盤上のミノタウロス3
10歳を迎えたミノタウロスに、願ってもないチャンスが舞い込んだ。
“大公”という、この国で一番偉い人が書庫の整理をしたいらしく、
その労働力として貴族の屋敷から奴隷を借りて回っているそうだ。
そんなのは自分の所の奴隷にやらせればいいと思うだろうが、
つい最近1人が脱走を図り、連帯責任で全員処刑されたらしい。
大公に頭の上がらないヴィゼル卿はこれを快く受け入れ、
自身が飼っている7匹の奴隷を喜んで差し出したのである。
ちなみに彼らは全員10歳前後だが、
べつにヴィゼル卿にそういう趣味があるわけではない。
大人よりも従順で扱いやすく、たとえ反逆されようとも力で抑え込める。
そういった理由で子供の奴隷しか飼わない貴族はそれなりに多い。
それはさておき、ミノタウロスにとってのチャンスとは、
これでようやく文字を覚えられるかもしれないという期待だった。
ご主人様や料理人たちに文字を学びたいと懇願しても拒否され、
それが奴隷に余計な知恵をつけさせたくないという意図だと理解していた。
だが、書庫の整理ともなれば絶対に本を手にすることになり、
必然的に文字と触れ合う機会ができる。
ミノタウロスには、それだけで充分だった。
ボードゲームのルールを理解したあの時のように、
本に書かれている文章からその法則性を導き出し、
耳から入ってくる情報に照らし合わせて当て嵌めればいいだけだ。
しかし、そう上手くは行かなかった。
作業に参加する奴隷には『本の中身を見るな』という制約が与えられ、
作業奴隷たちがそれを破らないよう見張るための奴隷が配置され、
更に、その監視奴隷を監視する人間が配置されたのだ。
総勢3000人による大仕事。
それはただ、大公がなんとなく『同じ色の本を棚に並べたい』という、
ぼんやりとした理由で始めた暇潰しであった。
作業奴隷たちは言われた通り同じ色の本を集めることに徹し、
そのジャンルや巻数などは一切無視して作業に取り掛かった。
監視奴隷が見ているので、本の中身を見ることは不可能な状況。
それでもミノタウロスは諦めなかった。
本の表紙に書かれている短い文字。題名。
彼は、それらを全て暗記することに集中したのだ。
それから、生まれて初めての敷地外との往復において、
彼は道中の風景を事細かに観察していった。
食器の絵が描かれているあの看板は、おそらく食事を提供する店だろう。
それならば、一緒に書かれている文字は『食堂』の可能性が高い。
だが、店から出てきた男性は酔っ払っていて、時刻は夜だ。
だとすると、『酒場』の可能性もある。
あの店の前には布面積の少ない女性が立っていて、
スケベそうなおっさんたちがどんどん入ってゆく。
だとすると、あれは性的なサービスを行う店なのかもしれない。
そのような推理を重ね、わずか5日という短期間で彼は成し遂げた。
ミノタウロスは、現代言語の解読に成功したのだ。
『ショクドウ』、『サカバ』、『ソープランド』。
少ないヒントから文字を当て嵌め、最も合理的な解釈をした結果、
精度100%の答えを求めることができたのだ。
ミノタウロスは満足だった。
満足するはずだった。
文字を覚えることができれば、他のことはどうでもよかったはずだ。
それなのに、心のどこかで『まだ足りない』と感じているのだ。
もっと知りたい。もっと学びたい。
それは誰しもが当たり前に持っているはずの知的好奇心であり、
それこそが奴隷の飼い主にとっては厄介な存在であった。
ミノタウロスは沈黙した。
自身が文字を習得したことは誰にも言わなかった。
ご主人様にも、料理人たちにも、そして仲間にも黙っていた。
──それから半年後、大陸全土を震撼させる出来事が起こった。
魔女の再来。
10歳の彼らにとっては当然初めてのことであるし、
“石の魔女”という存在を知っているはずもない。
屋敷の大人たちは慌てふためいているが、
奴隷の少年少女たちにはいまいちピンとこない。
その後すぐに公国騎兵隊が出陣し、無人の王国を制圧したとの報せを受け、
ご主人様をはじめとした貴族連中は大喜びしていた。
そして、そこでやめておけばいいものを彼らは欲張り、
大陸統一などという馬鹿げた理想を掲げて奴隷に武器を持たせた結果、
今まで虐げられてきた者たちの怒りの矛先が愚かな貴族らに向けられた。
これを受け、ヴィゼル卿は速断した。
「むう、なんと由々しき事態であろうか……
こうなってはもう国外退避しかあるまい!
