桜
十年前、私には大好きな彼氏がいた。関市麻希都。彼は学校でも人気者。皆から好かれていた。私もそう。彼が大好きだった。だから私は彼を恋人にするって決めたの。どんな手を使っても、彼を手に入れる。だって私は可愛いもの。彼にふさわしいのは私だけ。美男美女のカップル。きっと周りからもそう思われるわ。麻希都に恋をしてからしばらくが経った。ようやく私は麻希都の彼女になったわ。まわりからは祝福の嵐。中には妬む子もいたわ。けど気にしない。麻希都が選んだのは私なのだから。私は一生麻希都を愛し続けるわ。麻希都と結婚するの。もう麻希都以外の男なんて眼中にないわ。
それからは毎日が幸せだった。麻希都に会えないときは、毎日メールと電話をした。私に麻希都がいない人生なんて送れない。麻希都もきっと同じ。私がいないと生きていけないはずよ。だってそうでしょ? 私達は愛し合っているんだもの。
麻希都はよく大谷隆治という男と一緒にいた。大谷と一緒にいるときの麻希都は何やら楽しそうだった。私といるとき以外にその笑顔を見せるとは何なの? 麻希都。それは浮気なの? 私は危機を感じ始めた。大谷隆治。奴が邪魔よ。
私は麻希都に相談をした。麻希都が他の人と仲良くするのが心配だって。そしたら麻希都、わかったって言ってくれた。あまり他の子と仲良くしないって言ってくれた。本当は一切関わりを絶って欲しかったのだけれど仕方ないわ。麻希都のためだもの少しくらいは我慢するわ。
それから数日が過ぎた。私はいつも通り麻衣都に電話をした。けれど麻衣都は電話に出てくれなかったの。寂しくなって私は直接麻衣都の家に行ったわ。そしたら、麻衣都の家の近くで麻希都を見つけたの。麻衣都は女と歩いていた。楽しそうに。女は麻衣都に触れていた。許せなかった。私の麻衣都に触る女も。私以外の女に触る麻衣都も。私の中で何かが壊れた。だってそうでしょ? 私の連絡を無視して他の女と会ってるなんて許せるはずがないじゃない。しかも麻希都は他の子とあまり仲良くしないって約束してくれたのよ。これは完全な裏切り。許せるはずないじゃない。その後、麻希都と女は一緒に家に入っていったわ。これは言い逃れできないはね。麻希都が浮気……。
私は翌日麻希都に話をした。
「私の連絡を無視して女と会うなんてどういう神経をしているの? これは浮気よ」
って。そしたら麻希都何ていったと思う?
「昨日連絡をしなかったのは悪いと思っている。けど昨日一緒にいたその子は俺の弟だ。弟は昔からよく女に間違われるんだよ。兄弟なんだからそんなに怒らないでくれないかな」
なんて言うの。まるで私が悪いみたいじゃない。あの子が男? 兄弟? 嘘をつくならもう少しマシな嘘を考えたらどう?
「そんなの信じられるわけないじゃない。昨日の女の事だけじゃないわ。それに、他の子とあまり仲良くしないって言っていたのにこないだも大谷と一緒に食事に行ったでしょ。私知ってるんだからね」
麻希都は驚いた表情を見せた。私が知らないとでも思った? 馬鹿ね。私には何だってわかるのよ。私は麻希都を愛しているから。
「そんな事も許してくれないのか…」
麻希都はそう言ったの。私には意味がわからなかったわ。
「隆治は男だぞ。それくらい許してくれよ」
麻希都は呆れた様子でそう言ったの。他の子と仲良くしないって約束してくれたのは麻希都なのよ。その約束を破るどころか私を哀れむような目で見てくる。浮気を突きつけられたらくだらない言い訳。私はこんなに愛しているのに、どうして麻希都は私の愛に答えてくれないの?
