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苦手な方はご注意ください。

魔界育ちの悪役令嬢 ―復讐してさしあげます―

作者: お寿司のえんがわ

※こちらは単話版です。連載版とは内容が異なります。大筋は同じです。

【連載版】魔界育ちの悪役令嬢 ―神様のシナリオなんて書き換えてさしあげます―

https://pse.is/83qet4

 王城最大の舞踏会場は今宵も煌びやかに飾り立てられ、華やかな音楽と色と香りが満ちていた。

 何しろ今日は第二王子の婚約発表だ。


 華やかなものがあふれる中で、特に人目を引いていたのは、翠のドレスを纏った一人の少女だった。

 オリヴィア・エルフォード。


 白金の髪は銀色の髪留めから美しく背に流れ、長い睫毛に縁取られた青い瞳は、この国の水の加護を示す高貴な色だ。

 誰もが羨む完璧な次期王太子妃。

 彫像のように美しく、舞踏会に咲く白百合のように近寄りがたい気配を纏っていた。


 ──そして、その瞬間は訪れた。


「オリヴィア・エルフォード。本日をもって、婚約を破棄する!」


それでも、オリヴィアは微動だにしなかった。

感情の一切を閉ざし、空ろな瞳で声の主ー王太子を見据える。


 王太子アルヴェインは、勝ち誇ったように唇を吊り上げた。


「君には愛がない。僕にはもっと相応しい女性が現れたんだ。心から僕を愛してくれる、純粋で可憐な女性が」


 そう言って、隣に立つ少女へと視線を移す。

 栗毛の巻き毛を高い位置で一つに結い上げており、桃色のドレスのフリルと共に毛先が揺れる。涙に潤むのは大きく丸い茶色の瞳。「予言の乙女」アイラ。

 小柄な彼女は庇護欲を誘う、泣きそうな顔で王太子を見上げていた。


 近年の不作や天候不良、疫病などこの国の窮状を改善するため、有効な策を打ち出せない王太子が、起死回生を狙い、城の魔法使いに命じて呼び出した少女だった。

 自由に予言が出来るほどの能力はないが、確かに魔獣の出現や河川の氾濫などを言い当てたそうだ。


 自分に縋っているアイラの姿を見て、アルヴェインは満足げに笑みを深める。


「一人で過ごすといいさ…。誰もお前なんか必要としていないことを思い知れ!」


 その瞬間だった。

 オリヴィアの胸元で、星を模したペンダントが淡く光を放った。


 ――カチリ。


 金属が外れる小さな音。不完全な封印が、ついに壊れてしまった音だった。

 長い間、魔道具に縛られていた“本来のオリヴィア”が、今ここに呼び出された。


(……ああ、ただいま人間界。本当に帰ってきたくなかったわ)


 オリヴィアと視線が合うとぽろぽろと大粒の涙を流すアイラ、その剥き出しにした肩を抱き寄せる愚かな王太子、周囲でざわめく、不幸なイベントを楽しむ貴族たち。


 (滑稽で、醜悪で、底なしに愚かね。)


 オリヴィアは幼い頃、生家である公爵家の思惑で人格を封じられた。

 だが封印儀式は不完全だった。生贄の血の海。強烈な鉄の香り。凄絶な痛みと共にオリヴィアの魂の大半は悪魔へ捧げられ、魔界へ堕とされた。


 絶望と苦痛の底で泣き叫ぶ彼女を抱き上げたのは──恐ろしくも優しい悪魔だった。


(……母さん、会いたいわ。もう少しだけ待っててね。必ず帰るから)


 オリヴィアはそっと微笑んだ。


 その微笑みは、誰の目にもゾッとするほど恐ろしく美しく映った。


 弓のような月が白く輝く。封印された悪魔の娘が、目覚めた夜だった。


ーーーーーーーーーーーーー

  廷臣に促され、別室に移動したオリヴィアを待っていたのは国王と父親だった。

 国王は口を開くなり、「婚約はすぐには解消せぬ」と告げる。愚王子とお花畑乙女に地位はあっても、信用はまだ足りない――それが理由だ。


 父親の顔が赤黒く染まり、次の瞬間、鋭い音と共に頬を打たれた。

 胸ぐらを掴まれ、往復で頬を叩かれる。さすがに国王の側近が止めに入ったが、父の瞳はなおも憎悪を宿している。


「この出来損ないめ! どれだけお前に投資したと思っている!」


 国王は「国境沿いの別荘で休養せよ」と命じる。海が見えるその地名を聞いた瞬間、オリヴィアの胸に小さな炎が灯った。


(……願ったり叶ったりね)


(母さん、待ってて。必ず……帰るから)


ーーーーーーーーーーーーーー


 あの日──まだ六歳になったばかりのある日。

生贄にされた大量の動物の死骸と血の匂いで満ちた、家の地下の儀式室。

 幼かったオリヴィアは、両手足を革のベルトで拘束され、泣き叫んでいた。

「いや!怖い!……やめて……お願い助けて!助けてください!」

 父親も母親も、儀式陣の外から冷めきった目で見下ろしていた。


 両親は家の繁栄のため、完璧な操り人形となる娘を作ることにした。

 反抗に繋がるような人格を封じるという禁忌の手段を用いて。

 そして儀式は失敗した。

 魔法使いが震える声で「無理だ、魂が足りない!」と叫んだ刹那、オリヴィアの意識は焼き切れるような痛みと共に闇へと引きずり込まれた。


 骨が砕けるような衝撃。

 内臓を抉られるような苦痛。

 自分のすべての組織が引き剥がされていく恐怖。

 あまりの痛みに、いっそ殺してほしいと願った。


 しかし、死は訪れなかった。

(ここは……?)


 魔界──人間が忌み嫌う悪魔の世界だった。

「……可哀想に。こんなに幼いのに……よく頑張ったね」

 その時、柔らかく少し低い声が聞こえた。

 顔を上げると、オリヴィアの頭を膝に乗せ、介抱してくれている女性がいた。


 艶やかな黒髪はさっぱりと肩の上で切り揃えられ、吸い込まれるような赤銅色の瞳が印象的だった。小枝のような女性ばかり見てきたオリヴィアからすると、ややふくよかな身体は柔らかな布に包まれており、教会の壁画に描かれているような旧い服装に見えた。


 目尻には笑い皺が刻まれており、包容力ある微笑みを浮かべていた。


 それが──魔界第四層、誘惑の領域を統べるノクティレアだった。


「よしよし、もう大丈夫だよ」

 大きな手がオリヴィアの頬に触れた。

 暖かくて、優しくて、誰からもらったことのない温もりだった。何故だか流れた涙は温かい気がした。


 ノクティレアは、オリヴィアを抱き上げ、柔らかな腕の中にぎゅっと抱きしめた。

 彼女の体からは、香草の香りがした。


「怖かったでしょう。痛かったでしょう。でももう大丈夫。ここでは誰もあんたを傷つけやしないよ」


 それからの日々は、まるで春の陽だまりのようだった。

 ノクティレアは料理が得意で、いつも香ばしいパンや甘いスープの匂いを漂わせていた。


 彼女は人間の男性を誘惑する仕事が主なのだと、からりと笑って話してくれたが、オリヴィアにはただ、優しい母にしか思えなかった。


 魔界で暮らす他の子供たち──親に売られたり、生贄にされたりといった、地上で居場所をなくした子供たちもいた。


 彼らと一緒に食事をし、魔界での仕事や学問を学び、たまに悪魔たちの労働を見学したり、簡単な作業を手伝わせてもらったりした。


 驚くことに悪魔であるノクティレアの家に、天使が来たこともある。


 悪魔はただ我欲で人間を堕とすのではなく、人間が願いを叶えるための試練を課す存在なのだそうだ。

 試練を超えた先で願いを叶えるのは天使や神様たちで、お互い強力しているのだそうだ。


 来客の麗しい女性天使とノクティレアを見比べて、

「お腹のお肉増えたね?」と子供にからかわれた時、ノクティレアは「うるさいね〜!」と怒ったふりをして、その子供を抱きしめ髪をわしゃわしゃと撫でた。

 その時のノクティレアの笑顔は、地上の誰よりも美しかった。


 だが、楽園のような魔界での日々にも影が差す。

 夜になると夢を見る。

 人間界に残された身体に残る魂はわずかだが、それでも繋がってしまっているせいで、日中に起きた出来事を追体験するのだ。


 この感情の動きが時間を曲げて身体に伝わるために、身体の方は人と対話できるくらいのコミュニケーション能力が維持できているらしい。


 今日も領地経営がうまくいかず苛立った父親に殴られ、ダンスのステップや課題を一つでも間違えれば母親に鞭打たれ、メイドには薄い体を更にコルセットで締め上げられ、体型のための鳥の餌のような食事に飢えていた。


