花に狼 -手折られた花/めでたしめでたし、には程遠い-
鍵がかかっているわけでもなく、ただ閉じられているだけの鉄格子をがしゃん、と蹴り開ける音で、目が覚めた。
「こんなところにいた」
プライバシーも何もあったものではない牢の入り口で、扉を蹴り開けた男が笑う。
(こんなところに押し込めてるのはそっちでしょ)
うんざりした気分で体を起こし、カビ臭いベッドから足を下ろすと、繋がれた鎖が床に落ちてじゃらじゃら耳障りな音を立てた。
(だる……)
空腹と疲労で重く感じる――それが、もう当たり前になってしまっている――体を引きずるよう立ち上がろうとすると。その前に、足音もなく距離を詰めてきた男が私の前に膝をついて鉄枷の嵌まった足を掴む。
「外してあげるから、じっとしてて」
いつも、部屋から連れ出されるときは枷ではなく鎖の方が外されるのに。今日の男は鍵も使わず、どこからともなく取り出したナイフをすっ、と滑らせ、重くて硬い枷をバターのように切り裂いた。
「手を貸して」
次に、両手を背中側で繋いでいた手枷が外される。
(今日は疲れる日かあ)
後ろに回しっぱなしだった腕を前へ戻すと、固まってしまった筋や関節があちこち痛んだ。
(嫌だな)
手足を自由にされたからといって逃がしてもらえるわけではないし、そういう日は鎖に繋いでおく必要がなくなるような――逃げるための体力や気力なんて欠片も残らないほどの――目に遭わされるから、ここでの生活に馴染んでしまった今となってはもう、肉体的な開放感を覚えるだけで気持ちが憂鬱になる。
「名前は?」
「……二十一番」
牢の入り口に掲げられた番号を指すと、元から笑っていた男の笑みがいっそう深くなった。
「よかった。声は出るんだね。全然喋らないから喉まで潰されてるのかと思ったよ」
余計なことを話せば、それこそ喉を潰されかねない。
ここがそういう場所だとわかっているから、私はへらへらとよく笑う男の様子をじっと窺った。
「番号以外の名前はないの?」
「……忘れた」
本当は覚えているけど、ここの連中に名前を呼ばれるなんて吐き気がする。
「そう」
男は感情の読めない笑みで首を傾けた。
「じゃあ、俺がつけてもいい?」
「好きに呼べばいい」
やめておけばいいのに、私は男と同じように首を傾げて、思わず笑ってしまう。
「ここに来て私を使う男はみんなそうしてる。いちいち覚えていられないから、誰に何と呼ばれても私は気にしない」
「……そう」
ようやく薄ら笑いを消し去った男の手が伸ばされて、私の頤を掴む。
「これまではそうだったのかもしれないけど、君に名前をつけるのは俺が最後だよ。――フェイ」
俺のフェイジョア。
目の前にいる私がようやく聞き取れるくらいの声で囁くと、男はまたにっこりと胡散臭い笑みを浮かべて――
「我が花よ」
その頭上で存在を主張している獣の性――大きく立派な三角耳――そのままの勢いで、私の口に噛みついた。
「この体に毛の先ほどでも触れた奴らを、一人残らず生きたまま豚の餌にしてやる」
饐えた臭いのするベッドに私のことを押し倒した男が、喉の奥で低く唸るような声を出す。
(早く終わらないかな)
こいつぁ面倒な処女厨だ、と茶化すように内心で笑って、私は全身の力を抜きながら目の焦点をぼんやりとさせた。
(終わればごはんがもらえる)
三角耳の獣人はコブつきだから相手をするのは大変だけど、他の部屋に連れて行かれて、一度に何人もの相手をさせられたり、今いる牢に持ち込めないような大道具を使われるよりは何倍もマシ。
この男一人を満足させれば終わるのだと思えば、いくらか気分も楽になる。
「フェイジョア」
指先で頬をなぞる動きに誘導され、どこも見ていなかった目の焦点を合わせると、私にのしかかる男はまた元のへらっとした笑みを顔に張り付けていた。
「俺のフェイ」
よく見れば整った顔立ちをしている。
男が顔を近付けてくるのに合わせて目を閉じると、今度は唇をそっと触れ合わせるだけのキスをされた。
まるで、とても壊れやすいものにでも触れるように。
ちゅっ、と音を立てて離れた唇が、体ごと遠ざかっていく気配に目を開けた私の視界で笑みの形に歪む。
