麻希都
隆治はタバコを買うと行って来た道を戻っていった。俺はゆっくりと歩いて隆治が追いついてくるのを待っていたが、一向に隆治の姿は見えない。遅いな。そんな事を考えていたらすぐに隆治の部屋に辿り着いた。俺は部屋の中にいるであろう佐久間の携帯に電話をした。
「もしもし」
「ああ、麻希都か」
「佐久間、今隆治の部屋にいるよな。今帰ってきたんだ。鍵を開けてくれ」
「わかった」
そうして俺は部屋に入った。
「麻希都、隆治はどうした? 一緒じゃないのか?」
佐久間は俺の後ろを見ながら言った。
隆治は俺の後を追って部屋を出た。それなら、俺と一緒に帰ってくると思うだろう。しかし隆治の姿はどこにもない。
「タバコ買ってくるってさ」
俺は隆治は言っていた事をそのまま伝える。
「そうか」
「ああ」
隆治が帰ってきたらまたすぐに鍵を開けるが、今のところ隆治の姿は見えない。再び厳重に施錠をした。
部屋中に沈黙が訪れる。部屋の隅で貴一は、大柄な体を両手でしっかりと抱えながら震えていた。今まで手紙が届いた人物が消されてきた。それならきっと次に消されるのは貴一だ。俺や佐久間なんかとは比べ物にならない恐怖が貴一を支配しているだろう。そんな貴一にかける言葉は見つからなかった。不謹慎かもしれないが、それはある意味俺と隆治と佐久間の三人は身の安全を保障されているという事になる。その順番が確実とはいえないが、きっと今俺の仲間を消していっている奴の狙いは貴一だけだろう。そう思っていた。
それにしても隆治遅いな。分かれてから三十分くらい経っている。一体どこまでタバコを買いに行っているのだろう。
「なぁ、隆治遅くないか? どこまでタバコ買いに行ってるんだよ」
俺の頭の中の言葉が漏れているのかと思うほどに同じ言葉がどこからか聞こえてきた。
「佐久間…」
それは佐久間の声だった。
「タバコ買いにコンビニ行ったんだよな。タバコなんてその辺のコンビニで買えばいいだろ。それなら何でこんな時間になっても帰ってこないんだよ」
佐久間は沈黙を破りただ隆治の安否を心配していた。俺は携帯を取り出して隆治の番号探し出すとすぐに発信ボタンを押した。
頼む、出てくれ。
「只今、電話に出ることができません」そんな俺の思いとは裏腹に、電話の向こうから留守番サービスの機械音が流れた。感情のない機会音。それは俺を後悔の地獄に突き落とすために作られたメッセージに思えた。
俺の手から携帯が滑り落ちる。
「麻希都…?」
俺の異変に気づいた佐久間が俺を呼んだ。しかし、その声は俺には届かなかった。呼吸が荒くなっていくのがわかる。
「麻希都、どうした? 隆治に電話したんだろ?」
佐久間は俺の肩を掴んで前後に揺すった。それでも反応を示さないでいると、今度は俺が落とした携帯を拾い上げ、自分の耳に当てた。きっと今でも電話の向こうから留守番サービスの残酷な音が流れ続けているのだろう。
何が身の安全を保障されているだよ。隆治はきっと桜に連れて行かれたんだ。順番? そんな物があるなんて誰が決めた? こんな状況で隆治を一人にするなんて俺は何て馬鹿なんだ。隆治を一人にするのは危険だって何で気づかなかった。
「麻希都、隆治は…」
佐久間は小さく呟いた。その続きは聞かなくてもわかる。佐久間が考えている事は俺と同じだから。佐久間は切ないような苦しいようなそんな目をしている。そんな視線で俺を見ないでくれ。俺の目から大量の涙が零れ落ちた。
「俺、隆治を探してくるよ」
早く隆治を探さないと。もう遅いかもしれないが、それでも何もしないわけにはいかなかった。俺は立ち上がって部屋を出ようとした。
「待て、麻希都」
「離せよ」
佐久間は俺の腕を掴んだ。
「落ち着け、麻衣都」
「これが落ち着いてられっかよ」
俺は佐久間の腕を振り解こうとした。
「俺のせいで隆治までいなくなった…俺が探さないといけないんだ」
このタイミングで隆治がいなくなったのは俺のせいだ。俺が隆治を一人にしたからこんな事になったんだ。もう自分を保っていられないくらいの罪悪感に苛まれた。
「頼むから離せ」
そういい終わるか終わらないか。俺の左頬に衝撃が走った。俺の体はそのままの勢いで壁に激突し崩れ落ちた。
