麻希都
俺には弟がいる。四つ年下の弟。名前は麻衣都。俺らは兄弟だけれど、全く似ていない。麻衣都は小さい時から女の子に間違われるような華奢で可愛らしい顔立ち。昔から勉強ができて、成績は常にトップ。休みの日は部屋に篭って本を読みふけっていた。俺はスポーツばかりで勉強はさっぱり。本なんてめったに読まないし、外で走り回る事にしか脳がないような奴だった。俺と麻衣都は見た目も中身も真逆。
麻衣都は俺から見ればすっごくかわいい弟。そんな弟が高校に入る時に家を出た。その時は長い休みとか何かあったときに家に帰ってくるだろうと思っていた。あれから十年、麻衣都は一度も家には帰らなかった。
母さんと父さんはたまに会っていたらしいけれど、俺は一度も会えていない。高校卒業後はどうしたのか、今何をしているのか、何もわからない。母さんと父さんはどうして俺に何も教えてくれないのだろう。麻衣都に連絡をしても、たまにしか通じない。
「お前の考えすぎだよ」
「そうかな」
俺は隆治に相談をした。この相談はもう何回目だろうか。隆治はまたかといわんばかりの反応を見せた。
「麻衣都も忙しいんじゃない?」
仕事が休みの日は、こうして隆治とよく会う。幼馴染っていうのは気を使わなくていいから楽だ。
「麻希都は本当に心配性だな」
そうなのだろうか。兄弟というのはそういうものだろう?
「でも十年だぞ、十年。あの麻衣都が十年も会わないとか何か会いたくない理由でもあるのか?」
「そんなの俺に聞かれても」
それもそうか。しかし、確かに考えていても仕方がない。俺には何もできないから。ただ心配して麻衣都を待つ事しかできない。
「じゃあな」
「ああ、またな」
俺と隆治はそれぞれの帰路についた。外は薄暗い。明日も仕事か。そんな事を考えながら歩いていると、前方に人影が見えた。女性がしゃがみこんでいるようだ。どうしたのだろう。気分でも悪いのかな。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、女性は顔を上げた。その顔は見覚えのある顔だった。
「麻衣都…」
懐かしい麻衣都の顔。記憶よりも少し大人びていた。
俺はそう呟いたがハッと我に返る。麻衣都は男だ。そんなはずはない。そう言い聞かせた。
「あの…」
目の前の女性は不思議そうな顔をしている。
「す、すみません。何でもないです」
顔を見た瞬間、いきなり知らない男の名前を呼ばれたのだ。不思議に思われてもおかしくない。むしろ失礼な事だ。そんな事より…
「どうしたんですか?」
もうすぐ夜になるというのに、ひとりでうずくまっていた事が気になった。
「実は、コンタクトを落としてしまって…」
「コンタクト?」
女性は地面を見ている。なる程。うずくまっていたんじゃなくて、コンタクトを探していたのか。俺は携帯を取り出して、地面を照らした。
「俺も一緒に探しますよ」
「え、いいんですか?」
「ええ、もうすぐ暗くなりますし、急ぎましょう」
そうして、俺達はコンタクトを探し始めた。
「あ、ありました」
コンタクトはすぐに見つかった。
「ありがとうございます。とても助かりました」
女性は深々と頭を下げた。
「いえ、別にたいした事してませんし。見つかってよかったです」
コンタクトも見つかった事だし、そろそろ家に帰ろうと思った時だった。
「あの、よろしければこれからお食事に行きませんか?」
いきなりのお誘いだった。正直驚いた。麻衣都にそっくりなその顔で真っ直ぐに俺を見ている。しかし、その場はお断りする事にした。時間も時間だしね。
「では、改めてお礼がしたいので、連絡先を教えていただけませんか?」
お礼をされるほどの事はしていないけれど、連絡先くらいなら。そう思って、この女性と連絡先を交換する事にした。
それから数日がたち、俺達は再び会うことになった。待ち合わせは地元の駅。俺は女の子を待たせたくなかったため、約束の三十分前に到着した。
さすがにいるはずないか。そう思い、ポケットからタバコを取り出す。慣れた手つきでタバコに火をつける。その時、少し離れた所で何やら騒ぎが起きていた。何事かと思い覗いてみると、男数人がかりで誰かを囲っているようだった。俺はその光景を見て驚愕した。男に囲まれていたのは、先日会った麻衣都そっくりの女性だった。
俺は点けたばかりのタバコを灰皿に投げ捨てると、一目散に彼女のところに向かった。
「お前ら何してんだよ」
俺は彼女の腕をとると俺の後ろに連れて行った。その手は震えている気がした。
「は? お前誰?」
狙っていた女の子を取られ、不機嫌になる男。
「少しは迷惑考えろよ」
俺はそれだけ言うと、彼女の腕を掴んで歩き出した。
俺達は少し離れた公園に移動した。ベンチに腰かけると、俺は自動販売機で飲み物を買って彼女に渡した。
「ありがとうございます」
彼女はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「ごめん。遅くなって。大丈夫だった?」
彼女は無言で頷く。
「どれくらい待ってたの?」
「さ、三十分くらい…」
「三十分?」
驚いたよ。俺でも三十分前に着いてたっていうのに、さらにその三十分前に着いていたなんて。ってことは約束の時間の一時間前に着いていたって事か。なんていうかさ、申し訳ない気持ちでいっぱいだったよ。
彼女がちゃんと落ち着いてから、俺達は食事に向かった。隆治ともよく行くお馴染みのカフェに行った。どうやら、彼女はここにくるのが始めてらしい。メニューを見ながら悩んでいる姿が愛おしかった。
それから何度か会うことになり、交際を始めた。彼女は斉井桜という名前だ。歳は俺よりも三つ年下。出会ったばかりの頃は、麻衣都にそっくりな容姿に複雑な想いをする事もあったが、今ではそのような事はなくなっていた。
桜とは毎日連絡を取っている。桜は心配性なのか寂しがりやなのかわからないけれど、毎日必ず連絡ができないと嫌みたいだ。さすがに仕事中は携帯をいじるわけにいかないため我慢してもらっているけれど、それ以外では必ず連絡が取れるようにしているし、休みが合えばいつも会っている。
プライベートな時間は必要がないといえば嘘になる。ただ、それほどまでに俺を求めてくる桜の事を考えると、そんな気持ちはなくなっていった。
そして、今日は桜を隆治に紹介する事になっていた。
「お待たせ」
カフェで桜と待っていると、隆治が来た。
「隆治、紹介するよ。彼女の桜」
「はじめまして。斉井桜です」
隆治は目を見開いている。それもそのはず。桜は麻衣都と瓜二つなのだから。隆治はびっくりしながらも自己紹介をした。
「は、はじめまして。大谷隆治です」
そうとう想定外だったのか、めずらしく隆治が動揺していた。
はじめはお互い何となくぎこちなかったが、話をしていくうちに段々と打ち解けてきた。
「何その出会い。超運命的じゃん」
俺達の馴れ初めを聞いていた隆治は興奮気味に言った。
「いいなー。俺もかわいい彼女欲しいよ」
そう言って目の前にある飲み物に口をつける。