(戻りたくない。絶対に戻りたくない……)


 朝になると、ノクティレアはいつも抱きしめてくれた。九年間ずっとだ。

「おかえり。今日も頑張ったんだね。偉い子だよ、“私の娘”オリヴィア」


 ごめんね、私には悪夢を止められなくてと、その声を聞くと時々涙が出た。ノクティレアが泣いていたからだ。


「いつか体に魂が呼ばれても、オリヴィアはこの家にちゃんと帰って来られる…。母さんが待ってるからね」


(私は必ず帰る。母さんの元に。魔界に……私の居場所があるから)

 オリヴィアは強く決意した。


(そうよ、私は悪魔の娘なんだから。出来ないことなんてないわ)

ーーーーーーーーーーーーーー

 王の裁定は一見穏便なものに見えた。

 だが実際には、政治的な追放処分に等しい。


 王太子との婚約を維持し、二人の仲を改善し、進めるのであれば、もっと近場に候補はあった。


 アイラは一応、王太子主導の国家プロジェクトで迎えられた「予言の乙女」だ。特別な地位にある。


もしアイラが妃教育を無事終えられないことがあった場合のスペア、もしくはアイラの尻ぬぐいの愛人としてオリヴィアを遠くの地でキープしておくために、遠く離れた場所に閉じ込めておくのだとしたらー。


「……無様ね」

(あの二人の恋物語では、悪役の私が追放されて、さぞ盛り上がる場面でしょうね…)


 淡々と支度を進める自室で、オリヴィアは鏡に映る自分に笑いかけた。

 右頬にはまだ赤黒い痣が残り、口角には切り傷が走っている。


 別荘に向かう馬車で、向かいの席に近衛のシャーロットが座った。

 王家の別荘に住む関係なのか、彼女がオリヴィアの今後の生活の世話と警護をしてくれるようだ。


 オリヴィアは震える指をそっとドレスの裾に隠した。

 封印解除の影響が現れ始めてしまった。


 翌朝、屋敷はまだ静まり返っていた。


(今のうちに……)


 魔界で学んだ知識を元に、魔力を総動員して気配を探り、廊下を歩き、図書室の壁を押す。

 わずかに沈んだ感触とともに、仕掛け扉が開いた。

 薄暗い石造りの階段が地下へと続いている。そしてー。


(間違いない……魔界門がだわ!)


 通常の魔界門は悪魔が人間界と出入りする際に一時的に出現するものだ。

 だが、人間と悪魔が大掛かりな契約を結んだ場合、魔界門を人間界に固定することがある。


(魔道具授業の脱線話を覚えていて良かった……。

この国の海の近く、王家の館の地下に、凝った魔界門があるはずって……)


 「マイロ、エイヴァ、ギルバート…。」


 魔界で“家族になった弟妹たち。あの子たちは夜が怖くて泣くのだ。

夜の闇に悪意を隠した親から悪魔に売られ、村の生贄にされ、黒魔術の被験体にされたから。


(帰らなきゃ……私がいないとあの子たちは眠れないんだから)


ーーーーーーーーーーーーーー

──魔界門は見つけた。

 けれど、人間界から魔界門を開くには条件がある。


 “絶望”と“強い欲望”。


 「本来悪魔は、強い欲望を持つ人間が、悪魔による誘惑や人の世のしがらみによる絶望を超え、それを叶えるに足るかを試す者…。だから絶望と欲望の両方に触れていなければ帰れない…」

 魔界の学校で幾度も聞かされた教え。


(……誰かの悲劇を利用しなければ、帰れない……)


 オリヴィアの胸に、ほんの一瞬だけ、ざらりとした罪悪感が芽生えた。


 (しっかりしなさい!オリヴィア!あなたは悪魔の娘でしょう!)


「悪魔の仕事の一つは絶望を集めること。その方法は、人々の悲しみに触れること」


 かつてノクティレアが言っていた。


『けれど、ただ悲しみを奪うだけの悪魔にはなるな。触れたなら、見たなら、少しでも救ってあげな。“それ”は禁止されていない。悪魔だって、そういう選び方はできるよ』


 ──選ぶのは、私。

「悪魔は自分のしたいように生きる者。人間界でもそう伝わっているだろう?」


(そうよ、私は帰りたいから帰るの。誇り高い悪魔の娘としてね。)


ーーーーーーーーーーーーーー


「シャーロット、少し……外に出たいのです」


「……体調は、本当に回復されたのですか?」


「ええ、まだ完璧じゃないけど。……でも、ずっと閉じこもってばかりは、余計に身体に悪い気がして」


 シャーロットはしばらく考えた末、静かに頷いた。


「では、海辺の小道を少しだけ……警護も最低限に留めます。ただし、倒れそうになったら、必ず言ってください」


「ありがとう」


 また、素直に口をついて出てしまった言葉。オリヴィアは内心で苦笑した。


(……もう、“ありがとう”を言う自分を止められそうにないわね)


ーーーーーーーーーーーーーー


 村では誰もが、どこか影を宿しているように見えた。


(……この村……何かがおかしい)


 別荘の周辺には、かつて王家が療養のために利用した集落がある。今でも別荘がある以上、王家が利用する可能性がある土地なのだから、本来は整えられていて当然だが、今、その面影はどこにもない。どの家にも傷んだ屋根と潮風で曇った窓が並び、人々の顔には活気がなかった。


 シャーロットが小さく呟く。


「……この辺りでは、近年、怪我や病気が妙に増えているそうです。特に子どもが……。医者も原因が特定できないまま、対症療法の薬が処方されているのみとか……」


 その言葉を聞いた瞬間、オリヴィアの心にざわりと波が立った。


(子どもが、苦しんでる?)


 魔界で暮らした年月。弟妹たちの涙と震えが、鮮やかに蘇る。


 戸口の前にしゃがみ込むように座っていたのは、小さな男の子だった。まだ五歳にもならないような幼さ。足元には割れた靴、腕には赤く腫れた痕。

(親に叩かれたの……?)


「……どうしたの?」


 オリヴィアがしゃがみ込むと、少年はびくりと肩をすくめた。彼女が微笑むと、その目が涙で滲む。


「おなか……いたいの」

「名前は?」


「ラ、ライル……」


 彼の母は流行り病で寝込んでおり、父は海に出たまま戻らず、祖父母はもういないという。

 腹痛に耐えられず、母に何度も声を掛けたところ、うるさいと言われて、どうしていいか分からず家を出たそうだ。


(こんな小さな子が……こんな場所で……一人で……)


 痛みと絶望が、少年の小さな身体から静かに滲み出していた。

 ──これこそが、鍵。


(でも、集めるだけでは駄目よ……。)


 オリヴィアはライルの腹にそっと手を当てた。

「……大丈夫。痛いの、すぐ治してあげるから」


 (魔界の先生が、一番役に立つからと人間の身体を治す魔術を丁寧に教えてくれる方で良かった。)

 人間界では忘れられてしまった、古い癒しの術式は身体の毒を取り、痛みを和らげる。


 そして、──ライルの“絶望”を、そっと集めた。

「お姉ちゃん、ありがとう!」という無邪気で温かな言葉に抱いた僅かな罪悪感と一緒に。


ーーーーーーーーーーーーーー


 別荘に戻ったオリヴィアは、静かに目を閉じた。

 もう一度、地下へ向かおう。少しでも早く帰る手がかりがあるかもしれない。


(嫌になるわ、無垢な子供を利用するなんて……。)


ライルは言った。

「お母さんも治して!お母さんずっとお腹痛いの。可哀想なの!」

痛みを抱えた自分を夜中に追い出した母を、治してくれと。


「あいつら(実父母)と同じに成り下がった気分ね……」


 “救う”などと大層な言葉を使っても、悪魔でもなく、特別魔術の才がある訳でもないオリヴィアに出来ることなど、ごくごく僅かなことでしかない。


 病を治してやったライルの母は、涙を流しているように見えた。

あれは何の涙だろうか。


ーーーーーーーーーーーーーー

オリヴィアはまた気配絶ちのローブをまとい、誰にも気づかれぬように階段を降りる。


 すると先客がいた。

「やあ、オリヴィア。ようやく来たね。」

 声は低く艶やかで、どこか気怠げな響きを含んでいた。


 後ろに撫でつけた黒髪に、暗闇に光る宝石のような金色の瞳。恐ろしいほど整った青白い貌をしていた。


 まるで蜜のように漂う妖艶さ。男が近づいて来るほど、言葉にできない不安が胸を掻き立てる。


「……はッ、待ち伏せとは、趣味が悪いわね……。」


「趣味の問題じゃないよ、仕事さ。君を“試す”ために来ている」

(試す……悪魔ね)


 男はオリヴィアを見つめながら、扉の枠組みにもたれかかった。オリヴィアを真上から覗き込んでいる。

 「君が求める魔界門は、ここに確かに存在している。だけど今の君には開けない。絶望が足りないからだ。」


「……何が言いたいの?」

「俺は君の母ノクティレアと同じく誘惑の悪魔、フィンレイ…。」フィンレイはゆっくりと微笑んだ。


「“記憶”だ。君がもっとも大切にしている記憶──それを代償として差し出すのなら、俺が魔界門を開いてやる」


 オリヴィアは息を呑んだ。


 色鮮やかに浮かぶのは、あの温かな腕。焼きたての甘いパンにヤカンの湯気。弟妹たちの笑顔。揺れる洗濯物と香草の香り。


 ──それらを、失う?


