蛇2
庭園を後にしたタチアナはミルデオン城へと急行した。
一刻も早く別の場所へ、と思いついたのがそこだった。
正直、あれ以上あの場に留まることは不可能だったろう。
乱心した王女と最強の元騎士を目の前に、生きた心地がしなかった。
しかしなぜミルデオン城なのか。
ミモザがいる銀騎士団本部でもよかっただろうに、
どういうわけか真っ先にこの場所が思い浮かんだのである。
そして、その無意識の選択はあながち間違いではなかった。
キリエは言っていた。
『正門からの侵入は諦めるしかない』と。
鳥人族のタチアナには羽がある。
そのおかげで空というフィールドを自由に行き来することができる。
そう、上から入ればいいのだ。
案の定、門番たちは暇を持て余しており、
又、ボードゲームに夢中になっていたこともあり、
上空への注意はおろそかだった。
タチアナは無防備なミルデオン城の屋上に降り立ち、
伝令任務で使用している小窓から、難なく侵入に成功する。
城内は不気味なほど静まり返っており、
いつもなら大臣たちが忙しなく働いている時間だというのに、
どこを探してもまるで人の気配を感じられない。
おそらく王女が追い払ったのだろう。
彼女は、まだ公にしたくない秘密を抱えているのだ。
方法は不明だが、フィンを洗脳したという事実を。
ふと閃く。
今朝、庭園に彼の姿は無かった。
“どこにいるのか”よりも、“なぜいないのか”が引っかかっていた。
あの場にいたのは自分、王女、カチュア、ジークだけではない。
金的トーナメントに強制参加させられていた少年たちもいたのだ。
彼らにもフィンの存在を隠しておきたかったのだろう。
では、どこにいたのか。
そう考えると、このミルデオン城はとても怪しく思えてくる。
相棒のキリエは“禁断の書”との関連性を疑っていたが、
タチアナにはまた別の妙案が思い浮かんだのだ。
もし、この城にフィンが囚われているのならば彼を救い出し、
国外へ逃亡するなりすれば王女の計画は頓挫する。
次期国王の座を得るのに必要な条件はただ一つ。
“健康状態に問題の無い配偶者”だ。
王女の美貌ならばどんな男でも魅了するのは容易いが、
彼女はあえてフィンを選び、モノにしたのだ。
おそらく他の男では満足できないのだろう。
そのプライドの高さこそが彼女の最大の弱点だ。
この勝負、言ってしまえば“フィンを手に入れた方の勝ち”なのだ。
その真理に気づけたことは大きい。
この時タチアナは賢者であり、同時に愚者でもあった。
タチアナは直感に従い、最も怪しい場所へと急行した。
地下室。
かつては物置だった部屋を王女が気に入り、
自らの生活の拠点として築き上げた場所。
事あるごとにアリサが狭さを訴えていた、
思い出深い一室だった。
異変はすぐに起こった。
地下室へと続く螺旋階段にて、
下から吹き上げる風のバリアに身構えていたのだが、
逆に、上から襲い掛かる重力の仕掛けに面食らったのだ。
自分の体重が倍になったようで、これでは空を飛ぶどころか
まともに歩くことすらままならない。
だが、タチアナは心得ていた。
所詮、これは魔術。
実際に重力が増加しているのではない。
風のバリアと同じく、まやかしなのだと。
とても現実感のある幻にすぎないのだと。
その考えに至ってからは幾分か気持ちが楽になり、
階段を下りる足にも活力が漲った。
これは吉兆なのだ。
無人の城に未知の罠。
なぜそんなものを仕掛けたのか。
考えられる原因は一つしかない。
この階段の先には、王女が隠しておきたい何かがあるのだ。
1段、また1段と下りる度に体が重くなり、
階段から足を踏み外さぬよう、小休止を挟みながら慎重に歩を進める。
そして彼女はついに目的の場所、地下室の扉まで辿り着いた。
予想が正しければ、フィンはこの中に囚われているはずだ。
まずは彼を連れ出す。
タチアナの頭にはそれしかなかった。
「──あっ」
彼女は青ざめ、自分が犯したミスに気がついた。
今日は冴えていると思っていたのに、調子に乗るとすぐこれだ。
この数年で騎士として成長できたものの、本質は変わっていない。
彼女は、肝心な部分で抜けていた。
ものすごく単純な話、扉には鍵が掛かっていたのだ。
今まではノックすれば王女が開けてくれたものの、
現在、その王女は敵であることを完全に失念していた。
しかも、こんなにゴツい錠前は以前には無かったはずだ。
身の安全を守るためではなく、誰かを閉じ込めておくための物だ。
カチュアならば鍵が無くとも開けられるだろうが、
よりによって彼女は王女の手先であり、協力は望めない。
ここまで苦労して重力階段を下りてきたものの、
扉を開けられないのなら引き返すしかない。
また重さに耐えながら進まなければいけない。
そう思うと気分まで重くなる。
タチアナは、忌々しい階段を見上げて大きなため息を吐いた。
「……外に誰かいるんですか?」
地下室から放たれたその声に、タチアナは意表を突かれた。
それは、フィンの声ではなかった。
聞き馴染みのない、女の声だ。