隆治はかなりのイケメンだが、なかなか彼女を作らない。まぁ俺も、今回の彼女がどれくらいぶりかわからないくらい普段は恋人を作らないのだが。学生時代に彼女がいた事はあったが、仕事を始めてからは一度もない。俺も隆治も仕事が忙しかったり、友人との関係が充実してたりと、なかなか機会がなかった。
「まぁお前にもいずれは出会いがあるよ」
「なにそれ、超他人事なんだけど」
不機嫌な態度をとる隆治。勿論演技だけれど。
それから一時間ほどして、隆治は帰っていった。
「悪い、これから仕事なんだ」
「そっか。頑張れよ」
「ああ」
隆治が帰ったのをきっかけに、俺達も店を出た。
「素敵なお友達ね」
「でしょ。あいつ、マジ面白いから」
俺は桜を駅まで送っていった。本当は車で家まで送りたいが、桜はそれを嫌がる。どうやら、家には体の悪い親がいるため、家の近くには来て欲しくないらしい。桜が来て欲しくないというなら仕方がない。下手に騒ぎ立てるわけにもいかないし。だから、いつも俺の地元で会う場合は駅までしか送らない。
「それじゃあ、気をつけて帰れよ」
「うん、麻希都もね」
俺は桜を駅まで送るとまっすぐ帰宅した。
家に着いてしばらくすると、桜からメールが来た。駅から家までの距離が近く、一人でも大丈夫と言っていたがやはり心配なため家についたらメールをして欲しいといつも言っている。ま、わざわざそんな約束をしていなくても桜から連絡をくれるのだか。少々心配しすぎかもしれないが心配なものは心配なんだから仕方がない。桜も嫌な顔一つせずに了承してくれる。
「よし」
桜が家に着いたのを確認すると、俺は風呂に入る準備をした。明日は仕事だ。夜更かしはできない。
風呂から上がると、桜にメールをする。
《今日はありがとう。明日も早いからもう寝るね。お休み》
送信ボタンを押すと、返信はすぐに来た。
《こちらこそありがとう。とっても楽しかったよ。明日もお仕事頑張ってね。おやすみなさい》
桜からのメールを確認すると、携帯を閉まってベッドに入った。熟睡するまでに時間はかからなかった。
翌朝、俺はいつも通りに仕事に向かう。昔から朝は苦手だ。いくら前日早く寝たとしても、いつも起きるのが辛い。寒い日は特にそう。少しでも長く布団の中にいるために悪あがきをしている。
そういえば、麻衣都は俺と違って朝が得意だったな。自分の準備をすべて終えると、いつも起こしに来てくれていた。麻衣都のおかげで目覚ましなんて必要なかったな。あいつ、毎日学校に行く前にシャワー浴びてるの。俺には絶対に真似できない。それから、ちんたら準備してる俺の着替え用意してくれてたり、俺の酷い寝癖直すために蒸しタオルつくってくれてたり…本当に良くできた弟だったな。昔はすごく泣き虫だったのに。
そんな事を考えているうちに職場に着いた。
「おはようございます」
いつも通り挨拶をして仕事が始まる。
「関市、飯行くぞ」
「はーい」
昼食の時間。同僚と近くの店に入り食事を取る。俺は日替わり定食を頼んだ。
「そういえばさ」
「ん?」
「お前、最近彼女できたんだってな」
何で知ってるんだ? そう思ったが、あえて聞かず頷いた。職場は広いとは言えない。きっと誰かがどこからか情報を手に入れ広まっていったのだろう。
「まあ。そうだけど」
「どんな子? 馴れ初めは?」
「うーん」
同僚は目を輝かしながら聞いてくる。どこから言うべきかわからなかったが、一通りの流れを簡単に説明した。
「何それ、超運命的じゃん」
隆治と同じような反応。やはりこういう反応をしてきたか。二回目だと面白身がないな。
「いいなー。俺も彼女欲しいよ」
これも同じ。
俺達は食事を終えると、早々に店を出た。職場までの帰り道も、ずっと彼女が欲しいという言葉を繰り返していた。
この日の仕事が終わり、帰宅する。帰り道に桜にメールをする。桜はまだ仕事してるのかな。携帯をポケットにしまいながらそんな事を考えていた。
桜は化粧品の製造の仕事をしていると言っていた。俺は化粧品について全く興味も知識もない。女性からしてみれば化粧はとても大切なものなのだろうけれど。
家についてメールの返信がない事を確認すると、すぐに風呂に入った。仕事で汗をかいた体を少しでも早く洗い流したかった。湯船に浸かると、一日の疲れが一瞬で吹き飛んだような気がした。
風呂から上がると携帯を確認する。受信一件。画面にはそう記されていた。桜からのメールだった。
《今日も仕事お疲れ様。私は今仕事が終わって帰ってきたよ》
受信した時間が今から約三十分前。俺は急いで返信をした。
《桜もお疲れ。明日も仕事だっけ?》
送信。
《うん。明日も朝早いから、今日も早いけどもう寝るね。お休みなさい》
《そっか。明日も仕事頑張ってね。お休み》
俺は携帯をテーブルに置いた。
風呂から上がったばかりで、上半身は何も着ていないし髪も濡れている。首にかけていたタオルで髪の毛を拭きながら冷蔵庫から飲み物を取り出し、一気に飲み干す。
「ふー」
俺は翌日仕事が休みだった。何をしようかな。そんな事を考えていると、携帯が鳴った。電話だ。
「はーい」
「もしもし? 麻希都?」
「おお、隆治どうした?」
電話の相手は隆治だった。
「お前さ、明日仕事?」
「いや、休みだけど」
「暇?」
「暇暇」
「じゃあ川行こうぜ。バーベキューしよう」
バーベキュー…。まさかのお誘いだ。
「さっき大学の奴らから誘われたんだよ。一緒に行こうぜ」
「誰いんの?」
「佐久間に神崎、貴一、正人だっけなー。あと、正人の彼女も来るって言ってた」
大学の時に同じ専攻をしていた奴らか。正人の彼女っていう子は知らないけど、他は割と仲の良かった奴らだ。
「あいつらかー。じゃあ行く」
「よっしゃ。じゃあ伝えておく。明日の九時頃にお前に家に迎えに行くから準備しておけよー」
「わかった」
「じゃあ遅刻すんなよ」
「わかってるよ。じゃあな」
そうして電話を切った。
バーベキューか。最近全然していないな。学生時代は頻繁にしていたのに。明日一緒に行く奴らは皆アウトドアな奴だったから、よく一緒にバーベキューしてたんだよな。仕事始めてから皆忙しくなって、機会がなくて遊べなかったんだよな。
そんな事を考えながら眠りについた。
「遅い」
昨日の電話で隆治は九時に迎えに来ると言っていた。しかし、時間を過ぎても隆治は来ない。しばらくすると、見慣れた黒い車が俺の家の前にやってきた。
「わりーわりー。寝坊しちった」
悪びれた様子は特にない隆治が運転席の窓を開けながら言ってきた。自分で遅刻すんなとか言ってたくせに…。
まぁここでそんな事を言っても仕方ないので、俺は助手席に乗り込んだ。
「待った?」
「まぁ。多少はね」
「悪かったなー。にしてもバーベキュー本当に久しぶりだよなー」
「だよなー。何年ぶりだよ」
「卒業して以来だから七年ぶり? 懐かしいわー」
そんなに経っていたのか。時が経つのは随分と早いものだ。
「あいつらとはどこで合流なの?」