「そんな……馬鹿げてる……!」


「馬鹿げていないさ。実際にそうやって望みを叶えた者は、数多くいるよ。過去を捨て、自分を忘れ、ただ望みだけを残して駆け抜ける」


 記憶を手放して、ノクティレアを、弟妹たちを、思い出せなくなっても──それでも、帰る?


「……違う。そんなの、意味がない」


 オリヴィアは首を振った。


 フィンレイの金の瞳が、すっと細められる。

「……そうだろうと思った」


 その声音には、どこか安堵すら含まれていた。

「君が“選ばない”ことを、俺は見届けに来たんだ」


「……え?」

予想外の言葉に呆けた声が出た。


「悪魔は、ただ願いを叶えるだけの存在でも、ただ人間を堕とす存在でもない。俺たちは“選ばせる”。

君たちの意志を試す。願いを持つ者が、叶えるに足る魂かどうかを──」


 オリヴィアの心臓が、徐々に落ち着いていくのを感じた。今まで速かったことに、今更気付いた方が正しいか。


手を床についたが、力が入らず滑ってしまった。滑ったまま肘で顔を上げる。


「既に大分辛そうだが……?身体の調子を治してやろうか?」

「結構よ!っぐ、ぅ……うえぇえええ!!!」


 限界を迎え、床に広がる液体と水音。

 フィンレイは面倒臭そうに顔を背け、天井を見上げるようにした後、退屈そうに語り出した。


 「……ああ、なんか大変そうだから、少し昔話をしようか。この国の王家はこの場所で、“百年の繁栄”と引き換えに“最大の絶望”を差し出す大掛かりな契約を結んだ。最大とは何か?――“未来”だよ。つまり、希望を抱いた子どもを残酷な手段で折ること」


 「……‼︎」


 「だからこの国には意図的な貧富の差が保たれ、国の繁栄にほとんど影響はないが、ごく一部の地域には必ず天災が落ちる。飢饉、疫病、土砂、乾き。常に“絶望の洪水”を起こし、自動的に贄とするよう仕組まれている」


 オリヴィアは顔を上げられず、肩で息をしている。返事がないまま、フィンレイは続ける。


「百年の契約履行のため、魔界門を設置し、魔界から魔力が供給され続けた。王家はここを別荘として管理したが、魔界との繋がりを畏れ、やがて愚かな子孫が後世に伝えることを禁止した。実にバカな話だ。見ないふりをしたところで、契約がなくなる訳じゃない。」


やっと身体が少し起こせるようになった。胃の中が渦巻いている気がするが、魔界の医療魔術で黙らせた。


(封印解除の副作用は、自然な体調不良じゃないから、いずれ反動が来るけれど、今は治まるまで待っていられないわ。)


 「契約は末期だ。百年の繁栄と引き換えに、今は滅びの側に傾いている。空は晴れず、作物は育たず、人々は病に罹り、未来を担う子供たちは減り続ける。それが、悪魔へ願いを立て続けた国の末路さ」


 オリヴィアは唇を噛んだ。


 (許せない……。許せない!許せない‼︎)


 「っぷぐ、子供たちは、何も悪くないじゃない!」


「俺に言われたって困るよ。国が滅ぶってことは国民が滅ぶってことだろう?そういう契約なんだから。

大体こういう大きな契約はもっと上の連中がーー、それこそ神だの天使だのも巻き込んでいることなんだろうさ。

悪魔は課題を与えるだけだよ。世界のシナリオを書くのはあっちだ。」

オリヴィアの喉が鳴らした変な音を揶揄うこともなく、フィンレイは淡々と答えた。


「ハッ、最低なシナリオね……。作家をクビにした方がっ、良いわ……。」


 「君は悪魔と契約せずに門を通ろうとしている。この大門を開けるなら、大量の絶望を受け取るだろう。……出来るならね?」


 「……わかってるわ」

 フィンレイはまた整った口唇の端を曲げて、にやりと笑った。


 「不幸はあちこちにあるものだ。これも何かの縁だからね、ちょっとプレゼントをあげるよ。

君の弟妹、兄姉たちをーー、“子どもを贄に捧げた連中を”――そこから“やってしまえよ”。」


 そう言ってフィンレイは霧のように消えた。

残ったのは魔術用の上等な黒い羊皮紙。熱と鼓動、それと決意だけ。


 オリヴィアは壁際に腰を下ろし、額を押さえた。胸の圧迫が強まる。指先が痺れる。


 (くそ、最低…。最低最低最低!これだから人間は嫌い!)


 気持ちの整理はつかないが、時間がないので水の魔術で石床を掃除する。何に使ったのか分かりすぎる排水溝と傾斜の付いた床が、液体の掃除に適している。


 目から勝手に落ちていく液体もよく流れる。


 (神様のシナリオなんて知らない!そんなもの、私が書き直してやるわ‼︎)

「ぅぐううぅ……‼︎」

反動がやって来た。酷い目眩だ。頭が割れる。


(待って、まだ持って……!)


この身体でどこまで出来るか分からないけれど、いいえ、出来るところまで……!

やらぬより少しでもやる方がいいに決まっているわ!やってやる!必ず帰る!


(悪魔は自分がしたいように生きる者!私は悪魔の娘なのだから!同じように生きてやる!)


ーーーーーーーーーーーーーー


 翌日。体調を考え一日おいた夜。

 オリヴィアの机には、あの黒い羊皮紙があった。


 ゆっくり撫でてみると、絶望を集めた指輪の石が光り、強く反応した。


 “強い欲望を抱く者。対象、場所(跳躍はこちら)、業の内容”


これは、悪魔に仕事道具の一つ。誘惑先のリストと跳躍地図を合わせたものだわ……!


それも既に余程の悪事を働いている者に厳選されている。この者たちが何らか特別な目的で悪事を働いたのでなければ、確実に、相応の代償を払わなければいけない契約を結ばされるだろう。


だがーー。

(残念なことに悪魔の数は足りない)

文字を詳しく追えば分かる。これは恐らく悪魔が訪れるより先に、対象の人間の寿命が尽きてしまう。


「こんな悪事を働いておいて、悪魔の課題なしに贅沢が出来るなんて……」

 オリヴィアは、躊躇いなく(跳躍はこちら)の文字の一つに触れた。

 「手伝ってあげるわ、フィンレイ……あなたの手が回らない仕事を」


ーーーーーーーーーーーーーー


 晴れることのない日々の中、広大な領地の端では王家の別荘を抱えているにも関わらず、民は飢え、地は痩せているというのに、自身は王宮のように豪奢な館にすんでいる公爵殿。


 悪魔に妾の子供を捧げ、道楽代を稼いだ阿呆。

 「マイロ……仇を討ってあげる」


 館は何故か火の気のない場所から燃え上がり、道楽当主だけが酒に酔って逃げ遅れた。

 遺体の損壊が酷く、どのように亡くなったかは想像でしかない。

 公爵の金が後ろ暗い組織に流れている詳細が載った新聞が発行され、今までの“投資”が全て泡になることが確定した夜だった。


(……私はちゃんと警告したわ。従者は皆、馬番が可愛がっていた馬まで逃げたのに。当主だけ逃げ遅れたのね。誰もが声を掛け忘れてしまったのか、それとも声を掛けたくもなかったのか……)


 森の木に子供を括りつけて贄とし、生きたまま魔獣に食わせることで、魔獣から一定期間は村を襲わせない契約を結んだ村長。

「エイヴァ…痛かったわね。」


(……何が痛みを伴う政策よ。村を救うためよ。魔獣が出てくるようになったのは、あんたが金儲けのために魔力を生む魔道具を大量に埋め、魔獣が住む場所を奪い、森の木を切り、食糧を減らしたせいじゃないの。

しかも魔力を生む魔道具の結果が村に還元されるならまだしも、村長の会社名義で全部個人で抱え込んで!)


