1 プロローグ
#1 プロローグ
伊藤玲乃は気づけば辺り一面真っ白な空間にいた。
確か昨日は大学の飲み会で...同期としこたま飲んで...その後の記憶がない。
「あー...飲みすぎたな...」
それにしてもこのような場所には見覚えがない。泥酔して迷い込んだとは考えられない。それほどに現実感がなさすぎた。
暑さも寒さも無く、匂いも音もない。ただ玲乃の身体だけがそこにあった。
どうせ変な夢でも見ているのだろう。アルコールを入れて寝た日にはこういう変な夢を見るのはありがちなことだ。
玲乃はそう考え一息つく。
それにしても明晰夢とは珍しい。明晰夢の中では夢の内容を操れるというが実際にそうなのだろうか。試してみる。
...金、PC、女、ハンバーガー、ゲーム...手当たり次第に欲しいものを思い浮かべ念じてみるが、それらが現れる気配は微塵もない。
「なんだよこれ、夢じゃねーのかよ。」
「そう、これは夢じゃない。」
突然、誰かが玲乃のぼやきに答える。男とも女ともつかない、さらには耳元でささやいているようで遠くから木霊してくるような不思議な響きであった。
「な!誰だ!」
自分しかいないはず、そう思っていただけに驚きは大きい。思わず大声で誰何する。
しかし相変わらず玲乃以外の姿は見えない。
「ふ、そんなに慌てないでよ。」
「な、マジでなんなんだ,,,テレビっすか...?」
すでに理解の範疇を超えた出来事が起こっているためうろたえることしかできない。
「違う違う、ハア、まあ端的に言うと君には異世界に行ってもらうよ。」
謎の人物は急に突拍子もないことを言い始める。
「異世界って...意味が分からん。」
玲乃はこの状況に混乱しつつもこの人物が何を目的にしているのか、誘拐なのか、テレビの撮影なのか探ろうとしたが、いきなり異世界などと言われてはさらに戸惑うしかない。
異世界もののラノベは書店に行けば見たこともあるし、主人公がチート能力で大活躍する作品も読んだことがある。だからこそ自分事として受け入れられない。
「ハァ...最近の日本人はこういうシチュエーションに慣れてるんじゃないのぉ?異世界って単語だけで大体の事情を察するもんだと思ってたよ...」
人を小馬鹿にするようなそれでいて気怠そうなしゃべり方に玲乃はイラつく。そしてこの謎の声が耳に入るたびになぜか玲乃の心はざわつく。
「あのさあ、異世界転移だとか転生だのは空想の世界の話でしょ?異世界行けっつーんならまず行ける証拠見せてもらわなきゃ...ねぇ?」
そのせいだろうか、普段は日本人らしく愛想笑いを顔に貼り付けて穏和に会話を続けるのであるが...つい煽るような口調になってしまう。
「フゥ...証拠ねぇ...」
言うが早いか玲乃はとてつもない勢いで地面に叩きつけられた。
「グゥゥァァアアアアアアア!!」
すさまじい痛みに玲乃は絶叫する。
まるで自身の体重が何十倍にもなったかのような感覚で地面に押し付けられる。
バキッボキッ
負荷に耐えられなくなった骨が折れる音が身体から響く。
(ヤバい...死ぬ...)
次の瞬間玲乃は何事もなかったかのような姿で立っていた。
苦痛から解放された安堵、とてつもない激痛と死への恐怖、そして自分の身体を破壊し再生したと思われる謎の人物への畏怖。
それらの気持ちがないまぜになり身体を抱くようにしてその場に崩れ落ちる。
こんなことありえない、人を潰して元に戻すなど明らかに人の為せる技ではない。
一連の事象が、謎の声の主が人間より上位の存在であるということを雄弁に物語っていた。
「...納得できたかな?」
一言声が降ってくる。
「...はい。」
先ほどとはうって変わり覇気のない声で玲乃は返事をする。
しばらくして我を取り戻すと神(謎の声の自称であるが)は愉快気に玲乃が向かう異世界について語っていた。まるで自身の作品を無邪気に自慢する子供のように。
神の話によると異世界の名前はソロウというらしい。科学文明が席巻する地球とは異なり、ソロウでは魔術文明が栄えている世界である。大気中に魔素という地球にはないエネルギーが含まれており、これが魔術文明の根幹を支えている。
また、世界各地に魔獣が蔓延っており、魔獣と人間は敵対関係にある。そんな魔獣という人間の共通する敵がいる世の中でも人間同士の戦乱は絶えないらしい。
世界が変われども変わらない人間の性に玲乃は深いため息をこぼす。
(そんな世界で生きていけってか...)