「現地集合。たぶんもうついてるんじゃない? 先に用意して待ってるって言ってたし」
「そっか」
「うん」
隆治から返事を聞くと、俺は流れていた音楽を変えた。俺と隆治が好きな音楽の系統は全く違う。いろいろ曲を再生してみたが、いまいちピンとくるものはなかった。
その時、隆治の携帯が鳴った。
「ん? 佐久間? はいはーい」
隆治は携帯を確認し通話ボタンを押すと、携帯を膝の上に乗せスピーカーにして電話に出た。電話の相手は、今日一緒にバーベキューをする事になっている友人の一人である佐久間一輝だった。
「もしもーし、隆治今どこ? 麻希都と合流できた?」
「今麻希都拾ったばっか。まだまだかかるぜ」
「てことはまだスーパー通ってないよな」
「ああ、もうすぐスーパー着くけど。何? 買い物?」
「ああ。丁度良かった。途中で適当に飲み物買ってきて。足りなくなりそうだから」
「了解」
隆治は携帯を切った。
「タイミング良かったな」
「本当だよ。じゃあちょっとスーパー寄るか」
俺と隆治はスーパーに寄って、二リットルのペットボトルを数本と適当にお菓子を買って再び車を走らせた。
数十分後、目的地に到着した。川に沿って車を走らせると、懐かしい景色が見えた。
「あ、いたいた。隆治、あそこだ」
俺は小さく見えた友人を指差した。
「変わらねぇな。あいつら」
「そうだな」
俺達は友人達の元へ車を走らせた。
「麻希都、隆二。おせぇぞ」
俺たちに気がついた坂上貴一が俺達の元へやってくる。
「悪りぃ悪りぃ」
「こいつが寝坊してさー」
俺達は車を降り友人達に近づいた。俺は隣にいる隆治を指差しながら言った。
「やっぱな。遅刻するとしたら麻希都よりも隆治のほうが確立高いって話してたんだよ」
「ねー。絶対大谷だと思った」
少し離れたところからバーベキューの準備をしていた佐久間と神埼が言った。俺達のグループで数少ない女の子だった神崎真美は、昔と変わらず元気いっぱいな姿だった。その健気さが故に、歳の割りに幼く見えがちだった。
神埼の隣に俺達よりも少しだけ年下だと思われる少女がいた。おそらく彼女が昨日隆治が電話で言っていた正人の彼女だろう。その子は、俺と目が会うと小さく会釈をした。神埼はその子の腕を取ると、俺達に紹介を始めた。
「この子は正人の彼女の大東心ちゃんでーす」
大東は突然紹介され、少し戸惑っているようだった。どうやら神崎と違い、内向的な子らしい。
「は、はじめまして…大東心です」
少し恥ずかしがりながら自己紹介をする大東。友人の彼女とはいえ、ときめいてしまいそうだった。
「はじめまして。関市麻希都です」
「俺は大谷隆治。よろしく」
「よ、よろしくお願いします」
大東は頭を下げる。そこまで緊張しなくてもいいのにな。初対面ではあるが、大東のその姿は妙に愛しかった。
俺はある事に気がついた。正人の彼女がいるのに、正人本人の姿がどこにも見えなかったのだ。
「ねぇ、正人は?」
俺の質問に佐久間が答えた。
「ああ、正人はトイレだってさー。すぐ戻ってくるだろ」
「そっか」
確かここのトイレは少し離れた所にあったはず。それで時間がかかっているのか。
佐久間が言っていた通り、少しして正人が戻ってきた。
「あれ、麻希都と隆治来てたの?」
「おう、久しぶり」
金土正人は俺達を見つけると早速話しかけてきた。俺はいつも通りの感じで返事をする。
「じゃー、皆集まった事だし、始めますか」
「いいねー」
佐久間の声に賛同する友人達。俺と隆治は車から荷物を取り出すと組み立て式のテーブルの上に置いた。
「お菓子買いすぎ」
神崎は笑いながら言った。
「いいだろ。どうせ全部食べるんだからさ。貴一が」
「え、俺?」
隆治の言葉に貴一が反応する。
「貴一手止まってる」
「ご、ごめん」
隆治の言葉に一瞬手が止まった貴一に正人の鋭い言葉が突き刺さる。
貴一は昔から一番食欲が旺盛だった。一緒に食事をしていてもいつも一番食事の量が多くて、バーベキューなどをしていると、いつも残り物を全部掻き込んでくれていた。
肉が焼けるいい匂いがしている。懐かしいこの感じ。
「そろそろじゃん? 心、皿取って」
「はい」
大東はお皿を正人に渡す。正人はお皿に焼けた肉を次々に乗せて行く。
「ごはん炊けたよー」
神崎が担当していた米も準備万端らしい。
「じゃ、食うか」
全員が皿を持ち、野菜や肉などを乗せて行く。
「あっつ、熱い」
焼きたての肉はまだ熱々だ。それなのに貴一は口に大量の肉を入れ、噴出しそうになっていた。
「ったく、気をつけろ」
俺は紙コップに入ったお茶を手渡す。貴一はお茶を受け取ると、口の中のものを流し込む予に一気に飲み干した。
「いや、熱かった」
「当たり前だろ」
俺達の中で笑いが起こった。
それから、あっという間に時間は流れて行く。バーベキューを終えると川でずぶ濡れになるまではしゃいでいた。佐久間が持ってきていたバドミントンをしたり、神崎が持ってきていた昔の写真を見るなどしていた。俺達は以前と何も変わらなかった。七年ぶりの再会と思えないほどに楽しかった。
あんなに明るかった空も、いつの間にか薄暗くなっていた。
「そろそろ帰るか」
佐久間がそう言うと、皆が帰宅の準備を始めた。といっても、片付けはほとんど終わっていて、車に残っていた荷物を詰め込むだけだが。
俺は隆治の車に乗り込む。正人と大東は一緒に来ていて、神崎、貴一の二人が一緒に来ていた。して、佐久間は一人だ。
「じゃあまた」
「おう、じゃあな」
俺達は別れを告げると、それぞれ帰っていった。
「いやー、楽しかったな」
「だな」
俺は隆治と今日一日の話をしながら帰った。
「あいつら、本当に何も変わらないわ。安心した」
「だよな。変わった事といえば、正人が彼女作ってた事くらい」
「それは確かに。まぁ麻希都もいつの間にか彼女作ってたけどな」
皮肉を交えて言われた。そう言われると何と返せばいいかわからない。
「冗談だよ」
隆治はいたずら好きな子供のような笑顔を見せた。俺はその横顔を身ながら、小さく笑った。
しばらく車を走らせると、俺の家の前に到着した。
「ありがとう隆治。気をつけて帰れよ」
「おう、じゃあな」
隆治は行ってしまった。その姿を確認すると俺は家に入る。
俺はソファに横になって携帯を取り出す。着信も受信もなし。桜にメールをしようか迷ったが、もしかしたら寝ているかもしれないと思い諦めた。桜は驚く程の量のメールを送ってくる事もあるが、このように全く送らない日もある。結構極端なんだ。
俺は携帯を閉まうと、風呂に入った。明日も仕事だ。今日は久しぶりにはしゃいで疲れたし早く休もう。そして俺は風呂場に向かった。
それから三日が過ぎた。
仕事が終わり携帯を確認すると、不在着信が三件残っていた。それは全て先日一緒にバーベキューをした貴一からだった。貴一がメールではなくわざわざ電話をしてくるとは珍しい。俺は貴一に折り返し電話をした。
「もしもし? 貴一?」
「ああ、麻希都」
貴一はワンコール目で電話に出た。随分と早いな。もしかして俺から電話が来るの待っていたのか?