「いいから落ち着け」
目の前で佐久間が拳を握り締めて立っている。ああ、俺今殴られたのか。右頬がズキズキと痛む。今まで一緒にいて佐久間が人を殴るのなんて一回たりとも見たことがない。そんな佐久間が俺を殴った。その拳には、言葉では伝えられない佐久間の想いがこめられているように感じた。
「何動揺してんだよ。お前までいなくなるつもりかよ」
え? どういう事? 佐久間が何を言いたいのか理解ができなかった。
「正人に大東、神崎に隆治。もう四人もいなくなったんだぞ。そしてお前までいなくなったらどうするんだよ。そんな事絶対に許さないぞ」
佐久間の体は震えていた。
「頼むから…もう誰もいなくならないでくれ…」
俺はそこでようやく我に返った。このまま何の策も立てずに部屋を出たところできっと俺も消される。俺は皆が消えて辛くて…皆を返して欲しくて。そのためには俺は何だってできる。まだ俺の傍でこうやって一緒にいてくれる佐久間と貴一を守りたい。勿論消えた四人も無事に見つけて助け出したい。でもきっとそれは他の人も同じだ。佐久間も貴一も同じ事を思っているはずだ。なのに俺は隆治が消えた事で感情に任せて皆を探しにいこうとした。皆が助かるなら俺なんてどうなってもいい。そう思っていた。残された奴らがどんな想いをするのかなんて考えもしないで…。感情的になったとはいえ、軽率な行動だったな。
「ごめん」
佐久間みたいに心優しい奴に暴力を振るわせてしまった。けれど、そのおかげでようやく頭が冷えた。俺は口から流れる血を右手で拭うと先ほどまでいた床に座った。
「隆治が帰ってきてから聞こうと思ってた。麻希都、何があったか話してくれ」
落ち着きを取り戻した俺達は、三人で円を作るように座った。そして、佐久間が切り出した。佐久間と貴一の視線が俺に注がれる。一体どこから話せばいいだろう。それに、本当の事を話せば二人とも俺を敵と判断するかもしれない。だってこんな事になったのは俺のせいなのだから。
「麻衣都?」
不思議そうに俺を見つめる佐久間。
「どうした? 何でもいいから話してくれよ」
話したいよ。そりゃ俺だって。でも怖い。
「何か知っている事があるなら教えてくれよ。隆治と最後に会ってたのも麻希都なんだから」
そうだ。佐久間と貴一はどうしてこうなったのか何も知らない。俺が知っているのがどこまで本当なのだろう。俺と隆治の考えは所詮憶測だ。確かに、先ほど桜は俺達の話を否定せず、全て事実だと言った。という事は、憶測ではなく事実という事になるのか?
正直、俺には受け入れられない。怖い。これを全て話すのは怖い。だが、俺には話さなければならない義務がある。嫌われてもいい。軽蔑されようが殴られようが構わない。すべてありのままに話した。
俺の弟が十年前に姿を消した。たまに連絡が取れるくらいで、会うことが全くなくて心配していた。そんな時、最近弟にそっくりな女性と出会い交際を始めた。だが、その彼女は明らかに普通ではないくらいに嫉妬深く、俺の周りの人間を消したがっていた。前に皆でバーベキューに行った事も良く思っていなかった。居場所を伝えているわけではないのに何故か俺の行動を把握していて、俺の前に現れる。そして、先ほど彼女はこの部屋にいた俺の前に現れた。その時俺と隆治は彼女の正体は実は俺の弟なんじゃないかと疑っていた。それを実際に本人に確かめた結果、彼女はあっさり弟だと認めた。そして、皆を消しているのも自分だと言っていた。俺達は一度彼女から離れこの部屋に戻ろうとしたが、隆治はタバコを買うと言って戻っていった。
「これが一通りの流れ」
多少省略したが、大体の流れは通じただろう。
佐久間と貴一は呆然としている。それはそうだろう。俺は責められる事を覚悟して二人から出る言葉を待っていた。
「本当かよ」
先に口を開いたのは貴一だった。何故だかかなり久しぶりに貴一の声を聞いた気がした。
「うん。本当」
そう答えるので精一杯だった。
「それからは二人も知っている通り」
二人の顔を見ることができなかった。二人は一体どんな顔をしているだろう。俺のせいでこんな事に巻き込まれて、大切な友人達も消されて…。きっと怒りに満ちた表情をしているだろう。
