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嘘と真実の救済メモリー  作者: 詩杏
8/15

麻衣都

 中学校を卒業後、僕は全寮制の学校に通った。家を出た理由は、お兄ちゃんから離れるため。僕はお兄ちゃんが大好きだった。それは、兄弟としてじゃない。一人の男として。兄弟の間でそんな事は許されない。それはわかっている。けれど、僕の気持ちは抑えられなかった。だから僕は行動に移す事にした。

 僕が入学した高校は、いわゆるエリート学校だった。偏差値は全国でトップクラス。ここに入れば、大学も確実にいいところに入れる。僕の夢を叶えるには、何としても全国トップクラスの大学に入る事が必須だった。そのために高校はで必死に勉強をし、なんとしても全国トップクラスの大学に入らなければならなかった。お兄ちゃんはスポーツがすごく得意だった。僕はスポーツは全くできなかったが、無駄に勉強ができた。それはすごく助かった。

 高校で僕は必死に勉強をした。定期テストは常にベスト三に入っていた。相変わらずスポーツは苦手だったが、優秀は成績を残すために傷だらけになりながら頑張った。夢を叶えるために入った学校とはいえ、やはりせっかくの高校生活を楽しみたかった。僕は、友達がたくさんできた。全寮制という事もあり、学校以外でも友達といる事が多かった。男子寮では、女がいない事をいい事に、男子高校生らしい会話が繰り広げられていた。恋愛の話も多かった。

「彼女欲しいわー」

「わかるー。マジ俺ら負け組みじゃね?」

どこの組の誰が可愛い、誰が好き、誰と誰が最近付き合いだした。そんな会話。皆が盛り上がっている間、僕はできるだけ不自然に思われないように振舞っていた。どこにでもあるそんな会話が、何故かすごく悲しかった。

女の子と付き合いたい男の気持ちは、僕にはわからなかった。お兄ちゃんが好きなんて、口が裂けても言えなかった。話が振られても必死にごまかす。だってそうでしょ? お兄ちゃんが好きなんて知られたら、何て思われるかわからないもん。

「麻衣都は? 好きな子とかいねぇの?」

「いないよ」

「本当か?」

「本当」

いつもこんな感じ。僕の好きな人は誰にも言えない。


 そんなある日。クラスメイトが血相を抱えて僕の元へやってきた。

「おい麻衣都! お前、すげぇ美人な知り合いいんだな」

「え? 美人?」

「ああ、今、校門の前でお前の事探してる美人がいんだよ。なんだよ女興味ねぇみたいな反応してるくせにめちゃくちゃ美人な女いんのかよ」

意味がわからなかった。僕に美人な知り会いなんていない。誰かと勘違いをしているのだろう。

「関市麻衣都なんてお前しかいねぇよ」

そう言われ、身に覚えがないまま校門に行く。

 外には人だかりができていたため、美人な女の居場所はすぐにわかった。校門に着くと僕に気づいた女が男達を掻き分けて僕に近づいてくる。

「麻衣都君?」

そう言って僕の顔を見る。誰だっけ? どこかで見たことがある気がするんだけど、なかなか思い出せない。

「始めまして。森下梨花です」

そう言って手を差し出す。

 ああ、思い出した。お兄ちゃんと付き合っていた人だ。何でこんな所に? それに、この人、行方不明になってたんじゃ…。

 差し出された手を無視している僕。梨花は諦めたように手を下げた。

 梨花の周りに溜まっていた男は、美人な女が僕と話しているのを見て残念そうな反応を見せながら校舎に入ってく。ここには、僕と梨花しかいなくなった。

「こんにちは」

「こ、こんにちは…」

眩しいくらいの笑顔を見せる梨花。その笑顔にどんな意味が込められているのかは分からない。

「関市…麻衣都君?」

「はい…」

「あは、突然ごめんね、びっくりしたよね。私、あなたのお兄さんの知り合いなの」

知り合いか…。お兄ちゃんの昔の彼女でしょ。僕の大好きなお兄ちゃんを独り占めした人。その人が何で僕の所に来たの? 正直、僕はお兄ちゃんの独り占めしたこの人があまり好きじゃなかった。

「何か…用ですか? ホームルームが始まってしまうので、早くして欲しいのですが」

大した用じゃないなら、すぐに帰って欲しかった。

「急にごめんね。実は、麻衣都君にお願いがあるの」

「お願い?」

「そう、お願い」

梨花は笑顔を崩さない。

「何ですか」

僕にできる事なんて何もないが、一応話しだけでも聞いておこうと思った。

「麻希都の事でちょっと」

やはりそれか。梨花が僕に話しがあるとすればお兄ちゃんの事に決まってる。それはわかっていたが、何故か悲しくなった。たぶんこれは嫉妬。せっかくお兄ちゃんの傍からいなくなったというのに、またお兄ちゃんの元に戻ろうとするこの女に嫉妬しているんだ。本当に嫌になるな。それは梨花に対してなのか、それとも僕自身に対してなのか。それはわからない。

「僕に協力できる事なんて何もありません」

「そんな事言わないで」

「それより、あなた行方不明って言われてますよね? お兄ちゃん心配してましたよ。連絡くらい入れてあげたらどうですか?」

そう言うと、梨花は初めて笑顔を崩した。

「麻希都が…私の心配?」

「ええ。皆心配してましたよ。あなたが行方不明になってから、お兄ちゃんふさぎ込みがちだったんですから」

何で僕はこんな事を言ったのだろう。何か理由があったわけではない。半分嘘で半分本当。何も意味なんてなかった。

「そっか。そうだったんだ」

梨花は嬉しそうは表情を見せた。

「やっぱり、私の勘違いじゃなかった」

そう呟いた気がしたが、よく聞き取る事はできなかった。

「でも、私の事、麻希都には内緒にして」

「え?」

「まだ麻希都には知られたくないの」

梨花の言っている事の意味が分からなかった。

「どういう意味ですか?」

「それは言えない。けど、お願い、私の事は秘密にして」

そう言って頭を下げる。

「わかりましたけど…」

全く状況が理解できない状態だったが、取り合えず了承した。

「ありがとう」

再び笑顔を作りお礼を言った。

 その時、チャイムの音が鳴り響いた。

「あ、やばっ」

「あら」

早く教室に行かなければならない。

「すみません、僕、もう行かないと。また今度でいいですか?」

「ごめんなさい。またね」

梨花は僕に向かって手を振った。

「あ、ちょっと待って」

「はい?」

「麻希都には、絶対に…」

「言いませんよ」

僕は急いで教室に戻った。


 教室に到着すると、自分の机にうつ伏せになった。何かすごく疲れた。行方不明になっていたお兄ちゃんの昔の交際相手である梨花が突然目の前に現れた。何が目的だったのだろう。今回は時間がなくて聞けなかったが、聞かなくて正解な気がする。

 お兄ちゃんは今でも行方不明になった梨花の事を探しているのだろうか。今、お兄ちゃんは梨花の事をどう思っているのだろうか。

 梨花が何故行方をくらましたのかはわからないが、今でもきっとお兄ちゃんの事が好きなんだ。だから、僕の所に来たんだ。そうとしか思えなかった。

 しばらくすると、豪快に教室の扉が開き、担任が入ってきた。僕は体を起こし、いつも通りホームルームが始まる。

 この日、梨花の話は学校中の話題になっていた。すごい美人が現れたって。美人な女と僕が話しをしているのを知っている奴は、僕に質問攻めをしてきた。何を聞かれても、うまい答えなんてできない。僕自身よくわかっていないんだから。この質問は、寮でも続いた。

「麻衣都くーん、紹介してよー」

「無理!」

ずっとこんな感じ。


 翌日、授業中に携帯が鳴った。知らないアドレスだったが、件名の所に梨花の名前が入っていた。なんで梨花が僕のアドレスを知っているんだ? そう思いながらメールを開いた。

《こんにちは。昨日は突然ごめんね。

 アドレスなんだけど、今日また学校に行って麻衣都君の事を探していたら、麻衣都君の友達が教えてくれたんだ。

 それでね、麻衣都君、今日の放課後時間あるかな?

 少しお話がしたいの

 返信待ってます》

 こんな内容だった。僕の友達? 誰だよ、勝手にアドレス教えたの。普通、一言声をかけるだろ。

 取り合えず、メールの返信をした。

《分かりました。終わったらメールします》

そう送ると、返信は思ったよりも早く来た。

《わかった。それじゃあ学校頑張ってね》

僕は返信をせずに携帯をしまった。

 梨花の考えている事がわからない。取り合えず僕は、今日の授業を真剣に受けた。


 授業が全部終わると、梨花にメールをした。やはり梨花の返信は早い。

《もう校門のとこで待ってるよ》

もう? いつ学校が終わるかなんて言っていないのに? 僕は急いで校門へ向かった。

 梨花は僕を見つけると笑顔で手を振ってきた。

「お待たせしました」

「ううん、全然待ってないよ」

付き合いたてのカップルのような会話。実際は、ある男性の弟と元カノ。そんな関係なのだが。

 ここは学校の人がたくさんくるため、僕達は学校を出て近くの公園へやってきた。公園では、小学生らしき数人の子供が元気良く遊んでいる。僕達はベンチに腰を下ろす。

「子供…元気ね」

「そうですね」

梨花は一度下を向いた。

「私ね、本当は麻希都の知り合いなんかじゃない。恋人だったの」

梨花はゆっくり話し始めた。

そんな事、言われなくても知っている。

「もう別れちゃったけどね。別れたくなかった。私は今でも麻希都が好きなの」

やはりそうか。梨花は今でもお兄ちゃんの事を…。

「けどね、どうしても別れなくちゃいけなくなっちゃったの。辛かったわ…。」

お兄ちゃんから、梨花と別れた事は聞いていたが、別れた理由までは聞いていなかった。興味はあったが、お兄ちゃんに聞けるような雰囲気ではなかったし、知らないのであればそれはそれでよかった。お兄ちゃんが誰かのものでなくなった事だけわかったのだから。