「どうした? お前が電話してくるなんて珍しいな」
俺は思っていた事を素直に口にした。
「ああ、そうなんだけどさ、麻希都、お前、バーベキュー以来正人と会った?」
「え、正人? 会ってないけど」
いきなりなんだ。
「正人がどうかした?」
「実は、正人消えたらしい」
電話の向こうから、思いもよらない言葉が飛び込んできた。
「消えた? 行方不明って事?」
「ああ、正人の彼女の心ちゃんいたじゃん? 彼女から電話で聞いたんだ」
驚いた。まさかそんな事になっていたなんて。貴一の口調は、決してからかっているようなものではない。本当の事なのだろう。
「行方不明って何で? いつから?」
「それは…」
貴一の話によると、あの日、正人は大東を家まで送り届けてから自分の家に帰った。その後大東はいつも通り正人にメールをしたが返事がなく、翌日正人のアパートに行ったが正人はいなかった。実家に行ってみたがそっちにも帰っていないらしい。
さらに翌日、大東の家に手紙が届いた。宛名が書かれていない真っ白な封筒。大東は中身を取り出した。
《許さない。許さない。許さない。身の程をわきまえろ。》
手紙にはそう書かれていた。紙いっぱいに血の様に赤黒い字で殴り書きをされていた。手紙の他に、正人の寝顔が写った写真が同封されていた。写真は赤黒い液体で罰印が書かれており、写真の裏には大きく一と書かれていた。それとは別にもう一つ。正人と大東がお揃いで買ったペアの指輪が入っていた。二人で指輪を購入して以来、正人が指輪を外す事はほとんどなかった。それなのに、その指輪が何故手紙と一緒に送られてきたのかわからない。
そして、気味が悪くなって貴一に電話をしたという事だった。
「心ちゃんから電話来てからいろんな奴に聞いてるんだけど、誰も何も知らないって言ってるんだよ。なぁ、麻希都、お前何か知らないか?」
「何かって…」
知るはずがない。正人が消えた事すら知らなかったのだから。
「何も知らないけど」
「そっか」
電話の向こう側で貴一のため息が聞こえる。
「麻希都、何かわかったら電話してくれるか」
「わかった」
そして電話を切った。俺はそのまま電話帳から別の番号を探すとすぐに発信した。
「はい」
「隆治、今大丈夫か」
電話の向こうで少し疲れを感じさせる隆治の声がした。
「麻希都か。丁度良かった、俺も電話しようと思っていたところだったんだ」
「そうか。正人の事だろ」
「ああ」
俺達はそのまま近くの喫茶店で集合する事になった。
喫茶店に入ると、先に来ていた隆治が目に入った。俺は隆治の向かえに座った。
「待たせてごめん」
「麻希都」
俺は早速話し始めた。
「なぁ、正人が行方不明ってどういうこと?」
「わかんねぇよ。いきなり貴一から電話が来て正人知らないかって聞かれたんだから」
隆治も俺と全く同じだった。
「あいつ、彼女の事かなり大切にしてたみたいだから、彼女が心配するってわかってて内緒でどこかに行くなんて考えられないし、かと言って心当たりがあるわけじゃないし…」
「だよな」
正人が彼女である大東をかなり大切にしていたのは、先日のバーベキューを見ていてよくわかる。その正人が大切な人を心配させる事をするとは思えない。
「事故とか…事件とかに巻き込まれてたりして…」
隆治は小さく言った。
正人が…? 最悪な事態を想定してしまう。正人が何かしらの理由で動けなくなっていて必死に助けを求めている姿…。傷だらけで痛みに必死で耐えている姿…。きっと悲しんでいるだろう大切な人を思い浮かべて涙を流す姿…。ダメだ。嫌な考えしか浮かばない…。
「捜索願とかは?」
俺は頭に次々と浮かんでくる最悪な風景をかき消すように言った。
「出したって。正人の両親が」
「そっか」
次に出す言葉が見つからない。
貴一から聞いた事が本当だとしたら事故ではないだろう。事故だとしたら、手紙なんて送れないはずだから。正人が自分で大東に手紙を送った…? それも考えられない。そんな事をして大東に恐怖を与える事をしても正人にな何の得もない。じゃあ残りの可能性は一つ。誰かが正人を動けない状態にして大東に手紙を送ったという事。でも誰が? 何のために?