「もう帰るわ」
そう言って麻希都は立ち去っていく。何で。どうして私の愛に答えてくれないの? どうして帰ろうとするの? ああ、そうか。麻希都は私に嫉妬して欲しいのね。そうか、だからこんな酷い事ばっかりするのね。ごめんね麻希都。あなたの想いに気がつかなくて。でももう大丈夫。もう麻希都に寂しい思いなんてさせない。
それから私は今まで以上に麻希都に連絡をした。一日に何百通も送った。電話も何回もしたわ。麻希都が学校に遅れない様に、毎日家の近くまで迎えに行った。学校でもいつも一緒よ。私と麻希都が違う授業の時は、私は自分の授業を休んで麻希都と一緒に教室に行くの。他の誰かと一緒にいる事なんて許さない。もう誰も私たちの間に入る事はできないわ。やりすぎ? 何の事? 私は麻希都を愛しているの。麻希都も私を愛しているの。だから、これくらいが丁度いい。最近、麻希都の近くに寄ってきた邪魔者たちがいなくなったでしょ? 良かった。ようやく皆いなくなった。頑張った甲斐があったわ。でも気にしないで。麻希都のためだもの。これくらいたいした事じゃないわ。むしろ、麻希都との愛が深まって嬉しかった。
でも、そんな日々も一瞬で崩れ去った。私は麻希都にばれないように麻希都の携帯を確認したの。そしたら、頻繁に大谷と連絡を取っていたのよ。最近ようやく傍に来なくなったと思ったのに、大谷は未だに麻希都に絡んでいたの。信じられる? 私に黙ってそんな事をしていたのよ? 私はすぐに麻希都に確認したわ。そしたらあっさり認めた。
「いいでしょ別に」
ですって。信じられない。それだけじゃない。
「別れよう」
そんな事を言い出したの。私は頭が真っ白になった。
別れよう…?
確かに麻希都の口からそう言われた。何で? 私はこんなに麻希都を愛しているのに。
「嫌…絶対に嫌!」
私は必死に否定した。何で麻希都がいきなりそんな事を言い出したのかわからなかった。一時の気の迷いよ。本当に別れたら、後悔するのは麻希都のほう。だから、絶対に別れちゃダメ。麻希都のためにも。麻希都には私がいないとダメなんだから。けれど、麻希都が考えを改める事はなかった。
「別れよう…」
そう言って麻希都は去ってしまった。
なんで…どうして…。
私は一人泣いていた。世界で一番愛している麻希都が私の元からいなくなってしまった。麻希都は別れる理由は言わなかった。いや、きっと言えなかったのよ。私のために。麻希都だって別れたくなかったはずよ。けど、別れなければいけない何か理由があったのよ。麻希都は必死に悩んでその答えを出したはず。なのに私はその悩みに気がつけなかった。情けないわ。麻希都は今も悩んでいるはず。愛しい私を失って。待ってて麻希都、今度は助けてあげるから。
それから私は毎日麻希都の周りを観察したわ。私だけに向けられていた笑顔が、知らない人間に向けられていた。その人は誰? 何でそんな人間に笑いかけているの? 私には理解ができなかった。私が愛しているのは麻希都。麻希都が愛しているのは私。ねぇそうでしょ? なのに何で…。ああ。わかった。脅されているのね? どう脅されているのかはわからないけど。私と別れろって言われているのかしら? それとも、何か弱みを握られているのかしら? 直接聞いていないからわからないけど、こうやっていつも麻希都を見ていればいずれわかるわね。
麻希都が特に一緒にいたのは大谷隆治。やはりこいつね。いつも私の麻希都にくっついて。本当に目障りだわ。それともう一人。こいつはもっとたちが悪い。関市麻衣都。以前麻希都と一緒にいた女。弟って言ってたけど、本当だったのね。全く似ていない。男らしい麻希都とは真逆。どう見たって女じゃない。気持ち悪い。私の麻希都に近づかないでよ。
弟は麻希都と兄弟。麻希都と一緒に暮らしている。私の知らない麻希都を知っているの。許せないわ。そんな奴には痛い目みせてあげないと。