村長には若返りや健康の願いがあった。だからオリヴィアは願いを叶える魔術を掛けてやった。


ちょっとした怪我くらいならすぐに治る。

木に括られて魔獣に喰われても、喰われた先から少しずつ治るほどの魔術を。


噂では何故か最近、村長の姿を見ないらしい。

(魔獣が出る森の奥まで探しに来てくれるほど、村民に慕われていると良いわね…)


 王太子が脳みそのない頭で仕事を丸投げすることを利用し、国難を手っ取り早く回避するために、予言の乙女の召喚以外にも諸々試していた、王太子お抱えの国家魔術師長殿。


 (国難の回避に必要とは思えない、どう考えても自身の権力を願う黒魔術。しかもその代償を子供を生贄にして肩代わりさせている)


王太子がアイラの召喚成功を認め、爵位を授けると発表し、王城から広場を見下ろす形でお披露目されている時に、部下から一斉にその行いを暴露された。

部下たちは何故か全員悪魔を見たかのように怯えながら、国教大教会とあらゆる新聞にその罪を告白したという。


国家魔術師長殿は、広間に集まった民衆からの投石と様々な魔術が身体中に当たり、人の姿と分からない形となった。候補が多すぎて、軍は誰が犯人か見つけることが困難で迷宮入りとなった。


本気で見つける気があったのか疑問が持たれる探し方でもあったが、王太子以外に不満は出なかった。


(ギルバート、もう貴方と同じ目に遭う子はいないわ…)


 強欲な連中の願いが叶った瞬間に、地の底へ叩き落とすことで、絶望は多く集まった。だが対象の欲望や悪行の調査と相応しい代償を用意するのに、魔力を使い過ぎた。


 けれどー。

 「助けてくれ、聖女様……!」ライルを助けてから別荘を訪れる声は絶えない。


 オリヴィアは迷わなかった。絶望を見つけ、受け止め、癒やして力へ変える。

 それが、契約なしで門を通る唯一の道だからだ。

 良心だけではない。本物の聖女とは程遠い。


 でもー。

 熱を出した赤子を抱え、自身も擦り切れたような姿で懇願する母の姿が頭にこびりつく。


 (……ごめんなさい、利用して。出来る限りのことはするからね)


 オリヴィアは体調のことと黒い羊皮紙の取り組みがあったので、聖女の噂を回して絶望を引き寄せるような真似をしていなかった。


 (それでもこうして呼ばれるということは、この国はそんなに追い詰められているのね……。国、というより国民が……。この人たちは何も悪くないのに。)


 シャーロットは子供みたいに涙を流していた。

 「私は、あなた様がいつも“誰かのために”動いてくださっていることを知っています。けれど……ご自分を、少しは労わってください」


 (違うのよ、シャーロット。これは私のため――帰るため)

 喉まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに小さく微笑んだ。

「ありがとう…、そんな顔をさせてごめんなさい。」


 当初の予想以上に求められる聖女としての役割にオリヴィアの身体は衰弱した。


 「でも、私が動かないと…夜中に死んでしまう子供がいるかもしれない…。」


 オリヴィアよりも死に近いのに、硬い土の上で雨に打たれて死ぬ子がいる。

 子供の亡骸を抱いて泣く母がいる…。


 知ってしまったのだ。現実は文字や話で知るよりも遥かに衝撃的だった。


 人は死ぬと重くなる。間に合わなかった子供が、オリヴィアの膝の上で冷たく硬くなっていく。


 きっと助かると思って、やっと聖女の元に来たのに、救えなかった時の母親の慟哭は、耳を突いていつまでも脳を揺らす。何に例えることも出来ない、ただただその子を想って、悲しみに塗れた声だった。

 

 悲劇は溢れている。オリヴィアの目の前で、物語ではなく現実として、日々悲鳴をあげたくなることばかりが積み重なっていく。


 自分が何か出来ていたら、違ったのではないかと、何かがずっとオリヴィアを苛む。


「私に出来ることをしたいわ……」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 オリヴィアが王宮を去ってから、一月も経たない内に、政務机は山のような書類で埋もれていた。

 アルヴェインはその山を前に、わずかに眉を寄せる。かつては、机の上がここまで散らかったことはない。――正確には、散らかる前にオリヴィアがすべて片づけていたのだ。


 補助輪を失った途端、失態は目に見える形で現れた。

 先日は外交文書の語句を取り違え、同盟国の使節団を怒らせたばかりだ。噂は宮廷を鼠を追いかける猫のように駆け抜け、重臣の視線は日に日に冷える。


 決定的だったのは、過去にオリヴィアの働きを「自分の成果」として発表していた経緯が、複数部署から滲み出たこと。


 端的に言って、アルヴェインはオリヴィアが嫌いだった。

 

 アルヴェインは、生まれた時から麗しかった。

 それだけは無条件で認められた。

 大衆の前では美しい容姿を最大限に活かす笑みを崩さない。


 ――そうだ。この笑顔さえあれば良い。女は元より、手を振るだけで民は拍手し、貴族っちは頭を垂れる。これが正しい形だ。

(俺は王太子だぞ。俺が微笑んでやっているんだ)


 だがオリヴィアは、アルヴェインに対し笑ったことが一度もなかった。笑う微笑むという以外に、嫌悪すらも見せなかった。表情の変化が皆無だった。


 オリヴィアはアルヴェインに関心がなかった。


 一方でアイラはどうか。彼女は“使える”と思った。

 アイラの能力は本物だが、鍛錬を嫌い、深く掘り下げようとしない。にもかかわらず、占星術や夢見の儀式でいくつかの小さな予兆を当て、飢饉や疫病の兆しを早期に告げた


――今はそれだけで十分だ。


 何よりアルヴェインの美貌に頬を赤らめ、何かある度にアルヴェインを頼ってくることが心地良かった。


(必要になったら“躾”れば良い)


 しかしあの騒動の後、王はアルヴェインを呼びつけ、短い言葉で叱責した。

「公私の別を失うな。弟の婚約の席で、何をやった」

 取り巻きの重臣たちは沈黙をもって賛同し、古参の貴族は目を伏せる。


(……なぜだ。うまくいくはずだった)


 オリヴィアの不在で露呈した無能、過去の手柄横取りの噂、弟の評判の上昇――それらが一つの像になり、彼を追い詰めていく。


 何が違う、“何で俺だけがこんな目に遭うんだ”


 ――力が要る。人心は移ろう。ならば揺れぬ力を。


その“強い欲望”は、ある存在を呼び寄せていた。


 夜、アルヴェインの意識は酒に酔ったように朦朧とした。

 夢うつつに足を運び、ふと意識が鮮明になった。

 「……?、ここは? 俺は、一体」

 過去に封じられた儀式場でアルヴェインは権力と謀略の悪魔ヴァルドと対面した。


 ヴァルドは軍人のような直立不動で、暗い色の外套を纏っていた。引き結ばれた唇や、執事にように整えられた灰白色の頭髪、無表情ながら落ち着いた佇まいから敵意も媚びも感じなかった。


 「殿下に、百年前の記録をご覧にいれましょう」

 古い机上に広げられた羊皮紙は、王家の宝庫にもないはずの記録書だった。墨ともインクとも異なる何か黒いもので記された誓文、薄れた権能印、余白に細かな供儀の手順。


 アルヴェインは、オリヴィアにこそ及ばず、焦るほどに成果が出ない愚か者だ。

 だが王太子を降ろされない程度には、オリヴィアと張れると思い込むほどには、知識があった。

 ゆえに理解できてしまった。


「……父上は、これを知らなかったのか」

「隠蔽ですよ。恥は継承されない。」


 ヴァルドの声は低いが、よく通る。

「殿下、昨今の国の翳りはこの契約のためです。百年の繁栄が終わるため。殿下の代で新たな契約を。次の百年を。子らの静けさと引き換えに、王国を再び…。」

 ことさら事務のように述べる言葉が、それしか道がないかのように説得力を持たせた。


 アルヴェインはヴァルドの身分を質したが、ヴァルドは事務的な口調のまま堂々と、王太子にも言えぬ立場だと言った。


「過去、この言えぬ記録を封じる際に、いずれ真実を知る者が必要とされることがあると、そうして残った者です。王家の意向に背く者ですから…。」


「そうか…。」

視線を落とす。書類が全て本当であることは、王家のものしか知らぬ印と、そこに通う魔力の筋によって理解していた。


ヴァルドが用意したものは本物だった。


 この血塗られた記録を見て、アルヴェインはどうしたら自分の手柄に出来るかと考えた。


「……次の百年の儀式の方法は?」

「簡明です。子らを“静め”、贄と引き換えに魔界の門を開き、悪魔に願う。陣はこちらを……。」


 「子供を捧げて、この手順通りに儀式を行えば、百年の繁栄が約束されるのだな。」

アルヴェインの瞳には、繁栄の国を治めた名君と呼ばれる自身の姿しか映っていない。歪に輝く瞳を眺めながら、ヴァルドは言う。


「過去、その通りになっております。百年間、常に魔力の供給を受け、繁栄する代わりに、常に“わずかな”犠牲が必要にはなりますが……」


 ヴァルドは「必ず成功する」とは言わない。まして自分が悪魔だとも契約するとも言わず、ただ、わずかに頭を垂れる。


 アルヴェインの頭の中でだけ、確約された輝かしい未来が広がっていた。

(これで、百年は俺のものだ)