「私たちはね、本当に愛し合っていたの。けれど、周りがそれを許さなかった。私たちの関係を壊そうと手を回す人間が多すぎたの。だから、私たちは仕方がなく別れたの。それでも私たちは愛し合ってた。それでも傍にいる事ができなくて辛かった…近くにいるのが耐えられなかったの。だから私は麻希都の前から姿を消したの…」

梨花はそう言った。

「麻衣都君に私がいなくなった事で麻希都が心配をしているって聞いた時は、嬉しい反面辛かった。こんなに愛し合っているのに、なんで私たちは別れなくてはいけないんだろうって…」

僕は心が痛くなった。ナイフで突き刺されたような、そんな痛み。

「私たちは、またやり直せると思う。もう一度。ねぇ、麻衣都君、協力してくれるでしょ? お願い、こんなお願いできるの、麻衣都君だけなの」

そう言って頭を下げる。

「はい…」

僕は全く中身がない返事をした。

「ありがとう、本当にありがとう」

梨花はそう言って僕の手を握る。

 触らないで…。お願い触らないで…。お兄ちゃんに近づくなら、僕には近づかないで…。僕には関わらないで…。

 そう言いたかった。

 この日はこれでお別れになった。抜け殻のようになった僕は、寮までの道をとぼとぼと歩く。

 お兄ちゃんはまだ梨花のものだった。お兄ちゃんと梨花の間に、僕の入る隙間なんてなかった。何で…何で梨花の愛は届くのに僕の愛は届かないの…? 好きだよ。愛してるよ。ねぇお兄ちゃん、僕の想いにも気づいてよ。

 涙が零れてきた。僕は寮には戻らず、近くのベンチで何だが止まるのを待った。


 気づいたら日が昇っていた。携帯には、僕が帰らない事を心配したルームメイトの羽間から何通も着信とメールが来ていた。僕は、ようやく寮に戻った。

「お前、どこいたんだよ。連絡もなしで」

寮に戻った瞬間、羽間が飛んできた。

「ごめん、ちょっと散歩…」

「散歩って…」

「疲れたからちょっと寝るね」

僕はルームメイトを押し切りベッドに寝転ぶとカーテンを閉めた。薄暗いその空間で、お兄ちゃんと梨花の姿が頭を過ぎる。それをかき消すように頭を抱え、大きく横に振る。

 眠い…。眠ってすべて忘れよう…。

 僕は深い眠りについた。


 目が覚めると、外は暗くなっていた。随分長い間眠っていたようだ。カーテンを開けて、ベッドを出る。

「よお、起きたか」

羽間がベッドのすぐ横にいた。

「お前、もう七時だぞ。寝すぎ。今日が土曜でよかったな」

今日は休日だった。曜日の事なんて何も考えていなかったため、それを聞いて安心した。

「おなかすいた…」

「食い行くか」

昨日のお昼から何も食べていない。空腹が限界だった。そんな僕に合わせるように羽間が立ち上がる。どうやら、僕が起きるのを待っていてくれたようだ。僕達は食堂に向かった。今は丁度夕食を食べ始める時間帯だ。割と込んでいる。

「お! 羽間、関市」

「おお」

クラスメイトを見つけた。寮ではいつも一緒にいる。彼らと合流し、僕達は夕飯を食べ始める。いつも通りくだらない会話。楽しい空間。けど、どうして頭には思い出したくない映像が浮かび上がるの…?


 この日もあまり食欲がなかった。周りからは心配されたけど、なんでもないと言って早めにベッドに入った。目を瞑ると、笑いあうお兄ちゃんと梨花の顔が浮かび上がる。僕の知らないところで、お兄ちゃんと梨花が何をしているかなんてわからない。わかりたくない。なのに、変な想像ばかりをしてしまう。

 もう嫌だ…。

 お兄ちゃんが僕のものになることなんてきっとない。わかっていても認めたくない。一瞬でいい。僕の事を見て欲しい。


 それから毎日のように梨花からメールが来る。僕の気持ちなんて知らない梨花からのメールは、いつも明るい前向きな内容。その内容からは、本当にお兄ちゃんが好きなんだって事が伺える。僕が返信をしなくても一方的に送られてくる何通ものメール。次第に梨花からのメールが疎ましく思えてきた。

 僕の気持ちなんて知らないくせに…もうメールなんてしてくるなよ…。僕は梨花のアドレスを着信拒否した。これでもう大丈夫。もう梨花に苦しむ事はない。そう思っていた。

 翌日、再び学校に梨花が来た。もう何がなんだかわからない。

「麻衣都君、どうしたの? 急に連絡取れなくなって心配したよ」

本当に心配しているかのように言う梨花。急に罪悪感に襲われる。この人は本当にお兄ちゃんが好きなんだ。そして僕に協力を求めている。なのに僕はこの人を疎ましく思ってしまった。

 お兄ちゃんにとって本当の幸せってなんなんだろう。僕なんかに好かれるよりも、好きな女性と一緒にいるほうが幸せに決まってる。お兄ちゃんのために僕ができることっていったら、お兄ちゃんの幸せのために協力する事くらいなんだ。

「すみません、携帯壊しちゃって。修理に出しているところなんですよ」

「えー、そうだったの?」

「はい、携帯直ったらまた連絡しますね」

無力な僕でもお兄ちゃんの役に立てるなら、僕は協力しようと思った。どんなに辛くても、それがお兄ちゃんのためになるのなら。

 それから数日が経った。僕は久しぶりに梨花にメールをした。梨花からの返信は、以前と変わらず明るい内容だった。

 お兄ちゃんのプライベートな事。兄弟しか知らないような事を教えて欲しい。そんな事をずっと聞かれていた。

 僕だけしか知らないお兄ちゃんの情報を他人に話すのは、やはり気が引けた。お兄ちゃんのためとはいえ、僕は所々ごまかした。


 そんな日々が続き、僕は高校を卒業した。卒業式には、両親は来たが、お兄ちゃんには来て欲しくないと事前に両親に伝えていた。両親は、わかったとだけ言い、二人だけで卒業式に来た。

 何故か梨花も卒業式に参加していた。入り口の近くで、ずっと誰かを探している様子。僕の両親に近づいて血眼になってあたりを見回す。そして、鬼のような形相で僕を睨みつける。

 きっとお兄ちゃんを探していたんだ。僕の卒業式なら、きっとお兄ちゃんも参加するだろうって思っていたんだ。なのにお兄ちゃんがいなくて怒っている。僕は、梨花から目を離し、できるだけ式に集中した。

「卒業おめでとう。麻衣都」

「ありがとう。お母さん、お父さん」

僕は久しぶりに両親と顔を合わせた。

 僕は卒業後は大学に通う事になっていた。一度実家に帰るように言われたが、そうはせずにそのまま新しい家に向かった。

 高校時代は寮だったが、これからはマンションで一人暮らし。不安なんてなかった。これで夢に少し近づけた。早く夢を叶えたい。それだけを考えていた。


 マンションに引っ越してきて初日。友達が数人手伝いに来てくれた。

「このマンション眺めいいな。駅からもわりと近いし、いい物件見つけたな」

「でしょ?」

僕達は順調に片付けを進めていく。ある程度片付けると、食事をしに行こうという事になった。

 その時だった。部屋の呼び鈴が鳴った。

「誰だろ」

ここにいる友達以外、誰に部屋の場所を教えていない。訪ねてくる人なんていないはずなのに、一体誰だろう。疑問に思いながら、僕はカメラ越しにその訪問者を確認した。

「え? 何で?」

モニターに映ったのは、梨花だった。

 僕は梨花にこの場所を教えていない。なのに何で僕の部屋を知っているんだ? いいようのない恐怖に襲われる。

 そんな僕を見て、片付けに来ていた羽間は僕の後ろからモニターを覗く。

「あれ? この人、前に学校に来てた人じゃん。出なくていいの?」

そんな事を言っていた。

 出れるわけがない。気味が悪い。

「いいや」

僕はモニターを切った。

「ねぇ。ご飯なんだけど、このまま家で食べない? 材料いっぱい買ってきたし」

僕はできるだけ平常心を保ちながら言った。

「あー、それもいいかも」

「じゃあこのまま引越しパーティーって事で」

僕達は料理を始めた。

 絶対に部屋から出たくなかった。もし部屋を出て梨花に会ってしまったら取り返しのつかない事になるような気がした。この時から、梨花に対して言いようのない恐怖心が生まれていた。


 それからも毎日梨花からメールが来る。最近お兄ちゃんと連絡を取っているかとか何故お兄ちゃんに会わないかとかそんな内容。なんでお兄ちゃんに会っていない事を知っているんだろう。もしかして、僕の事を見張っているのかもしれない。僕の部屋にも頻繁に来る。梨花の姿を確認すると、僕は必ず居留守を使う。

 怖い。

 ただそう思っていた。

 大学生活が始まり、慣れないながらも楽しく過ごしていた。新しい友達もでき、新しい勉強が始まる。楽しいはずなのに…なのに何で? 何で学校内で梨花の姿を見るの?

 講義中も空き時間もずっと視線を感じる。それどころか、いつの間にか僕の隣にいるんだ。

「おはよう、麻衣都君」

そうやって声をかけてくる。

「今日暇? 一緒に食事でもどう?」

頻繁に食事に誘ってくる。僕の友達は、梨花の事を僕の彼女だと思っている。

「今日はちょっと…勉強しなきゃ」

「そっか。残念」

いつもそんな感じで誘いを断る。

 梨花からのメールは、毎日百通近く送られてくる。

 気持ち悪い…。

 梨花はお兄ちゃんが好きなんじゃないのか。なのに僕の事をつけ回して、一体何を考えているのか…。

 部屋に戻りシャワーを浴びる。部屋でゆっくりする前に、必ずシャワーを浴びなきゃ気がすまない性格なんだ。冷蔵庫に入っていた食材を炒めて、夕飯を済ませた。

「よっし」

鞄から参考書を取り出し、勉強を始める。

 十時を回った時に、部屋のチャイムが鳴った。ただのチャイム。けれど、この時はもう、ただのチャイムに体中が震え上がった。

 震える指でモニターを確認する。

 梨花だ…。

 僕はそれを確認すると、すぐにモニターを切った。すると今度は携帯が鳴った。メールだ。

《お勉強お疲れ様。ご飯持ってきたよ。一緒に食べよう》

僕は携帯を投げ捨てた。次のメールが来た。

《どうして開けてくれないの? 麻衣都君。開けて? 冷蔵庫の余りものだけなんて体に悪いよ。台所貸してくれたらすぐに温めるから》

僕は動けなくなった。何で今日の夕飯を知っているんだ。誰にも言っていないのに。夕飯を食べたのはつい数時間前の事だ。

 監視されている…?