俺と隆治は同時にため息をつく。
このまま考えていてもらちが明かない。俺達には、正人を信じて待っている事しかできないのだ。明日も俺達は仕事がある。正人の事は心配だったが、今日はこの辺で帰る事にした。もし少しでも情報が入ればすぐに連絡をすると約束をして店を出た。
店を出ると、家に向かってゆっくりと歩いていく。考え事をしているせいでいつもよりも歩くスピードはゆっくりだ。
バーベキューに来た正人に特に変わった様子はなかった。彼女ができて嬉しそうだった。二人は本当に幸せそうだった。きっと二人はこのまま結婚をするのかな、そんな事を考えるほどだった。大切な人ができた事以外は昔と何も変わらない。特別他人を驚かすような何かをする奴ではなかったし、傷つける奴でもない。大切な人ならなばなおさらだ。
隆治とは以外に長い時間一緒にいたらしい。辺りはすっかり暗くなっていた。
その時携帯が鳴った。どうやらメールが来たらしい。携帯を取り出し、メールを確認する。
「あ…」
メールの送り主は桜だった。いつも仕事が終わったら連絡をしていたが、今日は貴一と電話をして隆治と話をしていたためメールを忘れていた。
《どうして連絡をくれないの?》
一言だけのそっけない内容だった。以前にも連絡を忘れた事があったが、その時も随分機嫌を損ねてしまった。きっと今回も怒っているな。俺は慌てて返信をした。
《ごめん。どたばたしてて忘れてた》
その返信はすぐに来た。
《私とのメールを忘れるくらい大切な事があったというの? ひどい、ずっと待っていたのに》
遅かった。それとも、俺が送ったメールの内容がよくなかったのかな? 桜は怒っている様子だった。
《本当にごめん。明日からは忘れないようにするから》
桜が怒っていたとしても、正直今の俺には桜の機嫌をとっている余裕なんてなかった。正人が心配だ。俺の頭にあることはそれだけだった。俺は携帯をポケットにしまった。
家につくとすぐに風呂に入る。湯船に浸かりながら、正人の事を考える。
正人…一体どこにいるんだ。大東に送られてきた手紙と写真には一体どういう意味があるのだろうか。正人は無事なのか。何故大東に送ったのか。手紙を送ったのは誰なのか。わからない事が多すぎた。
風呂から上がると冷蔵庫から飲み物を取り出し、一気に流し込む。ほてった体に流れる冷たいものは妙に心地良かった。混乱している頭を落ち着かせてくれる。
今日は何か疲れたな。濡れた髪を拭きながら携帯を確認する。桜からメールは来ていないようだった。きっとまだ怒っているのだろう。明日はちゃんとメールをしよう。そう思って携帯を閉じた。
そしてこの日は眠った。
俺は携帯の着信で目が覚めた。
「もしもし?」
相手を確認せずに寝ぼけたまま電話にでる。
「麻希都か! すぐに俺の家に来てくれ!」
「え?」
電話の相手は隆治だった。
「何? いきなり」
「いいから早く来い! 大変なんだよ」
時刻は午前五時。クローゼットから適当に洋服を取り出し携帯と財布だけ持って準備をする。状況が全くわからないまま急いで隆治の家に向かった。
「隆治―」
隆治の家に着くとインターフォンを押した。そのすぐ後に、家の中から足音がして扉が開いた。
「あー、麻希都、やっときた」
「おう」
「取り合えず入ってくれ」
そう言われ、俺は家の中へ通される。
「麻希都」
「神崎?」
家の中には神崎がいた。
こんな時間に何で神埼が隆治の家にいるんだ? この二人付き合ってたっけ? そんな話聞いた事ないけど。
そんな事を考えていた。
「座って」
「あ、ああ」
俺は神崎の前に腰を下ろした。俺の隣に隆治が腰を下ろす。
「急に呼び出して悪かったな」
「いや、別にいいけど。どうかした?」
隆治は下を向いた。神崎も隆二同様、下を向いていた。そして、神崎は下を向いたまま俺に白い封筒を渡してきた。
俺は受け取った封筒を眺める。何も書いていない真っ白な封筒。意味がわからないまま中身を取り出す。白い紙に血のように赤黒い液体で書かれていた、
《許さない。許さない。許さない。身の程をわきまえろ。》
殴り書きされた文字。そして写真。写真は女性の寝顔だった。手紙と同様、赤黒い液体で罰印が書かれており、裏には二と書かれていた。
「何…これ」
気持ちが悪い。
「この写真…大東だよね」
大東心。正人の彼女だ。何でこんなものがここにあるんだ。
「私の家のポストに入っていたの…」
神崎が答えた。
「昨日の夜に仕事が終わって帰ってきたら、ポストにこれが入っていたの。関市、これどういう意味だと思う?」
どういう意味って…。
以前貴一から電話で教えてもらった事。正人が消えた時、大東の家に、これとよく似たものが入っていたと言っていた。その時は、大東の写真ではなく、正人の写真だったが。
俺はもう一度写真を見た。大東は安らかに眠っているだけの写真なのに、赤黒い罰印のせいで気味が悪い。
「そして…これ」
隆治はそう言って何かを差し出した。指輪? 随分と小さい。女性ものだろうか。
「これが入ってた」
俺は正人がいなくなった時の事を思い出した。確か、大東に送られてきた手紙の中にも指輪が入っていたはずだ。その時の指輪は正人の物。
「これ…もしかして大東の…」
確証なんてない。だけど、誰でもそう思うよね。
「たぶん」
煮え切らない言い方をする隆治。だよね。隆治だってこれが大東の物だってわかるはずがない。友達の指輪なんてそうしっかり見てる人なんていないでしょ? 女の子達は気になるかもしれないけど、俺達はそういうのにあまり興味がなかったから。
それに何で指輪? 指輪にどんな意味が込められているわけ? あれ? これってもしかして、とんでもない事が起きてるの?
「そういえば…大東は?」
正人が消えて大東にこれと同じものが送られてきた。神崎にこれが送られてきたという事はもしかして…。最悪な状況が頭を過ぎる。
「消えたよ」
隆治の口から恐れていた言葉が飛び出した。
「消えたって…」
一体どういう事だ。
「この手紙を神崎に届いたっていうのを聞いて貴一が大東の携帯に連絡してみたんだよ。でも出なくて。急いで家に行ったんだけど、もぬけの殻だったってさ」
貴一は今大東の家に行っている。
神埼はこの手紙が届いて一番に貴一に連絡をした。神崎も貴一から正人が消えた事と大東に届いた手紙の事を聞いていたのだ。神崎から連絡を受けた貴一はすぐに大東に連絡をした。しかし、何度呼び出しても大東が電話に出ることはなかった。連絡が取れない大東の安否を確認しに行くが神崎を一人にするのも心配だったから、神崎を隆治に預けて大東の家に向かった。というのが俺が呼び出されるまでの流れらしい。
「二…」
俺は写真の裏に書いてあった数字を声に出して読んだ。
確か、正人の写真には一って書いてあったんじゃ…。
「これ、順番…?」
消えた順番に数字が書かれている。
「ああ。正人が一番目でこの子が二番目って事だろ」
随分と悪趣味な事だ。
神埼の体は震えていた。無理もない。こんな気味の悪いものを送りつけられたのだから。
「私…消されるのかな…」
神崎は震えた声で言った。
「そんな事ないよ」
俺はそう言った。根拠なんてない。ただ、目の前で震えている女性を安心させてあげたかった。
俺の携帯が鳴っている。呼び出し音が長い。電話か。無視しようとも思ったが、あまりに長いので出ることにした。誰だよ、こんな空気の読めないタイミングで電話をしてくるなんて…。ディスプレイには斉井桜の文字。壁にかかっている時計を見ると、六時十五分を指していた。桜…こんな早い時間帯に一体何の用だ?
