希望の海3
切り開かれたカバンの上にユッカが乗ると、
彼女の体はどんどん小さくなってゆき、
カバンの底面へと吸い込まれていった。
「ゆ、ユッカちゃあああーーーん!!!」
ファンの獣人たちは大慌てだが、
カバンの持ち主であるコノハや
作戦の立案者であるシバタは冷静であった。
いや、内心これで大丈夫なのだろうかという不安はあったが、
それを表には出さずにいただけだ。
ユッカが消えてから数十秒の時間を置き、次の工程に移る。
「それじゃあアリサ、やってみて」
「お、おう……」
コノハに促され、アリサはおそるおそるカバンの底面へと手を当てた。
するとどうだろう。カバンの裏には床があるはずなのに手が沈んでゆき、
目的のモノを想像しながらまさぐると、すぐにそれに触れることができた。
アリサはその目的のモノ、ユッカの首根っこを掴んで引っ張り上げた。
「ゆ、ユッカちゃあああーーーん!!!」
ユッカの無事を確認し、歓喜する獣人たち。
当のユッカはカバンに吸い込まれた直後に引き上げられたという感覚であり、
それによりコノハとシバタの仮説は立証できたようなものだ。
不思議なカバンの中では時が止まっている。
だから食べ物を出来立ての状態で、いつまでも保存できるのだ。
人体への影響は無い。
これならいけそうだ。
「よし、みんな!!
どんどんそのカバンの中に入ってくれ!!
今見た通り、その中は安全だ!!
俺たちが助かる方法はこれしかない!!」
乗員たちはまだ半信半疑ながらもシバタの指示に従った。
海賊からの砲撃を受けて揺れる船内で列を作り、
1人、また1人と、滞りなくカバンの中へと消えてゆく。
言葉だけではこうも上手く行かなかっただろう。
きっと実演が効いたのだ。
100名弱の乗員は順調にカバンの中へと収納され、
いよいよ最後の1人の順番が回ってきた。
「それじゃあアリサ、あとはお願いね
安全な場所に着いたら、まずは私から引っ張り上げてよね」
「おう、任せとけ!」
不思議なカバンの持ち主、コノハは一時的に使用権限をアリサと共有し、
その後の運命を全て彼女に託したのだ。
泳ぎに自信があればそんなことをせずに済んだのだが、
彼女は運動音痴で、得意なスポーツは存在しない。
当然ながら水泳も苦手であり、岸に辿り着く前に溺れるのは確実だろう。
船で1日進んだ距離。
それをこれから泳ぎ切ろうというのだ。
並の体力自慢でも達成できるかわからない、困難な任務だ。
この状況で頼れるのはアリサしかいない。
彼女の桁外れな肉体強度だけが希望だった。
暗黒の海上にて、海賊船が砲撃を止める気配は無い。
遭遇してからもう何十発も撃ち込まれているが、
こちらの船は未だに沈んでいない。
あれは威嚇目的の砲撃ではない。
完全にこちらを潰すつもりなのだろう。
それなのに、たかが非武装船の一隻を落とせないのはなぜだろうか。
なんだかあの海賊どもは素人臭い。
練度の高い砲撃手がいれば最初の一発で終わったはずだ。
どうも連中からは計画性を感じられず、
行き当たりばったりで襲ってきたという印象を受ける。
アリサはとっくに現場から脱出しており、
まだ鳴り止まない砲撃音を背に、ハルドモルド港へと急いだ。
一晩で辿り着けるとは思えないが、それでも距離は稼いでおきたい。
今なら夜の闇が守ってくれる。このチャンスを最大限に活かすのだ。
事前準備に抜かりは無い。
シバタからの助言で『海水を飲むと死ぬ』と教わり、
コノハが10日分の飲料水を取り寄せ、カバンにストックしてくれた。
その水はなんだか濁っていて不安になったが、
試しに一口飲んでみたら適度に甘く、これがなかなか悪くない。
どうやらスポーツ飲料と呼ばれる物のようだ。
水泳は全身運動で、自分でも気づかないうちに大量の汗を掻き、
水の中にいるのに脱水症状に陥る危険性があるそうだ。
なので、こまめな水分補給は非常に重要らしい。
更にその空き容器は浮き輪になるらしく、
救命胴衣と呼ばれる装備の代わりになるようだ。
この先必要だろうと、シバタはその作り方を教えてくれた。
続いて、泳ぎながらでも食べられる物として
レトルトカレーという食料を用意してくれた。
本当は温めて穀物と一緒に食べるらしいが、今はそんな時間は無い。
試しに一口啜ってみたが、やはりそれも美味しかった。
いろんなスパイスを混ぜ合わせた、複雑で食欲を唆る味わい。
気がつけばその場で一気に一袋食べ切ってしまったが、
出発前の栄養補給も大事ということで怒られはしなかった。
他にもゼリー飲料やらヨーカン、コンペートーなどのお菓子が追加され、
非常事態の真っ只中だというのに、アリサはついワクワクしてしまった。
コノハが取り寄せる食べ物は大体美味しい。
どれもこれも初めて口にする味であり、また食べたくなる物ばかりだ。
ただし、あのナットーとかいう腐った豆だけはどうしても受けつけない。
体に良いらしいが、見た目も匂いも思い出したくないレベルだ。
コノハはたまに仲間に隠れて、1人であの腐った豆を食べているらしい。
物好きな女だ。
それはさておき、そろそろ砲撃の音も小さくなってきた。
数刻泳ぎ続けて距離を離すことができたのだろう。
もっと進んでもいいが、こまめな補給も大事だと言われている。
ここは無理せず、休憩を挟んでから再開しよう。
そうと決めたら、アリサは気になっていた焼きそばパンにかぶりついた。
炭水化物と炭水化物の組み合わせ。美味しくないわけがない。
歯切れの良い麺にソースの甘みが絡み、絶妙なハーモニーを奏でる。
乗っかっている赤いカリカリしたやつが、ちょうどいい刺激を与えてくれる。
海賊から逃げているという状況なのに、
彼女は今、至福のひとときを堪能していた。
しかし、その幸せは長く続かなかった。
アリサの足に何かが絡みつき、
ものすごい力で海中へと引きずり込んだのだ。