第二話 休息を得ず
参謀本部より派遣された俺と上官はどちらの軍団にも属さない。会議の再開まで自分の天幕で休息を得るため、第十二軍団の将校たちと共に天幕を出ようとした瞬間、肩を掴まれた。
振り返ると上官エンヴィル中佐が立っていた。顔の右半分に竜の鉤爪を模した刺青が彫られている。彼女の鋭い視線がこちらを捉えていた。
「よくやった。その調子で頼む」
「はっ、エンヴィル中佐。ご期待に沿えましたら幸甚です」
俺が言いきる前に彼女は光を吸い込んだかのような銀髪をたなびかせ天幕を出て行った。
ナジェ・エンヴィル、俺より二歳若年の作戦参謀中佐。彼女とは今回の派遣以前に面識がなく、詳しいことは知らない。アナトリア属州出身であることを口数の少ない彼女から道中でやっと聞き出した。髪色と、褐色の肌、そして紅い瞳は当地の民族の典型を示す。
彼女の能力を疑う気はない、26歳にして参謀本部勤務の中佐にまで地位を進めるのは尋常ではない。しかしその有能ぶりを俺がまだ目撃していないのも事実だ。
俺は彼女の後を追って陣幕をくぐった。その瞬間、不快な湿気と暑気が体を包み込む。遮音魔術が施された天幕に居て気付かなかったが、小雨がぱらついていた。
大天幕の外には、何十名もの制服姿の若者たちが集っている、高級将校の従卒たちだ。第12軍団の将校が己の従卒の名前を叫ぶ。負けじと声を張り上げた。
「コルシュ上等兵、どこにいる」
人ごみをかき分けて小柄な影が姿を現す。
「お疲れ様です、ハヤシ少佐。会議は終わったのですか?」
俺より頭二つ分低い背丈のコルシュ上等兵は敬礼しつつ聞いてきた。
少女と見間違うほどのあどけない顔立ちだが15歳のれっきとした男子だ。豊かなくせ毛が湿気で更に飛び跳ねている。
俺はコルシュの問いを無視して、視線を頭上に向けた。第四軍団ゲルマニカの軍旗が篝火に照らされている。旗には帝国の主神ヘリオガバルスを意味する金色の太陽と第四軍団の旗章である鷲が描かれていた。祈る柄ではないが、捧げものをした分の見返りは欲しいところだと埒もないことを考えた。
視線を切って自分の天幕に向かう。足音はないがコルシュが後をついているのは振り返らずとも分かる。
大森林の一角に切り取られた広場を横切る、兵士はすでに就寝しており各天幕は静かだったが、戦いを前にした静かな興奮が伝わってくるようだった。
一度、警備任務中の小部隊に出くわした、彼らは俺を目にすると立ち止まり敬礼をして去って行った。その顔には軍人としての義務だけでは隠せない、疑い、あるいは侮りの色があった。帝国内に極東出身の将校は少ない、居たとしても属州の融合を宣伝するために形だけ在籍している者が大半だ、兵士たちの感情は理解できる。俺は彼らに認められるような、いや屈服させるような働きをしなくてはならない。
どこかから馬のいななきが聞こえた。ふと、故郷の童謡が脳裏にかすめる。
まさかりかついで きんたろう くまにまたがり おうまのけいこ……。
広場の中央から少し外れた天幕に入ると、椅子に腰を預けた。
「お腰の物を預かりましょうか、少佐?」
俺は彼に微笑んだ。
「少佐なんて他人行儀な呼び方は止めてお前だけの名前で呼んでおくれ、俺の可愛い巻き毛」
コルシュも微笑む。
「ヒデノリ、疲れたんだね」
俺は立ち上がり彼の薄い体を抱きしめ、灰色の巻き髪を掻きまわした。
「うわー、やめろよー」
俺の腕の中でコルシュが身もだえる。さっと唇に口づけて彼を開放する。
彼は髪を撫でつけながら聞いてきた。
「会議はどうだったの?」
俺は腰のヤマト刀を鞘ごと外して彼に預けながら笑った。
「議論が始まりもしなかった、現状確認で終わりさ。一時間後再開されるからそれまで休むことにする」
俺の言ったことが分かったのか分かってないのか、コルシュはふーんと曖昧にうなずくと、こちらに背を向け雑貨を収めた棚を探った。
「コーヒー飲む?」
俺は彼の返答に脱力し頷いた。
「煙草も頼む」
コルシュは手際よくコーヒーと水煙管を用意した、俺は立ち働く彼の尻をぼうっと見ていた。
「はい、どーぞ」
差し出された琥珀色の液体が入った陶器を口元に運び、香りを胸一杯に吸い込むと少し気分が落ち着いた。コルシュにも腰を下ろすように言おうとした時だった、天幕の入り口が二度、叩かれた。
「どなたでしょうか?」
コルシュが戸口の誰かに向かって外向けの声音で問うと、低音の女性の声が返ってくる。
「ユーリア・コルネリウス・アルビウス」