「麻希都」
佐久間が俺の名前を呼び、俺の前に移動してきた。佐久間の手がゆっくり俺に向かって伸ばされているのを感じた。
殴られる。そう思った。しかし、佐久間の手は俺の肩に優しく乗せられた。
「どうして言ってくれなかったんだよ?」
「え?」
「何でもっと早く言ってくれなかったんだよ。もし知ってたらさっきもお前たちだけで行かせたりしなかった」
佐久間の目に怒りや憎しみは感じられなかった。ただ一つ。俺を気遣う瞳だけがそこにはあった。
「俺達、友達だろ」
佐久間はそう言って笑った。
「俺のせいでこんな事になってんのに。俺が憎くないの?」
「お前のせいじゃない」
「俺のせいだよ。俺が桜と交際を始めなければこんな事にはならなかった」
「それはそうかもしれない。けど、たまたまそんな人と当たってしまっただけであって、麻希都が悪いわけじゃない。だってそうだろう? お前が大切な友達を傷つけるわけないもんな」
とう言われて涙が零れてきた。
「俺を…信じてくれるの?」
「ああ」
「当たり前だろ」
佐久間に続いて貴一も答えた。
「ありがとう」
二人にちゃんと聞こえたかな。涙が邪魔で二人の顔を見ることができないよ。
「本当に彼女さん…桜だっけ? それが麻希都の弟なのか?」
俺の涙がようやく止まった時、頃合を見計らって佐久間が口を開いた。あまりに非現実的な話に、正直二人ともついてきていない様子だった。
「わからない。けど顔は全く同じなんだ」
「どれでも十年も経てば顔なんて変わるだろ。彼女さんの性別は間違いなく女なんだろ。その話はいくらなんでも飛躍しすぎてる気がするんだけど」
「俺もそう思う。彼女だって根拠はないわけだろ? たまたま顔がかなり似ている女に出会っただけとかじゃないのか」
佐久間と貴一は言った。
俺だってそう思いたいよ。
「でも…」
「でも?」
「やっぱり赤の他人だと、それはそれでおかしい事があるんだ」
桜は俺と麻希都しか知らないことを知っていた。今と過去の俺を比べるような発言をしたのだって一度や二度じゃない。俺の事だけを知っているって言うんなら、ただ俺が知らなかっただけでどこかで出会っていたとか俺が忘れていただけだとかいい訳はいくらでもできる。けれどそれだけじゃない。桜は隆治の事も知っていた。そして消えていった奴らも含めて俺の友人達の事も。
「だから混乱してるんだよ」
桜と過ごした時間が、桜の正体を麻衣都だって言っているように感じてならないんだ。桜と麻衣都は別人のはずなのに、言動の一つ一つがどうしても重なるんだ。
俺がどんなに否定していても、現状は桜が麻衣都だと言っている。もういい加減認めろ。お前の弟はお前が信じているような奴じゃない。頭の中で誰かがそう呟いた。
「それに、もし桜が麻衣都じゃないとしたら、本当の麻衣都はどこにいるの? ちゃんと生きているよね?」
絶対に生きている。そう言っては見たものの、本当は自身がない。俺の想いよりも、隆治の話のほうがよっぽど現実味があるのだから。
「それに、麻衣都だけじゃない。消えた皆がちゃんと生きている保障なんてどこにもないんだ。もしかしたら…もうこの世界には…」
それ以上は言いたくない。いや、言えない。もうこの世界にはいないんじゃないかなんて言える訳がない。
「お前はどう思うんだ」
「え?」
貴一の声で現実に戻る。
「お前は彼女の正体が弟で、この一連の出来事は全部弟がやってると思っているのか」
そんなはず…そんなはずないだろ。
「俺は麻衣都を信じていたい。麻衣都は俺の大切な弟なんだ」
止まったはずの涙が再び溢れ出した。
「そうか。ならそれでいいんじゃね?」
佐久間の声は優しかった。
「お前は本当に優しい奴だから、他人を疑えないってのはたまに悪い癖。だけど、お前はそれで良いんだよ。それでこそ麻希都だろ」
「佐久間…」
「人を疑えないくせに、無理やり弟を疑おうとして。お前らしくないぞ、麻希都。お前はお前のままでいればいいんだ」
何でこんな優しい言葉をかけてくれるんだ。こいつは。
「それに、きっと生きている。弟も皆も。そう信じていろよ」