ゆっくり。ゆっくり。私は麻希都を奪い返すわ。確実に。そして美しく。麻希都のためだもの。失敗なんて許されない。麻希都の事だわ。私が何をしても許してくれる。そして、昔のように笑って名前を呼んでくれるはずだわ。
私は全てを捨てて麻希都に捧げた。麻希都のためだったら何だってできるの。私は今まで以上に麻希都の周りを観察したわ。
麻希都に近づくゴミはね、大谷と弟以外にもいたの。佐久間一輝。神崎真美。坂上貴一。金土正人。信じられる? こんなにたくさんのゴミが溜まっているのよ。しかも、その中には女もいる。神崎真美。こいつは特に許せないわ。こいつらは、学校以外でも麻希都に付きまとっているの。いろんな場所に麻希都を連れまわすのよ。麻希都がかわいそうでしょ。やっぱり私が助けてあげなくちゃ。麻希都を助けてあげられるのは私しかいない。
そして私は本格的に麻希都を取り戻す計画を立てたの。難しい問題ね。麻希都を私だけのものにするのは。必死に悩んだわ。今までにないくらいにね。そしてついに思いついたの。丁度いいタイミングで麻希都の弟が家を出たの。それはきっと運命ね。これならきっと大丈夫。私と麻希都は二人きりになれる。
麻衣都が引っ越した先は、麻希都の家からかなり遠い衣場所だった。これじゃ通うのは絶対に無理ね。麻衣都が家を出たのは良かったけど、この距離じゃさすがに私もきつい。何がきついって? 麻希都を見つめながら麻衣都に近づく事よ。でも私はやってみせるわ。だって麻希都のためだもの。私は麻希都のためなら何だってできるの。愛しているからね。それから私は麻希都のいる町と麻衣都の周りを往復する毎日を始めたの。
麻衣都に近づく事は簡単だった。麻衣都は思ったとおり私の顔を覚えていたから。だから私は適当に理由をつけて麻衣都に近づいた。本当は私が麻衣都に近づいている事を麻希都に言わないでって釘を刺しておこうと思ったけど、どうやらその必要はないらしい。詳しくはわからないけど、麻衣都は余計な事は絶対に言わない。もしかして麻希都を避けているの? 他所から見れば、かなり仲の良い兄弟に見えたけど、実際はそうじゃないのかしら。まあいいわ。どうせすぐにわかる事だもの。
麻衣都の事は良いとして、次は誰にしようかしら。そうね、男は正直どうでも良い。女が男を操るのなんて一日あれば十分だもの。取り合えず、女の信用を得ないとね。いざという時は、馬鹿な男よりも女のほうが使えるもの。
私は神崎真美に近づいたわ。女同士の友情って案外楽なの。趣味が合えば誰とでも友達になれるんだから。私は神崎の周辺を徹底的に調べた。神崎の趣味。日課。好きなタイプ。どんな些細な事でもいい。神崎の情報をとにかくたくさん入手したわ。
神崎はレティルというブランドが好きみたいね。かわいいお店よ。洋服も売っているし、レティルを全身コーディネートしている子だって珍しくない。若い子には代表的なブランドよ。確かに神崎のようなタイプの女の子にはよく似合うと思う。これは使える。
私はレティルの物をたくさん買いあさったわ。お店にないものはわざわざ通販で購入した。期間限定だったり数量限定の物は何度かオークションで落としたわ。レティル自体安いブランドじゃないっていうのに、オークションになると金額が跳ね上がるの。随分と高い出費になったわね。お高くついた分、ちゃんと計画通りに動いてもらわなくちゃいけないわ。
毎週日曜日に神崎は出かけるの。いつも行く場所はバラバラだけど、今日はいつもよりもラフな格好ね。犬を連れて出てきた。今から犬の散歩かしら。私は全身レティルにコーディネートして、できるだけ目立たないように神崎の後を追ったわ。神崎は犬を連れて近所の公園に来るとベンチに腰掛けたの。そして鞄からペットボトルを取り出して口に含んだ。その間犬は大人しく座っているの。可愛いレティルの服を着せてもらってご機嫌なのかしら。今しかないと思って私は神崎の前に出た。