 僕は携帯を持ってトイレに駆け込んだ。この部屋は監視されている。どこにカメラが仕掛けられているのかはわからない。アドレス帳から羽間の名前を探し出すと、ダイヤルボタンを押した。

「もしもし? 麻衣都?」

「羽間!」

羽間はすぐに出た。

「どうしたんだ、そんなに慌てて」

「助けて、僕監視されてる」

「は?」

「頼むよ、すぐに来て!」

正直羽間には意味がわからなかっただろう。僕は最低限の情報を伝える事で精一杯だった。この間も、玄関の向こうでは梨花が扉を叩きながら何かを言っている。鳴り止まない携帯。もう内容を確認する勇気すらなかった。

 しばらくすると静かになった。いなくなった? そう思ったとき、再びチャイムが鳴った。

「うわっ」

梨花はまだ帰っていなかったのか…。そう思ったが、聞き覚えのある人物の声がした。

「麻衣都。麻衣都いるか?」

「は、はざま…?」

僕は全身の力が抜ける感じがした。

 トイレから出ると、チェーンと鍵を開け扉を開ける。

「羽間…」

羽間の顔を見ると、僕は羽間の胸に顔を押し当てる。

「は? 麻衣都どうした?」

男の僕にこんな事をされたら驚くだろう。だが、僕にそんな事を気にしている余裕はなかった。

「そういえば…」

これ。そう言って羽間は重箱が入るくらいの手提げを見せた。

「ドアノブに下がってたけど」

僕は全身から血の気が引いていくのを感じた。


 僕達は羽間の家にやってきた。羽間は実家暮らしだが、今、両親はいないという事で遠慮なく上がらせてもらった。僕は、ここ最近と、先程起きた出来事を話した。勿論お兄ちゃんが好きという事は話していないが。

「それ、ストーカーじゃん」

やはりそうか。誰が聞いてもそう思うだろう。

「やっぱり」

「そうだよ。それ警察に言ったほうがいいよ」

何故梨花はこのような行動をとるのだろうか。ストーカーなんて、好きな人にするならわかる。何で僕なんだ。僕はお兄ちゃんの弟。梨花が好きなのはお兄ちゃんであって僕ではない。僕をストーカーしたところで何の意味もない。

「お兄さんの事調べていくうちにだんだんお兄さんじゃなくてお前を好きになったとか? なあ、お兄さんに相談してみたらどうだ?」

お兄ちゃんに相談…。それはできない。お兄ちゃんに知られたくはないし、今はまだお兄ちゃんに会うわけにはいかない。

「それに、お兄さんがその女と別れた理由って何なんだ? もしかして、今回みたいに異常な恋愛感とかじゃね?」

そういえば、僕はお兄ちゃんが別れた理由は知らない。梨花から簡単に聞いたが、お兄ちゃんから直接聞いたわけではない。梨花が言っていた事は嘘で、本当は異常な恋愛だったのかもしれない。

 思い出せ…。お兄ちゃんは何て言っていた? 確か、お兄ちゃんから別れを切り出したって…梨花は別れたくないと言っていたが何とか別れる事ができたって言っていた。それで梨花は、本当はお互い別れたくなくて、それでも周りが別れされたって言っていた。

 そもそも、僕と梨花は会った事がないはず。僕はお兄ちゃんが部屋に連れてきた際に梨花を見て知っていた。けど梨花は? どこで僕を知ったんだ? 僕と梨花は直接顔を合わせたわけじゃない。

「それに、なんでお前の高校知ってたんだよ。学校にいきなり押しかけるなんて普通じゃないだろ」

そうだ。僕は中学校を卒業すると共に引越しをした。実家から僕が通っていた高校は車でも何時間もかかる。簡単に行ける距離じゃない。そして、高校から今通っている大学も近くはない。

 少しでも考えればわかった事だ。梨花の行動はおかしい。明らかに普通じゃない。

 お兄ちゃんが好きだと言って僕に近づいてきた。僕の大好きなお兄ちゃんが幸せになれるならと、僕は梨花に協力していた。

「警察行け」

「うん…」

翌日、僕は羽間に付き添われて警察に向かった。

 警察が部屋を調べると、やはり監視カメラが仕掛けられていた。

「やばいな…」

気持ち悪い…。僕はすぐに引越しをした。大学からは多少離れるが、梨花から離れるためなら何だってした。

 きっと知らないうちに鍵が盗まれ、合鍵を作られたと思われた。今の時代、合鍵を作るのに時間なんてかからない。素早く合鍵を作り元に戻しておけば、複製されていた事なんて気づかないらしい。僕は、複製ができない鍵を二つ取り付けてもらった。

 それからは、とにかく怯えながら暮らしていた。

 また携帯が鳴る。

《お引越ししたの? 引越し祝い持って行かなくちゃ》

もうやめてくれ…。そう願ってもやめてくれるはずなんてないのだが。

 相変わらず何通も送られてくるメールに着信。外に出るたびにどこからともなく感じる視線…。もうおかしくなりそうだった。

《もうやめてください。》

僕はそれだけうって梨花にメールを送った。返信が怖い…。メールを送ってすぐに携帯の電源を切り机に置いた。

 梨花は普通じゃない。お兄ちゃんに相談してみるべきか。それとも、隆治…? お兄ちゃんと仲が良くて、たぶん梨花とも関わりがある。僕はお兄ちゃんに連絡をするのだけは避けたかった。大好きなお兄ちゃん。僕のせいでお兄ちゃんに心配をかけたくなかったし、何よりも僕の予定が狂う事を避けたかった。両親に連絡をするのも気が引ける。男のくせに女に、しかもお兄ちゃんの元彼女にストーカーされているなんて情けなくて絶対に言い出せなかった。

 僕は布団に入り込み、いつの間にか眠りについていた。


 翌朝目が覚めると、いつも通りの静かな朝日が覗いていた。

 机の上に置いてある、電源が切ったままの携帯が目に入る。僕は恐る恐る電源を入れる。電源が入った瞬間に大量のメールが届く。

《協力するって言ったくせに嘘つき》

《嘘つき。麻希都の弟のくせに嘘つき》

《卑怯者。お前は麻希都の弟なんかじゃない。麻希都に近づくな。お前が近づいたら麻希都が汚れる。私の麻希都》

《殺してやる。麻希都に近づくなら殺してやる》

《死ね。死ね。麻希都は私のもの。お前なんかに渡さない。誰にも渡さない》

そんな内容のメールが何十通と来ていた。

 やっぱり梨花はお兄ちゃんが好きなんだ。その愛が正しいのかはわからない。とはいえ、僕のお兄ちゃんに対する愛情も正しいとは言えない。梨花の愛情は歪んでいる。僕とどっちが歪んでいるのかな。答えは見つからない。助けてよ、お兄ちゃん。

 僕は気分が悪くなり、学校を休む事にした。引っ越してきたばかりでまだ片付けが終わっていなかったため、丁度いい。一時間ほど横になり、部屋の片付けを開始する。勿論、携帯の電源は切ったまま。

 しばらくすると、インターホンが鳴った。ただのインターホンに異常なまでに反応してしまう自分に嫌気が差す。ここは梨花に知られていないし、このマンションはオートロックだ。梨花はこの部屋に来る事はない。僕は自分にそう言い聞かせ、モニターを確認した。

 絶望した。

 モニター越しに梨花が立っている。自分を見ている事に気がついているかのように梨花が話し出す。

「引っ越し祝い持って来たよ。麻衣都君」

そう言って手に持っていた袋を見せ付ける。

「何で…何で…」

僕は急激な吐き気に襲われた。トイレに駆け込み、胃の内容物をすべて吐き出す。一緒にこの恐怖心も吐き出してしまいたかった。

 大丈夫。ここはオートロックだ。それに、合鍵は持っていない、梨花がここに来る事なんて有り得ない。そう自分に言い聞かせた。

 再びインターホンが鳴る。両耳を押さえうずくまる。何も聞こえなくて良い…。もう耳なんていらない…。僕は台所に行き、耳を切り落とした。おびただしいほどの出血。もうどうでもいい。何もわからなくなりたい…。

 ふと我に返る。手には包丁が握られている。耳は…ちゃんと付いている。じゃあ今のは…夢…?

