星月夜のセッション
この作品は『野いちご』に、別ペンネームでケータイ小説風に書いていたものを、少しリメイクしました(_ _)
とっぷりと陽が暮れた、冬休みの音楽室。アタシたちは、あと数日に迫った市の定期演奏会に向けて練習をしていた。
「よーし、今日はここまで。外はもう暗いから、各自気をつけて帰れよ」
合奏練習を終えて、指揮棒を振っていた部長が楽譜を片付け始めると、部員たちも一斉に片付けを始めた。
アタシもピアノから席を立ち、鍵盤に蓋をして、四つあるティンパニのひとつを壇上から楽器庫へ運ぼうとしていた、その時。
「かーえーでーちゃんっ」
「いったっ!」
アタシの髪が後ろから引っ張られた。
犯人は分かっている。文句を言おうとして振り返ると。
「かーえーろっ」
そこには予想通り、フルートを手にした小悪魔の笑顔があった。
「琴沙……。どうしてアンタはそういつもいつも、アタシの髪を引っ張るのっ!」
「えぇー? だからそれはぁ、禾楓ちゃんのポニテがいけないんだよぉ? そんなお侍さんみたいに高いとこにあって引っ張りやすいからぁ……」
小悪魔はアタシの問いかけに、舌っ足らずでのぉんびりとした口調でいつもと同じ言い訳をした。
入学当初から耳にタコが出来るほどそれを聞いているアタシは、彼女に言ってやった。
「あーはいはい。アタシの侍みたいなポニテが、長身のアンタには掴みやすいって言うんでしょ?」
「うんっ♪」
無邪気な笑顔で言ってくれちゃってもう……。
アタシは深く肩を落としてため息をついた。
嗚呼、これでまたひとつ幸せを逃したわね……。
「でもだからって引っ張んないで、いつも言ってるでしょ?」
「うー」
「うー、じゃないっ!」
まったく……。
こんなお子様みたいなものの言い方をする子が高校二年生のアタシと同級生というのが、どうしても信じられない。
この子は身長が一六〇センチに満たないアタシより一〇センチも背が高くて、姿かたちはトシ相応かそれ以上で胸もある。
そのクセ童顔で、言動は、顔相応の精神年齢が明らか。ギャップがあるなんてもんじゃない。
ところが、校内の男子のほとんどが、
「そのギャップがたまらんっ!」
とか
「あのミスマッチがイイんだっ!」
とかはまだしも
「ことさたん萌え~!」
とか言っている輩までいて『私立 桂星高校俺の嫁ランキング』なるよくわからないものの上位にランクインしているらしい。
どうでもいいけど、ギャップにも程ってもんがあるでしょうに。
「それで? 今日は何の用? お買い物? お散歩? それともお勉強?」
「うー。そんな言い方しないでぇ。あたしお子様じゃないもんっ」
からかい半分で言うアタシに、琴沙は頬を膨らませて抗議してくる。
だからその言動の一つひとつが、お子様そのものなんだってば。
「あーはいはい。禁句だったわね。ごめんごめん」
「心がこもってなーいっ!」
――と、壇上で楽器の片付けそっちのけに、けっこう騒がしくやり合っているにもかかわらず。周りにいる三十八名の部員たちは誰ひとりとしてこの間に割って入って来ようともしない。
まるで何事も無いかのように、各々(おのおの)雑談を交しながら楽器を片付けて、
「おつかれー」
「おつかれさん」
「また明日ねー」と次々に退室していく。
無理もない。日常茶飯事だからね、もはや。
少なくとも、我が吹奏楽部の部員たちにとってはこの反応が普通なのだ、悲哀なことに。
などと、この世の無情に浸っていると。
「かぁ、えぇ、でぇ、ちゃぁ、んっ!」
「いった! 痛たっ! いーたいってのにっ!」
琴沙が、アタシのサムライポニテをリズミカルに引っ張った。
「あたしの話ぃ、ちゃんと聴いてぇ!」
「うくっ……」
振り向いて抗議すると、琴沙は顎の下に両手を組んで、くりっとした瞳をうるうるさせながらアタシに迫る。
端麗なお子様のそんな仕草に、アタシは言葉を詰まらせた。
出た。リーサルウェポン。
これぞ、アタシが琴沙を小悪魔と呼ぶ最大の理由。ことさたんの、その名も、必殺・うるるん落とし。ってまあ、早い話が泣き落としなんだけど。
これにはさすがのアタシも為す術がない。
「ああわかったわかった、わかったわよ」
アタシが観念したとたん、小悪魔の表情が華やいだ。
ほんっと、喜怒哀楽の激しいコ。見てて飽きないわ。
「で、何?」
「うんッ。あのねあのねぇ? 今日って確かぁ『約束の日 』でしょぉ?」
頼むからアタシより年上な容姿で両腕をばたばた振りながら喋るのはやめて欲しい……って、
「――え?」
「だーかーらぁ、今日は『約束の日』なんでしょう?」
「…………」
…………ええっと。琴沙は「だーかーらぁ」と言いながら人差し指で、指揮棒を振るようにゆったりと、空を切っていた。
アタシはその指を、しばらくただ呆然と見つめていた。
確かに今日は『約束の日』。でも。
何で琴沙が、それを知ってるの?
