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上編「演奏、はじめました」(1)

 背中の肩甲骨のあたりがムズムズしたような気がしました。ちょうど天使の羽根が生えているあたりです。


 そのとき、彼女の中に天使が宿ったのです。


 夏休みも終わりに近い8月下旬のある日、森宮美香もりみや みかは。彼女が住む天歌あまうた市の市立図書館にいました。

 彼女の周囲が薄桃色のもやに包まれました。

 その中から白い衣装に身を包んだ、背中に2枚の羽根を背負った天使が現れました。

 同時に彼女の中に、別の意識が宿りました。


 あらわれた天使は、彼女の中の別の意識に直接語りかけてきました。

「天使番号MKLB412965号。といっても今のそなたにはわかるまい。すべての記憶は消されているからな」

「あなたは誰ですか?」

「そなたの指導天使だ」と、もったいぶったように指導天使様は言いました。

「私はなぜ、ここにいるのですか?」

「見習い天使として重大な不始末を起こし、懲罰が下された。これから、その森宮美香の体に宿って時を過ごすことになる」

「人間になったということですか?」

「人間界の1年間の監察期間ののち、改めて正式の審判が行われる」


「天使に戻れる、ということですか?」

「条件がある。1年の間に、森宮美香を通じて少なくとも7人の人間を幸福にすること。幸福といっても些細なものではなく、その者の人生にかかわるような幸福だ。それから1年の間、恋愛をしないこと。恋愛したかどうかは森宮美香を基準とする。これらの条件を満たせば、そなたは再び天使の地位に戻れる」と重々しく指導天使様は言いました。

「条件を満たせなかったら?」

「天使としての意識は消え、森宮美香の中に吸収されて人間の生涯を過ごすことになる」と言うと、指導天使様は一呼吸おいて、続けました。

「森宮美香について教えておこう。現在17才。ルミナス女子高校の2年。ミカと呼ばれている。両親は小学校に上がる前に離婚。6年前に母親を事故で亡くし、いまは祖父母と暮らしている。実は、その事故で美香も命を落としたのだが、そなたが宿る先として、事故の直前に遡って改変が行われた。だから森宮美香には17才の女性として人生を送ったことの記憶がある」

「...」

「では、私はそなたの意識から消える。そなたらの行いを見守り続けるが、いっさい介入はしない。では、1年後の審判のときまで」

 指導天使様はそういうと薄桃色のもやの中に消え、しばらくしてもやが消えました。


 ミカの目が図書館の壁の時計の針をとらえました。時間はほとんど経過していないようです。

 ムズムズした肩甲骨のあたりに、さすがに羽根は生えてはいませんでした。


 ミカは帰り支度をして、6時半頃に図書館を後にしました。

 出たところで通りがかった大学生らしき男の子が、すれ違いざまに彼女のことを二度見しました。

 つぶらな黒目がちの瞳。きれいな曲線をえがく眉毛。通った鼻は高すぎず低すぎず。適度にふっくらとして口角がキュッと上がった唇。セミロングの髪が脇のあたりに垂れて形のいい耳を隠しています。少しエラが張った顔。細身にすらりと伸びた長い手足。身長162センチでちょうど7等身。相当スタイルが良いといえるでしょう。

 

「ただいま~」ミカは玄関口で奥に向かって言いました。

 奥からおばあちゃんの「おかえり~」という声とともに、ご飯が炊けるいい匂いが漂ってきました。

 図書館から歩いて5分。2階建てで小さな庭のついた一戸建ての家に、ミカはおじいちゃんとおばあちゃんと暮らしています。南を海に面して北側に山がそびえる天歌市の、東西に走る鉄道。その北側、天歌城の城址公園の周囲にひろがる文教地区の西のほうに家はあります。

 おじいちゃんは森宮幸一もりみや こういち。59才。大学を卒業後仲間と立ち上げた、地元工芸品を取り扱う会社の総務部長を務めています。

 おばあちゃんは森宮美芳もりみや みよし。55才。ミカが通うルミナス女子高校の前身の一条女子高校出身で、大学卒業後は天歌市立小学校の先生となり、結婚後ミカのおかあさんが生まれてからも続けていましたが、ひとり娘の死後退職し、孫娘の養育に専念しています。


 おじいちゃんはまだ帰ってきていないようです。ミカは玄関横の階段を上がって、2階の自分の部屋に入りました。学校のマークが入ったカバンを床に置いて、ベッドの端に腰をかけると、そのまま上体を仰向けに投げ出しました。


 ミカの中の天使は、なんともいえない違和感を味わっていました。物質としての実体をもった「カラダ」を感じるのは初めてです。ミカの体はミカが動かすのですけれど、天使には重たいような感覚が残ります。

 ミカの意識と同居している天使の意識のほうも、記憶が人間「森宮美香」の17年間のものになっています。5歳のとき、祖父母のところに向かうかあさんとわたしを、悲しそうな目で見送ったおとうさん。高速のPAで大破したミニバンと救急車のサイレンの音。救急隊員に運ばれていくかあさんと集まってきた見物人。お葬式。かあさんにもおとうさんにも見せることのなかった、高校の入学式でのルミナスの制服姿。