 涙が溢れ出てきた。その涙の意味はわからなかった。


 僕はもう一度警察に行った。携帯を見せて、事情を説明した。警察は、パトロールをしてくれる事になった。

 そういえば、最近あまり学校に行っていない。行っていたとしてもいつも上の空で、勉強が全く頭に入ってこない。僕はできるだけ他の人と一緒にいるように心がけ、学校に行くことにした。

 僕は学校に行って、しっかりと勉強をしなければいけない。ストーカーに悩んでいる時間なんてない。今まで休んでいた分、しっかりと勉強をした。家の鍵は鞄には入れず、チェーンをつけてポケットに入れた。もうこれで鍵が盗まれる事はないだろう。

 教授の所にも顔を出し、いろいろな参考書を借りてきた。僕は今やらなければならない事は勉強なんだ。そう、梨花の事は警察に任せてある。もう安心だ。

 家に帰ると、ポケットから鍵を取り出して部屋に入る。

「あれ?」

気のせいだろうか。朝部屋を出る前と比べると、何か違う気がする。何が違うのかはわからないが、何かが違う…。嫌、そんなはずはない。だって、部屋に入れる人間なんているはずないのだから…。きっと疲れてるんだ。軽くシャワーを浴び、早めに布団に入った。


 とても心地良い夢を見た。お兄ちゃんの夢。まだ小さい時、まだ何も考えずに、大好きなお兄ちゃんに思い切り甘えている夢。

 僕は転んで足から血を流して泣いていた。お兄ちゃんは僕の元までくると、僕の膝に手を当てた。

「痛いの痛いの飛んでいけ」

そう言って手を遠くに向ける。

「もう痛くないでしょ」

ただのおまじないのはずなのに、本当に痛みが飛んだ気がした。

「おいで、足にばい菌入っちゃうからきれいきれいしようね」

そう言って僕の手をひくお兄ちゃん。自分の足を洗う事すらできない僕の傷口を丁寧に洗い、消毒をして絆創膏を張る。

「もう大丈夫だよ」

「ありがとう、お兄ちゃん」

僕は張ってもらったばかりの絆創膏に優しく触れる。お兄ちゃんは僕の頭を優しく撫でた。

「僕はまいのお兄ちゃんだからね。僕がまいを守るよ。これからずっと守るから、何かあったら僕に相談してね」

「僕、お兄ちゃん大好き」

当時は素直にそう言えていた。


 僕は目を覚ました。何でこんな夢を見たのだろう。

“僕がまいを守るよ”

その言葉、今も続いているのかな。こんな歪んだ僕を守ってくれるかな。助けて…お兄ちゃん。


 梨花から怯えながら暮らす日々は、それからも続いた。気づいたら僕は大学六年生になっていた。今まで必死に頑張っていた甲斐があり、卒業は余裕に思われた。ただし、それだけじゃダメなんだ。僕にはやらなきゃいけない事があるから。目標に向かって、毎日死ぬ思いで勉強をした。

 そしてついに…。

「大学院合格おめでとう、麻衣都」

「ありがとう」

僕が大学院に合格をした。これで夢に向かってまた一歩踏み出したんだ。

 それからは順調に物事が進んでいった。相変わらず梨花からのストーカーは続いていたが、大学を卒業して大学院に行けるということが嬉しくって、一時は辛さを忘れられた。そして、僕は無事に卒業式を迎えた。

 お兄ちゃんと別れてから九年になった。早くお兄ちゃんに会いに行きたい。もうすぐ夢が叶うんだ。僕は大学院に入った。最近、梨花の姿を見なくなった。さすがに諦めたのかもしれない。ようやく解放されたんだ。久しぶりに訪れた自由と、夢への階段を登る嬉しさで胸が高鳴った。

 大学院に入ってからしばらくが経った。夜道を歩いていると、人影を見つけた。

 誰だろ。こんな時間に。

 その人影は髪の毛が長い。どうやら女性らしい。こんな夜中に一人でうろつくなんて危ないな。そう思った。

 その人物は動く気配がない。女性に向かって歩く僕。まるで僕は自分の元に行くのを待っているかのようだった。

 まさかね。そんなはずはない。

 僕はその人物の目の前に来た。街灯が女性の顔を照らす。僕は我が目を疑った。

「え…?」

その女性の顔は、僕と全く同じだったのだから。

 僕はその場で立ち竦む。

 誰…? この人…?

「久しぶりね。麻衣都君」

女性はそう言った。

 久しぶり…? どこかで会った事あったっけ…? 全く身に覚えがなかった。そんな僕の考えを読み取ったかのように女性は小さく笑った。

「私よ。森下梨花」

一気に血の気が引いていくのがわかった。

「な、なに…?」

森下梨花。お兄ちゃんの元彼女で、僕の元ストーカー。もしかしたら、お兄ちゃんの元ストーカーでもあるのかもしれないけど。

 本当に森下梨花なのか…顔が全く違うじゃないか。僕は頭が真っ白になった。いなくなったはずのストーカーが再び現れた。面白いくらいに足が笑っている。

「私の事、気づいてた?」

梨花だと名乗る女性は一人で話し始める。

「ずーっと…私、あなたの傍にいたよ」

「わぁー!」

もう何がなんだかわからない。僕は必死に逃げた。どこに逃げているのかはわからない。どこでもいい、どこでもいいからあの女がいない場所へ、安全な場所へ逃げたかった。

 何度も転んだ。木々に切りつけられる体。壁や地面に擦られる肌。流れ落ちる血液。そんなものは気にならない。逃げなきゃ…逃げなきゃ…それだけを思っていた。僕の中で、かつてないほどの警報が鳴っていた。

 遠くに逃げているはずなのに、もう、だいぶ距離が離れているはずなのに…。

「みーつけた」

どうして女は目の前にいるの?

「麻衣都君、さっきから何をしているの? 麻衣都君がしている事、なぁーんにも意味ないよ?」

どういう事? 僕は辺りを見回す。僕の目に映ったものは、さっきと同じ場所。同じ風景。同じ人物…。

 なんで…。

 僕には理解し難い現実。本当は気づいていた。もう、僕の精神が正常ではなくなっていたんだ。だから、僕に正常な判断なんてできないんだ。僕は必死に逃げていた…つもりだった。だが、同じところとずっと走り回っていた。いや、もしかしたら、走った気になっていただけで、実際は一切この場所から動いていなかったのかもしれない。女から逃げる…たったそれだけの事すらできないんだ。

 僕は両膝をついた。もう逃げられない…。

「鬼ごっこはお終い」

体に電流が走った。女の笑い声が聞こえた気がした。


 目が覚めたら知らない部屋にいた。どうやら手足を縛られているようだ。上半身を壁にもたれ掛かるように縛られている。辛い体勢だ。ここはどこだ? どうしてこうなった? 女の姿はどこにもない。僕は待つ事しかできない。

 扉が開く音がした。僕と全く同じ顔をした女が入ってくる。やはり慣れるものではない。気持ち悪い。双子でもここまでは似ないだろう。

「あれ? 麻衣都君起きてたの?」

女は僕の元にやってくる。僕の顔を自分の方に向かせると、嘗め回すように僕の顔を見つめる。

「やっと手に入れたのよ。この顔」

女は僕の顔をぶん殴った。避ける事のできない僕は、されるがままになっていた。

「私の麻希都を奪ったこの顔なんていらない。この顔は私だけで十分。あなたはいらない」

そう言って何度も殴り続ける。きっと、僕の顔はもう判別のつかないくらい腫れあがっているだろう。

「私は今日から斉井桜。もう一つの名前は関市麻衣都。私は麻希都の恋人であって弟なの。素敵じゃない」

そう言って高らかに笑う。

 意味…わかんねぇ…。

 それから監禁生活が始まった。一日一食。桜は食事を持ってくる。俺を殺す気はないらしい。その理由を聞いた事がある。

「あなたから情報を入手するためよ。私は麻希都の恋人であり弟なの。だから、弟になるために情報収集をしなくちゃいけないのよ。そのためにあなたを生かしているの。昔麻希都の弟だった麻衣都にね。まぁ、そんな弟も今じゃゴミクズ同然だもの。生かしてもらっているだけありがたいと思いなさい」

そういう理由らしい。

 この女はお兄ちゃんに近づく事が目的らしい。それはよくわかった。でも何で僕と同じ顔に整形する必要があるんだ? 僕と同じ顔にする事でお兄ちゃんは確かに興味はもつかもしれない。しかし、そんな事のためにわざわざそこまでするのだろうか。この女の考えは全く理解ができない。

 最近、お兄ちゃんと再会したらしい。桜は喜んで話していた。お兄ちゃんと再会して、再び恋人になれたって言っていた。

 愕然としたよ。お兄ちゃんがついにこの女に捕まってしまったなんて。お兄ちゃんが完全にこの女に漬け込まれる前にお兄ちゃんを助けたい…けれど、僕に助ける事なんてできない。自分の無力さを思い知る。溢れ出る涙を拭う事もできないんだ。


 そんな生活をどれくらい続けたのだろう。

「はいはーい。お待たせしましたー」

桜が部屋に入ってきた。何かを引きずっているようだ。

「ふー、重かった」

桜はそのものから手を離す。僕の目に映ったのは、頭から血を流した男性だった。両手両足は縛られ、気を失っているようだ。

 なんで…。この人の誘拐されたの? この人も監禁されるの?

 そんな事が頭を過ぎった。そんな甘い考えしかできなかった。ここからが本当の地獄の始まりなのに。

 壁に固定されていた金属から鎖の長い手錠のような物が伸びていた。桜はそれを男性の腕の固定した。

「じゃあ私は少し出かけてくるから、麻衣都君、仲良くしてね」

桜はそう言って部屋を出て行く。男性の意識は戻らない。

 それからしばらくすると、男性に動きが見えた。

「うっ…いって…」

男性は意識を取り戻したようだ。しかし、手足を縛られているため、自由な動きは一切できない。

「何だよ、これ」

男性は動かない体を何とか駆使して部屋を見渡す。どうやら自分の置かれている状況を理解したようだ。そして、僕と目が合った。

「お前、さっきの女…」

どうやら僕の事を桜と勘違いしているようだ。男性の反応を見ると、改めて僕と桜の顔が同じなんだと実感する。男性は芋虫のように這い蹲り僕の目の前に来た。

「お前、斉井桜…どういうつもりだよ」

男性は完全に僕を桜と勘違いしているらしい。

 普通の人なら、自分を捕まえた人を見て怒り狂うかもしれない。けれど、今男性の目の前にいるのは自分を襲った人間が傷だらけで拘束されているという状態だ。

「違うよ。僕は桜じゃない」

「え?」

「僕は関市麻衣都。桜とは別人だよ」

男性は目を見開いている。そうとう驚いているみたい。そりゃ驚くよね。それくらい僕と桜の顔は似ているんだから。もし僕の苗字が関市じゃなくて斉井だったら双子なのかな、とか思ったかもしれないけど全く違う苗字だもん。意味わからないよね。冷静にそう思っていたのも束の間、男性の口から驚きの言葉が出た。

「せきいちまいと…? だと? 関市麻希都とはどういう関係だ」

え? どういう事?