佐久間。ありがとう。
「明日は三人で皆の手がかりを探そう」
「貴一…」
この中で一番恐怖に支配されているくせに。佐久間も貴一も怖いくせに俺の見方になってくれる。
「絶対に皆を探し出すぞ」
「おう」
佐久間の言葉に貴一が賛同する。
「ありがとう」
俺の口からは自然とその言葉が出ていた。
もう一度戸締りを確認して、今日は眠りについた。
それから一時間ほどが経過した。窓を頭にして、俺、佐久間、貴一の順番に寝ている。二人分の寝息が聞こえてきた。
寝たかな? 俺は小さな声で二人の名前を呼ぶ。返事はない。どうやら熟睡しているようだ。俺はゆっくりと起き上がり、できるだけ音をたてないように部屋を出た。何度もこの部屋を訪れていたため、隆治がどこに合鍵を閉まっているかは知っていた。先ほど、合鍵を拝借させて頂いた。その鍵を使ってしっかりと施錠をする。
俺がこんな勝手な行動を取ったなんて知ったら、佐久間も貴一も怒るだろうな。ごめんな、約束破って…勝手な事して。でも、明日二人と一緒に家を出て危ない目に合わせたくないんだ。静寂に包まれた夜道。そして、昼間よりだいぶ下がった気温。それが俺の心を表しているかのような錯覚に陥らせ、妙に気持ちよかった。
「よし」
小さく気合を入れ、一歩一歩と歩き出した。どこに向かえばいいのかはわからない。ただ、こっちの道は進めば進むほど気分が重くなる気がした。それは、何かが俺の存在を否定しているような、そんな感じ。俺の存在を否定…そうは言っても、俺を危険な目に合わせようとか俺に不幸を与えようとか、そんな感じじゃない。むしろそれとは真逆。俺を危険な事から遠ざけようと危険信号を出している、そんな感じだ。この道を進んではいけない。すぐに今来た道を戻れ、そう頭の中で叫ばれている気がした。懐かしい声。これは俺の妄想なんかじゃない。この声の主が俺に伝えたい言葉なんだ。だから俺はこの道を進む。きっとこの先に俺が知りたい事実が存在するから。
俺はどこに進んでいるのだろう。何もわからないまま、勘を頼りに進んでいく。その間、ずっと考えていた。消えていった皆の事。部屋に残して来た二人の事。そして、麻衣都の事。俺は携帯を取り出し、アドレス帳から麻衣都の名前を探し出す。
「麻衣都…」
無意識に口から零れたこの名前。お前は一体どこにいるの? 何をしているの? この十年は何のための時間なの? 答えてよ、麻衣都。返ってくるはずのない返答を静かに待っていた。
桜は皆を誘拐して何をしているんだ? 桜が一人で全員の面倒を見るのはどう考えても辛すぎる。誰かの手助けがあるのか? 皆、ちゃんと食べさせてもらってるかな。ちゃんと眠っているかな。ひどい事をされていないかな。独りぼっちのこの空間では、どうしてもそんなことばかり考えてしまう。大丈夫。きっと大丈夫。そう言い聞かせた。
目を瞑ると、皆でバーベキューをした時の事を思い出した。あの時は本当に楽しかったな。久しぶりの再会を果たし、かなり充実した一日だった。こんな楽しい時間をこのメンバーで過ごす事はこれからもきっとある。それは、今日よりもずっと楽しい時間。誰かの結婚式に呼ばれて盛大にお祝いしたり、子供が生まれて皆で赤ちゃんに会いに行ったり。きっと一番早いのは正人と大東かな。あのまま二人は結婚をして、俺達はその幸せを傍で感じている。大東のすぐ隣で神崎がウエディングドレスを羨ましそうに見つめていて、周りはそれを見て笑っている。みんなが幸せになっていく。そういうの憧れるな。いや、憧れじゃなくて、それが俺達の未来の姿だ。なのに、突然何かが音を立てて崩れ落ちた。皆悲鳴を上げて逃げていく。何故か血を噴出して真っ赤に染まっていく人達。何が起きたのかはわからない。俺達は結婚式をするために教会に来ていたはず。つい先ほどまで幸せの絶頂にあったはずなのに、教会は一瞬で炎に包まれた。皆逃げ出そうと必死になるが、何故か扉はどこも開かない。炎はどんどん俺達に迫ってくる。そして、あっという間に教会を炎が包み込んだ。
「!」