 ミカも違和感を感じています。自分の意思で自分の体は動かせるし、意識も思うがままです。なのに自分の意識と独立した意識が、自分の中に宿って、ときどき自分に話しかけます。

 ただ、前にテレビで見たアニメ映画の中で主人公の、女の子にその叔母さんが言ったせりふを思い出して、「天使が宿る」のは「思秋期の女の子によくあること」なのかもしれない、と思っています。暢気ですが、天使の宿り先としてはぴったりの性格ですね。


「ごはんよー」というおばあちゃんの声が下から聞こえてきました。7時5分前。ミカは起き上がると、さっと着替えて一階のダイニングに向かいました。

 キッチンのテーブルの席に着きます。

「いただきます」と言って二人は夕飯を食べ始めました。

「宿題は順調?」とおばあちゃん。

「だいたいすんだ」とミカ。

 二人の食事が半分ほど進んだ頃、「ただいま」というおじいちゃんの声が聞こえました。リビングで小ぶりなビジネスバッグをソファーの上に置くと、おじいちゃんはダイニングに入ってきました。

「もっと遅くなると思ったから、先にいただいてましたわ」とおばあちゃん。

 冷蔵庫から缶ビールを出してプルタブを空け、席に着くとおじいちゃんは一口飲みます。

「お食事を持ってきますね」


 食事がすんで、ミカが自分の部屋に行くと、おじいちゃんとおばあちゃんが話をします。

「真面目に勉強をするのはいいが、友達と遊びに行ったりとはしないのかい」とおじいちゃん。

「そうですね。本人は『ひとりで過ごすのが好き』と言ってますけど」

「やはり、両親のことがあるんだろうか」

「否定はできませんねえ」


--------- ◇ ------------------ ◇ ---------


 このお話は、天使についてのお話です。

 けれど天使はあまり登場しません。


 それもそのはず、天使とは「人間を見守る」存在だからです。

 なので「見守られる」側の人間のことを中心にお話しします。


 次の日から夏期講習の後半が始まりました。講習は1学期終業式の翌日から1週間と、2学期始業式の前日まで1週間です。学期中は朝8時半始業ですが、夏期講習は9時始まり。朝ご飯をゆっくりと食べると、ミカは制服に着替えてカバンを持って、おばあちゃんに「いってきます」と言って家を出ます。

 ツクツクボウシの鳴き声が聞こえるようになった蝉時雨の通学路を、夏の終わりのまだまだ強い陽ざしを右斜め上からたっぷり全身に浴びて、城址公園沿いに東に向けて歩いていきます。校門が近づいてくるにつれ、ぽつりぽつりと夏期講習に通う生徒が見えてきて、駅のほうから続く道に差し掛かると、一気に数が増えます。

 クラスメイトや知り合いの子たちが「ひさしぶり~」「元気だった?」とあいさつを交わします。そこここに仲良しのグループができます。ミカは、あいさつはしますが、連れ立って歩くことはなくひとりで学校に向かいます。


 ミカの席は2組の教室の窓側から2列目の真ん中あたりです。お隣の3組からリツコこと富山律子とみやま りつこがやってきました。彼女とは同じ中学でクラスメイトでした。

「おひさしぶり」とリツコ。

「元気だった?」とミカ。

「うん。夏休みはどっか行った?」

「家族3人で出かけた。温泉入って、川で遊んで」

「クラスメイトとはどっか行かなかったの?」

「うん。行ってない」

「ミカは不思議な子だよね。いつもひとりでいるのに『ぼっち』て感じがしない。風景に馴染んで存在感もある。みんなとも話をしてるし」

「むかしからそんな子だよ」

「でも中学のときには、仲の良かった男子がいたよね」

「ノエルのこと? 彼とは卒業以来会ってないよ」と平然とミカ。

「ねえ、ほんとにあいつとつき合ってなかったの」

「うん。よく話していただけ」

「どう見たってつき合ってるって、みんな思ってたよ...って言うか、こんな話をしにきたんじゃなかった」と話題を変えるリツコ。

「なあに?」

「3組のクラスメイトで転校した子から、LINEでミカのこと聞かれたんだ」

「それで?」

「吹部でコントラバスやってて、ベースも弾いてたって話をしたの。別に問題なかったよね」

「ないよ。事実だし」

「わかった。じゃあもう行くね、また」

「またね」


 夏期講習は自由参加です。4組から7組までの一般コースでは、参加者は半分くらいですが、国立コースの1組、特進コースの2組と3組はほとんど全員が出席しています。

 講習が終わると12時30分。三々五々と帰宅するクラスメイトに交じってミカも帰ろうと支度をしているところに、「男前系」の整った顔立ちに度の強そうなメガネをかけ、セミロングの髪を後ろでくくった子を先頭に、3人の集団がミカのところにやってきました。


