盤上のミノタウロス2
少年は“ミノタウロス”と呼ばれるようになった。
それが人名ではなく、種族名だということは理解している。
それでも『バケモノ』だの『無能』だのと呼ばれるよりはマシだと思い、
又、他の奴隷たちは種族名ですら呼ばれていないことに少しの優越感を覚えた。
夜会での一件の後、彼は特別な奴隷となった。
苦手な力仕事を免除され、今まで奴隷にはやらせなかった仕事を任された。
具体的には料理の仕込み作業だ。
いつも腹を空かせている彼らにその役割を与えれば、
つまみ食いするのが目に見えている。
しかし、ミノタウロスだけは主人から少しだけ信用されるようになり、
このまま肉体労働で使い潰すのはもったいないと判断されたのだ。
公国では野菜の皮剥きなどの雑用は新米料理人の仕事とされており、
ベテラン料理人たちがそれをこなすのは屈辱的な仕打ちだった。
しかし、ヴィゼル卿は技術の低い新米を雇う気などさらさら無い。
彼らの不満は募る一方で、調理場にはギスギスした空気が流れていた。
その現場に奴隷の少年が投入され、ベテランたちは苦い顔をした。
どうせならせめて人間を寄越せという気持ちになったが、
雇い主がそう決定したのだから、勝手に追い出すことはできない。
彼らは仕方なくミノタウロスに包丁の持ち方を教え、
とりあえずは野菜の皮剥きだけをやらせた。
「チッ、これからはこいつの監視までしなきゃならないのか
余計な仕事が増えてますますやりづらくなったな」
ベテランたちは不満を漏らしたが、その評価はすぐに変わり始めた。
最初のうちはぎこちない動きだったミノタウロスだが、
ベテラン料理人たちの包丁さばきを見て学び、
わずか半日で新米レベルにまで上達したのだ。
彼は頭が良いだけでなく、手先も器用だった。
だが、ヴィゼル卿が調理場に彼を投入した理由はそれではなく、
決して命令には逆らわず、嫌な顔一つしない性格からだ。
この奴隷には高い忠誠心がある。そう判断したのだ。
この日のミノタウロスは幸せだった。
生まれて初めて誰かから“技術”を教わり、褒められたのだ。
面白くないのは他の奴隷たちだ。
ミノタウロスだけが肉体労働から解放され、
食べ物のある場所で働き始めたという事実。
みんなきつい仕事をしてお腹が空いているのに、
あいつだけおいしい思いをしてずるい。
彼らはそう思うようになった。
少年少女たちは次第にミノタウロスを遠ざけるようになり、
初めは無視する程度だったのが徐々にエスカレートし、
取り囲んで暴力を振るうのが日常風景と化していった。
奴隷は奴隷にしか攻撃できない。
ゲームのルールと同じだ、とミノタウロスは思った。
いつも傷だらけで働きに来るミノタウロスに、
料理人たちはいつしか同情の念を抱くようになっていた。
だが、誰もそれを口にはしない。
人間至上主義のこの国で亜人種族に肩入れすれば仕事を失い、
家族に迷惑がかかり、最悪の場合、国外追放もあり得るのだ。
「……チッ、失敗だ! 焼き過ぎちまった!
おい、ミノタウロス! こいつを捨てとけ!
ただしヴィゼル様にこのことを知られるわけにはいかん!
奴隷たちで分け合うなりして、こっそり処分しとけ!」
そこには、とても失敗したようには見えない焼き菓子があった。
しかも7つ。独り身のご主人様が食べるにしては多い量だ。
調理場へ来てから半年、一度もつまみ食いなどしたことのない彼には
その焼き菓子をどうすればいいのかわからなかった。
ご主人様に知られることなく処分するとなると地面に埋めるか、
敷地外へと投げ捨てるか、野鳥に食べてもらうかしか思いつかない。
だが地面に埋めれば堀跡が出来るし、外へ投げても証拠が残る。
野鳥が来るかは運次第、どれも見つかるリスクが大きい。
「ああ、もう……食え食え! 食っちまえ!
そんで、黙ってろ! それが一番いい解決法なんだよ!」
料理長はそう命令してきた。
それならば仕方がない。現場では現場のリーダーが一番偉い。
ミノタウロスはその焼き菓子を7つ全て、口の中に押し込んだ。
「そういう意味じゃねえよお!!」
改めて状況を整理すると、料理長はミノタウロスを気遣い、
他の奴隷たちとの仲を取り持つために策を講じたとのことだ。
「しかし、そんなことをしたら料理長が危険なのでは……?」
「ハンッ!
お前に心配される覚えはねえよ!
こちとら30年以上厨房に立ってんだ!
材料をちょろまかすくらい朝飯前ってなもんよ!」
それは自慢していいことなのかは疑問だったが、
ミノタウロスはこの時、初めて人間の優しさというものに触れたのだ。
『人間こそが唯一にして至高の種族である』
『それ以外の種族は出来損ないのバケモノ』
『人間様のために働けることは光栄なこと』
そう教わり、虐げられてきた彼には衝撃的な出来事であった。
料理長は焼き菓子を作り直し、ミノタウロスに渡した。
今度は6つ。他の奴隷たちのご機嫌取りに徹しろとのことだ。
ミノタウロスの目からはボロボロと液体がこぼれていた。
その現象が“泣く”という行為だとは理解しているが、
叩かれたわけでもないのに、それが起こるのは不思議だった。
それからしばらくして、料理長の目論見は成功を収めた。
毎日のように食料の差し入れを行なってくれるミノタウロスに対し、
最初に心を開いたのは彼を率先していじめていたリーダー格の少年だった。
彼は空腹から来る苛立ちをミノタウロスにぶつけていたことを謝り、
そんな自分たちを見捨てずにいてくれることに感謝の言葉を送った。
そこからはもう、なし崩し的に子分たちもリーダーに追従し、
今までしてきた非道の数々を謝り、泣いて赦しを求めてきたのだ。
赦すもなにも、ミノタウロスは彼らを恨んではいなかった。
彼らは自分と同じ境遇だ。奴隷は奴隷でも彼らは味方の奴隷であり、
これからも共に生きていく仲間なのだ。
この時、ミノタウロスはわずか7歳であった。