「こんにちは」
突然声を掛けられて驚いた表情を見せた神崎。
「こんにちは」
「ワンちゃん可愛いですね。あれ、この服もしかしてレティルかな? 可愛い」
私は不自然なくいらいに愛想良く話しかけた。神崎は全く疑うよしもなく笑顔で答えたわ。
「そうなんです。私、レティルが大好きなんですよ。あなたの服もレティルですよね? 可愛い」
「そうなんですよ」
神崎はうまい具合に掛かってくれた。
「今日はこんな感じなんですけど、いつもは私もレティルの服ばっか着てるんです。私物もレティルばっかりで」
知ってるわ。わざわざ言わなくても。あなたの事ならしっかり調べさせてもらっているから。
「そうなんですか? あ、私、内藤恵子っていうんですよ。あなたは?」
「私は神崎真実っていいます。よろしくね」
ありきたりな偽名を使って自己紹介をする。それから、神崎が散歩に行くときに偶然を装って会いに行った。あっという間に二人の距離は縮まるっていったわ。
二人きりで遊ぶ計画も立てて、何度も実行に移した。共通の趣味という事で全く好きでもないレティルのお店や神崎の好きなバンドのライブに何度も行った。正直やってられなかったわよ。こんな事をして何が楽しいの? ただ無駄なお金を使って疲れるだけじゃない。本来だったらやってられないわ。でも私は何としてもやりきらなきゃいけないの。この女の信用を得ないとね。
私は元々器用な性格で、相手の心を思うままに操るのなんて私の得意分野なの。有りもしない私の不幸な過去や今現在の悩みの話。人間って本当に馬鹿よね。そういう話をすると簡単に相手を信用するんだもの。同情って言うの? 私の計算って事も知らないで本当に可哀想な子ね。ゆっくり時間をかけて神崎の心を私のものにしていった。神崎は私の思い通りの人間に成長してくれたわ。神崎は私のいう事なら何でも聞く。私の事は親友だと思っているらしい。本人の前じゃ良い友人を演じているけど、正直言って反吐が出る。
神崎の心を完璧に手に入れるのに九年もかかってしまった。取り合えず、準備はこれくらいでいいかしら。神崎の相手も大変だったけど、同時進行で麻希都の弟の事も見ていないといけなかったから大変だったわ。
神崎と麻衣都。二人の準備は取り合えずこれでいいはずね。それにしても、私はこんな苦労をしているっていうのに、麻希都は毎日楽しそうね。学校を卒業してからは学生時代の仲間とはあまり会っていないみたいだけど、相変わらず隆治とは頻繁に会っているみたいね。本当に邪魔な存在。でももう少し。もう少しで麻希都を私だけのものにできる。
最後の準備。私は麻衣都そっくりに整形した。麻希都がこの世でもっとも大切にしている弟の顔。ねえ知ってる?今の医療技術って本当にすごい。整形が終わって自分の顔を見たとき、本物の麻衣都かと思ったもの。これなら麻希都も納得かしら? あなたの大切な弟の顔よ。それがこの世でもっとも愛しい私がしているんだもの。こんな幸せきっともう味わえないわよ。
そうして、私は再び麻衣都の元へ現れた。あの時の麻衣都の驚いた顔っていったら快感だったわ。突然現れた自分にそっくりな私。そして、それから麻衣都は麻衣都ではなくなる。ただの私の道具になるの。今日からあなたは麻希都の弟じゃなくなるの。今日からは私が麻希都の弟。そして恋人になるのよ。
ここまできたら後は簡単。計画通り偶然を装って麻希都の前に現れた。麻希都は優しいから困っている人を見たら黙っていられないはずよ。思ったとおり。麻希都は私を助けてくれた。私が昔の恋人だって気づいていないようね。よかった。ここで気づかれちゃ意味がないもの。そうして、私と麻希都の距離は一気に縮まっていった。