「お兄ちゃんを知ってるの?」

「お兄ちゃん?」

「関市麻希都は僕のお兄ちゃんなんだよ。ねぇ、あなたは誰? お兄ちゃんとどういう関係なの?」

突然連れてこられたお兄ちゃんを知っている男性。この人ならお兄ちゃんの安否を知ってるかもしれない。

「桜の狙いはお兄ちゃんなんだ、お兄ちゃんが危ないんだよ」

「お前、何言ってるんだよ」

僕は一通り今の状況を説明した。動揺していた僕の説明は正直言ってわかりにくかったかもしれない。そんな状態でも、少しでも正確に伝えようと必死に言葉をまとめた。


「何言ってんだよ。お前頭おかしいんじゃねぇの?」

あまりにも非現実的な出来事。そう思われても仕方がない。覚悟はしていた。

「突然こんな事を言われて訳がわからないと思われても仕方ないよ。けど全部事実なんだ。僕は関市麻希都の弟。君を誘拐してきた桜はお兄ちゃんが昔付き合っていた女性なんだ」

正気の沙汰とは思えないだろう。桜がじゃない。僕がだ。この男性から見れば、僕は頭が逝かれた異常者としか思えないだろう。

「本当なんだ。信じてよ」

僕は何とか男性に理解してもらおうとした。けど、僕が必死になればなるほど男性は僕を怪訝な目で見てくる。

「頭が逝かれてんのはお前だよ」

そう言われてしまった。

「麻希都の弟そっくりに整形した? そんな話あるわけねぇだろ。つくならもう少しマシな嘘つけ」

すべて事実を説明したが、この話をし終わると同時に僕は完全に男性の信用を失ってしまったようだ。

「じゃあ信じてくれなくていい。でもここから逃げて。桜は君に何をするかわからない。ここにいるのは危険だ。すぐにここから逃げて。そして今僕が話した事をお兄ちゃんに伝えて」

「いい加減にしろ。お前の妄想ごっこに付き合っている暇はないんだよ」

「妄想なんかじゃない。全部本当なんだ」

「それに、手足縛られたこの状況じゃ逃げれるわけねぇだろう」

もう駄目だ。もう僕の話は信じてもらえない。

もし僕が男性の立場だったらどうだろう。同じ反応をするだろう。それに、逃げられるものなら、わざわざ僕が言わなくてもとっくに逃げている。男性の拘束はかなり厳重にされている。一人で解く事はできないだろう。

「じゃあせめてお兄ちゃんが元気かどうかだけ教えて」

ずっと気になってた事。最低でもそれだけは知りたい。しかし、男性は僕を睨みつけた。

「ふざけんな。そんなもん誰が教えるか」

え? どうして?

「お前みたいな得体の知れない逝かれ野郎に話すわけねぇだろ」

僕の中で何かが崩れた。それと同時に、やり場のない悲しみが込み上げてくる。

 お兄ちゃんが心配だ。生きているよね。何も辛い事なんてないよね。お兄ちゃんが元気かどうかだけ知りたいのに。僕はお兄ちゃんの弟なのに、お兄ちゃんの現状すら知る事ができないなんて。あれ? 何言っているんだ僕は。最初にお兄ちゃんから離れたのは僕じゃないか。そんな僕が今更お兄ちゃんを求めてどうするんだ。決めたはずだ。僕は目的を果たすまでお兄ちゃんには会わないって。そう思って十年間生きてきたんじゃないか。

「わかった。ごめん」

僕は気持ちを押し込める。

 その時、扉が開く音がした。僕と男性は扉に目を向ける。

「二人とも仲良くやってる?」

桜だ。桜が入ってきた。手には大きなダンボール箱を抱えている。中身は全く見えないが、良くない物が入っているのは確かだ。桜は不適な笑みを浮かべていたから。

 男性は桜と俺を交互に見つめる。全く同じ顔をした二人。大きく違うのは拘束された身か自由な身か。そんなところだろう。桜は部屋に入ると扉を閉め、ダンボール箱を地面に置いた。

「ふー、重かった」

桜は大きく背伸びをした。

「金土正人。君と遊ぶ道具をいっぱい持ってきたら疲れちゃった。これ、すっごく重たいんだよ?」

桜は男性に目を向けダンボールを二回ほど叩いた。

 金土正人? 男性の名前かな? 少しだけ会話はしたが名前は聞いていなかった。名前を聞ける雰囲気じゃなかったからね。桜は段ボール箱を開くと、ごそごそと何かを探し始めた。

「うーん、どれにしようかな」

無邪気な女の子がケーキ屋さんでケーキを選んでいるかのような光景。それだけ見れば微笑ましいものだが、箱の中から出てきたのは想像を絶する物だった。

「これにしよー」

そう言って桜が箱から出した物は二本のアイスピックだった。それを両手に持つと、拘束され動けない金土の元へ近づいた。

「な、何だよ」

金土は体をくねらせ桜と距離を取ろうとした。

「動かないで」

しかし、桜はそれを阻止する。小柄な体を存分に使い、金土の動きを封じた。

「それじゃあ早速、お仕置きタイムはじめまーす」

そうして桜は片手を金土の首元に当て、もう片方の手を大きく振りかぶった。そして、握られていたアイスピックはそのまま金土の眼球目掛けて振り下ろされた。

 部屋中に金土の叫び声が響いた。叫び声と言っていいのかわからない。そんな悲鳴。桜が振り下ろしたアイスピックは金土の目に深深と突き刺さっていた。拘束された金土は、潰された目を押さえることすらできない。目元がら大量の血液が溢れ出す。

「離せ…離せよ」

金土は必死に抵抗をした。そして、桜をどかす事に成功した。

「痛っ。酷い、女の子にこんな事するなって最低」

そう言いながらも笑顔を見せる桜。それとは裏腹に叫び続ける金土。

「ああー…」

痛みに耐える金土は、今度は背中を上にして寝転んだ。桜はアイスピックを二本持っていた。もしかしたら桜は両方の目を潰す気なのかもしれないと思ったのかもしれない。そして、うつ伏せになる事によって目を隠そうとした。

 だが、それは全く意味を成さなかった。

「あははー」

桜は金土の背中に乗った。そして、手に持っていたそれを背中に突き刺す。抜いて刺して抜いて刺して…何度も何度も行われる。その度に金土の呻き声がする。

「あー、何かもう疲れちゃった。次行こう」

そう言うと桜は先ほどのダンボールに近づき、再び中身を漁り出した。

「どーれーにーしーよーうーかーなー」

ガチャガチャと音を立てて見定める。今度は何が出てくるのだろう。

「よし、これにしよう」

そう言って取り出したのは鋸だった。

 僕は言葉が出なかった。それを一体どうするつもりなのか、考えるだけでも恐ろしい。それは金土も同じだったと思う。

「お前…何するつもりだよ…」

潰されていないもう片方の目で桜を見つめる金土。背中側のシャツは斑点のように赤く染まっていた。きっとその白いシャツはもっと赤く染められるのだろう。そう思っていた。

 桜は一歩一歩金土に近づく。その足取りは軽く、手に握られてい鋸は鋭く輝いていた。

「来るな…来るな…」

必死に逃げようとする金土。それをあざ笑うかのように近づく桜。

「はーい、動かないでね」

桜は金土の背中に足を置いて動きを封じた。先ほど痛めつけられていた背中に痛みが走ったのか、金土の動きは収まった。

 桜は金土の右腕に鋸の歯を近づけた。そして、一気に引いた。

「ああー!」

抵抗する事もできず、腕に付いた柔らかい肉は簡単にそぎ落とされていく。飛び散る血液は、僕の方にまで飛んできた。そして、肉をそぎ落とした鋸は、次の段階に進んだ。骨を削り始めたのだ。先ほどと違い、硬い物を切断する音が部屋中に響き渡る。

「やめ…て…」

僕は小さくそう呟く。だがそれは、骨を切り裂く音にかき消されていた。

 それから、左腕、両足と切断され、金土は完全に自由を奪われた。まだ殺す気はないのか、綺麗に止血されていた。

「これでもう逃げられないね。今日はこれでお終い。わかってる? まだ死んじゃダメだよ?」

そう言って意識を完全に失い白目を向いている金土の頭を優しく撫でた。

 そうして、金土の腕に付けられていた手錠を外し、首輪のような物を付けた。腕も足ももう存在しない。それで首輪をしたのか。そんな事をしなくても、金土に逃げる事なんてできるはずがないのに…。

「じゃあ私はもう行くね。いい子にしてるんだよ?」

桜は金土を傷つけた道具を全てしまうと、ダンボールを持って部屋を後にした。

 部屋中に充満している血の臭い。コンクリートを染める赤い血液。そして、僕の視線の先に倒れている手足を失った男性。

 もう気がおかしくなりそうだった。桜に出会ってしまってからの日常は地獄だと思っていた。けれど、今の現状に比べると、そんなのはまだ天国だ。僕はもう一度金土を見る。不謹慎かもしれない。でも、僕じゃなくてよかった。そう思ってしまった。いつ僕がこうされるかはわからない。明日には僕も手足を失ってしまうかもしれない。もしかしたらお兄ちゃんもこうされるかもしれない。桜はもう…人間じゃない。


 桜がいなくなってからどれくない経っただろう。何時間? 何日? 時間の感覚なんてもうわからないけど、きっと随分と経っているだろう。

 今まで全く動かなかった金土がようやく目を覚ました。死んだかもしれないと思っていたが、まだ生きていたようだ。金土はゆっくりと目を開けると同時に、痛みに顔をしかめる。麻酔なんて勿論効いていない。激痛が金土を襲う。

「ああ…」

再び言葉にならない声を上げる。そして、できるだけ体を動かさないように顔を僕に向けた。その目は虚ろで、生気は感じられなかった。

「殺してやる…」

僕を見つめてそう言った。見つめる? ちゃんと見えているのかはわからないが、確かに僕に向かってそう言った。

「殺してやる…殺してやる…」

機械のようにひたすらそう呟く。

「殺してやる…殺してやる…」

しばらくそう呟くと、糸が切れたように意識を失った。

 殺してやる…か。そうだろうな、そう思うよな。僕だって桜を殺してやりたいよ。

 お兄ちゃんは元気にやっているだろうか。あの時以来、桜が来ないからわからない。そう思っていたら、随分と機嫌の良い桜がやってきた。何か良い事でもあったのだろうか。桜が感じるいい事とは、お兄ちゃんの事だ。

