大人 愛莉珠の場合
「アリスの世界にご招待♡ アリスの世界に閉じ込めちゃうぞ♡」
「……」
キラキラしたステージ。
暑苦しくて騒がしい客席。
とても遠い存在になってしまった……
「先輩疲れたー、ひざまくらー」
「わけでもないんだよな」
高校を卒業してからもちょくちょく会ってはいて、社会に出てからも愛莉珠とはそれなりに会ってはいた。
だからそんなに驚くことではないけど、愛莉珠は今アイドルをやっている。
正確にはメイド喫茶を経営して、そこのオーナー兼トップメイドアイドルという謎の仕事を。
「今日は膝枕していいのか?」
「先輩は変態だから私の汗の匂い嗅ぎたいでしょ?」
「ありすの汗の匂いって言うけど、俺が来る前に体拭いて着替えまでしてるじゃん」
「そんなに嗅ぎたかったのかー、変態だなー」
「嗅ぎたいとかはないけど、ありすの匂いに不快なものを感じたことはないよ。そもそも『アリス』はアイドルだから汗なんかかかないんだろ?」
「誰のことだかわかんなーい」
愛莉珠が俺のお腹に顔を押しつける。
愛莉珠は『アリス』を好き好んでやってるわけではない。
メイド喫茶を始めてすぐの時に何をしたらお客を集められるか考えて、なんとなく始めたのが『アリス』というアイドルを作ること。
愛莉珠が童顔なのもあって不思議の国のアリスをオマージュしたアイドル活動で集客できてしまったから今も続けているらしい。
「でも実はアイドルのあーちゃんよりも」
「たまに来る『ハートの魔王』を見たりーちゃんの方が人気あるんですよね」
「二人は久しぶりだな、心彩と詩彩」
事務室の扉を懐かしの双子が開けて入って来た。
水色の髪留めをした心彩とピンクの髪留めをした詩彩が。
「うわぁ、先輩との謳歌を邪魔する不審者が来た。先輩、警察に電話」
「そんなことしたら俺が捕まるから」
俺はこの店の人ではないから本来ここに居てはいけない存在だ。
だから不法侵入と言われたら何も言えなくなる。
そんな俺とは違い、心彩と詩彩はれっきとしたこの店の従業員である。
愛莉珠がメイド喫茶を始めると聞きつけた二人が決まっていた就職先を蹴って、三人で始めたのがこのメイド喫茶。
「あーちゃんのツンデレは昔っから直らないね」
「まあそこが可愛くて好きなんだけど」
「私がいつあんた達にデレた」
「あ、そっか」
「そうそう」
「は? 何、あんた達ついに私に薬でも盛ったの? ちょっと本気で警察に電話しなきゃじゃん」
愛莉珠がスマホを取り出してほんとに警察へ電話しようとしたのでスマホを取り上げて止める。
「ちょっと、先輩は犯罪者の手を持つの?」
「確かに心彩と詩彩はありすに自白剤に似たものを飲ませたよ」
「ま、まさか先輩もグルで、私の記憶が無くなるのをわかってたから私を……」
愛莉珠が自分の体を抱きながら身を引く。
そしてすぐに戻って来る。
「私ってお酒飲んだことあるっけ?」
「つまりそういうことだよ」
「マジですか。もしかして水色とピンクがこの店でお酒禁止してるのって」
「何かの間違いであーちゃんの口に入ったら死者が出るから」
「それとあんなに可愛いりーちゃんを見ていい男の人は先輩だけだから」
なんとも光栄な権利を貰ったけど、あれはちょっと刺激が強すぎるからあまり見たくない。
「ありすがありすになるんだよな」
「どゆこと?」
「懐かしさがね。なんで変えたの?」
「一人称の話なら聞かないからね。あれは若かりし頃の汚点だから」
愛莉珠が渋い顔をしながら言う。
愛莉珠はいつからか一人称が『ありす』から『私』に変わった。
アリスの時は『アリス』と言うけど、基本的に愛莉珠が自分のことを名前で呼ぶことは無くなり、自分のことを名前で呼ぶのを嫌がっている。
「結局主人格はそっちなんだっていう」
「大人になってまで自分のことを名前で呼んでるのとか引くでしょ」
「心彩と詩彩を見習え。周りの視線なんて気にしてないぞ」
「心彩は心彩だから」
「詩彩も詩彩だから」
「あの二人と同じってのも嫌なの」
心彩と詩彩は昔と変わらず一人称が名前だ。
二人の場合はそうしないと見分けがつかないのと、入れ替わる時に都合がいいからという理由もあるらしいけど。
「ていうか、私の一人称を言うなら……」
「それは、うん」
愛莉珠が少し気まずそうに俺の顔を見てくる。
確かに愛莉珠の一人称に寂しさを覚えるけど、一人称が高校時代から変わったのは何も愛莉珠だけではない。