窓ガラスに映る街灯りが次々に後ろに流されては、視界から消えていく。
宵闇色のインプレッサの後部座席でしばらく無言だったアタシは、運転手に呼び掛けた。
「ねぇ、蒼葵」
「何かな、禾楓ちゃん?」
ああっ、やっぱりとぼけてるっ!
ってゆーか、いくら義理とは言え、妹をちゃん付けしないでと何度言ったら……。まあそれを言ったらアタシも義理の兄を呼び捨てにしてるのだけど。
「お願いだから、アタシのケータイにかかってきた電話に勝手に出て、相手が女の子だったからってナンパするそのクセ! いい加減にやめてっ!」
「禾楓ちゃぁん、あたしぃ、ナンパなんてされてないよぉ?」
助手席の少女が、蒼葵に食ってかかるアタシに横槍を入れて来た。
「蒼葵さんはただぁ、今夜のことを電話で教えてくれただけだってばぁ」
「甘いわよ、琴沙。それはアンタが鈍感なだけ」
「えぇ~、そんな事ないよぉ」
首をぶんぶん振るのにあわせて、肩先までの髪が揺れる。淡い茶が混じった色をして、さり気なくレイヤーが入っている。
「そんなことあるのよ」
「むぅ~」
納得のいかない様子で卵形の小顔の頬をぷくっと膨らませたこの容姿端麗な童顔女子は、アタシの吹奏楽部仲間で同級生である他に親友でもある、白峰琴沙。その手元には、フルートの楽器ケースがある。
あのあと。
「おーい峰岸、白峰ー。いい加減カギ閉めるぞー」
琴沙に問い掛けようとしたところで部長に遮られ、そこではじめて、いつの間にかアタシたちの他に誰もいなくなっていたことに気付き、慌てて二人でティンパニを片付けて音楽室を出た。
そして帰り道で、改めて琴沙に訊いたら。
「――昨日ねぇ、禾楓ちゃんのケータイに電話したら蒼葵さんが出てぇ、たくさんしてくれたお話の中で教えてくれたのぉ」
それを聞いたアタシは絶句した。
で、さらにそのあと、また肩を落としてひとつ幸せを逃した後で。
知ってしまったなら仕方ない、別に秘密にしてたワケじゃないし、このまま琴沙にも付き合ってもらおう。
と思い直し。
「――わかったわ。じゃあ、帰ったら私服に着替えて夕飯を済ませてから駅で待ってて。あ、フルート、忘れないでね」
と約束して数十分後、今に至る。
「まあまあ二人とも、こんなところでケンカは良くないよ?」
「あ、はぁーい」
「…………」
いつもところ構わずアタシと口喧嘩してるクセに、どの口がそんなことを言うのだろう。
蒼葵は、アタシよりはもちろん琴沙よりも背が高くて、黒髪なんかさらっさらで清潔感があって。顔立ちもけっこうな美青年で通ってるのに。この軽薄ささえなければ、いくらでもモテるのに。
何を考えているのか、さっぱり掴めない。おかげでアタシは……――
――っと。そんな事はさておき。
とにかく今この三人が、一体どこに向かっているかと言うと。
「わぁ、ずいぶんと山の中に行くんだねぇ」
「まぁね」
窓の外の街明かりがまったく見えなくなった辺りで、それを興味深く見ていた琴沙が高く声を上げ、蒼葵がさらっと答えた。
車は、桂星市の街並みからだいぶ外れ、林に囲まれた一車線ぎりぎりの山道を奥へ奥へと進んでいく。
「お。見えてきたな」
「え? どこどこぉ?」
蒼葵の言う通り、やがて前方に、一軒家が見えてきた。
山奥によく似合う丸太造りの家。
「わぁすごぉい。あたしこんなの初めて見たよぉ!」
さっきよりもさらにテンション高く、感動の声をあげる琴沙。
その気持ちはよくわかる。