 桜は部屋に入ると、スキップをして僕の目の前に来た。

「麻衣都、良い子にしてた?」

首を傾げてそう問いかける桜。良い子? 良い子って何だよ。そう思ったが、口に出せるはずはない。何も答えない僕を見ると、つまらなそうにため息を付いて僕から離れた。

 今日の桜は何も持っていない。誰かを誘拐してきたり、拷問の道具を持って生きていないという事になる。良かった。もうあんな残忍な光景は見たくない。そう思った。

「ねぇ麻衣都。麻希都って本当に可愛いのね。改めて惚れ直しちゃった」

自分の頬に手を当てて顔を赤らめる桜。

「もっと可愛い麻希都が見たいの。明日、もっと楽しい光景が見れるかもしれない」

そう言うと部屋を出て行った。

 意味がわからない。お兄ちゃんが可愛い? 桜はお兄ちゃんに何をしたの? お兄ちゃんは無事なの? 桜はわざわざそんな報告をするためだけにここに来たっていうの? 桜の頭の中がわからない。


 しばらくすると、金土は目を覚ました。記憶が曖昧なのか、部屋中を見回し、僕を見つけると鬼のように睨みつける。そして「殺してやる」と再び呟き始めた。僕はそれを黙って聞いている事しかできなかった。

「おはよー、二人とも」

部屋に能天気な声が響き渡る。桜だ。一瞬にして緊張感が走る。桜は何かを引きずりながら部屋に入ってきた。

ああ。人だ。桜は新たに人を連れてきたのだ。

 今度は女の人だった。小柄な女性。まるでお姫様のように静かに眠っている。白くて細い肌に食い込むようにロープでしっかりと固定されていた。

「すごく面白い事が起きるから楽しみにしててね」

そう言うと桜は金土と同様に女性を鎖に固定する。

「さてと」

桜は一度部屋を出たが、二分ほどですぐに戻ってきた。所々金土の血液で染まった拷問道具が入っているダンボールを抱えていた。

ダンボールを僕の目の前に置くと、桜は女性の腹を殴った。

「起きろ」

突然の事に驚いたが、桜は女性を起こしたいらしい。起こすためにそこまでするなんて。腹の次は顔。そして再び腹。意識を取り戻すまで続けられた。

 女性は咳き込みながら意識を取り戻した。

「やっと起きた? 遅いんだよ」

女性は今の状況を全く理解していないようで、呆然としていた。

桜は女性の元を離れ金土の元へ行った。金土は未だに「殺してやる…殺してやる…」と呟いていた。桜は鎖を思い切り引っ張った。その鎖は金土の首に繋がれており、桜が鎖を引けば引くほど金土の体が移動していく。

「おい、お前が会いたがっていた男だぞ」

そう言うと、桜は女性の前に金土を出した。

「きゃー!」

女性は一瞬驚いた表情を見せたが、耳を覆いたくなるような悲鳴を上げた。

「まさとー! まさと嫌―!」

突然目の前に手足がない男性を突き出されたのだ。さぞかし驚いただろう。その女性の前で桜が魔女のように笑っている。

「あははー、いい様。どう? 大切な恋人がこんな目に合っている気分は。悲しい? 苦しい? でも…」

桜は金土の体を女性に投げた。自分の体を庇う事も金土の体を受け止める事もできない女性の体に当たって、金土の体は地面に倒れる。女性の白いワンピースは金土の血液で染まっていた。

「私はもっと苦しかったのよ」

高らかな桜の笑い声と女性の泣き叫ぶ声が入り混じる。

 その時、金土の瞳に女性の姿が映った。

「こ…こ…ろ…?」

「まさと!」

金土な小さく女性の名前を言った。

 そういえば、さっき桜は女性に向かって大切な恋人って言っていた。この心っていう人は金土の恋人なのか…? つまり、先に彼氏が誘拐されて、無残な姿になった時に今度が彼女が誘拐されるって事か。何でそんな事をするの? 残酷すぎるでしょ。

 金土と心は互いに触れ合おうとした。しかし、金土に心に触れる手は存在せず、心は拘束されているためにそれは叶わなかった。

「正人、どうして…どうして? ずっと探してたんだよ」

「ごめんな、心」

「どうしてこんな事になっちゃったの?」

「ごめん…心…逃げろ」

「え…? 何?」

「逃げろ…殺されるぞ…」

「はいはーい。そこまで」

二人が再会を果たし、お互いを心配し合っている所に桜の声が重なった。再会してすぐに、二人の関係にピリオドが打たれた。

「約束通り会わせてあげたでしょ? もうお終い」

僕の視界が真っ赤に染まった。それと同時に僕の足元に何かが転がってきた。

「ひっ」

首だ。金土の首が胴体から離されて僕の元に転がってきたのだ。

「きゃー!」

僕以上に返り血を浴びた心の目の前に斧を持った桜が立っていた。まだ痙攣している金土の体は、次第に大人しくなっていく。そして、完全に動かなくなった。それは、金土の命が尽きた事を意味していた。

「ああー! 正人―!」

泣き叫ぶ心。それとは対照的に、僕の心は妙に落ち着いていた。どうしてかはわからない。もしかしたらこうなる事を予想していたからなのかもしれない。それともやっぱり、自分じゃなくて良かった。その想いが強かったからかもしれない。どちらにしろ、目の前の光景を黙って見つめている僕は狂気以外の何者でもないのかもしれない。


 金土が殺されてから、心はずっと叫び続けていた。桜は心を無視して、持ってきたダンボールの中身を漁っていた。今度のターゲットは心かな。それとも僕かな。そんな事を考えていた。

「これにしよー」

桜はダンボールからアイスピックを取り出した。金土を始めて傷つけた物だ。アイスピックには、ふき取れていない血液が付着していた。それは、金土を傷つけた物と一緒の物だった。

 桜はそれを持って、未だ恋人を失って涙を流している心の元へ向かった。桜はしゃがむと、安らかな目で心を見上げた。

「悲しい?」

と、それだけ聞いた。

「悲しいよね。大切な人を失うって本当に悲しいよね。私の苦しみわかったかしら?」

アイスピックを心を頬に当てながら聞く桜。心は目を見開いて桜を見つめる。そして、激しく体を震わせていた。

「悲しい? 苦しい? ねぇ、どうなの?」

それでも心は何も答えない。桜は痺れを切らしたように怒鳴った。

「何か答えろよ」

心の体が一層強く跳ねた。そして、身の危険を最大限に感じたのか、必要以上に首を縦に振った。その姿を見て、桜は満足した表情を見せた。

「始めからちゃんと反応すればいいのよ」

そう言って、アイスピックを心の右目に刺した。

「愛しい恋人と同じ死に方させてあげる」

桜の腕の力は強さを増していく。まるでネジをはめようとするかのように目の奥に入り込む。

「私は優しいから、全て一緒にしてあげるわ。愛する人と同じ死に方。本望でしょ? しかも、その愛する人は目の前にいるんだもの」

心の目の前には、つい先ほど殺された金土の死体。手足に首までなくなった胴体だけとなった金土の体は、もう金土であったかもわからなくなっていた。その死体を見ながら死んで行けというのか。

「あら?」

突然桜が手を止めた。

「そういえば、あなた達の愛は偽者だったわね」

偽者? どういう事だ?

「あなたは愛する人を信じてあげられなかった。つまり、あなた達の愛は偽者だったって事ね。それなら、わざわざ同じにしてあげる必要はないわね」

そうして、今度は左目にアイスピックを刺した。金土が刺されたのは片目だけだった。しかし、今回は両目とも潰されてしまった。これで、心の目は完全に両方とも見えなくなってしまったのだ。

 心は愛する人を信じてあげられなかった? その言葉にどんな意味が込められているのかはわからなかった。

 両目の視力を奪われた心は、口を金魚のようにパクパクさせていた。痛みによるものなのか、それとも恐怖によるものなのかはわからない。しかし、視界からの情報が完全に絶たれた状態で今後も拷問を受け続けるのか。目が見えなくなる事で、きっと今まで以上の恐怖が心を支配していくだろう。

「はーい。取り合えず、今はここで終了」

桜はそう言うと部屋を出て行った。残されたのは僕と心。

 相変わらず心は何も喋らない。その代わり、心の荒い息遣いが部屋中に響いていた。

「大丈夫?」

返事が来るかどうかはわからなかったが、一応聞いてみた。

「誰?」

微かにだがそう返ってきた。何も見えない目で僕を探そうとしているのか、首を小さく動かしている。

「僕は席市麻衣都っていいます」

「せきいち…まいと?」

「はい」

 心から返事が来たからといって、何か話しがあるわけではない。僕は会話を続けられずにいた。そんな僕の心境を知ってか知らずか、話を続けたのは心だった。

「どうしてここにいるの? 私を見張ってるの?」

「え?」

「私も正人と同じ目に合うんでしょ? 正人はどこにいるの? 私の近くにいる?」

そう聞いてきた。

 心が正人と同じ目に? それは否定する事ができない。きっとそうなるから。少なくとも桜はそうするつもりだろう。

「金土さん…君の目の前にいるよ」

先ほどと何も変わらない金土。誰かが動かさない限り、これからもずっと変わらずそこにいるだろう。誰かに見つけてもらうまで、この暗い地下で無残な死に方を晒していくだろう。