何だ、今の。天国から地獄に一気に突き落とされた気分だ。この歪んだ空気のせいかな。俺はなんて残酷な妄想をしていたんだろう。よくわからないけど、こんな事を考えるのはもうやめよう。これじゃまるで皆が生きていないみたいじゃないか。大丈夫、きっと皆無事だ。どこかに監禁されているけど、俺が見つけ出して解放してあげる。
俺は空元気のまま再び歩き出した。無理にでも元気を出していないと押しつぶされそうだった。だが、正直なところ、頑張ってももう自分を騙す事も難しくなっていった。
その時、目の前に人影を見つけた。こんな時間に人? しかも女の人みたいだ。その人影はどんどんと鮮明さを増していく。激しい耳鳴りに襲われた。
「お兄ちゃん。みぃーつけた」
「桜」
ついに見つけた。
桜を見た瞬間、嫌な汗が一気に流れていくのを感じた。汗ばんでいる手は小さく震えていた。落ち着け、俺…。自分にそう言い聞かせた。
「来てくれると思った」
桜は俺に近づいてくる。
「だってあんな別れ方酷すぎるでしょ? やっぱりお兄ちゃんはあんな最低なクズたちを一緒にいちゃダメだよ。僕が守ってあげる」
ゆっくりと近づいてくる桜。怖い。本当は今すぐ逃げ出したいよ。でも俺には確認しなきゃいけない事がたくさんあるんだ。
「桜、質問いいか?」
「何?」
桜は俺の問いに返事をする代わりに足を止めた。
「隆治はどうした? さっき俺と別れてからもう一度隆治に会っただろ」
否定してくれ。会っていないと言ってくれ。最後の悪あがきなのか、俺の頭が生み出す言葉はそれだけだった。
「会ったよ。邪魔だから捕まえちゃった」
ああ、そうか。随分とあっさりと答えられたな。
「だってあいつ僕を侮辱したんだよ。お兄ちゃんにとってばい菌はどう考えたってあっちのほうでしょ? なのに僕にひどい事言うからさー、順番はまだなんだけど我慢できなくて捕まえちゃった。僕はお兄ちゃんと血が繋がった兄弟なのにね」
「順番…」
て事は、やっぱり皆を消したのは桜…。桜はやっぱり麻衣都なのか。どんなに認めたくなくても、やっぱりそれが現実なんだな。
「お前が…、お前がみんなに何かしたのか…?」
俺が聞くと、桜は不気味に笑った。
「そうだよ。僕が皆を殺したの」
恐れていた答えが返ってきた。予想はしていた。もしかしたらそうなのだろうって。
心のどこかで祈っていた。俺の友人達は生きているって信じたかった。その願いが今、目の前の人物によって掻き消された。
「なんで…どうして…」
俺は泣き崩れた。
「だって邪魔だったんだもん。僕の大切な麻希都お兄ちゃんに近づく連中。お兄ちゃんは僕だけのもの。お兄ちゃんには僕だけ傍にいればいいじゃない。他の連中なんていらない。これまでもずっとそうだったでしょ。生まれてからずっと一緒だった。二人だけの兄弟だった」
桜はそう言って俺の体を優しく包む。桜の体からは人間の体温が伝わってきた。
俺は絶望の中、ある事に気がついた。ただ認めたくなかったわけじゃない。現実から目を背けていたわけでもない。俺は自分を信じていた。ただ、確信がなかった。しかしそれは、桜が発した言葉で確信に変わった。
「お前は…麻衣都じゃない」
俺はそう呟いた。桜は俺から体を離した。
「何言ってんの? 僕は関市麻衣都。お兄ちゃんの弟だよ。お兄ちゃんだって言ってたじゃない」
そう言って笑う。
「麻衣都はな、どんな事があっても、俺の名前を呼んだりはしない」
俺ははっきり言い切った。桜は驚いた顔を見せた。
「あいつは確かに俺に好意を持っていた。兄弟間でも同姓同士でも持っちゃいけない感情だよ。俺は気づいてたよ…ずっと前からその感情に。あいつだって気づいてた。そんな感情普通じゃないって。俺の名前は麻希都。麻衣都とたったの一文字違いなんだよ。だからあいつは俺達の名前を大切にしてた。嬉しく思っていた。けど、その反面苦しがってた。その名前が兄弟だって…同姓だって物語ってるから。だから、少しでも不安を和らげるために、あいつは絶対に俺の事を麻希都とは呼ばなかった」
俺は立ち上がった。
「あれから十年も経ったんだよ? お兄ちゃんの名前くらい呼べるようになったよ」
「そうか」
どこまでが本当の事なのかはわからない。俺は最後の賭けに出た。
「それじゃあ一つだけ質問する」