「俺は君の獣だよ? どうして何も言ってくれないの?」
男の言っている意味が純粋にわからなくて――かといって、素直にそう口にすることは今の環境が許さない――私が何も反応を返さないでいると。男はやがて長く深い息を吐き、まな板の鯉よろしく、体を投げ出している私のことをベッドの端に腰掛けた自分の膝に抱き上げて、座らせた。
「もしかして、獣がどういうものかわかってない?」
さすがにここまでくると、私の中にも「何かがおかしい」と状況を訝しむ気持ちが湧いてくる。
牢から出す気がないなら、手枷はまだしも足の枷を外す必要はなかったはずで。
そもそもこの男は、鍵を使って枷を外すのではなく壊してしまっている。
使い物にならなくなって床に転がされている枷に目を落として、擦り切れた手首を撫でながら。長く考え込んだ私が口を開くのを、男は辛抱強く待っていた。
「……わからない」
男の両手は私の体を支えているのに、すぐ近くでばさっ、と聞き慣れない音がして。音がした方に目をやると、男の背中側で、男の髪色と同じ夜のよう暗い色の毛並みがベッドの上でぱたん、と一度、挨拶をするよう揺れる。
「わからないなら、教えてあげる。でも、大切なことは一つだけだよ。俺は獣と呼ばれるもので、君は俺の花として、俺になんでも命令できる」
「どうして?」
「そういうものなんだよ。本能なんだ。花を見つけられなかったり、失ったりした獣はそのうち狂って死んでしまう。だから獣は花に逆らわないし、逆らえない」
「そんなの、奴隷と変わらない」
「そうだよ。だからいつだって花は狙われる」
ぎゅっ、と痛いくらいの力が男の腕に込められたのは、ほんの一瞬。
「獣は自分の花を守るためならどんなことでもするし、花に手を出されたら相手を地の果てまでも追いかけて八つ裂きにする。――それでも、花に手を出す馬鹿はいなくならないんだ」
「私は……私があなたの花だから、こんな目に遭ったの?」
「そうだよ」
そんなわけがない。
男が嘘を吐いていると、頭の冷静な部分では理解できているのに、まるで私の方が間違っているみたいに男が言うから。私はここで少しでも長く、楽に生きていくための賢い振る舞いも忘れて、気付けば大きな声を上げていた。
「どうしてもっと早く助けに来てくれなかったの!?」
ぼろっ、と零れて止まらなくなった涙を、自分の方が泣きそうな顔をしている男が拭う。
「ごめんね」
本当に悪いのは私をこんなところに閉じ込めて、酷いことをした連中なのに。私を助けに来てくれたはずの男はずっと、泣き疲れた私が眠ってしまうまで、理不尽な怒りを喚き散らす女を相手に、馬鹿の一つ覚えみたいに謝り続けた。
いつの間にか、眠っていたらしい。
(……なんだ、夢か)
それとも最初から、何もかもがそうだったのか。
目が覚めてまず、視界へ飛び込んできた光景――もうすっかり見慣れてしまった牢の景色――に、文字通り夢から覚めた私の口からは、乾いた笑いが零れて落ちた。
「ははっ……」
ここに来たばかりの頃は、同じような夢をそれこそ毎日のように見た。
(そりゃそうよね)
私がここでこんな目に遭っていることには意味があって、いつかはきっと、私のことを傷付けない、こんなことになってしまった私にも優しくしてくれる誰かが助けに来てくれる――。
そんな幻想は、もうとっくの昔に擦り切れてしまったと思っていたのに。
(私は何一つ特別なんかじゃない。いくらでも代えの利く玩具なんだから……)
どうせ覚めてしまうなら、夢なんて見たくはなかった。
(……もう、やだ)
死にたくないと、ただその一心で生きることにしがみついていた心がぽっきりと折れてしまって。気の抜けた体が泥のように重くなる。
(もう、いい)
動けなくなってしまえば、処分されてしまう。
そんな非情な現実も、もう怖くはなかった。
(楽になりたい)
もう充分、頑張ったと自分を慰めながら、目を閉じる。
饐えた臭いのするベッドに横たえられた体が、牢の中にあるはずのない上等な仕立ての上着で包まれていることには、気付かないまま。