「先輩、大丈夫?」
「大丈夫、ではないけど、まあ、今は割と落ち着いたかな。ありすの元気な顔と、アリスの頑張ってる姿も見れたし」
「次に来るなら仕事してない時にしてよね。最高に可愛い状態にしておくから」
「今以上に?」
「誰がいつでも最高に可愛いだよ」
愛莉珠の頭がまた俺の膝に落ちる。
「ねえ聞いた? 先輩はあーちゃんを見て元気になったんだって」
「聞いた聞いた。心彩と詩彩は眼中に無いのかな? それとも可愛さ不足?」
「あんたら程度じゃ先輩を満足させられないんだよ」
「確かにあーちゃんのアイドル姿には二人がかりでも叶わないよ」
「確かにりーちゃんのあの可愛さに対抗するには心彩と詩彩も羞恥心捨てないとだもんね」
「先輩、あの双子クビにするからうちで働かない?」
愛莉珠が意味のわからないことを言い出したので頭を撫でて誤魔化す。
冗談なのはわかってるけど、心彩と詩彩をクビにして俺を雇ったとして、俺に何をさせる気なのか。
双子メイドとして人気のある二人に代わって俺が裏方に入ったら絶対にこの店の売り上げは激減する。
愛莉珠は真顔だけど、そんな真顔だと本気で言ってるように聞こえるぞ。
「先輩のメイド服姿……」
「いや、もしかしたらメイド執事喫茶になって先輩の執事姿が……」
「女性客も男性客も増えていいことしかないじゃん。よし、水色とピンクは今日をもってクビにする」
「あんまりふざけたこと言ってると怒るぞ?」
いくら冗談でもトップである愛莉珠が簡単に『クビ』なんて言うのはいただけない。
でも、そんなパワハラを受けてる心彩と詩彩が次に職について話してるのは聞こえないことにしておく。
「さすがに冗談が過ぎたね。半分ぐらいは本気だったけど、先輩は今が大変だろうし転職なんてしてる暇ないよね」
「まあ、ね……」
「うん、ごめん。よし、先輩も補給できたし私はお仕事してくるよ。次は蓮奈さんのところ行くんだよね?」
愛莉珠が体を起こして立ち上がり伸びをしながら言う。
「そだね。忙しくなければいいけど」
「お昼過ぎるとたまに暇な時あるって言ってたから運が良ければ話せるかもね」
「ありすとはこうして話せたから運はあるのかな?」
「あーちゃんはサボってるだけだよ?」
「りーちゃん先輩見つけたからって目の色変えてステージ終わらせたから」
「人聞きの悪いこと言うなし。私はちゃんと『みんなのアイドルは一旦終了して一人の為の女の子になってくるね』って猫なで声で言ってきたし」
「反応は?」
「『報われない恋でも頑張れー』っていつもの返しされたから『お前らが言うな』って素の声でいつもの返ししといた」
愛莉珠は別にアイドル(偶像)をしてるわけではない。
普段の接客で素を出すこともあるし、それを求めてやってくる常連もいるとのこと。
要は求められた姿を演じて相手の求めるメイド兼アイドルをやっている。
「帰ったら素の方でやろうかな」
「また『フラれた女の子が帰ってきたー』って言われるよ」
「それか『やっぱりファンが一番の恋人かー』とか」
「そして逆ギレのサイコフェスが始まると」
「それ以上言うならステージが客の赤い血で染まるぞ」
愛莉珠ならほんとにやりそうで怖い。
あくまで噂だけど、俺が帰った後にそういう野次が飛んできて客を本気で殴ったとか。
同意を得た上で、殴られた方は喜んでいたとも聞いたけど。
「私を犯罪者にするのと、今ここで私を抱きしめてご機嫌取るのどっちがいい?」
「その選択肢だと選べるの一つしかないじゃん」
「……サンドバッグで我慢する」
愛莉珠がしゅんと顔を落とす。
「俺にできるのはこれぐらいかな」
その頭を優しく撫でる。
俺は諸事情によって高校時代のように安易に女の子を抱きしめたりすることはできない。
膝枕や頭を撫でるぐらいならできるけど、それもギリギリのラインだ。
「機嫌直った?」
「超ご機嫌。今日は出血大サービスで猫かぶりマックスにできそう」
「それは良かったよ。頑張って」
「うん、ありす、頑張るね」
愛莉珠が満面の笑みでそう言って店に戻った。
それから少しして歓喜の叫び声が聞こえてきたからどうやらほんとにご機嫌になってくれたようだ。
後から聞いた話では、その日は過去一の売り上げを叩き出したとか。
まあ、そんなことは知らない俺は蓮奈の元へ向かうのだった。