「何?」
もしお前が本当に麻衣都だったら間違えるはずないよな。さぁ、答えられるかな。
「お前は一度だけ死に掛けた。それはどうしてか覚えているか?」
俺のその質問に桜はにやりと笑った。
「勿論。覚えてるよ。あれは本当に大変だったもん」
そして話し始める。
「七歳の頃だったよね。僕はお兄ちゃんとお母さんとお父さんの四人でキャンプに行ったんだ。緑に囲まれて川が流れてた自然豊かな場所だったね。そこで僕は一人で森の奥へ入っていったんだ。今自分がどこを歩いているかなんて全くわからなかったけど、ひたすら奥へ進んで行った。そしたら足を滑らせて崖から落ちちゃったんだ。僕は一人で誰も気づいてくれない。自分が今どこにいるって誰かに伝える事すらできない。落ちた拍子に骨折してとにかく痛かった。しかも頭も強く打っちゃって全く動く事ができなかったんだ」
そうだ。麻衣都は幼い頃にキャンプに行って突然行方不明になった。家族で探したけど見つからなくて、同じキャンプ場に来ていた人やスタッフと共に再び探し始めた。もう日が暮れて真っ暗になってきた。それでも手がかりすら掴めなくて警察に連絡したんだ。
「僕、本当に怖かったんだ。真っ暗闇の中、いつくるかわからない助けを一人でずっと待ってたんだもん。何時間経ったかな。意識が朦朧としてきた時にかすかに声が聞こえたんだ。誰の声かはわからなかったけど、僕の名前をずっと呼んでいたんだ。ようやく助けが来たんだって嬉しかった。けど、声は聞こえるのに中々姿が見えなかったんだよね。それどころか、声はだんだん遠くへ行ってしまった。待ってよ、僕はここにいるよ、どうして気づいてくれないのって悲しくなったよ」
そうしてようやく麻衣都を見つけた時、麻衣都は意識が全くない状態で緊急搬送された。俺はその状況を理解できず、黙って両親の傍にいたんだ。
俺はその時の麻衣都の姿を見ていなかった。突然姿を消した麻衣都がようやく見つかったって聞いて嬉しくてすぐにでも麻衣都に会いたかった。寒かっただろう、一人で怖かっただろうって言ってあげたかった。麻衣都は寂しがりやだから、きっと一人で泣いていたんだろうって思っていた。それなのに、俺は麻衣都に会うことを許されなかった。麻衣都どうしちゃったんだろう。どうして会わせてくれないんだろうってずっと疑問に思っていた。
それから、俺と両親は家に帰った。正確には俺と父さんと言ったほうが正しい。母さんは麻衣都と一緒にどこかへ行ってしまったから。俺はしばらく父さんと二人で暮らす事になった。その時の父さんはいつも落ち着きがない様子だった。頻繁に母さんと連絡を取っていたみたいだ。
それから数日が経って、父さんはすごく明るい表情になって俺を病院に連れて行った。もしかしたら麻衣都に会えるのかもしれない。そして、ある病室に入った。その部屋には関市麻衣都の名前が書いてあった。そうか、ここに麻衣都がいるのか。その部屋に入ると、包帯がぐるぐる巻きにされてたくさんの管に繋がれた一人の子供がベッドに寝かされていた。。性別はわからない。顔だって判別不可能だった。この子は一体誰だろう。この子の身に何が起こったんだろう。他人事の様に考えていた。その子供の横に俺の母さんが座っていた。母さんは俺と父さんに気づくと、手招きをした。
「麻希都、こっちいらっしゃい」
俺は言われるがままに近づいた。子供の体に巻かれていた包帯の隙間から、痛々しい傷口が僅かに覗いていた。
俺は慌てて目を逸らした。見ているだけで痛い。この子供はどうしてこんな怪我をしているんだろう。その時、子供の口がゆっくり動いた。
「おにぃ…ちゃん…」
え? お兄ちゃん? 今確かにそう言った。目の前にいる子供が。もしかして、この子供が麻衣都なの? 俺には全く理解できなかった。どうして麻衣都がこんな姿になっているの? 俺の弟の麻衣都はこんな子じゃない。俺は溜まらず泣き出した。母さんはそんな俺を優しく抱きしめる。
「麻衣都はね、少し怪我をしちゃったのよ。けどもう大丈夫。もう何も心配ないってお医者さんが言ってたわ」