私はようやく麻希都の恋人になる事ができたの。この日をどんなに待ち望んだ事か。麻希都は私だけのもの。誰にも渡さないわ。
交際を始めてしばらく経った。私と麻希都は順調に交際を続けている。麻希都を私だけのものにするために神崎に近づいたけど、神崎が再び麻希都に近づく様子は今のところないわね。見当違いだったかしら。もし神崎が今後も麻希都に近づかないというのならこれ以上神崎と関わるのは時間の無駄ね。そう思ったのも束の間。麻希都は学生時代の友人とバーベキューに行ったのよ。信じられる? 私がいながら他の人間とバーベキューって…。そのメンバーは大谷、佐久間、神崎、坂上、金土。そして、金土の恋人の大東とかいう女。やっぱり神崎を見ていて正解だったわ。こいつらはまた麻希都の前に現れた。もう許さない。こいつら全員麻希都の前から消してやる。
完全に油断していたわ。元々そのつもりだったじゃない。予定では五人だったけど、大東って女が急遽入ってきた。まぁいい。大東が入ってきたのは想定外だったけど大丈夫。全員麻希都の前から消してやる。私の麻希都に近づいた事を後悔しながら消えろ。もう私は止められない。誰にも止められない。勿論麻希都にだって。
まずは誰からにしようかな。大谷隆治。こいつは一番麻希都の近くにいる存在ね。昔からずっと。こいつは最後にしようかしら。一番最後って一番恐怖を味わえるでしょ? じゃあ最初は金土正人。こいつにしよう。
バーベキューの帰り道、金土は恋人である大東を家まで送ると、今度は自分の家に向かって車を走らせた。人気の全くない道を時速八十キロほどのスピードで走行している。危ないじゃない。そんなスピード出したら。私、こんなところで怪我をするわけにはいかないの。でも仕方ない。行くわよ。私は車の前に飛び出した。金土が運転する車は急ブレーキをかけて、私を撥ねる事なくぎりぎりで止まった。良かった。ちゃんと止まってくれた。でも私はわざと倒れて見せた。予想通り、運転席から慌てた様子の金土が血相を抱えて降りてきた。
「だ、大丈夫ですか?」
大分焦っているようね。なかなか起き上がらない私を見て、金土は携帯を取り出してどこかへ電話をしようとしているみたい。
「きゅ、救急車…」
「待って」
救急車を呼ぼうとする金土を阻止する。そんなもの呼ばれたら私の計画が狂うわ。
「大丈夫です。すみません」
わざと辛そうにゆっくりと起き上がる。
「本当にすみません、急いでいたもので車に気が付かなくて…。痛っ」
本当は全く痛くないのだけれど。右足をさすりながら痛がって見せた。
「大丈夫ですか? やっぱり救急車を…あ、警察を…」
「いいんです」
もう、面倒くさいな。いらないって言ってるでしょ? これだから馬鹿は困るんだよ。
「すみません、私、本当に急いでいるんです。だからもう行きます」
そう言って足を引きずって歩き出す。ああ、この演技するのも大変だな。私は金土からある言葉が来るのを待っていた。
「ま、待ってください」
「はい?」
「どちらまで行かれるのでしょうか、そこまで車でお送りします」
来た。
「え、でも遠いですよ?」
「いいんですよ、悪いのは俺ですから。それくらいしかできないですけど送らせてください」
そう来なくっちゃ。
「それではお願いします」
そう言って私は金土の助手席に乗り込んだ。うまくいった。
「あ、そうだ。俺、金土正人っていいます」
「私は斉井桜です」
金土は自己紹介を始めた。まぁ当然か。見知らぬ女助手席に乗せてるわけだからね。普通だったらここでよからぬ事を考えているのかな。私、可愛いもの。
金土は私の案内を頼りに車を走らせる。だんだんと住宅から離れていき、辺り一面森だけになった。
「こんなところに何があるんですか?」
さすがにこんな道を案内されたら誰だって不思議に思うわよね。