 翌日、極秘会議が行われた。

 アルヴェインはヴァルドから受け取った“証跡”を携え、父王とごく少数の重臣に古の契約を示した。


 王は悩み、何日も何日も一日中似たような会議を開いた。苛立つアルヴェインにヴァルドは言った。


「王太子殿下、私には特別な力があります」

「何?」


不機嫌を露わにアルヴェインがヴァルドを見据える。


「人の意識を操れる。思いのままとはいきませんが、あなた様を地下にお招きしたように…ある程度は」

アルヴェインはギラギラと両眼を輝かせた。


「成程!……それで貴様は、貴様の血族は闇で生きていたのだな。そんな能力…まるで悪魔だ。

くく、王家の味方でいてくれて良かったよ。」


「それでは、王の意識を“結論を急ぐ”ように。」

「ああ!やれ!」


ヴァルドの瞳が一層煌いたのを、浮かれるアルヴェインは見ていなかった。

「ただしこれは願う者の対価が必要なのですーこの場合はあなた様の血を…勿論、今でなくても構いません。」


「後払いまで可能なのか。実に都合が良いな」

「恐れ入ります」


アルヴェインは知らぬ間に、恐ろしい契約を結んだ。

きっと女学生が恋の呪いに針で自分の指を突いて出す少しの血を想像したのだ。


古代魔術が失われて久しい現在では、通常の魔術で使用する血液、唾液、髪などは極めて少量だった。


(実に愚かな……今まさに悪魔と契約する大儀式を行おうとしているのに、何も気づかないとは……。)


 その日の午後、王は急に大祈祷という言葉を使った、大規模な悪魔召喚儀式の遂行を許可した。


「……大祈祷を許す。ただし――子らはその時まで丁重に扱うように。可能な限り、代替で済ませるように。」


 赤字で書き加えられた「暴力の禁止」という語を見て、アルヴェインは冷笑する。


「ヴァルド」

「はい」

人の手を経る度に、“うっかり”文字が消え、承認が飛ばされ、「子供が消える夜」を実行する者たちへの指示書に変わる頃には、誰にも見つからず、急ぎ子供を集めるようにとしか伝わらなかった。


 夜が来る。

 王都の外輪から夜灯が一つ、また一つ落ちた。

表向きには古くなった灯りの公共工事事業。


 「子供が消える夜」の噂を恐れた民家の戸口には、願掛け程度にしかならない、ひどく簡単な呪いの封じ紋が濃く押された。無事を願う祈祷の歌が歌われ、母たちは子供をかたく抱き寄せた。


 しかし、滅びへ向かう古の契約がー。

 子供の贄を捧げ続ける約束がー。

 国家魔術師と悪魔の知恵、玄人の工作員がーー民の努力を無意味にした。


 毎夜、子を想う母たちと、拐かされた子供たちの泣き叫ぶ声が響いた。


ーーーーーーーーーーーーーー

 ――ある夜。

 窓辺に気怠げな影が腰掛けた。金の瞳。黒衣。

 「忙しいな、オリヴィア。顔色がまるで死人だ。」

 「……フィンレイ」


前髪を掻き上げ、無駄に色気を出しながら、フィンレイは言った。

 「ここ数カ月の“子供の失踪”を知っているか?──それは国が仕組んでいる。市民の噂では“子供が消える夜”ってやつだ」


 オリヴィアの眉がぴくりと動く。

 「……どういうこと?」


 「さらに百年の繁栄を得るために、新たに子供を贄にする契約を画策してるんだよ。百年前と同じように」


 オリヴィアは息を呑んだ。


 「そんな契約……悪魔が応じるはずない」


 「その通りだ。悪魔の力を借りて叶えた願いは、それで終わらない。成就の後に必ず相応の罰を受ける。罰を受けずに延長なんて、矛盾することは出来ない。」


 「じゃあ……なぜ?」


 フィンレイの笑みは皮肉に歪んだ。


 「子供が死ねば、未来は消える。国は衰退し、民は緩やかに滅ぶ。元々が百年の栄華の後には国が滅ぶという罰を織り込んだ契約だ。契約に反していないんだよ。だから天界も魔界も介入しない。」


 オリヴィアは、冷たい水を浴びせられたような感覚に襲われた。


「そういうリアクションが一番困るな……。」


ただ涙が止まらなかった。これがどのような感情なのか分からなかった。

誰にも助けてもらえない子供たちを想うと──。


「……? おい、おいオリヴィア? オリヴィア‼︎」


「オリヴィア様の部屋から男の声が……っ誰だ!オリヴィア様、失礼!」

シャーロットが飛び込み、フィンレイはその前に消えた。


「オリヴィア様、今誰か……。オリヴィア様⁉︎オリヴィア様‼︎‼︎」


 オリヴィアは急激な体調の悪化に伴い、王都の貴い方々用の病院に移された。


 意識が戻ったのは七日後だった。

「高度医療魔法って凄いのね……」


フィンレイの話を信じてくれる人などいない。そもそも話せる内容でもない。

 ──つまり、止められるのは自分だけ。


(身体が少し良くなったからかしら。思考もまともになったわね)


 窓の外では今日も雲が重く垂れ込め、時計を見なければ朝と分からず、明かりを灯さねねばならないほど暗くなっていた。

 その色は、魔界の夜を思わせる。


(きっと向こうもーーあのクソ馬鹿たちも急いているわね。)


「急がないと」

弱気になる暇などないのだ。


ーーーーーーーーーーーーーー


 夜、オリヴィアは物陰から魔術を放つ。黒い霧が子供を拐う犯人たちを包み、意識を奪う。

記憶を読み取る術を使い、彼らが大祈祷のために子供を集めていること、その儀式が九日後の夜、城下の古い地下儀式場で行われることを知る。


 さらに、地下水路を通れば儀式場に忍び込めるという断片的な映像が脳裏に流れ込んだ。


 (……大祈祷なんてもっともらしい名前を付けて……予言の乙女とやらは知っている筈なのに…この悲劇を止めようとはしないのね)


 犯人の額には封印の紋を刻む。二度と人間らしい眠りも安らぎも得られぬ罰――生きながら地獄を歩ませる呪いだ。


ーーーーーーーーーーーーーー


 病室に戻ると、窓辺にフィンレイがいた。

 シャーロットはオリヴィアの細工で眠ったままだ。


 フィンレイはいつものにやけた笑いもなく、真一文字の唇のまま、無言でオリヴィアを見下ろした。


 悲劇に巻き込まれた、たった十五歳の少女。


 悪魔は、世界のシナリオに干渉しない。フィンレイの階級ならば尚更。元の大契約をーー国の滅びに影響することも出来ない。

 子供の絶望を止める力がない。


 「……お前は何がしたい?」

フィンレイの声は、なんだか艶も力もなかった。


「“本当の”家族の元に帰りたい……」

オリヴィアは疲れきった声で素直に答えた。


フィンレイはふっと煙のように消えた。

オリヴィアは一層枕に沈み、そのまま深く眠り込んだ。

ーーーーーーーーー


 大祈祷の当日。

 それは獣が息を潜めているような沈黙だった。外縁から順に夜灯が落とされ、今や王都と言うより森の中のように真っ暗だった。


 儀式場の吹き抜けを囲む回廊。

 オリヴィアは暗がりに身を寄せ、息を整えた。

 中央で檻に入れられた子どもたちの肩が痙攣のように震えている。


 魔法陣の外側に並んだ国家魔術師達が低い声で悪魔召喚の詠唱を始めた。赤い血の紋がギラギラと輝いた。


子供たちが恐怖に泣き叫ぶ。


床に敷き詰められた石の隙間からごぼごぼと泡立つ何かが溢れ出す。


 王族席の中央、老王は座したまま、虚ろな目で儀式を見ている。


 アルヴェインは些か疲れているようだが、満足気に口元が微笑んでいた。その横にいるアイラは、アルヴェインの美しい容貌に見惚れていた。


(最低ね。)


