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新宿マジックRENDEZVOUS   作者: 磯崎愛
3/7

其ノ参――花神

 ここで時間は少し遡る。

 五月七日の夜のことだ。

 場所は同じ新宿区、神田川と妙正寺川の二つの川の落ち合う場所近くの一軒家だ。

 語り手は野川藍――種子を宿した人間だ。

 

「店を閉める」

 前置きも何もなく父親が言った。

「は?」と聞き返すと、店を閉めるとくりかえした。聞き間違えじゃなかった。

「お父さん、なにも娘の誕生日の前日に言わなくてもいいじゃない」

 ちょうど風呂上がりにとっておきの缶ビールをあけたところだった。

「お前ももう四十だろう」

「今日はまだ三十九だよ」

 娘のむなしい抵抗を父親は軽くスルーして、同じ調子で言った。

「ここを潰したらワンルームマンションくらい建てられるそうだ」

 わたしは缶ビールにくちをつけるタイミングを完璧に見失った。

「ここ閉めて、お父さんはどうするの?」

「中里さんとこで働かせてもらう。三月末に若い衆が辞めたそうで、そっちに行くと言ったら大いに喜んでくれたよ」

 お父さんは言うだけ言ったというかおで風呂場へ足を向けた。つまり、お前の将来が心配だとかなんとか言って喧嘩になるのを避けたかったに違いない。父ひとり娘ひとりが上手くやる方法のほとんどは、実のところわたしじゃなくて父親が編み出した。えらいもんだと少し尊敬している。

 それに「中里さん」のところなら悪くなかった。染め物はもちろん販売までそれこそ手広くやっている。お父さんの手があれば、紋入れやしみ抜きその他色々とやれるだろう。

 うちは下落合に店をかまえる染色工房だ。曽祖父の代から染色やしみ抜きを営み、祖父の代から紋章上絵の仕事もした。

 この祖父がなかなかに達者な紋章上絵師で、なおかつ商才もふんだんにあった。昭和の好景気にのっかって広い工房をかまえ、ひとを使って仕事した。その当時は夜中まで紋入れをして、朝にはデパートや問屋の営業さんが待ち構えるようにして出来あがった反物を次の工房や職人さん宅へ運んだという。

 いちど見てみたかったものだけど、残念ながら、わたしはまだ生まれていない。

 ご存じのとおり着物はその後に廃れていき、まずは雇っていた職人さんをよそさまに紹介して頭を下げてやめてもらい、身内だけで細々と仕事をこなし、十年前に祖父が、つづいて祖母がなくなって今では父親ひとりになった。

 しかも、その手すら余る。

 父は絵手紙や水彩教室を営んでいて、下手をするとそちらのほうがずっと繁盛しているくらいだった。

 そんなわけで娘のわたしは呉服問屋に勤めてはいるけれど、たとえ優秀な職人を配偶者にもったとしても、工房をやりくりするだけの才覚も資金も、時代の後押しもないと踏んだのだろう。