「この道は近道なんですよ。大通りからでも行けるんですけど、遠回りだとさすがに遠すぎて普段はこの道を使うんですよ。もうすぐ抜けますから」
「そうですか」
私の言葉を全く疑っている様子はない。この嘘をまんまと信じるとは本当に危機感のない人間ね。この辺でいいかしら。
「あの、ちょっとすみません」
「はい?」
「一旦止まってもらってもいいですか?」
金土は言われた通りに車を止める。
「どうかしましたか?」
そう聞いてくる金土。本当に馬鹿ね。私はハンカチで自分の鼻と口を隠した。そして、鞄から取り出したスプレーを金土目掛けて噴射した。
一瞬金土が何かを言いたそうな表情をしたけど、何かを言う前に気を失ったわ。うまくいくかわからなかったけど、これは上出来じゃない? 私は車を降りて、ドアの隙間から手を入れてもう一度スプレーを吹きかけた。大丈夫だと思うけど、もし薬が足りなくて途中で意識を取り戻しても面倒くさいし。念には念を。
外の空気はとてもおいしかったわ。さすが木に囲まれているだけあるわね。ここなら森林浴にもってこいだわ。あら、こんな事をしている場合じゃなかった。早くしないと夜が明けてしまう。私は近くに止めてあった車を持って来て、眠っている金土を私の車に移動させた。私みたいな女が一人で大の男を持ち上げるなんてどう考えたって無理じゃない。重たい。でもやらなきゃ。金土の体を地面に引きずりながら、何とか移動する事ができた。金土の体は泥まみれになってしまったが仕方がない。早く移動しよう。私は運転席に乗ると、すぐに車を走らせた。
目的地は最近廃墟になったビル。ここは施錠がしっかりしているため、人は進入してこないだろう。フェンスを開けて入り口のすぐ近くに車を止める。車の中で金土の体をしっかりと拘束すると、車から降ろしビルに入る。ずっと引きずっていたせいで金土の体には擦り傷がたくさんできていたが、起きる気配は全くない。薬の効き目は相当強いらしい。よかった。
階段を下りてある部屋に向かう。部屋に入ると、ある人物を目が合った。その人物は私達の姿を見つけると、心底驚いた表情を見せた。
「はいはーい。お待たせしましたー」
お待たせ、麻衣都君。
「ふー、重かった」
私は持っていた足を離すと、ドスンという音をたてて金土の足は地面に落ちていった。良かったね、麻衣都。これで寂しくないよ。これからとても面白い事が起こるけど、その前に準備が必要なの。だからもう少し待っててね。
私はデジタルカメラを取り出した、金土の寝顔を写真に収めた。安らかな寝顔。これがどんな表情に変わるのか楽しみね。
金土の写真を現像すると、金土の血を使ってメッセージを書いた。これを指輪と一緒に封筒に入れると大東の家のポストに投函したわ。これで準備完了。あとはあなた達が勝手に動いてくれるわよね。
予想通り、いや、それ以上に麻希都は動いてくれた。他の奴らもね。金土がいなくなった現時点では、麻希都が私を疑っている様子はない。よかった。
私は次の準備を始めた。次のターゲットは大東心。こいつは昨日連れてきた金土の恋人らしい。生意気ね。私の麻希都に近づくなんて。しっかりとお仕置きしてあげなくちゃ。
金土がいなくなって、大東は本当に必死になって金土を探していた。金土が行きそうな場所をしらみつぶしに探して、それでも手がかりすら掴めない。滑稽だったわ。どんなに探しても見つかるはずないのに、朝から晩まで走り回って大切な人を探し回っているの。そのほうが面白いのだけど。簡単に諦めたらつまらないじゃない。もっと頑張って。そのほうが地獄に落ちた時の快感が堪らないの。
けれどもう飽きたわ。この女、全く動きを見せないの。ずっと同じ事の繰り返し。面白くない。そんなわけで、優しい私は大東を愛しの恋人である金土に会わせてあげる事にしたの。