 「開始」


 主神官の低い声。赤い円陣が一斉にに輝き、甘い香りが放たれそしてーー。


強烈な爆発音が鳴り響いた。魔法陣に沿って地面が捲れ上がり、石床は砕けて飛び、もうもうと煙が立ち込めた。

「何だこれは⁉︎」

「失敗です!儀式に失敗しました!」

「おい!贄の子供は無事か?!死んだら儀式のやり直しが…」


 オリヴィアはわざと踵を踏み鳴らし、回廊から堂々と歩み出た。靴音が石床で高く鳴る。視線が一斉に集まった。


 「贄の子供? それにやり直しですって…? そんなもの即刻中止なさい」


 オリヴィアは銀の髪を長く垂らし、まるで月の女神のように凛として美しく立っていた。


 王太子の婚約者時代のように高価なドレスではない。せいぜい豪商の娘が着るような薄い水色のワンピースだ。だがそれでも何かが彼女を高貴な存在だと裏付けていた。


 オリヴィアを見留めたアルヴェインの顔が引き攣った。闘犬のように犬歯を剥き出して叫ぶ。

「オリヴィアぁああああ!まだ邪魔をするか!」


「王太子アルヴェイン殿下ではないですか。まさか多くの子供を贄にした儀式をあなたが主導されたのですか?」


 「知っているぞオリヴィア!“子供が消える夜”を邪魔して己の名を上げるために利用したな!」

「何のことでしょう、殿下。まさか全国的な子供の失踪は、この儀式の贄にするために王家主導で行われたことですか?」


「知っているくせに!我々が表立って動けないことを良いことに、そうして自分のことばかり見て、“国のことには目を向けない”!

こうしなければ国が滅ぶのだ!だから…」


「…だとすれば、そんな国、滅んだ方がマシですわ。未来ある子供の命を悪魔に捧げて、自分たちだけ抜け抜けと幸せを謳歌しようだなんて…その方がよっぽど悪だわ。」


「そんな理想論で…!民を救えるか!」

「民とは子供たちであり、その親ではないのですか?…ねえ、予言の乙女様」


 不意に話題を振られ、アイラは扇で口元を隠した。オロオロと目を泳がせるが、全ての目がアイラを見つめている。

 「え…あ、あたし、オリヴィア様はどうして邪魔するの? 国のための祈りなのに…」


 「祈りじゃない。殺しよ」

 オリヴィアの声は冷たかった。


「で、でもアルヴェイン様が国のために必要だって」

「じゃあ、あなたも子供を拐って残酷に殺すことに同意したのね?」


「う、いや、そんなの知らない…。」

「檻に入れられた子供たちを見て、魔法陣が血で描かれるのを見ていたのに?」

「え⁉︎あの赤いの血なの⁉︎やだ、気持ち悪い‼︎」


 「〜〜っ!、ヴァルド‼︎」


苛立ちを隠さぬ怒声でアルヴェインは、権力の悪魔を呼び出した。

 途端に全員の視界にヴァルドが見えるようになった。最初からそこにいたかのように、ヴァルドは魔法陣の上、オリヴィアのすぐそばに立っていた。


その場の誰も声に出さなかったが、どよめく空気が波のように伝わった。

(……この気配…悪魔⁉︎ あのバカ悪魔と契約していたの⁉︎)


 ヴァルドは軍人のような直立不動で、アルヴェインを真っ直ぐに見つめていた。


 「お呼びでしょうか?殿下」

 「丁度良い。そこの女、オリヴィア・エルフォードの思考を操れ!そこで首を切って自害させろ!」


(まずい!)

オリヴィアが護符を胸にぎゅっと抱きしめた。


 だがヴァルドはオリヴィアの方を見もせずに淡々と告げる。

 「何故私がそんなことを?」


「ーーは?」

アルヴェインは顎が外れそうなほど口をポカンと開けた情けない顔を晒した。


「何故私がそんなことをする必要があるのですか?」


「きっ、貴様、私を支えると言ったではないか!」

そこで初めてヴァルドは表情を崩した。悪魔らしい、歪んだ笑みだった。


「いつそのようなことを?私があなたのために殺しをすると?あなた“なんか”を善意で支えると?」


どよめきの波は嵐のように加速した。ヴァルドは嗤いながら続ける。


「私は大まかな条件を示し、貴方の同意を得て段取りを進めた。だが貴方を無条件に支えるという語は、一度も口にしていない。アルヴェイン、“お前”が勝手に都合良くそう理解しただけだ」


 老王の顔が死人のように蒼白になり、皺だらけの両手で顔を覆うと「おお、おぉ……」と呻き出した。

まるで誘導されていた思考の霧が晴れ、自身の罪を今認識したかのように。


 アイラがキョロキョロと落ち着かずにあちこちを見回し金切り声を上げる。

 「ねえ…、ねえ私は関係ない!こんな怖いの、私は知らない!ねえ帰って良いでしょ⁉︎ 私帰る!」


しかし儀式の完了まで、危険なため誰も外に出してはならぬと王命が下っている軍人たちは、アイラを通そうとしない。


 「誰でも良い!命令だ!あの女を拘束しろ!」

アルヴェインの叫びに、近衛の列が一拍遅れて動く。


 困惑した表情を浮かべながら、オリヴィアに近づく。

オリヴィアも護符を押さえながら、魔力を集中して集めていた。


 「おい!早くしろ‼︎これは次期国王の命令だ!“こんな儀式に参加したお前らだって同罪だろう”‼︎‼︎

そいつが何かするのを見逃すなら“お前らの家族に影響が出ても良いんだな”‼︎」


その言葉によって、近衛だけでなく、儀式に関わった廷臣や神官、国家魔術師といった者たちが一斉にオリヴィアに飛びかかった。

オリヴィアが震えながら絞り出した薄い結界が揺らぐ。


「手伝いましょうか?」

陰からコツコツと靴音を響かせて現れたのは


(フィンレイ!)

結界の維持に歯を食いしばっているオリヴィアは声が出せないまま、瞠目した。


「フィンレイ様!」

助けを期待して甘い声をあげたのはアイラだ。


「フィンレイ様!私を助けて!いつもみたいに!」

アイラが涙を浮かべて両手を合わせ、フィンレイに

可愛らしくお願いした。

「いつものように、悪魔の私の手を借りたいと?」


「……え?」

アイラもまたポカンと間抜けな顔を晒した。


「特殊な遺伝や環境を除いて、人の身で他人の思考を誘導することなど出来ない。」

「え?あ、だから、あなたがそうなんじゃ…だって。」


「王太子の側にいるため、オリヴィア嬢と婚約吐き出せるよう誘導したり、オリヴィア嬢への嫌がらせを隠蔽しオリヴィア嬢を悪役にしたてたり…そうあなたの周囲が上手く動くように、いつも私が動いていたのは確かだが、

私がいつ特殊な人間だなんて言いました? なあヴァルド。」


全員の視線がそこで、気配を消していたヴァルドに向く。


「ああ、お前はそんなことを言っていないさ。我々悪魔は嘘は吐かない。」

ヴァルドは口角を切り裂いたような獰猛な笑みで答えた。


「待て、ヴァルド、おま、お前は悪魔なのか…?」

事態に追いつけないままアルヴェインが王族席から身を乗り出す。


「当たり前だろう。まともな人間が、他人の思考を都合良く誘導する代わりに血を要求するか?」

「だって…」


「ああそれと、無垢な子供の大量虐殺という願いに対して、子供のまじない程度の血で済むとでも?」


「嘘だ!だって、そんなこと、一言も……‼︎」

「言ってはいないが、嘘も吐いてはいない。王族ならばその血の価値くらい分かっているだろうに。何も訊かなかった“お前が悪い”」


「父上‼︎父上助けてください‼︎‼︎お願いです…お願いします!嫌だ!怖い‼︎」

涙や汗や洟水でぐしょぐしょのアルヴェインが、小さな子供のように父親の脚に縋り付いた。だが正気を取り戻した王はそれを文字通り蹴り飛ばした。


「…怖いだと…?己の血を差し出す事が怖いだと…?それを、今さっきここで、子供達に強いていたお前に、そのようなことを言う資格はない‼︎‼︎」


王は両脚でしっかりと立ち、息子と契約した悪魔を睨みつけた。

「悪魔よ、私の思考を誘導したな」

「ええ、貴方の息子の願いでね。だが洗脳ではない。貴方の眼が息子可愛いさに曇っていなければ、思考も曇らなかった筈だ。貴方に苦言を呈する臣下もいたでしょう。」


違和感はあった。だが、息子に手柄を立てさせたかった。言い訳にはならない。


「そうか…。私は間違えたのだな」

「ええ、恐らくは。」


 アルヴェインはなおも食い下がる。

 「これは国のためだ! 百年の繁栄のため、わずかな犠牲を――」


 「“わずか”ね」

 オリヴィアの声が小さいにも関わらず場に響いた。


 「あなたは自分のために、国の未来である子供たちとその親たちの幸せを全て差し出すところだった。それが“わずか”なのね」


 オリヴィアの指が空中の何かを連打する。

 そのとき、天井で黒い風が渦を作りながら鳴った。


 オリヴィアは掌を天に向けた。黒い膜がぱん、と弾け、大きく穴が空いたように夜空が映る。


 ――王都の空に、儀式場が映っていた。

 路地で、広場で、ベランダで、人々が息を呑んでいた。


 「王太子アルヴェイン殿下、貴方の言う未来のための“わずか”な犠牲が、民に受け入れられるのか、判断してもらいましょう」


老王が愚息の首根っこを掴んで、儀式場の石床に叩きつけた。


 王は威厳をもって進み出る。重い声が堂内を満たした。

 「……大祈祷は中止。子を集めた者、命令書を改竄した者、王家の名を私用した者を拘束せよ。――王太子ーの名は剥奪する。アルヴェインとアイラは独房に入れておけ。民に詫びと、全てを明らかにすることを約束する」