何が大丈夫なんだ。俺の大切な弟がこんな目に遭っていたなんて全く知らずに今まで平然と過ごしていた。俺はとんでもない奴だ。麻衣都がこんなに苦しんでいたっていうのに、俺は麻衣都に何もしてあげられていないんだから。
「まいとぉ」
それから俺は毎日のように麻衣都のお見舞いに来た。学校が終わると、家に帰ることなく病院に直行していた。お医者さんが言っていた通り、麻衣都の怪我はもう平気らしい。順調に治っていってついに退院の日になった。俺はこの日も勿論病院にいた。そして車椅子に乗っている麻衣都に病室を出るときに約束したんだ。
「桜、お前が本当に麻衣都なら、その約束も覚えているよな」
「勿論」
俺と麻衣都だけの秘密の約束。
「これからはどんな事があっても僕とお兄ちゃんは一人にならない。僕らは二人だけの兄弟なんだから。これからはどんな事があっても助け合おう。だよね」
桜は何も迷う事なく答えた。その表情は自身に満ち溢れていた。
「ははは…」
何故だろう。何故か笑いが零れた。賭けに勝った俺の心の奥底に眠っていた真実がようやくこみ上げてきたからなのかもしれない。
「やっぱりお前は麻衣都じゃない」
「え?」
やっぱり桜は麻衣都じゃない。そして、桜の本当の正体がわかった。それは桜が麻衣都じゃなかったという事実ともう一つ、悲しい現実を物語っていた。
「お前は麻衣都じゃないだろ。なぁ…梨花…」
桜は勢いよく顔を上げた。
「な…何を言ってるの?」
桜はかなり同様していた。
「梨花って誰? 僕は麻衣都だよ。お兄ちゃん何言ってるの?」
桜…、いや、梨花は動揺しながらも認めないつもりらしい。
「この間見えたんだよ。梨花も桜も、同じとことに傷跡がある。思い出すのに時間かかっちゃったけど、ようやく思い出したよ」
桜は腕を隠す仕草をした。
「こ、こんなの誰にだってあるよ。梨花って人がどうかは知らないけど、僕も小さい頃に怪我をしたの。お兄ちゃん忘れたの?」
「麻衣都は外で遊ぶ事なんてほとんどなかった。俺と違ってあいつは外が好きじゃなかったからな」
「それでも外で遊ぶ事くらいあった。さっき言ったみたいに、キャンプに行ったりはしてたでしょ? そういう風に多少は外で遊ぶ事くらいはあったよ。これはお兄ちゃんが知らない時に付いた傷だよ」
俺はその時どんな顔をしていたのだろう。
目の前の麻衣都そっくりの顔をした桜。彼女が何と言おうと、こいつは麻衣都じゃない。それは確信した。
それと同時に、彼女は昔交際していた女性、森下梨花であるという確信も持った。出会った時からおかいしと思っていた。初めて桜を見たとき、何故か懐かしい感じがした。顔も性格も雰囲気も全く違うはずなのに。それは、麻衣都とそっくりな顔のせいだと思っていた。けど、違う。出会った事のある人物だから懐かしく感じたんだ。
それに気づいても認められなかった。梨花がわざわざ整形をしてまで俺に近づいてきていたなんて。しかも、俺の傍にいる人物を次々に消しているのが梨花なんて認められない。それにどんな理由があるかなんてわからない。けど、梨花のしている行動は普通じゃない。今、目の前にいる彼女は狂気に満ちている。
「は、ははは…」
突然梨花が笑い出した。
「だったら何?」
梨花はそう言った。
「そうだよ。私は森下梨花。あなたに振られた女よ」
ようやく認めたか。観念した梨花は妙に清々しかった。
「私はあなたが好きだった。大好きだった。なのにあなたは私を振った。だからね麻希都、もう一度あなたを私だけのものにしようって決めたの」
梨花は俺の頬に触れた。ひどく冷たいその手は不気味だった。
「だって悲しすぎるじゃない。私も麻希都も愛し合っているのに別れなくちゃいけないなんて。だからね、もう誰にも邪魔させない。麻希都。私だけのものになって」
梨花はナイフを取り出した。そのナイフを俺目掛けて突き刺した。突然の事で、俺は反応が遅れた。ナイフは俺のわき腹に突き刺さった。
「いっ!」
ナイフはすぐに抜かれた。俺はその場で倒れこむ。
「うまくいかないなら仕方ないわ。ちょっとだけ痛いかもしれない。けど我慢してね。私を受け入れてくれない麻希都がいけないんだから」
梨花はそう言って再びナイフを構える。
殺される…!
