蛇1
「お〜い、セシルー!」
上空から聞こえてきたその声に、呼ばれた当人は焦燥感に駆られた。
その方向を見上げるとやはり鳥人族のタチアナが羽ばたいており、
彼女はまるで10年来の友人に接するが如く、嬉々とした表情を見せた。
セシルの心にあるのは、ただ絶望だけであった。
セシルは人差し指を立て、それを口に当てる仕草で応える。
言わずもがな、「黙れ」という意思表示だ。
タチアナはその不可解な反応に首を傾げ、
どういうことか確かめようと大地に降り立った。
そこはミルドール王国とアル・ジュカ共和国を結ぶ山岳地帯。
翼のある鳥人族にとっては文字通りひとっ飛びだが、
徒歩、且つ大量の荷物を抱えたセシルには厳しい環境であり、
半月前に王国を発った彼女はまだ越えることができずにいた。
「やめろ 私に話しかけるな」
セシルからの第一声は拒絶の意志だった。
タチアナは頬を膨らませる。
王女からは『様子を見るだけ』と言いつけられていたが、
同僚が苦労している場面を見過ごせなかったのだ。
なのに、そんな態度を取られたらたまったもんじゃない。
だが、セシルにはそうせざるを得ない事情があった。
「私には監視役がついている
“誰の助けも借りずに任務を達成したか”を見張る連中がな
そいつらは馬車に乗って、少し先の地点で待ち伏せている
もしお前が少しでも手伝えば、また最初から登り直しになるんだ」
「そんな……意味がわからないよ!
登り直しだなんて、時間の無駄じゃないか!」
正論だ。
その正論に、思わず笑ってしまう。
「フッ、まったくその通りだ
時間の無駄以外の何物でもない
……だから、奴らに気づかれる前に消えてくれ
これで3回目なんだ いい加減、終わりにしたい」
1回目は行商人の親切心が招いた事故であり、
2回目は目的地まであと少しという所で「荷物を持ってやろう」と囁かれ、
監視役の仕掛けた罠にまんまと嵌められたのだ。
悪意以外の何物でもない。
先日の件といい、王女はどうかしている。
何かの間違いであってほしいと思っていたタチアナも、
心身共にボロボロのセシルを目の当たりにして認めるしかなかった。
最大の敵はフレデリカなのだと。
──タチアナは任務を終え、速やかに庭園へと舞い戻った。
時間にして半日足らず。
鳥人族の彼女にとってはなんてことのない距離だ。
たったそれだけの距離に、セシルは半月以上も費やされている。
彼女は元々有能な人材ではなかったが、それが原因ではない。
必要の無い仕事に、必要の無い制約を加えた結果がこれだ。
フレデリカは手早く仕事を済ませた部下を労ってやろうと出迎えるが、
当のタチアナは目を合わせようとはせず、ただ淡々と報告するばかりで、
そんな態度では折角の褒める気も失せるというものだ。
報告によればセシルは山の中腹あたりにいるらしく、
このペースだと任務達成まであと2〜3ヶ月はかかる見込みだ。
予定通り無駄な苦労をしているであろうセシルを想像し、
フレデリカは思わず噴き出しそうになる。
側近のカチュアは、そんな王女の仕組んだ悪巧みなど露知らず、
ただ“セシルの任務の進みが遅い”という事実に憤慨した。
「まったく、セシルめ!
馬車なら往復で1週間もかからない距離であろう!
それを、なんだ! のんびり歩いていただと!?
仕事を舐めているのか!? なんて使えない女だ!」
その発言から、彼女は敵陣営に所属してはいるものの、
全ての情報を共有しているわけではないということが読み取れる。
まあ、彼女の小さい脳味噌に色々と情報を詰め込んだとしても、
どうせ処理し切れないのが目に見えている。
もう1人の側近ジークは目を瞑り、腕を組んで沈黙するばかりだ。
時折、片目を開けて周囲を確認しているので、寝ているのではない。
彼は王女と情報を共有しているのだろうか。
もしそうだとしたら、誰よりも騎士道に精通している身として、
セシルに対する扱いはこれで正しいのか問いたいところだ。
フレデリカは、報告を終えたタチアナに次の任務を与えようとするも、
あまりにもスムーズに事が運んだために次の任務を用意していなかった。
若干の物足りなさはあるが、彼女を引き留める理由が思いつかない。
本日の業務はこれにて終了だ。
告げられたタチアナは短く一礼し、速やかに庭園から立ち去った。
その背を見送りながら、フレデリカは思考に耽る。
タチアナという人物はもっとこう、できない側だったはずだ。
それが今はどうだ、パメラの指揮能力向上と共に才能を開花してゆき、
伝令や監視の任務においては右に出る者がいないレベルにまで成長した。
しかも、パメラ不在の現状でも難なく任務をこなしてきたのだ。
彼女はもう、矮小な存在ではない。
もし敵対するようになれば、あの機動力と情報収集能力は厄介だ。
「ジーク」
王女からの目配せに、彼は内容を聞かずとも命令を把握した。