なぜそんなに流血が身近にある世界に平和な日本で生まれ育った自分を送ろうというのか、玲乃には神の意図が理解できなかった。
「...さて、最後に何か質問はあるかい?」
「あの...」
恐る恐る声を上げる。
「ん?言ってみたまえ?」
神はいい笑顔で先を促す。
「何で...私なんでしょうか...?」
「...適当だよ?」
「日本には『こんなつまらない世の中抜け出して異世界行きたいッ!』って思ってる人ごまんといると思うんですが...そういった方から選べばいいんじゃないでしょうか。その方が貴方の目的や意図に添えると思うのですが...」
玲乃としては至極真っ当な指摘をしたつもりだった。
「もう一度選べっての?異世界に地球から人送るのに目的も意図もないし。」
しかし神はどこか面倒臭そうに返す。
「その...私を異世界に送る意図とか果たすべき使命とかあるんじゃないですかね?」
「ないよ?」
(このヤロウ...!)
玲乃は怒りに歯を食いしばる。これまでのやり取りでこの神は人の人生をなんとも思っていないということがよくわかった。あまりに倫理観が違いすぎる。納得のいく答えは得られそうもない。
しかしここで声を荒げてはさっきの二の舞になる。だがこのまま平和な環境で育ってきた自分が異世界に送られては遠からず死んでしまう。玲乃は乱世の中でも生きられるよう駄目元で交渉してみることにした。
「...私ですね、視力も低いし、異世界言語しゃべれないし読めない、魔法も使えないし戦ったこともないのに...異世界送られてもすぐ死んでしまいそうで...すぐ死んでしまったらどんな風にもならないと思うんですが...」
(頼む!なんかチート能力くれ!!)
「ふうん、チートねぇ...ま、確かにすぐ死んでも面白くないしねぇ...」
(読まれてる...!)
神は玲乃の心の中を読んでいた。この展開に玲乃は自分の小賢しい交渉などが通用しないことを察し絶望する。神を相手に交渉などまた不遜と思われるのではないかと。
「まあいいよ。」
神は軽く返事をする。その軽さに玲乃はほっと一息つく。どうやらセーフのようだ。
「ただし、それなりに苦しんでもらおうかな。ちょっと生意気すぎかな。」
口の端を歪めながら神はつぶやく。
(あっアウトだ)
そう思った次の瞬間、玲乃の視界が歪んだ。
眼をこすると濡れる。熱い。溶けている...?
次の瞬間襲う激痛。
「アガガアアアアァァババbbbbb!!!!!!!!」
叫ぶ。絶叫しながら全身が溶けていく。
玲乃が溶けながら思うのは耐えがたい苦痛に許しを請うことなどではなかった。
そこには純然たる怒りがあった。
自分勝手に人ひとりの人生を理不尽に捻じ曲げ、これまた理不尽に自分に苦痛を与えた神を許さない、そして言いなりにはならない、絶対に元の世界へ帰ってやる、消えゆく意識の中でそう心に決めた。
突如その空間に穴が開く。眼下には蒼い世界。
そうしてグズグズになった玲乃の身体は一滴の雫となる。
雫は落ちる。新たな世界へ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ふぅ、行ったみたいだね。溶けながらあんな怒るなんて...ま、その気概に免じて色々サービスしといたから頑張りなよ。」
その言葉を最後に白の空間から気配が消えた。ただ時が止まったかのような静寂だけがそこに残されていた。