 わたしもそれは理解している。

 いや、おそらく職人の父親よりよほど冷徹に業界を見ているつもりだ。

 ビールを呷り、ふう、と重いため息がもれた。

 ちょっと贅沢をしたはずのビールが味気なく、みょうに塩っぽく感じられた。こんなことなら安物のチューハイにしとけばよかったよ。

 のこり全部を一気に干しあげて、冷蔵庫からもう一本缶ビールを取り出した。

 お仏壇に供えるためだ。

 先に呑んじゃったけど、まあいいでしょう。おじいちゃんもおばあちゃんもわたしにはすこぶる甘かったし、お母さんも優しかった。

 やさしかった、と思う。

 居間の引き戸をあけるとテーブルに飾った花が、牡丹散つてうちかさなりぬ二三片、という与謝蕪村の俳句に似て散っている。 

 うちにある牡丹の最後の花だ。

 廿日草はつかぐさの名のとおり、四月の半ばくらいに咲きはじめ、この五月の頭に盛りを終える。

 牡丹の異名を教えてくれたのは母親だ。

 牡丹には呼び名がたくさんあって、富貴草や名取草ともいった。有名なところでは百花王や花の王、花神あたりだろうか。天香国色、深見草などというものもある。

 歌うようにその名をくりかえした母は、牡丹という名前に負けないほど美しかった。

 そんな母が、突然いなくなった。

 あれは忘れもしない、わたしの九つの誕生日のことだ。

 書置きも何もなくて、ただこの牡丹の鉢植えだけが玄関に無造作に置かれていた。

 父親が血相を変えて、この牡丹をしらべてくれと叫んでいた。なにか手がかりがあると思ったにちがいない。でも何も、なかった。

 いや、いちおう、母親が注文したことだけはわかった。

 夫婦仲は悪くなかったはずだ。

 祖父とも祖母ともうまくやっていた。うまくどころか、身寄りのない母を実の娘のように可愛がっていた。ご近所さんとのトラブルや出入りの業者さんとのそれもなかった。

 とはいえ、突然のことなので何か事件に巻き込まれた可能性も十分にあった。母は綺麗なひとだったから、男の人にストーカーされていたとか、そういう嫌な想像もたくさんした。けれども、最終的には失踪事件という扱いになった。

 七年たって、法律のうえで母親が亡くなってからも父は再婚しなかった。

 子供心に、お父さんは再婚しないだろうと思いもした。

 花のある季節だというのに仏壇の花立てには金色の蓮の常花をいれたままだ。毎朝毎晩きちんと手を合わせるけれど、さいきん疲れきっていて掃除もいいかげんになってる。せめてもテーブルの崩れた花だけは片づけることにした。

 お仏壇にビールをお供えして手を合わせる。工房の件はお父さんが報告しただろうから、わたしはしない。

 わたしが結婚しなかったのはお母さんのせいだ。そう文句の一つも言いたくなって、自分の幼さに笑ってしまう。

 笑えることにほっとして、部屋を出た。

 よく眠れそうな気がした。


明け方に、なんだか動悸がして飛び起きた。更年期には少し早い気がするけど、今年になってたまにそんなふうになる。ストレスかもしれない。とにもかくにも夢見が悪いのだ。

 ビルが壊れるパニック映画みたいな、ゴジラとか出てきそうなのを見るんだよね。かと思うと、じぶんのクローンがわらわらと白い部屋に詰められている気味の悪いのとか、お母さんが二口女ふたくちおんなになって猛スピードで追いかけてくる夢を見たりする。そういうときは本当に文字通り心臓がバクバクしてパジャマが肌にはりつくほど汗びっしょりかいてて。でも、落ち着くともうなんだかひたすら物悲しくて。だってお母さん後ろ向きで走ってくるから。たぶん、お母さんの顔をうまく思い描けないせいだと思う。

 枕元の時計を見た瞬間、お父さんの声がした。

「藍、お前どうした、もう八時になるぞ」

「代休とった」

「なら昨日も休んじまえばよかったのに」と苦笑が返る。

「そうすると、かえってめんどくさくてねえ」

 私は寝返りを打ちながらぼやいてみせた。

 今日は八日の金曜日だ。

 二日の土曜から五連休が一般的なホワイトカラーのサラリーマンの休みだろうか。わたしは五日六日と働いたけど。

 休日出勤は呉服販売の手伝いだ。そして昨日は売れたものの処理をするために出勤した。ひとに頼めばいいのだけど、気難しいお客さまや癖のある販売員さんの注文をいちいち指示するくらいなら自分でこなしてしまったほうが楽だった。

 ほんとうはそういったアフターフォローこそ後進のためにきちんと教えるべきだと思いつつ、同じ部署の事務員さんはきっとそのうち結婚して辞めるから、なんだか遠慮してしまう。

 こまやかに、丁寧に対応すれば手間も時間も余計にかかる。でも、そのぶんのお給料があがるわけじゃない。しかも社内で評価してくれるひとは減るいっぽう、というか、余計な仕事を増やすなと怒られる。コスト削減が掲げ続けられている今だから当然だ。

 それでも、着物ってコスト削減していって売れるものじゃないだろうという想いもある。

 伝統とか文化とかそういう大きなことだけじゃなくって(いや、もちろんそれも大事だけど)、着るひとの人生に寄り添って物語るものだ。すでにもう、衣服という範疇で売るものとして機能しなくなってる。もちろん、そうやって冠婚葬祭や御祝い事の改まった着物ばかりを強調して、お金持ち相手に売ってきたから今の不況があるという批判も正しい。

 とはいえ、低賃金で労働者を搾取しまくるスエットショップで作られたファストファッションに、たとえ普段着の着物でもとうてい値段で勝てるはずもない。もっといえば着物の職人さんたちだって時給換算したら目も当てられない状況だ。