簡単だったわ。何かに必死になっている人間ほど思い通りに動く生き物なんて見たことがない。こういうのを馬鹿っていうのね。
私は偶然を装って大東の前に現れた。こんな間近でこの女を見るは初めてね。消えた恋人を思ってずっと泣いていたのかしら? 目の周りが真っ赤に腫れていた。そして私は声をかけるの。
「あの…」
突然話かけられて少しびっくりした表情をした大東。
「はい?」
私よりも小柄の身長で見上げてくる。上目遣いが妙に勘に障るわね。でもここは我慢。こんなところでしくじって失敗なんてしたくないもの。
「あの…あなた金土正人君の彼女さんよね?」
金土の名前を聞いた瞬間、大東の目つきが変わった。
「そうですけど…あなたはどちらさまですか? 正人の事を知っているんですか? 正人とどういう関係なんですか?」
疑り深い目で私を見る大東。さて、ここからは私の演技力が試される番ね。
「あの、私斉井といいます。実は、正人とはだいぶ前からお付き合いさせていただいているの」
それを聞くと、大東はきょとんとした顔を見せた。
「いきなり何を言っているの? 変な冗談はやめてください」
「冗談なんかじゃありません。今、彼は私と一緒に暮らしているんです」
行方不明になって必死に探し回っている恋人と付き合っていると名乗り出た知らない女性。そんな女の心理って一体どんな感じなのかしら?
「そんな…正人と一緒にいるっていうんですか?」
「ええ」
「そんなの…そんなの嘘に決まっているわ」
納得したくないという様子の大東。仕方ないわね。これでどうかしら? 私は携帯を取り出す。そして、ある画像を見せた。
「これが証拠よ」
それは、布団に寝かされた金土と、その横で一緒に布団に入っている私の写真。こんな事もあろうかと撮っておいたの。
「私達、真剣に交際をしているの。でもね、彼ったらあなたに付きまとわれて困っているっていうの。正人が言っても無駄だろうから、私が言いに来たのよ。ねぇお願い。もう正人には付きまとわないで」
大東の目にうっすら涙が浮かぶ。
「そんな…嘘よ…」
信じていた恋人に裏切られた可哀想な女。
「それでね、正人も最後にあなたに一言だけ言いたいらしいの。彼今、私の家にいるの。だから付いてきて。最後に一度だけ正人に会わせてあげる。けど、これで最後にしてね」
勿論冗談。そんな事も知らずに、私の嘘をまんまと信じて絶望的な顔をしている女。
「はい…」
そうして私についてくる大東。移動をしている間、一度も大東は口を開かなかった。
本当に愛し合っている恋人だったら、こんな嘘見破れるんじゃないかしら。それができないっていう事は、結局この二人の愛は偽者って事だったのね。
私と麻希都だったらそんな事は絶対に起きない。私は麻希都を信じているし、麻希都も私を信じている。私達はどんな些細な嘘だって見破れるの。だって愛しているから。私達の愛は本物よ? 誰にも邪魔はさせない。
私と大東は近くに止めてあった私の車に乗り込んだ。私の迫真の演技はここまでね。大東が助手席に座ったのを確認すると、隠し持っていたスタンガンを使い大東を気絶させた。後はあそこに連れてくだけ。とっても楽しい舞台が始まるわ。
日が暮れると、金土が眠っている部屋に大東を運んだ。部屋に入ると、すぐに麻衣都と目が合った。何か言いたそうだったが、何も言わずに視線を大東に向けた。そして、悲しそうな顔をする。私には関係ないのだけれど。
ここからは前回と一緒。デジタルカメラで写真を撮って大東の血液を使ってメッセージを書く。ちゃんと指輪も入れておかないと。金土とペアなのね。これを送るのは神崎真実。麻希都をたぶらかした女よ。絶対に許さない。一番苦しめて殺してやる。