 王は空中に映る国民に向けて深く頭を下げた。


 その瞬間、天井の鏡が波打つ。

 オリヴィアの視界の端が黒く欠けた。

 (……しまった、気が抜けてしまった。駄目、まだ――)


 天井が何も映さなくなり、オリヴィアの身体が傾ぐ。

 「っと」

 結界を壊し、フィンレイの腕が素早く支える。

 「オリヴィア様!」

  周りの近衛が王城の医室へ急いで運ぶ。


 フィンレイとヴァルドは誰にも気づかれずに、影に溶けて消える。


 やがて、王都の路地裏で、戸口の灯の下で、泣き疲れた母の腕の中に、――子どもたちは親の呼ぶ声に導かれるように戻っていった。


 「……ミラッ!嗚呼ミラ!」

 「……おかあさん……」

 露のように微かな“ただいま”。母は娘を抱き締め、大声で声で泣き、父はその上から二人を抱き締めて泣いた。


 国中で歓喜の声が朝まで続いた。


「聖女オリヴィア様!有難うございます‼︎」

そしてオリヴィアへの感謝も。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 王都の朝は薄く濁っていた。

 倒れてから七日、オリヴィアは静かに目を開けた。

 身体は鉛のように重い。けれど、耳はよく働く。廊下を行き交う足音、扉の向こうで押し殺した声、紙の擦れる音。


 オリヴィアは魔力を振り絞って情報収集に力を注いだ。


 細い細い糸のようにあらゆる場所へ意識を向ける。


 追い詰められた王太子や、その後援であるエルフォード家が、オリヴィアを殺そうと目論むことが十分に考えられたからだ。


 情報は渦水のように集まる。王太子は言い訳に追われ、王は塞ぎ込み、……エルフォード家は――動いた。


「嗚呼……。」

初めに浮かんだ感情は、「やはりそうだった」という諦めだ。

 (分かっていたわ。そういう人達だって…)


(駄目ね、オリヴィア。しっかりしなさい、あなたは悪魔の娘よ。)


「私を“元に戻す”つもりね。人格を剥ぎ、ただの器にする。――なら。」

 胸の底で、氷のように澄んだ決心が固まる。

 この儀式を、利用する。

 自分の魂を魔界へ帰還させるために。そして、儀式そのものは失敗するように仕込む。


(愚かね、人間。あなた達のお陰で私の帰還が早まるわ)

オリヴィアはくすくすと笑った。けれどその眦からは涙が溢れていた。


(今までで一番苛烈にしてあげる‼︎

貴方たちが最も厭う方法で罰してあげるわ!美しさに固執する母上も王太子も見るも無惨にしてあげる!

父上、エルフォード家はおしまいよ!あなたのせいであなたの代で、エルフォードの名は地の底に落ちるの!

ああアイラ、子供たちを救う力を持ちながら遊び回っていたあなたに、子供たちの痛みを味わわせてあげる!)


 オリヴィアは両親にも王太子にも、これまで感情を向ける価値すらないと思っていた。


オリヴィアにはもう、魔界に“本当の家族”がいる。

(けれど――私が本当の家族の元に帰ることすら邪魔をするなら、話は別よ。)


ーーーーーーー


  ――夕刻、地下牢。

 看守の交代の隙に、囁きがしみ込む。

 「殿下、こちらへ」

 現れたのは、エルフォード公爵家の側仕えと王太子派の貴族たち。

 「このままでは殿下も我らも終わりです。弁明の機会は過ぎてしまいました。とにかくここを出ましょう」


 枷が外れる金属音。

 彼らは人目を避ける地下回廊を抜け、闇に紛れて運び出された。


 夜。エルフォード家の応接間

 王都でも指折りの旧家だが、今は王太子派であることが枷となっていた。


 公爵とエルフォード家お抱えの魔法使い。

 王太子とアイラが呼ばれたが、話し合うほどのこともなく、密談は短く終わった。


 「ではオリヴィアの人格を封じ、再び王家とエルフォード家のへの忠誠を誓わせましょう。――聖女だ何だと持ち上げられて勘違いしているあの女が我々に付くと言えば、皆ころっと手のひらを返す。それで立場は守れる」


 アルヴェインはあっさりと頷いた。

 アイラも頷いた。内容は半分も分からない。ただ“殿下に必要とされている私”に頷いた。


 だが、老魔法使いの話は終わっていなかった。

 「前回は、魂の総量が不足した。動物だけでなく、補填が必要だ。……前回は偶然にもオリヴィア様自身の魂の一部で補ったが、今回は……」


 その目が、ゆっくりとアイラを射抜いた。

 「予言の乙女の魂なら丁度良いでしょう」


 アイラの喉から乾いた音が漏れる。

「え?」

 視線は王太子に向けられる。

 「殿下……」


 「国のためだ」

 即答だった。

 

アイラの微笑は、カンバスから滑り落ちた絵の具のように崩れた。


ーーーーーーーーーーーーー

 ――その夜、オリヴィアは裏稼業の者たちによってエルフォード家に運ばれた。


 回復のために使われた薬は強く、意識はあるが身体は思うように力が入らなかった。手指や腕を動かすだけで重く、熱による息切れが更に悪化した。


 円形の儀式場。床には動物の血で陣が刻まれ、壁には古い呪文の痕の上から新しい呪文が重ねられている。


  鎖が二組、対角線上に吊られた。ひとつは力の抜けた身体――オリヴィア。もうひとつは蒼白にこわばるアイラ。


 アイラはブルブルと震え、涙がボロボロと溢れている。目が見開かれ、落ち着きなく辺りを見ていた。息は粗く、恐怖に声も出ない様子だった。


 (呆れた、アイラまで捨てるのね……)

 オリヴィアは半眼のまま、床に刻まれた陣を確認する。献供式の縦糸に、締結式の横糸が重ねてある。


 (なら、“返り火”が効くわね)

 掌の傷を爪で開き、咳のふりをして唇を切り、その滴を巨大な魔法陣の線の交点へ落とす。


 (わたしの魂が身体から離れると同時に、術の対価が贄ではなく、施術者と“署名者”に返送される。――署名者である王太子と、両親へも)


 呼気を細く吐いた。返し紋を刻むだけで、もう少しも動くことが出来ないほどに疲れてしまった。


 (駄目よ…しっかり完了を見届けないと…。やり遂げてみせるわ。やっと帰れるのよ、オリヴィア)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 魔術師が儀式の開始を告げる詠唱をした。

 

「それでは悪魔に捧げる絶望のため、殿下、予言の乙女を」

そう言って装飾されたナイフを渡す。


 アイラは王太子の様子を見て、やっと洞察力を身につけたようだった。

「殿下…私を愛してない…」


 「? お前を愛したことなど一度もないよ」


 まずは血、次に肉。

 最早少女のものとは思えぬ、獣の咆哮のような凄まじい悲鳴が石壁を震わせる。

 アイラは悲鳴と悲鳴の間に何度も「殿下」と呼んだ。もう返事もなかった。

 アルヴェインはナイフの柄を固く握り、魔術師の指示どおりに刃を傾ける。


  やがて、アイラの瞳から光が抜けた。

 

 アルヴェインはやり遂げたとでも言うように額の汗を手の甲で拭った。


 次が、オリヴィアだった。


 オリヴィアは静かに目を閉じる。


 (ざまあみろ、ざまあみろ!ざまあみろ!ざまあみろ‼︎わたしの帰還を邪魔する者には、相応の“支払い”を‼︎‼︎)