 あと、普段着こそめちゃくちゃ高価な品物があるのが着物の難しいところなのだ。趣味で着るものが高いのだから、ファンを増やすしかない。そのためには個別性のほうが大事なわけで、でもそれをするにはお金も時間も余裕もない。それこそが世間一般で「教養」と呼ぶもので、文化そのものだから。

 銀行から出向してきた偉いさんなんて、自分で着物誂えて着たことありますかって聞きたくなるくらいだ。一昔前の重役クラスはそういう素地があった。そのくらいこの国が貧しくなっている証拠だとおもうと憂鬱になる。

 創業百年を超す老舗問屋に勤めて十七年も経つ。そういうところにいても、わたしのお給料はあがらないし仕事ばかり増えていいことはない。遣り甲斐搾取というやつだ。就職氷河期に半ばコネで入れてもらったから感謝はしてるけど、それとこれは別物だ。というか、後進に本当に申し訳ない。

「おい、おれはもう仕事に出るぞ」

 うつらうつらしていたら父親の声に起こされた。うん、行ってらっしゃいとものぐさして寝たまま声をかける。

 大きなため息が聞こえたけど気にしない。

 学生時代までは朝飯くらいちゃんと食べてけとか、遅くなるなら連絡しろとかけっこううるさかった父親が、就職してから何も言わなくなった。

 交際関係についても、だ。

 昔はなんか口出ししてきた気がする。気がするってなんだよって自分で突っ込むけど、うちのお父さん、あのお母さんと結婚できたくらいだからわりとデリカシーがあるんだよな。職人だからなのか自分で衣食住の面倒みれるし、わたしが若いころ付き合った男の子たちよりよっぽど優しい。

 先週、好きなひとに告白をした。

 浅草のギャラリーオーナーの宮入紫苑さんだ。長身にベリーショート、真っ赤な口紅をつけただけのすっぴんで、ざっくばらんに話すのにお茶を出してくれるときの所作やお辞儀がうつくしく、聞いたらやっぱり踊りを習ってると教えてくれた。

 宮入さんとは去年の夏、和物グッズの問屋さんの紹介で知り合った。ふだんは陶磁器や工芸系作家さんの展覧会をしている。わたしが初めてお邪魔したのは古裂の展示だった。

 金曜がわたしの誕生日だからその日までに返事をくださいと言ってあったのだ。いちおう今日の二十三時五十九分までが期限だ。しかも金曜は休みですと伝えてある。

 振られても、ギャラリーには行くつもりだ。

 女同士だとかそういうことはもうどうでもいい。あちらは自営業で、おそらくわたしより幾つか年上で、いまさら生活を変えるのは大変だということは世間知らずのわたしでも想像できた。

 寝返りを打つ。と同時に社用の携帯にショートメールが入った。いいかげんスマホに変えてほしいと言ってるのにわたしは営業職じゃないから変えてくれない。

 九時過ぎか、また寝ちゃってたみたい。

 月曜に出勤したら自分が対応するので先方にその旨を連絡してもらうようメールする。こうなると思ってたんだよ。昔はその連絡も自分がしてた。いちおう建前としてのコンプライアンスとかあるから減ったけどね。

 ガラケーを畳もうとしたところで今度はスマホに着信音。

 宮入さん?

 ……違った。紅緒だ。

「おはよ~、お誕生日おめでと~、藍ちゃん起きてる?」

「……おはよう、ありがとう、まだ寝てる、ってなんで家にいるの知ってるの?」

「小父さんがさっき品物届けがてら教えてくれたよ~」

「あ、そう。なんか、そちらでお世話になるって聞いたんだけど、もう知ってる?」

「うん、うちはメチャクチャ助かるけどさあ、正直小父さんの腕もったいないよね」

 それは、誰よりも父親自身が理解してるはずだ。でも、

「紋章上絵師なんてもう、この世界に何人いるのって話しじゃない?」

「たしかに~、でもさあ、紋は残るのにね」

 そうね、とうなずいた。印刷紋だって貼り紋だってある。今じゃ画像ソフトで家紋を描くひともいる。そんななか、手描きの紋の美しさにどれだけのひとが価値をおくのか――いや、価値は認めてくれるひとはいる。お金を払えるかどうかなのか、あけすけにすぎるけど。でも文化とか芸術とかってお金をかけたとこが勝ちなのよ、勝ちというか生き延びられる。お金なの、ほんとに切実に。ちなみに紋章上絵師は東京都で十人くらい全国でも数十人だと聞いている。

