盤上のミノタウロス1
少年に名前は無かった。
彼には角が生えていた。
羽や尻尾、鱗や牙などの判断材料は他に存在せず、
ただその立派な角だけが彼を『人間か、人間以外か』を隔てた。
少年は生まれた時から奴隷だった。
彼の親も奴隷だったらしいが、顔は知らない。
それは、奴隷にとっては当たり前のことだった。
奴隷の子は奴隷。それがアル・ジュカ公国の掟だった。
獣人種は人間よりも身体能力が高いというのが常識であるが、
残念ながら彼にはその素質が無く、主人からは役立たず扱いされた。
更には奴隷の分際で文字を覚えたいだの、歴史を学びたいだの、
飼い主にとってはひたすら鬱陶しい存在だった。
そんな、いつ処分されてもおかしくない彼が生き残った理由。
それは、彼に特別な才能があったからだ。
少年はある日、主人のヴィゼル卿が主催する夜会で、
彼が一生口にすることは無いであろう豪華な料理の数々や
上等なワインを各テーブルまで運び、雑用をこなしていた。
その日の主人はボードゲームに夢中で、
バート卿と白熱の勝負を繰り広げていた。
それなりの金を賭けた真剣勝負なのだ。
どちらも負けるわけにはいかない。
そんな2人の戦いの行く末を貴族たちが見守る中、
奴隷の少年も少し興味が湧き、自分の仕事を消化しつつも
隙を見ては何度かテーブルの様子を横目で窺っていた。
どうやら7×7マスの盤上に両陣営共に14体の手駒を並べ、
先手、後手を交代しながら駒を1回ずつ動かし、
先に相手の『領主』の駒を倒した側が勝つルールのようだ。
他の駒は弱い方から『奴隷』が6体、『衛兵』が4体、『騎兵』が2体、
そして最強の『将軍』が領主を守るように前列の中央に配置される。
奴隷は前方向に1歩進めるが、相手の奴隷以外の駒には攻撃できない。
たとえゲームの中であっても反逆は許されないということだろう。
そして奴隷には特殊な性能があり、自分の領主が倒されそうな時、
奴隷を1体犠牲にすることで領主は生き延びることができる。
なぜ、領主に忠誠を誓った高貴な精神の持ち主たちではなく、
ただ生きるのに必死なだけの奴隷が命を捧げねばならないのか。
少年には疑問だった。
2人の勝負が佳境を迎えた頃、事件は起きた。
夜会の参加者の男性1人が飲み過ぎて足がもつれ、
運悪く件のテーブルにぶつかってしまったのだ。
盤上の駒は床に散らばり、ヴィゼル卿とバート卿だけでなく
観客たちもが「あ〜」と残念そうに落胆の声を上げた。
実のところ戦っていた2人は素人に毛が生えた程度の実力で、
それを見ていた者たちもほとんどルールを理解していなかった。
誰も最後の盤面を覚えておらず、これでは最初から仕切り直すしかない。
「今すぐ元通りにしますので、少々お待ちください」
すぐさま奴隷の少年がテーブルに駆け寄り、
駒を1個拾っては盤上に置き、また次の駒を拾っては置くのを繰り返す。
「ふん、あまり待たせるんじゃないぞ
早く招待客の皆様に、この私が勝利する姿を見せたいのだからな」
「おやおや、ヴィゼル卿ときたら何を仰っているのやら
先程の勝負はあのまま続けば、私の勝利は確実でしたのに」
「何を……バート卿こそわかっておりませんな
あの局面は一見すると私が押されているように見えて、
相手を誘い込んで迎撃する高度な戦術を使っていたのですぞ」
「またまた、とんだ負け惜しみですな
そう思わせることこそが私の狙いであり、
まんまと策に嵌まっていたのはそちらではありませんか」
そんな負けず嫌いのやり取りに観客たちはクスクスと笑い、
テーブルにぶつかった男性が咎められることもなく、
和やかな雰囲気のまま再戦の時が待たれた。
回収作業が終わり、盤上にはまばらに駒が配置されている。
初期配置など知らない奴隷のガキが適当に置いたのだ。仕方がない。
「まったく、貴様は何をするにも時間をかけすぎだ
体力も無い、文字も読めない、その上ノロマときた
私が貴族でなければ自分で拾ったのだが、
床に落ちた物を拾うなんて卑しい行為はとてもできんよ
だから貴様にやらせてあげたというのに、この仕事ぶりだ
一体、いつになったら私の役に立つようになるんだ?」
大勢の前で叱られても少年は表情を変えず、無言で頭を下げた。
「まあまあ、ヴィゼル卿
そんな無能のクソガキは放っておいて、勝負再開といきましょう
まずは初期配置に戻してと……ん? あれ? いや、そんな……」
「いかがなされた、バート卿?」
バート卿の顔色が変わり、盤面を凝視する。
気になったヴィゼル卿もそこに目を移し、その違和感に気がついた。
否、違和感ではなく既視感だ。
そこには酔った客がテーブルにぶつかる直前の、
最後の盤面が完全に再現されているように見えた。
奴隷の少年は言った通り『元通り』に駒を配置したのだった。
「……いやいや、そんなはずはない!
きっと、それっぽく見えているだけでしょう!
この国の歴史すら知らないこの無能に記憶できるわけがない!」
「そ、それもそうですな……
では気を取り直して最初から仕切り直すといたしましょうか」
2人は合意して駒を初期配置に戻し始めたが、
少年の発言にその手が止まる。
「お疑いのようでしたら、最初の一手から
その盤面に辿り着くまでの過程を再現できますよ
仕事をしながらだったので全ては見ていませんが、
途中経過からどの駒を動かしたのかは予測がつきます」
その発言には、周囲の貴族たちも耳を疑った。
そして、こんな亜人種族のガキが自信たっぷりに宣言したのだから、
そこまで言うのなら見てみたいと思うのが人の常。
その再現とやらを見たいのはもちろんだが、
彼らが本当に見たいのは“失敗した場合どうなるのか”という展開だ。
この上級貴族の夜会という神聖な場所で奴隷風情が大口を叩き、
これだけの注目を集めたのだ。「できませんでした」では済まされない。
その処罰も凄惨なものになるだろう。
今夜は血が見られるか?という期待感が膨らむばかりだ。
しかし、彼らが望んだものは拝むことができなかった。
むしろそれ以上のものを見せてもらい、皆、満足したのだ。
少年は駒の動かし方と役割を完全に把握しており、
丁寧な解説を交えながら盤面の完全再現を行なったのだ。
その解説により、先程までなんとなく勝負を観戦していた者たちも
ルールを覚えることができ、自分もやってみたいとの声が続出したほどだ。
ヴィゼル卿もバート卿も自分が差した手を覚えてはいなかったが、
「この局面ならこう差すしかない」という通りの動きをされ、
こうなってはもう、少年の実力を認めざるを得なかった。
当然ながら、彼にこのゲームを教えたことなど一度も無い。
この短い時間に少し見学しただけでルールを覚え、モノにしたのだ。
少年としては自身の記憶力や論理的思考を誇示するのが目的ではなく、
わざわざ最初からやり直すのは時間の無駄だと思っただけだった。
そして『あの2人はなぜ最善手を差さないのだろう?』と疑問だった。