俺は弾かれたように立ち上がって叫んだ。
「どうぞお入りください」
アルビウスが幕をかき分けて入ってくる。こちらが勧める前に彼女は椅子に腰を下ろした。歩き方、座り方に軍人的な固さをあえて崩したような趣がある。実に貴族的で、優雅だった。彼女は密生した濃い睫毛に縁どられた透明な瞳で室内を見回す。
「お前も腰を掛けたら? 少佐」
「……失礼いたします」
客人ではなくこの天幕の主人として振舞う彼女は卓に置かれた水煙管を瞥見した。
「お前は煙草をやるんだね。私にも煙管をいいかな」
「コルシュ上等兵、すぐに準備を」
俺は少し驚きながらコルシュに指示する。煙草は帝国本土ではあまり好まれない嗜好品だ。帝国の上流階層にとって最たる喜びの一つが食事だが、煙草は味覚を鈍麻させ、その快楽を減じるもの。美食を恣にする高位の貴族ほど厭うものだが。
この女は、正道の貴族からも逸脱しているではないか、そんな考えが浮かんだ。
アルビウスはコルシュから渡された煙管を加え、目を閉じ深々と吸い込んだ。弛緩と緊張が入り混じった微妙な雰囲気が漂う。
「お前は」机に肘をつき手の甲に顎を乗せて言う「ヤマト属州出身なの?」
「はい、六歳の時に本土に」
俺がヤマト属州出身なのは名前が示す通りだ。属州の有力者の子弟が帝国本土に送られることは珍しくない。そういった者は帝国式の教育を受け官僚や武官になる。俺たちは一心に勤め出世を志す、自分の出身属州の地位の向上を目的に。
ヤマトは帝国の属州になってまだ歴史が浅く、そのために帝国の上層部にヤマト属州出身者は皆無だ。そこでヤマト有力者は歴史的な対立関係を清算し一同協力して見込みのある少数の子弟に集中投資を行った、彼らはヤマト出身の高官を作ることで帝国内の発言権の増大を目論んでいる。
俺もそんな子弟の一人で、最も成功を収めた、いや、収めつつある例だ。
彼女は呟くように言った。
「抜けば玉散るヤマトの刀。見てみたいな」
コルシュにアルビウスへ刀を渡すように告げた。彼女は刀を抜き物珍しそうにしばらく刃紋を眺めていた。俺は内心舌を巻く。彼女はこの部屋に入るなり主導権を掌握し、俺の武装まで取り上げた。これが帝国中将か。
「現状で撤退はない」唐突に、刀を見つめたまま彼女は言う「二軍団の遅れがただの遅れである可能性は十分にある。悪天候やその他の要因で伝令兵が来てないというのも現実的な推測だ。また、総司令官に報告するような懸案の事態でもないと思う、帝国大将のお二人の面子もある」そして、俺に視線を向ける。その瞳には帝国中将としての誇りと自分の能力への自負が燃えていた「ゆえに、第一案を会議では主張する」わずかに身を乗り出す「参謀本部としての同意が欲しい」
息苦しさを覚えて、荒い息を吐く。背中に流れる汗は暑さだけのせいではない。
「アルビウス中将」意を決して見つめ返す「小官に参謀本部を代表する権限はありません。エンヴィル中佐に相談してはいかがでしょうか」
「それがね、中佐は自分の天幕に居なかったのだよ。というより彼女はこの陣に来てからというもの会議の時間以外は姿を消す」彼女は薄く笑った「一体彼女は何をしているのだろうね」
胃が掴まれるような感覚に襲われた。なるほど、エンヴィル中佐は中将たちの訪問を避けるために休憩時間に自分の天幕に戻らないわけだ。アルビウスもそのことを分かっていて、彼女の最後の問いはその実問いではなく、次のように翻訳される。なぜお前は無警戒に自分の天幕で憩うているのだ、エンヴィル中佐のように姿を隠すべきだったな、 間抜けめ。
屈辱と羞恥で過熱しそうになる脳髄を深呼吸で沈めてゆっくりと考える。
第一案、即ち周囲に斥候を放ちこちらからも二軍団に伝令を送って事の推移を見守る。率直に言えば俺もこの案が現状では妥当だと考える。軍団の到着が数日遅延することは珍しくない。向こうが伝令兵を送ったとしても大森林地帯のこと、道を見失うのは十分に考えられる。伝令は基本的に単独か小部隊であることを考えれば、道中で敵対する蛮族に偶発的な襲撃を受けて全滅したという恐れもあるだろう。
「中将。小官としてはその意見に異論はありません、現状では第一案が妥当でしょう。しかし参謀本部としての見解でないということはご理解ください」懇願を込めてアルビウスを見つめる「どうしてもというのならエンヴィル中佐に」
「じゃあ、個人的にはお前は私の味方なわけだね」
アルビウスの手のひらで転がされているのを自覚する。どこから間違った?