「ちょっとごめん」
俺は二人から一旦離れ、玄関に移動して電話に出る。
「はい」
「麻希都!」
桜は怒っているようだった。
「麻希都! どうして早く出てくれないの? 何してるの?」
桜の声が妙に頭に響く。
「ちょっと忙しくてさ」
「忙しいって何よ。私よりも大切な事があるのね」
「そういうわけじゃないよ」
「嘘! 私に嘘つくの?」
「別に嘘ってわけじゃ…」
説明するのがめんどくさい。そもそも、こんな事桜に教えられるわけがない。
「麻希都、私動物が見たいの。今から一緒に動物園に行きましょう」
桜からの突然の誘い。いつもなら了承するだろうが、、今はそれどころではない。
「ごめん、今日は無理なんだ」
「どうして?」
「どうして…詳しくは話せないけど、今日はちょっと…また今度じゃダメかな」
「ダメよ!」
桜は引き下がるつもりないらしい。
「なんで今日じゃなきゃダメなの?」
「ダメなものはダメ。今すぐ駅に向かえに来て。私はもう待っているから」
そう言って一方的に電話を切られた。
「はー…」
俺は大きくため息をつく。
「大丈夫か?」
「隆治」
俺の後ろに隆治が立っていた。
「彼女さん?」
「ああ。今から動物園に行くって言い出して。しかももう駅で待ってるから今すぐ来いとか言ってるんだよ」
俺は再びため息をつく。
「そっか。なら行って来い」
「え?」
「神崎には俺がついてるから。何かあったらちゃんと連絡する。携帯は出れるようにしてろよ」
「隆治」
かなり申し訳ない気持ちになった。
「彼女もお前にとって大切な人なんだろ。じゃあ行けよ。女性を待たせんな」
「わかった。悪いな」
俺は隆治の家を出て、急いで駅に向かった。
「麻希都!」
駅で俺を見つけるなり桜は俺の元に駆け寄ってくる。
「麻―希都」
桜は俺の胸元に飛び込んでくる。
「やっと来てくれた。寂しかったよ。麻希都」
俺は走ってきたため息切れをしていた。
「ごめんね。待たせて」
切れた息を整えながら桜の頭に手を乗せた。桜の匂いがする。久しぶりに嗅いだ気がする。けど、桜ってこんな匂いだっけ? 何かいつもと違う気がする。
「どうしたの? 麻希都」
「いや、別に」
「そっか」
桜は俺の胸元から顔を離す。そして、背伸びをして顔を俺の顔に近づけた。
「愛してるよ。麻希都」
桜は俺の手を取って歩き出した。
「動物園。早く行こう」
「あ、ああ」
俺達は駅に入っていった。
電車で揺られる事二時間弱。動物園の最寄り駅に着いた。
「わー、すごい」
駅を降りるとすぐに動物の大きな看板があり、道案内が書かれている。
「こっちだね」
桜は俺の腕に自分の腕を絡ませた。電車に乗っていた間もずっとそうだった。桜は一時も俺から離れたりはしなかった。
受付を済ませると早速動物園に入った。この日は休日。家族連れもたくさんいて、すごく混雑していた。
「何から見ようか」
「私、お猿さんが見たい。さっきもらった地図かして。お猿さんはどこかなぁ」
桜は甘えた声で猿を探し出す。
「あった。こっちだね」
桜は地図を頼りに歩き出す。俺は桜に連れて行かれた。
「あーかわいい」
目的の猿を見つけた桜は興奮していた。猿は木の上に登り、手を伸ばして木から木へ飛び移っていた。俺達は自然と上を向く。
「あ、あのお猿さん赤ちゃん連れてるー。かわいいー」
桜は視線を俺に向けた。
「私たちの赤ちゃんができるの楽しみだね」
そう言って笑顔を見せる。桜は俺と結婚をするつもりらしい。この歳だから結婚を前提にしていても何も不思議な事はないが、突然言われて戸惑った。そんな俺の表情を見て、桜は悲しそうな顔をする。
「もしかして…麻希都は子供が嫌いなの?」
「そ、そんなつもりじゃ…」
俺は慌てて否定する。
「猿見ながらぼーっとしてた。だって猿あんなにゆっくり動いてるからつい。楽しみだね」
俺は笑顔を作る。
「そっか。確かにゆっくり動いてるね。かわいい」
桜は腕の力を強めた。
「絶対かわいい子産むからね。私と麻希都の子供だもの」
「そうだね」
桜は一際笑顔を見せる。
その時、俺の携帯が鳴った。メールだ。
「あ、ちょっとごめん」
俺は桜が絡ませていた腕とは逆の手で携帯を取り出そうとした。
「ダメ」
しかし、桜はそれを阻止する。
「今は私とデートでしょ。なのに他の人が気になるの?」
今メールをしてきたのはおそらく隆治だ。俺は一刻も早く隆治が送ってきた情報を確認したいが、桜はそれを許さない。
「少しだけ。メールを確認したらすぐに終わるから」
「ダメ」
桜は俺を睨みつける。
「そんなに友達が大切なの? 私よりも?」
俺は返事に困った。
何も答えない俺を見つめていた桜がため息をついた。
「仕方ないわね」
「メール見ていいの?」
「私が見る」
桜は俺のポケットから携帯を取り出す。
「ちょっと待ってよ」
隆治からのメールを桜に見られるわけにはいかず、俺は携帯を取り返した。そんな俺を呆然と見上げる桜。
「ごめん。けど見せられないんだ」
俺はそんな言い訳をした。
「何で」
「え?」
「そんな私に見られたら困るメールなの? もしかして女の子?」
「違うよ…」
何と返せばいいかわからなかった。隆治からどんなメールが来ているかはわからないし、正人と大東がいなくなった詳しい事がわからない以上、下手に話すわけにはいかないが、何も言わないと逆に変な誤解をさせてしまう。
「ひどい…麻希都…」
桜は泣き出してしまった。
「違う。浮気なんてするわけないじゃん」
「じゃあどうして隠すの?」
「それは…」
「何よ」
「今は言えないんだ」
桜は流れ落ちる涙を拭う。
「意味わからない。酷いよ、麻希都。昔からそう、私の事なんて全然気にしていない」
桜は完全に俺が浮気をしたと思っているらしい。浮気なんて絶対にしないのに…。桜に信じてもらえない事は残念だったが、それ以上に桜は不安なのかもしれない。大切な彼女を傷つけるなんて、俺は最低な男だな。
「じゃあいいよ。桜がメール確認してよ」
俺は桜に携帯を渡す。桜は無言でメールを開く。俺は桜の横から携帯を覗き込み内容を確認する。
メールの送り主はやはり隆治だった。
「麻希都は見ちゃだめ」
桜は俺が見れない角度で携帯を見る。俺は送り主しか確認ができなかった。桜は携帯を凝視する。しばらく携帯を眺めていたが、俺の携帯を自分のポケットにしまった。
「え、ちょっと。携帯返してよ」
「ダメ」
「何で? もう桜は確認したじゃん。相手は隆治でしょ? 女の子じゃなかったんだから別にいいじゃん」
「ダメ」
桜はそれしか言わない。俺に携帯を返す気はないらしい。携帯の設定を変えて、メールなどが来ても携帯が鳴らないようにした。
「今日のデートが終わったら返してあげる」
そう言って再び俺の腕に自分の腕を絡める。
「行こう。今度はどこ行こうか」
桜は笑顔で歩き出した。
それからいろいろな動物を見た。食事をしたり、お土産コーナーを見たりして一日を過ごした。普段なら大好きな彼女と共に過ごす休日はすごく楽しいものだろう。しかし、今回はそうはいかなかった。
俺はちゃんと楽しむふりができただろうか。正人と大東が心配で仕方がなかった。神崎に変な手紙が届けられたが、隆治が一緒にいるからきっと大丈夫だろう。しかし、隆治からのメールは桜に邪魔をされ確認できていない。メールの内容が気になるが、俺の携帯は桜が持っている。メールを見ることは許されない。今日のデートが終わるのを待つしかないのだ。
辺りが薄暗くなってきた。来場者も少なくなってきた。
「桜、そろそろ帰ろうか」
俺はそう言った。
「そうだね」
