからゆっくりと体を起こし、羽をぱたぱたと広げ、眠気を振り払うように首を振った。ふわりと舞った羽毛が、静かな朝の空気の中をゆっくり落ちていく。
次の瞬間、ヴィクトリアは軽やかに飛び立った。黒い影が一瞬宙を横切り、迷いなくダニエルの肩へ降り立つ。
肩の上のヴィクトリアは何も言わない。
返事の代わりなのか、嘴でダニエルの肩を軽く突いた。まるで早く行きましょうと言っているかのように。ヴィクトリアに急かされ、ダニエルは小さく笑う。
「はいはい、今運ぶよ」
そう言いながら、昨夜用意しておいた荷物を運び出し始めた。ドレスが入った箱をひとつ、またひとつと抱え上げる。何個も重ねて抱え、慎重に馬車へと運んでいく。
肩の上のヴィクトリアは、揺れに合わせて小さく体勢を整えながら、その様子を静かに見守っていた。
ダニエルが荷物を馬車へ運んでいる最中ー
ふと、ヴィクトリアが顔を上げた。
枯れ木の枝に、三羽のカラスが止まっている。
両親と、アデルだ。
アデルは羽に顔を埋めるようにして眠っている。だが、両親は静かにこちらを見下ろしていた。冬を越えた森の冷たい風が、枝をかすかに揺らす。
送り出しているのか。
それとも、ただ静かに傍観しているだけなのか。その真意はわからない。
ヴィクトリアはしばらく黙って彼らを見上げていた。
「じゃあ、そろそろ出発しようか」
ダニエルがそう言って最後の荷物を馬車へ積み込む。御者が手綱を握ると、馬はゆっくりと歩き出した。蹄の音が、冷たい朝の空気に響く。
やがて洋館と森の景色は少しずつ遠ざかり、馬車はハイム男爵領を後にした。
目指すのは王都。
馬車の中でダニエルが腰を下ろすと、向かい側ではヴィクトリアがすでに目を閉じていた。
座席の上で体を丸め、静かな寝息を立てている。もともとこの時間は、ヴィクトリアは眠っている時間だ。
「……ゆっくり休んでてね」
ダニエルは小さく呟いた。
眠るヴィクトリアを起こさないよう、しばらくその姿を眺める。
特にすることもない、静かな馬車の時間。
馬の蹄の音。車輪が回るたび、ゆっくりと揺れる車体。その単調な揺れは、どこか心地よかった。いつの間にかダニエルの瞼も重くなる。ダニエルもまた、静かに夢の中へと落ちていった。