……皆の者! 即座に荷物をまとめよ!!」
「ハッ、只今!
領民の皆々にも、ただちに伝えて参ります!」
従者は駆け出そうとするが、ヴィゼル卿がそれを引き止める。
「いや、その必要は無い
領民の奴らには、まだ反乱の話は伝わっていないはずだ
知れば不安を抱くようになり、余計な混乱を招くだけだろう
そうなれば我々の逃げるチャンスが減ってしまうかもしれん
ここは一つ、何事も無いふりをしてこっそり出て行くのが一番だ」
「なっ……まさか、守るべき領民を見捨てて……それどころか、
自分が逃げるための囮にしようと仰っているのですか!?
前々から人間のクズだとは思っていましたが、まさかこれほどとは……!!」
「何ィ!? 人間のクズだと……!?
貴様、たかが従者の分際で何を言うか!!
……ええい、貴様のような無礼者はクビだ!!」
ヴィゼル卿はちっぽけなプライドを傷付けられて憤慨するが、
従者は覚悟を決めて言い返す。
「ああ、クビで結構だ!!
俺は領民の安全を確保する!!
もうアンタの命令には従わないぞ!!」
そう言い残し、元従者は屋敷に背を向けた。
「くっ……!
この私の下で働かせてあげてやったというのに、
なんという忠誠心の無さ……! 恩知らず! 愚か者め……!
……おい、貴様ら何をしている!! さっさと荷物をまとめろ!!
あの裏切り者が領民に知らせる前に出発せねばならんのだぞ!!」
ヴィゼル卿は地団駄を踏むが、従者たちは誰も動こうとしなかった。
当然だ。
彼らは貴族ではなく、ただこの場所で働いているだけの領民なのだ。
いざという時に守ってもらえるよう高い税金を払っているというのに、
まさしく今がその時だというのに、卿は領民を見捨てる選択をしたのだ。
「俺もここを辞める!
もうやってらんねえよ!」
「じゃあ俺もだ!
家族のそばにいてやりたいしな!」
「じゃあな、クソハゲ!」
次々と去っていく元従者たちに対し、
ヴィゼル卿はただ、歯ぎしりすることしかできなかった。
せっせと荷物をまとめるミノタウロスに、1人の男が話しかけた。
「なあ、ミノタウロス……
うちはあんまり裕福ってわけじゃないが、
お前1人くらいなら養ってやれるかもしれん
……どうだ? 私の家に来ないか?」
「料理長……
お心遣いに感謝します
でも、僕はヴィゼル様についていこうと思います」
「……なぜだ!?
あんなろくでなしに忠義を尽くす必要なんて無いだろう!
賢いお前ならわかっているはずだ! 今がチャンスだと!
自由の身になりたくはないのか!?」
「自由、ですか……
それはよくわかりません
でも、ただ一つはっきりしているのは、
他の子たちは僕がいなければ生きられないということです
ヴィゼル様が役に立たないと判断すれば、即座に捨てられるでしょう
彼らを支えられるのは、きっと僕しかいません
……料理長、心配しないでください 僕は賢いので大丈夫です」
料理長にはもう何も言えなかった。
ミノタウロスは強がっているわけではない。
彼には確かな自信があった。強い意志があった。
生きる、と。