俺達は出口に向かう。
行きと同様、二時間弱の時間をかけて帰宅する。桜は一日中、俺から離れる事はなかった。俺の家の最寄り駅に着いた。桜はそこからまた電車で帰らなければならない。
「桜、携帯返してくれるか」
桜は一瞬躊躇ったが、しぶしぶ携帯を取り出した。
「はい」
「ありがとう」
俺はすぐに隆治からのメールを確認したかったが、桜が目の前にいたため止めた。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「うん。麻希都もね」
俺は桜が電車に乗るのを確認してホームを出た。そして、すぐに隆治からのメールを確認する。
《今、佐久間と貴一も俺の家に来たよ。
貴一が正人の彼女さんの家から帰る途中で佐久間拾ってきたんだ。
麻希都、今日夕方家に寄れるか? 話したい事があるんだ。
できれが電話して欲しいんだけど、できるときに電話してくれ》
《麻希都、どうした、無事か?》
《今どこいんの?》
メールはそれ以外に何通か来ていた。それは全て全く返信が来ない事を心配した隆治からだった。
俺は急いで隆治に電話をする。ワンコール目で隆治は電話に出た。貴一といい隆治といい、電話に出るのが本当に早い。
「もしもし、隆治」
「麻希都か。よかった無事だったんだな」
「ああ。悪かった、メール返信できなくて」
「いいんだ、それより、今から俺の部屋来れるか?」
「ああ、すぐに行くよ」
俺は隆治の家に向かった。
隆治の家には、メールで言っていた通り、佐久間と貴一も来ていた。
「やっと来たか、麻希都」
貴一は俺を見ると安心したような表情をした。
「悪い、遅くなって」
「いや、それはいいんだけど。それより、話を聞いてくれよ」
そう言うと貴一は話だした。
正人の行方がわからなくなり、大東に妙な手紙が届く。大東は心当たりがある場所をしらみつぶしに探していった。正人の行き着けの店。正人の友人の家。正人の実家も勿論行った。しかし、どこにも手がかりがない。そして今度は神崎に手紙が届く。それと同時に今度は大東も姿を消した。
ここまでは俺は聞いていた。
大東は実家暮らしだった。大東の実家に行った貴一は、大東の家族に簡単に事情を説明した。両親は驚いていた。家族にも何も告げずに姿をけしたらしい。両親も急に消えた娘の事をかなり心配していたが、大東の行方に全く心当たりはない。両親は大東から正人が消えた事も手紙の事も聞いていた。頭がおかしいとしか考えられない理解不明の手紙に同封されていた娘の恋人の寝顔が罰印で潰された写真。とても気味の悪い手紙だ。すぐに捨てろと言ったが、大東はそれを拒否した。そして、今度は別の人に前回と似たような手紙が届く。今度は行方をくらませた大東の写真で。その事を話すと、両親はひどく動揺していた。貴一は、何かわかったら連絡が欲しいと自分の連絡先を書いたメモを渡して大東の実家を出た。
「こんな感じかな」
貴一の話は以上だ。
正人に大東…。本当にどこに行ってしまったのだろう。今の話は、二人が行方不明になってしまった事に一層現実味を増した。
俺は机に置いてあった手紙を手に取った。安らかに眠る大東の写真。きっと大東は素敵な夢でも見ているのだろう。そう思わせる写真だった。なのに、赤黒い液体が安らかな眠りを妨げているようだった。
何やら視線を感じて顔を上げると貴一と目が合った。
「何で隆治に連絡してくれなかったんだ? お前まで何か会ったのかと思って心配したぞ」
本当に心配そうに言う貴一。友人が消えた事を誰よりも感じているからこその表情なのだろうか。
「ごめん、実は…」
俺は今日一日の話をした。
どうしても彼女から動物園に行きたいと言われ、仕方がなく行った事。隆治からのメールを女の子からのメールと勘違いされて、浮気を疑われた事。疑いを晴らすために携帯を渡したら、そのまま取られてしまった事。完結に説明をした。
「それで、携帯を確認できなかったんだ」
「そうだったのか」
貴一は合点のいかない表情をした。
「お前、随分と自己中心的な女と付き合ってんだな。彼氏の都合無視して自分の都合のいいことしか考えてないとか最悪だわ」
佐久間は吐き捨てるように言った。
「本当」
佐久間の隣から神埼が言った。先ほどよりも疲れているようだ。無理もないか。正人と大東が立て続けに消えて、自分に大東が消える前に届けられた者と同じ不気味な手紙が届いたのだから。
「私たちがこんなに悩んでいるのに、彼氏を無理やりデートに連れて行くなんて。その彼女、頭おかしいんじゃないの?」
神崎は相当精神的に来ているらしい。普段はこんな事を言う子じゃないのに。
「関市も関市よ。何女の言いなりになってるの? あなたは友達が消えていくのに何とも思わないの? 次は私が消されるかもしれない。その次はまた誰かが消されるかもしれない…。それなのに彼女の言うとおりに動物園なんて楽しんじゃってさ」
「おい、神崎」
パニックになっている神崎を隆治が制止しようとした。しかし、それは全く意味を成さない。
「ふざけないでよ。あなたに私の気持ちなんてわからない。もう嫌、関市の顔なんて見たくない、出て行ってよ! あなたの大切な彼女の家にでも行ったら?」
神崎は涙を流している。恐怖のあまり、怒りの矛先を俺に向けたようだ。俺はどうするべきかわからなかった。
俺は今朝、正人に続き大東まで消えた事も神崎に大東と同じ手紙が届いた事も知っていた。神崎が恐怖に怯えていた事もわかっていた。なのに、俺は桜の元に行った。いくら隆治からそうして良いと言われたとはいえ、やはり神崎の気持ちを考えれば俺の行動は軽率だった。
「わかった」
俺は立ち上がった。そして、玄関を目指して歩き出す。
「麻希都」
隆治が俺の名前を呼んだ。
「タバコ吸って来るよ」
俺はそう告げた。
「待って。俺も行く」
隆治はそう言うと、掛けてあった上着を羽織った。
「佐久間と貴一は神崎とここに居てくれ」
「ああ、わかった」
貴一はそう言った。佐久間も無言で頷く。隆治は机に置いてあったタバコをポケットにしまうと、俺の後を追って部屋を出た。
外は真っ暗だ。昼間に比べ気温も下がり、少し肌寒かった。隆治の部屋を出る時に、何か羽織る物を借りてるればよかったかな。俺はタバコに火を点けた。口の中にメンソールの冷たさが広がる。
「悪かったな。巻き込んで」
俺は隣にいる隆治に言った。神崎と一緒にいる事ができなくて出てきた俺に付き合って一緒に来てくれた隆治はタバコに火を点けていた。
「気にするな。俺が好きで着いて来たんだから。タバコ吸いたかったし丁度良い」
そう言って煙を吐き出す。その煙は風に乗って俺にかかる。
「今日はごめんね。俺が桜の所に行ってから、ずっと神崎と一緒にいれくれたんでしょ? やっぱり神崎の言ってた通り、ふざけんなって感じだよな」
「麻希都…」
「なんて言うかさ、神崎が怒るのも無理ないな。俺ってホント最低」
それに、神崎だけじゃない。佐久間に貴一。そして隆治に対して申し訳ない。
「でも、仕方ないじゃん? 彼女さんの事も大切にしないと」
隆治はそう言ってフォローしてくれる。いつもこいつは俺を守ってくれる。気が利くというか何と言うか。一緒にいて何年も経つけど、本当にいい奴なんだ。
笑顔を向けていた隆治が突然神妙な顔をした。
「なぁ、麻希都」
「ん?」
「怒らないで聞いてくれよ」
そう言いながらも言葉を詰まらす。俺は黙って隆治の言葉を待つ。短くなってきたタバコを灰皿に捨て、新しいタバコに火を点ける。
「彼女さんの事」
隆治はそう言った。
彼女?