いくらこの街が田舎でも、こういうのを目の当たりに出来る機会というのはそうそうあるものじゃない。
でも本当に驚くのは、車を降りてからなのよね、実は。
車から降りてすぐ、アタシは冬空の寒さもいとわず玄関に向かった。ログハウスの主に会わないことには、約束は果たせないからね。
だけどその主は……。
「――居ないかい?」
「うん。明かりがついてないのは地下にいるからかと思ったけど、玄関に鍵が掛かってた」
「そっか」
「約束してたのに……」
「忙しい人だからな、仕方ないさ。この際、この三人でもいいじゃないか。な?」
見るからに気落ちしてるアタシを見かねてか、蒼葵が慰めの言葉を掛けてくれた。普段は三枚目だけど、こういう優しいところもあるのよね。
だけど、そのせっかくの心遣いにもアタシは、力なく微笑むことしか出来なかった。
本当に残念で仕方なかった。蒼葵もそれ以上は何も言わず、しばらく二人の間に沈黙が流れた……――
――って、二人?
いつもならこんな時、あの小悪魔が口出ししてくるはずなんだけど……。
「琴沙?」
「……すごぉい……」
「……ああ、コレか」
辺りを見回すと彼女はまだ車のそばにいた。白い息が、真上に昇っていくのが見える。
たぶん、車から降りてすぐコレを目にしたのだろう。
気持ちはすごくよくわかる。アタシも、初めてコレを見た時はそうだったから。
琴沙はフルートのケースを両手で胸に抱いたまま空を見上げ、そこに広がる星の大海原に見入っていた。
今夜は新月で、月が姿を見せることはない。月明かりに勝るとも劣らない光量を、星たちが放ってくれていた。
まさしく、星月夜。
初めてこの光景を見た人は、いまの琴沙のように言葉を失い心奪われる。たぶん、どんな人でも。
それまで重く沈んでいたアタシの心は、琴沙のおかげで羽根のように軽くなった。こういう時、このコの存在は本当にありがたい。
「琴沙ー、ほらそんなとこでぽかんと口開けてないで。例の言ってたヤツやるわよ? 準備して」
「え? あ、うんッ」
アタシの呼び掛けに気付いた琴沙は、返事と同時にフルートのケースを掲げ――
って、ちょっと待った。
トランクの辺りで、ヴァイオリンケースを取り出している人影が見えた。
アタシは驚いて、その人影に駆け寄った。
「ついさっきまでアタシのそばに居たのに。一体いつの間に?」
「禾楓ちゃんが琴沙ちゃんを見つけてすぐだよ。禾楓ちゃんが元気になったから、オレも準備しなきゃなと思って」
「…………」
油断した。
満面の笑みで答えた蒼葵を見て、説明のつかない熱が耳までまわった。それを髪で隠すように、アタシはとっさに視線を蒼葵から外した。
髪をおろしてきて正解だった。
「そ、そうなの」
「そっ♪」
「ア、アタシも準備しなきゃ」
それ以上話す隙を与えまいと、蒼葵の隣でキーボードと専用スタンドをトランクから取り出し、早足で逃げるようにその場を離れた。
蒼葵がアタシの数歩あとを微笑みながらついて来るのが、後ろを振り向かなくても何となくわかる。
心を見透かされているようで、悔しかった。
「――この三人で演奏するのは、初めてよね」
「腕がなるなぁ」
「オレは演奏するの自体久しぶりだよ。鈍ってなきゃいいけどな」
「よく言うわ。日頃からエレキヴァイオリンにヘッドホン付けて、音を外に洩らさないようにして練習してるのを、アタシが知らないとでも思った?」
「あれ、バレてた?」
「当たり前よ」
「禾楓ちゃんは、一日ごとの水道光熱費をチェックしてるんだもんねぇー」