 魔術師が人格を封じるための詠唱を始めた。


 術式が魂を掬い上げようとした刹那、送り火が発動する。


 魂は流星のごとく白く輝き、その残滓が雪の舞う中で、魔界へ旅立った。その器は静かに壊れた。


 人形にする前に、オリヴィアは“こちら側”からいなくなっていた。


 陣が悲鳴を上げた。

 予定された道筋を魂が通らず、魔力が魔法陣の下で渦を巻く。

 そして、返し紋が発動した。


 魔術師、王太子、エルフォード夫妻の皮膚が音もなく波打ち、両手足の指から黒い亀裂が走る。


 腕や脚、頭の皮は亀裂からバナナの皮のように剥けると、蝋のように垂れた。顔全体が裏側から押されているように膨張した。瞳は濁って突き出し、歯列は外へ覗く。

 耳と鼻、歯はぽろぽろと剥がれ落ち、地面へ落ちた。


 子供の組み立て人形のように。


 贄に肩代わりさせる筈だった“契約の代償”が、施術者と署名者へそのまま返送されたのだ。


 二目と見られぬ醜い姿。

 凄絶な痛み。


だがきっと、この国の整形医療魔法と高度医療魔法なら、命を繋げることだろう。

今ここで死ぬ方がマシだったとしても。


 陣が爆発し、壁が飛ぶ。大きな音は周囲の人々を叩き起こし、何かがあったことを知らせた。

ーーーーーーーー

 そして、オリヴィアの魂は、堕ちた。

 深い深い夜の底へ。

 温い水のような何かに身体が包まれ、耳の奥で鼓動が遠のき、重さという概念がほどけていく。髪の毛一本でさえ、もう誰のものでもない。


 その最果てで、温もりが待っていた。

抱きとめる腕。

 決して太くはないのに、世界を丸ごと受け止められるような腕だった。


 「……戻ってきたのね」

 ノクティレアがいた。

 闇の中できらりと光る赤の瞳、夜より深い黒髪が頬に触れ、ほんのすこし甘い匂い――幼い日に胸の奥へしまい込んだ記憶が、ふっと開く。


 彼女は震えるオリヴィアの頬を優しく撫でて、固く抱きしめ、頬を寄せる。


「ーーっ母さん……‼︎」

 

 ノクティレアは頷き、泣いた。

  「よく生きて、よく抗った。おかえり、私の大事な娘」


 胸に引き寄せられた瞬間、抑えていた涙が堰を切った。

 「母さん……!母さん……‼︎」

 嗚咽が止まらない。オリヴィアは幼い日のようにしゃくり上げて泣いた。肩が震え、喉が詰まる。誇りも矜持も、そんなことはどうでも良かった。


 ノクティレアは黙って頷き、オリヴィアの額に優しくキスをした。

 オリヴィアが胸の奥に溜め込んでいた後悔や怒り、孤独や誇りがすべて解けていくのを感じた。


 (やっと……帰れた……)


 疲れ果てていた、けれど母の腕の中はあまりに暖かかく優しかった。

 オリヴィアは声を枯らして泣き、涙で濡れた顔を隠すこともせずに、ただ母の胸に縋り続けた。


ーーーーーーーーーーーー

 オリヴィアの生家であるが、王太子派であることから、家を捜索させてほしいと門番に頼んでいた警官たちは、突然現れた爆発音と家屋の揺れによって怪我をした使用人の対応をしていた。


門をガシャガシャと掴み、開けてくれ!と何人もが縋っている。

「旦那様が!旦那様と奥様が、儀式場で魔術師と何か行っています!痛い!早く開けて助けて!」


「オリヴィア様が!オリヴィア様が生贄に!怪しい男たちがオリヴィア様を儀式場に運び込んでいました!」


「何だと⁉︎」


 聖女として国を信じられなくなった人々の心を繋ぎ止めていたオリヴィアの死。


 殆ど信じている者はいなかったが、それでも予言の乙女として祀られたことのあるアイラの無惨な死。


――二つの喪失は、崩れかけていた柱を一気に折った。


「子の血で繁栄を買う者に、王冠は似合わぬ」


 裁判判決は早かった。王と王太子、エルフォード公爵夫妻、エルフォード家の魔術師は斬首刑となった。


 王も車椅子に乗っての裁判だったが、他の四名は悲惨であった。このまま楽に死なせてはならぬという医師たちの執念とも言える治療のおかげで、死ぬほどの怪我ながら生きていた。


 痛み止めの効き切らない全身の痛みを抱え、無くした皮膚を補う薬剤ジェルを塗りたくり、裁判の間は辛うじて病衣に近い布を着けているような状態だった。


 息を吸う度に喉と肺が痛む。それでも必死にエルフォード夫人は訴えた。

「殺して…早く殺して…」


罪状とともに名が読み上げられる。


 処刑の日、広間は祭りのような熱気と人で埋まった。刃が鈍い光を吐いて落ちる。


首が石畳に転がるや、民衆は石を投げ、歓声を上げた。

長年押し殺してきた憤怒が、ついに行き場を得たのだ。


 アルヴェインだけは異質だった。斬首台前で民の投石が幾つも当たり血を流していた。そろそろ執行の邪魔になるというところで、係が民衆を押さえると、その時、アルヴェインの身体から赤い煙が立ち上った。


「ぎゃあああぁあぁああああああああ!!!!!」


喉から血を噴くような絶叫に、広場中がどよめいた。

アルヴェインの頭上には大きな蝙蝠のような翼の悪魔が、嗤いながら浮いていた。


「殿下、後払いとは言え、死ぬまでには払っていただかないと……」


身体中の血液を搾り取られたアルヴェインは枯れ木のようだった。

係が両脇を支え、抱えるようにして、まだ息があるのを確かめた。

「まだ息がある…!」

「良かった!」


アルヴェインの目が笑顔の係を捉えて新しい涙を浮かべた。


「死なれちゃ執行できないもんな」

そう言ってアルヴェインの首を断頭台に置いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 混乱の匂いに敏い者は多い。北の強国は海を埋めるような軍艦でやって来ると、次々に街を占拠した。


 王国軍は統率が取れず、王都も王城も、ほとんど抵抗する間なく占拠された。


 そこからが、予想外だった。


 強国は旗を立てると同時に刃を収め、略奪を禁じ、むしろ倉庫の中身を国民に行き渡らせた。街道の要所には診療所が設けられた。


「まさかこんな有り様とは…奪ったところで国民と領土が使い物にならなければ意味がない…。」

「今のタイミングで国民に施せば、反感を抱かれず、後の反乱分子を減らす事が出来て合理的ですね」


北の国王と側近はそんなことを言いながら、占拠した街の様子を馬車で視察して回っていた。

 広場の銅像は撤去され、古い紋章旗は外されたが、暮らは目に見えて良くなっていく。


 川に魚が戻り、干上がった畑に作物が実り、盗賊狩りで交易路は安全を取り戻す。

 昼のパンは香ばしく、夕暮れには路地でスープの湯気が立った。診療所で子どもの咳が減り、学校を増やそうという動きも出てきた。


 人々は笑い、そしてやっと安心して眠ることが出来た。

「支配」という言葉の裏側に、確かな安定があった。


ーーーーーーーーーーー

 何故こんな平和な支配があったのか。


 ――北の大国が攻め込んだのは海からだった。王都の外れ、王家の別荘は、大国の攻撃対象に丁度良かった。


 砲撃により眠っていた魔界門が、音もなく輝きを帯びた。


 門はオリヴィアの指輪の石から絶望を受け取り続けていた。魔界門はそれ自体が魔法陣だ。

 オリヴィアの「親に二度目の生贄にされる」という深い絶望により満たされた後、悪魔の召喚もしくは門の通過を希望する者を待っていた。


 轟音を儀式の開始と見做した門は、その黒く複雑な紋様が薄金に脈打ち、月のような光が静かに広がっていく。


 やがて、門はエラーを示した。

 ――該当する魂が存在しません。


 オリヴィアの魂は、すでに魔界へ帰還している。帰還の願いは叶えられない。鍵穴は怯えた蝶のように震え、次の選択肢を探した。


 悪魔の課題を乗り越えた者への報酬として、門は「帰還」以外の願いを参照する。最後にこの世界で彼女が抱いた祈り――「子どもたちを救いたい。」


 光が、ふっと強くなった。吸い込んだ絶望は同量の“庇護”へと変換され、網目のように王都の上空へ広がった。


つまり強国の支配に人道的な救いが宿ったのは、オリヴィアが願った「弱き者を守る未来」が、見えない防壁の形で街に降りたのだ。


 人々は理屈を知らない。けれど、誰もが感じ取った。

 ――この国は守られている。聖女オリヴィアに。

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