「あなたはどうしたいの?」

「どういう意味?」

「あなたは私の見張り役なんでしょ? さっき誰かが出て行ったみたいだけど、あなたはいつまで私を見張っているの?」

どうやら心は僕の事を桜の仲間だと思っているらしい。

「違うよ、僕はあいつの仲間じゃない」

心は僕を誤解しているようだった。難しいかもしれないが、僕は心の誤解を解こうとした。

「僕も君と一緒。ここへ連れて来られたんだ」

「どういう事?」

「君と一緒にここから逃げたい。だから僕を信じて欲しい」

「あなたも…連れて来られた?」

「そうだよ」

「どうして?」

「あまりにも現実味がない話だけど、聞いて欲しい」

「嫌」

「え?」

「嫌、聞きたくない」

「どうして?」

「誰も信用できない。あなたは私を殺そうとしているんでしょ?」

「違うよ、僕はそんな事しない」

「嘘よ!」

心は完全に僕を疑っているようだ。

「私が信じているのは正人だけ。でも正人はもういない。正人はもう…いない…」

もしも目が使えたのなら、きっと涙が零れ落ちただろう。視界を奪われただけではない、今の心には涙を流す事すら許されないのだ。

「あなたが仲間でないのなら、どうして黙ってみていたの? どうして正人を助けてくれなかったの?」

「それは…」

僕だって助けてあげたかった。でも、それができなかったから辛いんだよ。

「私の目が見えない事をいい事にデタラメを言わないで。あなたは正人の事も私の事も助けてくれなかったじゃない。なのに今更私の見方? そんなの有り得ないじゃない」

それが彼女の言い分だ。

 もしも目が見えていたら何かが変わっていたかもしれない。今の僕の状況を目で見て確認できるのだから。自分と同様に傷だらけで鎖に拘束されている姿を心に伝える事はできない。

「僕の事…信じてくれない?」

「信じれるわけないじゃない。もう何も言わないで」

聞きたくない。そのような感じで言われてしまった。

 金土の時と同じだ。どんなに僕が頑張ろうとも、僕の言葉は届かない。ここへ連れて来られた人から見れば、僕は桜の仲間だと思われているらしい。もしも信じてくれたところで、桜から逃れる術はないのだから意味はないのかもしれないけれど。

 そうして桜がやってきた。

「おはよう、いい子にしてた?」

桜はダンボールを漁っている。ああ、また始まるのか。今度は一体何をするつもりなのだろう。

 桜の手に握られているのは、金土と同じ鋸だった。

「金土と同じにしてあげるって約束したんだっけ。だったらこれだね」

そう言って鋸を持って心に近づく。

「愛していないって言っても、多少は好きだったんでしょ? もう目は両方とも使えないから、後は全部同じにしてあげる。私ってやっぱり優しいね」

桜の声を聞いて同様し始める心。これから始まる事は心にも想像できたはずだ。目を潰す事以外すべて金土と同じになる。つまり、両手両足を失う。そして、最後に首を刎ねられる。

「やめて…やめて…」

心は無意味な言葉を呟く。

「やめて…もういいでしょ」

僕も呟く。桜に届いているかはわからない。いや、きっと届かない言葉なのはわかっている。でも、もしかしたら届くかもしれない。そう願ってひたすら言い続けた。

「あははー、だーめ」

桜僕達をあざ笑うように心の右腕に合わせた鋸を引いた。心の叫び声と共に真っ赤なしぶきが飛ぶ。

「ぜーんぶ切ってあげる」

そう言って、左手、右足、左足と順番に切り落としていく。その頃には、もう心の意識はなくなっていた。

「なーんだ。もう終わっちゃった」

その動作は一瞬のように感じられた。先ほどまで存在していた心の体は、見るも無残な姿に変わっていた。

つまらなそうにため息をつきながら、桜は金土の時と同様、すばやく止血をした。随分と慣れたものだな。どう見たって素人には見えない。どこかで学んだのだろうか。

 すべてを終えると、桜は部屋を出て行った。全く動かない心。もしかして死んでしまったのではないだろうか。そう思った。

 その後も、心の意識が戻る事はなかった。何度呼びかけても何も反応はない。荒い息遣いも聞こえない。血の気は完全に引いていて、生きているとは到底思えなかった。

直接確認をしていたわけではないし、医療の知識が全くない僕では良くわからないけど、止血をしたとはいえかなりの出血をしていた心は、この時すでに死んでいたと思う。


 いつまでこれが続くのだろう。もう二人も殺されたのだ。お兄ちゃんは無事なのだろうか。金土はお兄ちゃんの友達って言っていたし、恋人である心もきっとお兄ちゃんの知り合いだ。つまりお兄ちゃんの周りから二人の消えているという事になる。お兄ちゃんも不思議に思っているはずだ。金土と心がどういう人間かはわからないけれど、消えた事に関して捜索願とか出されているかもしれない。警察沙汰になれば、もしかしたら助けが来るかもしれない。ここがどこかはわからないが、もし誰かがここを見つけてくれたらすぐに全てを伝えてお兄ちゃんを守ってもらえるように頼もう。

 二人分の死臭が酷い。はじめは本当に吐き気がすごかった。一生見ることがないであろう無残な死体を目の前に置かれ、それが腐っていくのを眺める。今の季節は何だろう。涼しいとはいえないこの気温では、腐るだけとなった肉体は腐敗するスピードを増していく。

 桜がこの部屋に戻ってきた際、心が死んでいるのに気づき、随分と荒れていた。ナイフを使い、心の肉を次々に削いでいく。最終的に自分の手で殺す事ができなかった事に対して怒り狂っているのかと思ったが、そうでなないらしい。

どうやら、大した苦しみもしないで楽になった事が許せないらしい。

 心は十分苦しんで死んでいった。それなのに、それじゃあまだ足りないというのか。僕には理解ができない。そもそも、金土も心も苦しまなければいけない事はなにもしれいないのに。

 桜は金土と心の首を拾って僕の頭の上の壁に置いた。僕からは見えないが、どうやらそこには丁度首を置けるスペースがあるらしい。切断した首を並べるって、どんだけ悪趣味なんだよ。


 それから少し経ち、桜は三人目の人間を連れてきた。また女性だ。いつもと同じく、女性は意識を失っていた。桜は女性を鎖に繋ぐと、どこかへ行ってしまった。部屋には僕と女性の二人だけ。僕は女性の意識が戻るのを待っていた。

 しばらくすると、女性は目を覚ました。ここがどこかわからない様子で、辺りをキョロキョロと見回している。女性の向いている方向からして、まだ二人の死体は見えていないようだ。そして、女性の目に僕の姿が映った。

「恵子ちゃん」

「え?」

「恵子ちゃん、どうしたの?」

「え? いや、あの…」

「どうしてそんな所に…私もどうして…動けない…」

恵子? 桜と間違えるのならまだわかるが、恵子…? 誰?

「恵子…? って誰?」

僕は聞いた。すると、女性は驚いた様子で僕を見上げる。

「恵子ちゃん? 私、神崎真実。わからないの?」

神崎真実? 知らないな。彼女もお兄ちゃんの知り合いなのだろうけど、桜は彼女を連れてくる際、恵子と名乗っていたのか? それとも、部屋が薄暗いため、僕を恵子という人物と見間違えているのか?

「僕は恵子じゃないよ。関市麻衣都って言います」

取り合えず自己紹介をする。

「まいと?」

「はい」

ここへ連れてこられて三度目の自己紹介。この女性、神崎はこの後どういう反応を見せてくれるのだろう。今までと同じで僕を疑うか、それとも、僕を信じれくれるか。

「関市麻衣都…麻希都とどういう関係よ」

神崎は突然声を荒げた。

「麻希都…関市麻希都は僕のお兄ちゃんだよ」

すると女性は目を見開き、動く事ができない体を駆使し、必死に僕から離れようとした。

 移動したその場所で、ようやく神崎の目に金土と心の肉片が映った。それだけではない、赤黒く変色したコンクリート。そして、僕の頭上に置かれている二人分の首。

「きゃー」

神崎は嘔吐した。こんな風景、普通に生きていれば一生見る機会なんてないだろう。しばらく苦しそうに咳き込みを続けていた。そして、僕を睨み付けた。

「関市の仲間ね。私をどうするつもりなの? 恵子ちゃんはどこ?」

この女性は一体何を言っているんだ?

「皆して私をはめようとしているんでしょ? ここはどこ? 関市達はどこに隠れているの?」

何を勘違いしているのか知らないが、この口ぶりはまるでお兄ちゃん達が神崎を監禁し、二人を殺害したと言っているようだった。

「ふざけないでよ。あんた達、自分が何をしているかわかっているの? ずっと近くにいて、私を…私達をはめようとしていたんでしょ? 全部恵子ちゃんから聞いたの。もう騙されない」

どうやら、神崎は恵子という人物から嘘の話を聞かされているらしい。

 お兄ちゃん達がいたずらに神崎を苦しめて、それを見方のふりをして眺めていた。恵子は十年近くの大切な親友。お兄ちゃん達から逃げるため、気づかれないように部屋から脱出し恵子に助けてもらったが、気がついたら拘束されてここにいた。というのが今までの流れらしい。

「あんた達はそんなに私が憎いの? 私、何かした? そんなひどい事をされなきゃいけない理由、私にはないわよ。それに、どうして二人は殺されなきゃいけないのよ」

「違う、お兄ちゃんはそんな事しない。お兄ちゃんは本当に君達を守ろうとしっていたんだ」

「まだ嘘をつくの? もうやめて、全部恵子ちゃんから聞いているのよ」

「恵子なんて人物は存在しないんだ」

「ふざけた事言わないで」

「ふざけてなんかいない。君を騙しているのはお兄ちゃん達じゃなくてその恵子って人物なんだ」

「そんなわけないじゃない」

「本当なんだよ」

「恵子ちゃんは私の大切な友達よ。関市みたいな逝かれた頭した奴の弟の事なんて信じるわけないじゃない。あんたも関市も皆死ねばいいのよ」

きっと神崎も僕の言葉を信じてくれない。けれど、信じてくれなくてもいい、本当の事を知って欲しかった。

「あなたがそんな姿でここにいるのも計画なんでしょ? わざと捕まったふりをして私に仲間意識をもたせようとしたの? そんなの無駄よ。あいつらはどこよ」

「僕の言葉を信じてよ」

恵子って人物は間違いなく桜の事だ。桜って名前も偽名みたいなものだが、どうして桜と名乗らず恵子と名乗ったのかはわからない。そんな理由を知ったところで意味ないか。桜の事だ、どんな理由があろうと、僕に理解なんてできるはずはない。

 それよりも、神崎はお兄ちゃん達を疑っている。僕がお兄ちゃんの弟だという事を教えたのは迂闊だったな。僕の信用は完全に失ってしまったようだ。まぁ、今までも僕を信じてくれた人はいなかったわけだし、もし桜が神崎に嘘を吹き込まなかったとしても僕を信じてくれた保障はどこにもないわけだなのだが。