「そういえば三月にやめた若い衆て、例の男の子? 真面目そうだったのに」

「うん、いまどき珍しくまじめだったねえ。彼ほんとは小父さんとこで働きたかったんだと思うなあ。でも、家業を継ぐとか言ってやめちゃったんだよねえ」

 うちもろくにフォローアップできなかったしね、と紅緒がつぶやいた。

「どこかの業者さんの関係だったの?」

「ううん、叔父さんが夢使いなんですって」

 ああ、とわたしは納得した。海外のヒップホップミュージシャンみたいな子がなんで呉服業界に来たのか不思議だったから。

 夢使いのひとたちは着物が仕事着だ。紋も入れる。扶桑紋てやつ。明治だったかに決められたもので昔はそんなのなかったらしい。

「ねえ藍ちゃん、夢使いって世襲制とかじゃないよね? だとしたら、けっきょくうちの待遇が悪かったのかなあって……」

「『中里さん』とこは業界のなかじゃイイほうだよ。夢使いは家元制度じゃないけど、一族みんな夢使いとか昔はあったみたいよ、ほら、流浪の民で夜伽してまわったっていう」

「藍ちゃん、それねえ、あたしも知らなかったけど明治以降に『作られた伝統』みたいなものらしいよ? 差別的だって怒られちゃった」

「え、そうなの?」

 目が覚めた。呉服業界にいるから夢使いのひとたちについて知ってるつもりだった。

「そうなんだって。それで、保証人になってる養蚕教師の叔父さんが夢使いだってわかったんだよねえ」

 紅緒がちょっとしょぼくれた風につづけた。

「言ってもらってよかったけどさあ、あたしあんなふうに言われたの初めてで、そのときはけっこうショックだったよ。でも若いひとは偉いよね、ちゃんとそういうこと勉強してるもの、立派だよ」

 確かに、仕事で若いひとからセクハラめいたことあんまり言われたことないもんな。

「そうそう藍ちゃん、もし今日このあと予定なかったらランチしてケーキ食べない? 御馳走するよ~」

「ん、どうもありがとう。今日は、ちょっと……」

 予定はなかった。ないんだけど、もしも、もしも宮入さんから連絡があったら、いや、なくても、たぶんわたし、普通でいられない気がする。

「わかったよ~、じゃあまた都合いいときに連絡してねえ」

 紅緒はこちらの微妙な間を察してくれた。ぽやんとしてるように見えて実は回転早いんだよな。昔から、そう。

「ほんとありがとね。じゃあまた」

「うん、じゃあねえ」

 通話を切って、ベッドに背中をつけた。

 紅緒とこうして親しく話すようになったのは、子供のとき以来だ。小学生までは仲がよかった。中学から学校がちがくなって、高校大学はろくに連絡もとらなかった。ひとり娘の紅緒は家を継いで、同じひとり娘のわたしがやっぱり同じ呉服業界に勤めて、なんとなくまた行き来が始まって、紅緒が結婚してまた途絶えて、二度目の妊娠からよく話すようになった。

 夫が浮気したせいだ。しかも、二人目を妊娠中に会社の事務の女性と浮気した。

 紅緒は社長令嬢だ。経済力があるんだから離婚したってかまわないのに、とわたしは思った。紅緒自身も考えなくはなかったと正直に言った。

 うちって同族会社でしょう、職人さんも長くいてくれるひとばっかりだし、旦那だけよそもので、あたしが妊娠出産子育てで抜けた穴埋めで入った事務のひとだけが旦那の味方だったんだよねえ。そう考えたら、なんかねえ、あたしも旦那に気づかないうちに酷いことしてたんだろうなあって。

 紅緒が指にくるくる自分の髪を巻きながら苦笑で漏らした。わたしはたぶん、それでいいのって聞きたかったんだと思う。藍ちゃんはしばらくうちに出入り禁止ね、と紅緒が笑った。なんで、と聞き返すと、だって顔に出るから、と真顔で答えられた。

 旦那も反省してるし、もうこれでおしまいにしたいんだよねえ、と紅緒が告げた。本当に、その後一度も愚痴を聞いてない。

 結婚や出産どころか独り暮らしの経験もなくて、立派な仕事も持ってないわたしは相談相手には相応しくなかったのかもしれないなんて、卑屈すぎることを考えたりもした。

 お父さんが再婚してくれたら、わたしもこの家を出れた気がする。ひとのせいにするなって怒られそうだけどね。あと、お母さんがあんなふうにいなくならなければ、ていう気持ちもある。