「い、いえ、中将、味方敵ではなく」
「有能な参謀作戦少佐のお墨付きを得られてよかったよ」彼女は煙管を咥え、深々と吸い込んだ。吐き出した煙が天幕の天井に漂う「我々は仲良しになれるね、少佐」
俺は敗北感に襲われて、逆に心が落ち着いた。諦念は時に薬となる。
中将は短く別れの挨拶を告げると天幕を出て行った。去り行く彼女の尻を見ながら、男なら線の細い若いのが良いが、女ならししおきのいい年増が良い、などというくだらない想念が浮かんだ。現実逃避だ。
しばらく、放心していると、コルシュが声をかけてきた。
「あの人のお尻見てた?」
俺とアルビウスのやり取りに興味は引かれなかったのだろう、コルシュは俺の視線の意味を聞いてきた。彼の理解などこの程度のもの。失望はない、コルシュを手元に置いているのはこの能天気さゆえだ。
「ああ、肉付きがいい丸い尻だったな、女ならああいうのが好みだ」
コルシュはくすくすと笑った。
「勃たないくせに、そういうの気になるの?」
「言ったなこいつ」
俺はコルシュを抱きしめると振り回した。きゃははとコルシュが笑い声をあげる。
生来のものではなかった。参謀本務の激務のためか俺はいつからか勃起不全を起こしていた。いまや俺の男性器は排泄という用途でしか役に立たない。
実のところ、俺はそのことに精神的な打撃を受けている、自分の弱さを自覚させられるようで。だが、その心情をコルシュに打ち明けるつもりはなかった。コルシュの前では強く頼りがいがある年配者を演じていたいという取るに足らない自尊心。今のように、彼には笑い飛ばしてもらった方が俺としても気分がいい。
コルシュの頭に顔を埋めてその香りを吸い込んでいた最中だった。戸口から咳払いが響く。
「憩うているところすまんな少佐。入っても?」
カト中将が顔を覗かせていた。
カトに椅子をすすめて頭を下げる。
「ご来訪に気づかず申し訳ありません、カト中将」
カトは腰を下ろして親し気に破顔した。
「貴官のせいではないよ少佐。私は斥候部隊から軍務が始まっていてな。つい気配を殺して動いてしまうのだ。いや、私もまだまだ錆びついてない」
老将は懐をまさぐり、銀色に磨かれたスキットルを取り出した、こちらに差し出す。
「まあ、なんだ。取り合えず一杯やってくれ、私の好きな醸造酒だ、体をほぐしてくれる」
受け取り蓋を開けると酒精の匂いが鼻をつく。俺は覚悟して一口飲み、カトに返す。彼も呷ると懐に仕舞った。
カトが俺に顔を近づける。
「少佐、ここに来たのはな。貴官の意見を聞きたいと思ったからなのだよ」俺が口を開く前に彼は続ける「いや、勘違いしないで欲しいのだが、なにも貴官に責任を押し付ける気はない。有能な参謀将校の意見も参考にしようと思ってな」
「であれば、エンヴィル中佐の方が」
俺はさっきと同じような言葉を口に出した。
カトは首を振る。
「彼女は天幕に居なかった。それに私は彼女を好かん」
カトの態度を注意深く窺う。彼は腕を組んで目をつぶった。
「部下が会議で意を決して進言したというのに、それを援護するでもなく盾になるでもない。上官としての心構えがなっとらんのではないか」
なんて露骨な懐柔策だ。発作的に笑いそうになるのを抑える。だが、カトの表情は見て血の気が引いた。
彼は冷たい目でこちらの様子を伺っていた。自分の言葉がどのような反応を引き出すか見極めようとして。
「エンヴィル中佐は……中佐には、中佐のお考えがあるのかと」
掠れた声で返す。カトは静かに頷いて言った。
「上官を悪く言う軍人も信用できん」
生唾を飲み込んで考える、これはアルビウス以上の難敵かもしれない。……俺は気構えを正した。ここは戦場だ、比喩でなく戦死する恐れもある。
「でな」彼は親しさを取り戻して言う「貴官はどの案を取るべきだと思う、率直に言ってくれ」
俺は迷わなかった。アルビウスに告げたように、第一案を推すと答える。両者への答えは一貫しているべきだった。
「そうか……私はな、会議ではああ言ったが、第二案も検討に値すると思っている」顎髭を撫でながら「もちろん、まだ早い。現状で第二案を選ぶなど慎重を通り越して無能だ」抜けた白髭を指先に摘まんで「それに、この戦いは新皇帝陛下の御親征にして初陣だ。陛下のお立場は貴官も分かっておろう?」