「私の事見てるんでしょ? 隠れてないで姿見せなさいよ」

神崎がそう叫んだ。

「誰でもいい。早く出てきなさいよ。関市、弟にこんな事させてないで、直接自分が出てきたらどうなの? 大谷も坂上も佐久間もよ。皆で見てるんでしょ?」

すると、扉の方から笑い声が聞こえてきた。そして、腹を抱えた桜が入ってきた。桜の足元には、ダンボールが置かれていた。

「え…どうして?」

お兄ちゃん達が入ってくると思っていた神崎は、呆然としていた。

「恵子ちゃん?」

やはり、神崎が言っていた恵子とは桜の事だったか。

「あー、面白かった。あんた本当に馬鹿な女ね。まさかここまで騙されてくれるとは思わなかったわー。この状況でもまだ私の事信じてるとはね」

そう言ってダンボールを漁る桜。

「けど」

そして一本のナイフを取り出した。

「私の麻希都を酷く言った事は許さない」

その後は見ていられるものではなかった。無抵抗な神崎を、一心不乱に滅多刺しにしていたのだ。桜が恵子と名乗っていた理由も、どんな嘘をついてお兄ちゃん達を悪者に仕立て上げ自分を信じ込ませたのかはわからない。しかし、最後まで信じていた友人に裏切られ殺される神崎の気持ちは、一体どのようなものだったのだろうか。

「勢いあまって簡単に殺しちゃったじゃない。本当はもっと苦しめるつもりだったのに」

人間だった面影は一切ない。今までで一番無残な殺し方をされていた。

「さてと」

後はいつもと同じ。斧を使って首を切断した。そして、僕の頭上に置かれている金土と心の横に並べた。



 今までの出来事を一通り話終えた。隆治は僕の隣でただ黙って繋がれていた。お兄ちゃんと隆治に僕が知っている事実を伝える事ができたかはわからない。話している僕ですら認められない事をいきなり言われて、二人の頭ではどのように変換されているかはわからない。すこしでも正しい事実を受け入れて欲しいと思うだけだった。お兄ちゃんは泣いている。どうして泣いているの? やっぱり気持ち悪かったよね。わかってる。

「ごめん…麻衣都」

え? 何? 僕がお兄ちゃんを好きになったりしたからいけないんだ。僕のせいでお兄ちゃんが苦しんでいるんだ。そうでしょ? なのに何でお兄ちゃんが誤るの?

「ごめん麻衣都。俺のせいでお前まで苦しい思いさせて。俺が梨花と付き合ったりしたせいでこんな事になって」

お兄ちゃんは嗚咽を漏らしながら言った。

 どうしてお兄ちゃんが誤るの? 確かにお兄ちゃんは梨花と付き合っていた。けどお兄ちゃんは何も悪くないじゃないか。

「知ってたよ。麻衣都が俺に好意を寄せているのは」

「え?」

お兄ちゃん、今なんて言った? 僕がお兄ちゃんを好きって事を知っていたの? ずっと隠していたつもりだったのに。いつから気づいていたのだろう。それに、僕の気持ちに気づいていたっていうなら、どうしてずっと普通に接してくれていたの?

「どうして? いつから気づいていたの?」

僕はやっとの想いでそれを聞いた。

「ずっと前から気づいてた。けど、お前は…麻衣都は俺の大切な弟だからだよ。たった一人の大切な弟」

え? 僕がお兄ちゃんの大切な弟…?

「言っただろ。ずっと昔。まだ麻衣都が小さかった頃に。俺が麻衣都を守るって」

 夢にまで出てきた昔の光景。僕は転んで足から血を流して泣いていた。“僕はまいのお兄ちゃんだからね。僕がまいを守るよ。これからもずっと守るから、何かあったら僕に相談してね”こんな歪んでしまった僕までも守ってくれるというの?

「ごめんな麻衣都。お前の気持ちを知っていながらずっと知らない振りをしていた。俺が麻衣都を守るとか言っておきながら、ずっと見て見ぬふりをしていた。その間麻衣都がどんな辛い思いをしていたかなんて考えもしなかった。お前は何も悪くない。お前はずっと苦しんでいたのに俺は余計にお前を苦しめた。本当にごめん」

僕の目から大粒の涙が零れ落ちた。全部知っていたんだ。苦しんでいたのは僕だけじゃない。きっとお兄ちゃんだって僕以上に苦しんでいた。知らないふりをしていたのはお兄ちゃんのためじゃない。僕のためなんでしょ? お兄ちゃんが僕の気持ちを知っているっていう事を僕が知ったら僕が余計に嫌な思いをする。中学を卒業するよりずっと前にお兄ちゃんの前から姿を消すって気づいていたんでしょ? やっぱりお兄ちゃんに嘘は通じないね。今もずっと僕に付けられている鎖を外そうと必死になってくれているお兄ちゃん。世界で一番愛しい人。もう何も我慢しなくていいの?

 お兄ちゃん、大好きだよ。そして…。

「助けて…お兄ちゃん。死にたくない」

お兄ちゃんの傍にいたい…。どうか、届いて…。

「当たり前だ」

昔と同じ。とても頼れるお兄ちゃんの言葉。昔僕を守るって言ってくれたお兄ちゃん。僕の気持ちを知ってなお僕の見方でいてくれたお兄ちゃん。ずっとずっと秘めていた想い。ようやく届いた。


 僕の鎖を何とか外そうとするお兄ちゃんを見上げる。お兄ちゃんの額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 お兄ちゃん…。

 ガチャガチャと無機質な音をたてるだけで、鎖が外れる気配は全くない。いつ桜が戻ってくるかわからないこの緊張感の中、僕は何もする事ができない。

「あ…。ごめん、麻衣都」

え? 何?

「痛かったよな。ごめんな」

お兄ちゃんが何に対して誤っているのかはわからなかったが、お兄ちゃんが触れている僕の右手を見たときにその意味を理解した。僕の手首から赤い血液が流れていた。お兄ちゃんが鎖を動かした事によって、真新しい傷ができていたのだ。お兄ちゃんは自分の服の袖を使って、僕の右手首から流れる血を優しく拭った。

「大丈夫だよ、お兄ちゃん」

僕は小さくそう答えた。


「あ、ああ…」

隆治が突然呻き出した。隆治は扉の方向を向いている。何かあったのだろうか。お兄ちゃんが僕の目の前にいるせいで、僕には何も見えなかった。

「隆治?」

僕には何が起きたかわからなかったが、何となく想像はできた。

 人は得体の知れない気配を感じた時、一番最初に思い浮かべるのは自分が一番恐ろしいと感じるものだという話を聞いた事がある。今回、想像ができたというよりは、その考えに近いのかもしれない。自分が一番恐れているもの。

「さ、さくら…」

そう、僕達をここに閉じ込め、何人もの人を殺害した女。斉井桜。いや、森下梨花。

隆治の言葉を聞き、お兄ちゃんは僕に繋がれている鎖から手を離し、ゆっくりと後ろを向いた。

「梨花」

悲しそうなお兄ちゃんの表情。何か思いつめているのかな。

 お兄ちゃんがずれてくれたおかげで、桜の姿をしっかりと確認できた。桜は何かを引きずっていた。どうやら男性のようだった。今までと同様、手足を縛られている。桜はまた人を誘拐してきたのか。僕の知らない人。桜が誘拐してきたという事はまたお兄ちゃんの友人かな。

「貴一…」

お兄ちゃんはそう呟いた。貴一? やっぱり知らない人。

「どうして貴一が…」

隆治が言った。お兄ちゃんと隆治の友人か。桜はお兄ちゃんの友人を一人一人消していってる。

 僕はもう見慣れたけど、お兄ちゃんと隆治は実際に誘拐されているのを見るのはこれがはじめてのはずだ。

 貴一と呼ばれた男性は気を失ってはいたけど、まだ生きているようだ。しっかりと息をしている。だが、ここに連れて来られたという事は、このまま生かしてはもらえないだろう。

 桜はお兄ちゃんを見ると、一層笑顔を見せた。僕と全く同じ顔をした桜。やはり、何度みても慣れるものではないな。桜は男性から手を離した。

「麻希都。こんなところにいたの? 探しちゃったじゃない」

そう言ってお兄ちゃんに近づく桜。お兄ちゃんに近づくって事は、僕達に近づくって事。

 嫌だ! こっちに来ないで!

 桜を見た途端に、今までの光景がフラッシュバックしてくる。僕の前に突然現れ、ストーカーが始まり監禁生活が始まった。毎日のように行われる暴力に、目の前で行われた残虐な殺人。

「うわー!」

僕はその場で嘔吐した。それは、目の前にいたお兄ちゃんにかかり、布に吸収されきれない物が床に散乱する。

「麻衣都!」

お兄ちゃんと隆治の声が重なる。そんな事はお構いなしに、桜との距離は近づいていく。

 嫌だ、嫌だ、来ないで! 殺される。声にならない叫び声を上げる。

「来るな!」

部屋中にそんな声が響いた。

 誰…?

「それ以上こっちに近づくな。梨花」

お兄ちゃんだ。お兄ちゃんの声だ。お兄ちゃんは桜を睨みつけてそう言った。

 桜はきょとんとした顔をしていた。何故そんな事を言われたのかわからないような表情。

「どうしたの? 麻希都。どうしてそんな事を言うの?」

悲しそうな桜。

「どうして? 私はあなたを愛しているの。麻希都もそうでしょ?」

「ふざけるな。梨花、一つだけ教えてくれ。本当にお前が皆を消していたのか?」

現に目の前で桜が貴一を連れてきたし、本当は聞かなくてもわかったはずだが、わずかな希望を持ってそう聞いたんだと思う。

 桜は不気味な笑みを浮かべた。そして、答えた。

「そうだよ」

この時、お兄ちゃんは何を思っただろう。お兄ちゃんは優しいからな、きっと傷ついただろうな。

「そうか」

すぐ近くにいる僕ですら聞き取るのが困難なほどに小さく呟いた。



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