 書き置きのひとつも残してくれたらまた違ったのかもしれない。いっそ離婚してくれていたら、とかね。

 こんな年になって、親のせいだって言うの恥ずかしいから人前では言わない。元彼たちにだって言ったことない。でも、いまだに夜中に飛び起きて泣くわたしのこの気持ち、夜にトイレに立って、お父さんが台所で泣いてるのを見てしまったときの決まりの悪さを、お母さんに知ってもらいたい――ていうのを酔っ払って、宮入さんに愚痴ってしまってね。

 それでわたし、自分が彼女を好きだと気づいたのが先月のことだ。こちらはお客さんだから無碍にも出来なかっただろうしと菓子折り持って謝りに行ったら、野川さんて真面目ねえと笑われて、ふ、と肩のちからが抜けた。

 このひとにとってわたしの人生の一大事の愚痴も、数いるお客さんや他のひとたちの世間話と大して変わらないのだと察しがついた。勘違いする余地もなかった。じぶんの恋心に気づいたのと同時に失恋した。

 たぶん、だからこそちゃんと振られたくて、それこそ迷惑だと思いつつ告白してしまった。宮入さんは、あら、と呟いて珍しく困惑した様子で立ち尽くした。あまりにも申し訳なくて沈黙に耐えられなくて、日限を区切って慌てて飛び出してきたので、我ながらどうしようもない。しかも、翌日から胃が痛い。まあでも、わたしにしたらがんばったほうだよ。

 人生に一度くらいこういうことがあってもいい。

 時計を見ると十時すぎ、さすがにお腹がすいてきた。ベッドから床に足をつけた瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。

 は~い、と慌ててワンピースをひっかぶってドアをあけた。

「おはようございます、野川大さんいますか?」

 そう言ったのは中里さんところの、えええと、さっき話してた、名前、なんだっけ?

「俺、大桑と言います。大桑紡です」

「あ、はい。娘の藍です」

 自分より頭一つ背の高い若い男の子を見あげながら、わたし名乗る必要なかったなと恥ずかしくなった。

「うちの父親、工房にいなかったですか?」

「いなくて、こっちに」

「ああ、じゃあまだ中里さんとこにいるのかも」

「すみません、待たせてもらってもいいですか?」

 返事をする前に大桑さんはさっさと靴を脱いだ。あ~ホントは工房のほうで待ってもらいたかったなあ。と思ったけど、わたしが悪いね、先に言わなかったし、中里さんとこには顔を出しにくいだろうな、と。

 今からでも工房にって言うかな、いや、あれだ。まず父親に連絡を、とポケットに落とし込んだスマホを掴むとそれが鳴った。宮入さんだ。

【おはようございます、宮入です。いまお時間大丈夫ですか】

 電話の向こうの艶のある落ち着きのある声へと早口で告げた。

「おはようございます。すみません、ちょっと立て込んでまして、すぐに折り返しますっ」

 わたしの慌てた返答に、わかりましたと応じる声に笑みが含まれている。ああもうカッコ悪いなあ。

 気を取り直して「じゃあ、この部屋でお待ちください」と仏間の戸をあけたところで、爪先に牡丹の花弁が落ちた。

 あれ、昨日わたしちゃんと片付けなかったっけ?

 そう思う間にぼたぼたと花弁が何枚も舞い落ちた。

 え、なにこれ。

 血? 

 うそ、肉?

 よく見ようと目を凝らすと、じぶんのおなかから茶色い手が突き出てる。

 目の前が、くらくなった。

 

「やはり、開花済みか……」

 若い男が手を引き抜いてつぶやいた。

 うつ伏せに倒れた野川藍の隣りに膝をつく。慎重にそのからだを起こし、仰向けにして畳の上に寝かせた。

「花神、そこにいるんだろう?」

 花びらを掬ってポケットに詰めながらそう聞いた。

 いる。

 ワタシはどこにでもいる。あちらこちらに遍在している。

「答えないのか、これはあんたの娘じゃないのか?」

 こたえようにも口がない。いま、お前の手で娘の口が緘された。無理やり開いていい状態ではない。といって、その男の口を借りるのは癪に障った。

 それ故ワタシは沈黙し速やかに救助を要請した。


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