「森宮美香さん?」と「男前系」がミカに話しかけます。背はミカよりほんの少し低いくらいでしょうか。

「そうですけれど」

「はじめまして。私は1組の坂上麻衣。軽音部所属のバンド『ミクッツ』でリーダーやってます。楽器はギター」

 その子はマイこと坂上麻衣さかうえ まい。話をしたことはありませんが、常に学年でトップ5に入る、優等生として有名な子です。

 マイはさらに続けて他の二人を紹介します。

「こちらが3組の吉野未来さん。バンドではキーボード兼サイドボーカル。そしてこちらが1組の内田多恵子さん。ドラムス担当」

「はじめまして」とミカ。

「はじめまして」とヨッシーこと吉野未来よしの みく。小柄でボブカットの可愛らしい子です。

「よろしく」とタエコこと内田多恵子うちだ たえこ。ショートカットでボーイッシュ。背はヨッシーより少し高いくらいです。

「で、どうしてわたしのところへ?」

「ミクッツのステージは見たことある?」とマイ。

「ええ。春の学祭で」

「じゃあ、ミクッツが4人組のバンドだってことは知ってるよね。このLINEを見てほしい」とマイは、自分のスマホをミカの前に置きました。


「やっほーい! 耳寄りな情報だよ。あ、ごあいさつわすれてた。お元気? 私はすっごく元気だよ。もうすぐ新学期だね。こちらの学校楽しみ! で、情報っていうのは、私ことミクベーの後任候補についてだよ」

「2組に森宮美香さんって子がいるんだ。知ってるかな? 市立三中の出身で、なんと、吹部でベースやってたんだって。軽音にも吹部にも入ってないから、いまはフリーみたい」

「それだけじゃないんだよ。2組の友達に聞いたんだけれど、声量と音域ハンパないんだって! 夏休み前の音楽の授業で、合唱コンのパート分けのオーディションやってたとき、森宮さんの声が音楽準備室からしっかりと聞こえてきたって。しかも音域が2オクターブとちょっと。2オクターブだよ! このミク様ですら、1オクターブ半と少しだからね」

「とにかく有望×∞の後任候補だよ。ぜひ、話してみて! どうなったか教えてね。健闘を祈る。なんちーて。それじゃ!」


「LINEの送り主は、7月までミクッツでベース兼リードボーカルだった鷹司美紅さん」とマイ。

 ミクこと鷹司美紅たかつかさ みくから送られてきたというLINEの末尾には、「太鼓判」のスタンプ。

「父親の仕事の関係で転校しちゃったんだ」とヨッシー。

「私たちのミクッツに入ること、考えてくれないかなあ」とマイ。

「メンバー絶賛募集中」とぼそりとタエコ。

「...ごめんなさい。突然で...それにベースはしばらくやってないし。ボーカルと同時にやったこともないし...」

「大丈夫。こう見えても私、高校入るまで音楽経験なし。それでもなんとかなってるよ」とヨッシー。

「ミクもベース初心者だった」とタエコ。

「よかったら、今日このあと、リハーサルするんだ。見に来てくれないかな」とマイ。


 ミカはおばあちゃんに「帰りが少し遅くなる」と電話して、カフェテリアに行きました。サンドウィッチを買って自販機のコーヒーといっしょに食べます。約束の2時まで、カフェテリアで講習のテキストを読みながら時間をつぶしました。

 天使がミカに言います。

「これってチャンスじゃない?」

「わたしには、ベースは無理だよ」と言うとミカは中学3年のときのことを思い出します。


 ミカが市立三中の3年生の秋、文化祭で吹部での最後のステージに立ちました。5曲のうち3曲のポップスで、ミカは初めての、そして中学最後のエレキベース担当となりました。

 3時頃に演奏が終わり、楽器を音楽準備室に撤収。引退する3年生へのセレモニーが終わると解散。ミカは美術の作品が展示してある自分のクラスへ向かいました。


「よっ!」と言う声が背後から聞こえました。

 ふりむくとノエルがそこにいました。

 ノエルこと中上乃恵留なかがみ のえるとは、中1のときに同じクラスになり、よく話をするようになりました。2年、3年とクラスは別になりましたが、廊下で、ときどき相手の教室に行って、話をしました。並んで校門を出ることもありました。

 彼は陸上部で長距離の選手。夏休み限りで引退しましたが、朝練には参加しているようです。身長170センチの引き締まった体。スポーツ刈りで日に焼けて精悍な雰囲気の顔ですが、瞳の奥から人懐っこさと優しさが伝わってきます。

「おつかれ!」とノエル。

「どうだった、わたしの最後のステージ」

「よかったよ。さすがに実力校だけのことはある」

「わたしのベースは?」

「そうだな...おまえのベース下手くそだな」

「えっ? なんて言った?」

「下手くそ」

 優しさをたたえた瞳のままでそんな言葉を口にされて、ミカは戸惑いました。

「そう...」と言うと、ノエルに背を向けて歩き始めました。

「おい。ちょっと...最後まで聞けよ...」

 ノエルの声がどんどん後ろになっていきます。ミカはどんどん早足になって、そのまま校門を出て家に帰ってしまいました。

 ミカは、文化祭のステージにあわせておじいちゃんが買ってくれたベースを、それ以来弾かなくなってしまいました。

 そしてミカとノエルは、文化祭以来ひとことも言葉を交わすことなく卒業し、それぞれ別の高校に進学しました。

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