「とーぜんっ。ダテに家計を預かる身じゃないわ」
「消費電力量のメーター見ただけでそこまでわかるんだ……もしかして電気会社でバイトしてた?」
「ばか。そんなわけないでしょ。カマ掛けただけよ。琴沙も悪ノリしないのっ」
「あはッ」
勝手知ったる何とやら。
アタシたちは、主の居ないログハウスのテラスの灯りを点し、外付けのコンセントから電源をひいて。こんな雑談で白い息を交しながらセッティングを終えた。
そして、始まる。
「じゃぁ、演ろうかぁ」
「ええ。でも、何を?」
「えぇっとぉ……」
琴沙がのぉんびりと振り上げた声の指揮棒に、アタシは根本的な質問を投げかけた。
指の指揮棒を口に当て、思案顔の琴沙。
でもそれを予想していたのか、蒼葵はひとり楽しそうに笑ってこう言った。
「【π(パイ)の音楽 】なんてどうかな?」
「あ、それいいかも」
「その曲はちょうど、冬の定期演奏会で演奏するんだよねえ」
「ええ」
「え、そうなんだ? じゃあ決まりだな」
πの音楽。
それは、円周率πの永遠に続く数字を、音階に置き換えて作られた曲。音楽家の歴史ではなく、数学者の歴史が手に入れた、最高のメロディー。――というのは、ちょっと大げさかな。
まあ普通の高校生がこの曲を知ってることはまず無いと思うし。
ましてや、近年それをオーケストラ用に編曲した人がいるなんてことは、夢にも思わないでしょうね。
その編曲者は誰あろう、なんと、アタシと蒼葵を家族にした、蒼葵のお父さんとアタシの母さんなのだ。
アタシはそれほどでもないんだけど、蒼葵はこの編曲版をものすごく気に入っていて。暇さえあればエレキヴァイオリンで弾いている。
「でも、ヴァイオリンパートの楽譜なんてアタシ達は持って無いわよ?」
アタシと琴沙が持っているのはそれぞれ、ピアノパートとフルートパートの楽譜。
ちなみに練習のおかげで、楽譜がなくても弾けるくらいになっている。
「それなら心配ない」
「「?」」
「ヴァイオリンパートの楽譜なら――ここにある」
口元に笑みを浮かべてそう言って、自らの頭を指さす蒼葵の指先と表情が「完っ璧に覚えてるよ!」と、口ほどに物語っていた。
でも確かヴァイオリンのパートは、ものすごくレベルが高かったはずだけど……
「……本当に大丈夫?」
「ま、論より証拠さ。――ね、琴沙ちゃん」
「えぇー、あたしに言われてもぉ……」
「なにぃっ、琴沙ちゃんまでオレの実力を疑うのかっ?」
「疑うも何も、琴沙は蒼葵と演奏するの初めてだもの」
「あぅ」
楽しいなあ、こういうの。
「まあまあ二人ともぉ。お話しはぁ、楽器でしようぅ? ねッ」
フルートが、キーボードとヴァイオリンの軽口にピリオドを打つ。
「ええ」
「そうだね」
楽器で話す。ほんと、琴沙らしい表現。そして――
「じゃあ、やろぉ♪」
改めて、琴沙がゆったりと振り上げた声の指揮棒を合図に。
星月夜のもと、冬の星空を観客にした三重奏セッションが始まった。
指揮者が居ないこともあって、いつしかアタシの意識は、自然と観客の方へ向いていた。
星たちの、それぞれタイミングの異なる瞬きが、思い思いにリズムを刻んでいるように見えた。
大げさかもしれないけれど、それぞれの音と光でおしゃべりしているような、不思議な感覚だった。
寒くて、一曲だけでお開きとなったけど。
それでもとても素敵なひとときだったのを。
アタシたちは、今でもはっきりと憶えている。
―― fin ――