第二案も検討に値するとの言葉は本音ではないのだろう、内心ではやはり第二案など論外だと思っている、それでも一見譲歩に思える言葉から始めたのは、俺に皇帝のことを思い出させるためだ。
先帝の崩御により即位した新皇帝は若干15歳の若者だった。先帝と後妻と間に生まれた実子で幼いころより英邁だと言う。ここまでなら何も問題はない。問題なのは先帝が前妻の間に子供が生まれなかったので、養子を迎えていたという事実だ。
皇帝の義兄は35歳、軍人としても総督としても非常に有能な人物だ、人望も名声もある。その上、初代皇帝の血統に近いのは義兄の方だった。先帝の遺言により後継者が布告されると、義兄が南方で率いている三個軍団は新皇帝への忠誠を拒否し反乱寸前となった。義兄本人が各軍団を説得しようやく収まったが、新皇帝の立場は揺れている。
今回の戦いは、そんな新皇帝の立場を盤石にするための儀式。失敗など最初から許されていない。分かっているとも。
「最悪、二軍団がすでに消滅していようと、撤退は許されないのだ。我々だけでも勝たなければならない」
それがカトの本音かは、まだ分からない。この老人は軍隊で位階を進めるうちに尋常ならざる政治力、交渉力を身につけたのではないか。安易に彼の発言を信じるのは危険だ。
俺は言葉を選んで返答した。
「中将の御懸念はもっともかと思われます。なれど小官は一介の作戦参謀少佐であります。政治的な判断は小官の職務の他かと」
「それでいい」カトは笑った「貴官が第一案に反対しないのであれば、我々は同志だ」カトはさっと立ち上がった「では次の会議で」
俺も立ち上がり、彼を見送る。天幕を出て行こうとした瞬間、彼は振り返った。真剣な表情をしている。まだ何かあるのか。俺は身を固くした。
「ところでな」声を潜めるように「男として悩んでいるなら、良い医者を紹介しよう。安心しろ、私も世話になっている医者だ」
しばらく黙ってから答えた。
「お気持ちだけ頂いておきます、中将」
体が焼けるように暑かった。天候、緊張、屈辱、疑問、そして酒精。それらが俺の体を熱していた。
「コルシュ、バケツ」
コルシュは何も言わず、俺にバケツを差し出す。俺はその中に胃の内容物を吐き出して、なんどもえずいた。
「本当にお酒だめだねえ」
コルシュは俺の背中をさすりながら気遣うような声音で言った。
俺は下戸だ、酒の類を一切受け付けない。しかし、帝国、ヤマトに限らないことだが、酒を一緒に飲み交わすことで連帯感を感じる人種というのは一定数いるものだ。そういった人間の酒を断ると、信用ならない人間と判定される。そのくせ、彼らは酒の席で言ったことをろくに覚えてない。
胃を空にして少し落ち着く。内心に溜まった様々な感情も吐瀉物と吐き出せたようだ。俺はコーヒーに口をつけて二人の中将の訪問の意味を考えた。
俺は参謀将校としての能力を誇っている。その点、同期の誰にも、なんであれば階級が上位の将校にも負ける気はしない。だが、軍隊内での政治、あるいは交渉においては素人同然であることが露呈した。
二人の中将は俺の意思を無視して、俺を自分の味方と判定した。もし今後、俺が彼らの意に反することを行えば、彼らは俺を裏切り者と見なす。一般論として敵よりも裏切り者の方が憎悪されるものだ。そうなれば俺の立場は危うい。
せめてもの慰めは、二人の中将、そして俺の意見が一致していることだ。もし意見が割れていれば、どちらか、あるいは両方を敵に回すところだった。まだ追い詰められてはいない──はずだ。
懐から懐中時計を取り出す。少佐に昇進した際、下賜された帝国将校の証。会議の再開までもう間もなく。俺は自分に言い聞かせる、何も問題はない、ただ帝国中将の能力の一端を見せつけられて少し動揺しているだけだ。落ち着け。
深呼吸すると、不意にエンヴィルのことが思い出された。彼女は現状をどう分析しているのだろう、そして今後どう立ち回るつもりだ、俺にすべての責任を押し付け、自分は息を殺して模様眺めか。会議では俺に口火を切らせ、中将たちの訪問は俺に受けさせ、自分は姿を消す。
中佐に覚えた微かな反感を噛み殺して、冷めたコーヒーを飲み干した。