さすがに行方不明が二人となると、奴らの警戒も強くなる。次に消されるのは神崎という事も気づいているわね。そうよ、もっと恐怖に支配されるがいいわ。私が受けた苦しみはこんなものじゃないのよ。
でも、一つだけ誤算があった。神崎と麻希都が同じ部屋で共に過ごしているのよ。信じられない。この女はどこまで傲慢なの。
麻希都がどこにいてどんな話をしているのか私にはすべてわかるの。多少高くついちゃったけど、麻希都のためだもの。仕方ないわ。早く神崎に絶望を与えたい。そのために、ずっと時間をかけて準備してきたんじゃない。
私は一刻も早く麻希都と神崎と離さなければならないと、麻希都と呼び出した。どんな理由があろうと私とのデートを優先させてくれるはずだもの。でもね、麻希都ったら私とのデートを躊躇ったのよ。神崎と一緒にいる事を選んだの。そんなはずない、何かの間違いよ。きっと脅されているのね、私と一緒にいてはいけないと。私が麻希都を守ってあげないと。そして、何とか麻希都を連れ出す事に成功した。その間も、麻希都は携帯を触ろうとしていた。私とのデートの最中に他の奴と連絡を取るなんて有り得ないわ。早く神崎を消してやる。
その後も神崎は麻希都と同じ部屋で過ごしていた。早く殺してやりたい。でも簡単には殺してやらない。じわじわと痛めつけて、最も苦痛に満ちた殺しかたをしてやる。
そのためには、麻希都に気づかれずに部屋から出す必要があるわ。普通に出て来いと言ったところで無理でしょうけど。でも大丈夫。私には神崎を部屋から連れ出す最適な手段があるのだから。
私は神崎にメールを送った。不思議がられないように、何通のメールのやり取りをした。神崎は一度も今の情況を私に話したりはしなかったわ。私に心配をかけたくないのか、それとも私とのメールで少しでも気を紛らわしたいのか、そんな所かしら。普通に見たら何気ない文章。でも、今の神崎には恐怖を増幅させる最適な文章よ。それだけじゃない。今一緒に部屋にいる人物を疑い、疑心暗鬼に陥らせる内容。そうする事によって、神崎が頼れるのは私だけになった。
部屋の中の会話はすべて筒抜け。そんな事も知らずに馬鹿みたいに続く妄想。そしてタイミングを見計らって私は神崎に電話をする。
神崎の信用を得るために、何年もかけて神崎に近づいたんだから、しっかりと動いてくれなきゃ私の努力が無駄になるわ。今、神崎の神経は最高に研ぎ澄まされているはず。もういいかしら? そろそろ神崎は完全に疑心暗鬼に陥っているはず。私以外を信じる事はもうできない。これがどういう事かわかる? 神崎は自ら部屋を出てきてくれるのよ。それも、誰にも気づかれずにね。
さすが馬鹿な女ね。期待を裏切らない。神崎は黙って部屋を出てきてくれた。そして、すぐ近くに待機していた私の車に乗り込み、安堵した表情を見せた。
「よかった。恵子ちゃんが来てくれて。私、もうどうしようかと思ってた。もう一人じゃ耐え切れなかった」
この時、私はマスクをしていた。私が神崎の信用を得るために接していた時と顔が違うんだもの。もし気づかれたら全ての計画が台無しになってしまうわ。でもそんな不安は必要なかったみたい。この女は全く気づく気配がない。本当に馬鹿ね。
「私でよければいつでも相談に乗るよ? それよりどうかしたの?」
「実は…」
神崎は静かに話し始めた。何を話したいのかは勿論わかっていた。退屈な時間を過ごすのは嫌だ。私は早く行動がしたいのだ。
「運転してるとうるさいから、一回車止めるね」
そう嘘をついて人通りの少ない駐車場に車を停車させた。
「ありがとう。ごめんね、気を使わせて」
「ううん。気にしないで」
もうすぐ終わるから。
神崎は話をする事を躊躇っていた。そして、下を向いている。私に注意は一切向けられていないようだ。丁度良い。大東の時と同様、スタンガンを使って神崎の意識を奪った。そうして、ビルに運び楽しい楽しいゲームが始まった。