俺は直感的にそう思った。梨花は俺に向かってナイフを振り下ろした。
「ふざけんな…」
俺は間一髪でそれを避けた。そして、そのままの勢いで梨花を突き飛ばした。
「きゃあ!」
梨花はバランスを崩して倒れこむ。その隙に俺は逃げ出した。
「麻希都!」
後ろから梨花が呼んでいる。そんな事は気にしている余裕はない。俺はとにかく走り続けた。できるだけ梨花から離れられるように。
怪我をしているせいか、あまり全力で走っていないのに汗が滝の様に流れ出る。先程梨花に刺されたわき腹からは出血していたが、幸いな事にあまり深くはないようだ。
梨花からだいぶ離れ、森の中に逃げ込んだ。俺は深呼吸をした。消えた友人達は無事なのだろうか。麻衣都は無事なのだろうか。隆治も消されてしまったのだろうか。皆、どこにいるのだろうか。
どうして梨花はこんな事をするのだろう。なんでこんな事になってしまったのだろう。わからない事が多すぎる。
ひとまず出血を止めるのが先だ。そのままだと死んでしまう。持っていたタオルで傷口を押さえる。タオルはどんどん赤く染まっていく。頼むから止まってくれ。そう思いながら、タオルを力いっぱい抑え続ける。
*
ひどく臭う部屋で目を覚ました。何で俺はここにいるんだ? ここはどこだ? 俺は記憶を遡る。確か、麻希都と別れてから桜を追っていた。そして、桜が廃墟のビルの中に入っていくのを発見して付いてきたら、陰惨な現場が…。
俺は勢い良く顔を上げた。そうだ、桜の後を追ってきたら、消えた友人達が殺されていたんだ。そこまで思い出したら再び吐き気に襲われた。
俺は今、先ほど見た真っ赤に染まった部屋にいる。鎖のようなもので体を固定されていて動かす事ができない。未だに頭がずきずきと痛む。本気で殴りやがって…。頭を擦ろうとしたが、腕を固定されているためそれはできない。鼻につく死体と血液の臭い。それだけでおかしくなりそうだ。俺はおそるおそる目を開ける。俺は入り口を向いて固定されているらしい。気を失う前に見た生首は見えない。それはきっと俺の頭の上の辺りに並んで置かれているのだろう。首が見えない代わり、ばらばらにされた胴体らしきものははっきり視界の見えるところに置かれている。本当に人間だったのか疑わしいほどに解体されていた。
俺は一番気になっていた事を確認した。部屋の中を見たとき、死体の山の一番奥に壁に拘束されている人物を発見した。今は俺の隣にいる。この人物はまだ生きているのだろう。わずかに呼吸音が聞こえる。
「おい」
そいつは俺の声に反応してわずかだか体がビクンと動き、ゆっくり顔を俺に向けた。やっぱりそうだ。体中傷だらけで顔も判別するのが難しいくらい損傷していたが、間違いない。
「麻衣都…」
懐かしい。本物の麻衣都だ。
「麻衣都、大丈夫か…?」
麻衣都は虚ろな目をしたまま反応を示さない。
「俺だよ、大谷隆治。覚えてないか?」
麻衣都は小さく反応を見せた。
「りゅ…じ…」
消えてしまいそうなその声。擦れてはいるが昔より大人びた声。それは間違いなく俺の知ってる麻衣都だった。
「麻衣都…良かった、生きてたのか…」
良かった。心の底から漏れた言葉。
麻希都は麻衣都をずっと信じていた。“麻衣都は酷い事をするような奴じゃない。絶対に他人を傷つけたりはしない。そして今もどこかで生きている”麻希都の言っていた通りだ。これまでの残忍は行動は麻衣都によるのもではなかった。そして、ちゃんと生きていた。麻希都は麻衣都を信じて疑わなかったのに、俺は犯人が麻衣都だと決め付けていた。麻衣都がどんな思いでこんな所にいたのか知る由もなく、信じてあげられなかった自分が情けない。大切な幼馴染なのに。
麻衣都は一体どのくらいここに閉じ込められていたのだろう。骸骨のようにやつれ、青白いその顔は、ゾンビにでもなったかのようだった。だが、それでも生きている。早く病院連れて行かなければ死んでしまうだろうが、まだちゃんと生きている。それに、麻衣都は麻希都が信じていたとおり、逝かれた殺人鬼なんかじゃなかったんだ。
ここに麻衣都がいるという事は、斉井桜は一体何なんだ。俺の中に再びその疑問が湧き上がる。
「なぁ麻衣都、あの女は何者なんだよ」
「あいつは…あいつは…」
そこまで言うと、麻衣都の体はひどく震え出した。きっと麻衣都は動きを封じられて、ずっと人が殺されるのを見ていたんだ。殺される人間は、一体どんな表情をするのだろう。耳を塞ぎたくなるような断末魔が響き渡る中、無力な自分に見せ付けられる殺人。麻衣都は生きた心地がしなかっただろう。
「いや、無理に聞こうなんて思わない。ごめん」
俺は麻衣都に謝罪した。
俺はこの現場を見ただけでおかしくなりそうだった。なのに麻衣都はこんなになる現場を見ていたのだ。