「彼女って…大東の事?」
大東は正人の彼女だ。確か隆治は大東の事を彼女さんって呼んでいたし。しかし、隆治は首を横に振った。隆治から帰ってきた言葉は予想外だった。
「違う。正人の彼女さんじゃなくてお前の彼女さんだよ」
え…? 俺の彼女? 桜の事?
「桜?」
「ああ」
何で今桜の話になるんだ? 俺には隆治が何を言いたいのか理解ができなかった。
「やっぱりさ、お前の彼女はおかしいと思う」
「は? お前何言ってんの?」
一瞬何を言われたのかわからなかった。桜がおかしい? どういう意味だよ。
「ずっと思ってたんだ。お前の彼女は普通じゃない」
俺は隆治の発言に怒りを覚えた。いきなり自分の彼女に対してそんな事を言われたのだ。誰でも苛つくだろう。
「今日の動物園の事? それは確かにちょっと我が侭な所はあったかもしれないけど、それだってきっと桜にも何か事情があったんだよ。隆治、桜と会った事あったじゃん。桜がおかしい子だと思ってんのか?」
大切な彼女を悪く言われたせいで俺は隆治に強く当たってしまった。いくら隆治でも、許せなかった。さっきは桜と会うことを許してくれたのに、戻ってきた途端これかよ。
「何なんだよお前まで」
隆治から視線を外し煙を体に流し込む。この煙が俺の感情を抑えてくれるはずだ。
「もしかして、俺達が一緒にいる事を知ってわざわざ連絡してきたんじゃないのか? 自分以外の人と一緒にいるのが許せなくて」
要するに嫉妬という奴か。
「自分の好きな奴が他人と一緒にいるのはそりゃあ面白くないだろうけど。もし二人がいなくなったのも嫉妬が原因だったとしたら、お前の彼女が絡んでいるって線もなくはないんじゃないか?」
隆治の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。何の根拠があってそんな事を言うんだ。そもそも、桜がそこまで俺に嫉妬しているとは思えない。確かに桜は俺の彼女で、俺の事を好きなわけだ。俺が知らないだけで多少の嫉妬はされていたのかもしれない。けれど、今まで一緒にいて、そこまで強い嫉妬をされた事はない。
「そもそも、桜って一体何者なんだよ。不気味なくらいに麻衣都と似てるし」
隆治はそう続けた。
「それは…」
「桜は本当に実在する人間なのか?」
何が言いたいんだ。桜の本当の正体は麻衣都なのではないか? そう言いたいの?
「根本的に間違っているんじゃないか? 桜なんて人物は存在しなくて、本当は麻衣都が変装しているんだ」
そんなわけないだろう。俺はそう言いたいのに、何故か言葉が出ない。
「麻希都、お前もう十年も麻衣都に会ってないんだろ。十年も経てば顔も雰囲気もいろいろと変わってくるだろうけど、あそこまで似てると他人の空似とかってレベルじゃねぇぞ。どう考えたっておかしいだろ」
隆治の言いたい事はわかる。けど、麻衣都に関してそんな事はないはず…。
「お前が知らない間に麻衣都だって変わってるんだよ」
考えたくない。桜が麻衣都なんて…。
「何が目的か知らねぇけど、桜が麻衣都だったら、二人が消えた理由も麻衣都が絡んでいるんじゃ…」
「うるさい!」
俺は隆治の言葉を遮った。それ以上先は聞きたくない。
「そんなの全部憶測だろ。桜が麻衣都? 正人と大東の失踪には桜が絡んでる? ふざけんのも大概にしろよ」
俺はそれだけ言うとタバコを灰皿に入れた。
「帰るわ」
「麻希都!」
隆治とは別の方向に歩き出す俺を呼び止める隆治。だが、それ以上の事はしなかった。
俺は家に向かって歩き出す。先ほど隆治に言われた事を思い出すと、気分が悪くなる。桜が麻衣都。そんなはずない。麻衣都は男だ。そして桜は女。有り得ない。もしかして隆治は頭がおかしくなったのか? きっとそうだ。でなければこんな訳のわからない発想をしたりしないだろう。
初めて桜と会った日を思い出す。もうすぐ日が暮れるという時に地面にうずくまっている女性。俺の大切な弟、麻衣都と瓜二つの顔。俺とは全く似ていない弟の顔がそこにはあった。
出会ってから数ヶ月。今まで一緒にいた桜はどうだった? 桜は本当に女の子らしくて可愛くて、俺の事を大切に思ってくれていて動物が大好きで…。俺は桜との思い出に浸っているはず。なのにどうして? どうしてすべてが麻衣都と重なるんだ?
男が女の振りをしていたと過程しよう。男と気づかれないために何をする? きっと女の子と思われるように、華奢な子を演じるだろう。男が好きなタイプの女の子を自分自身で演じるだろう。それはつまり、男だからこそ男の好きな女の子を演じれるという事なのだろうか。
麻衣都は元々華奢だった。昔から女の子と間違われがちで、性格も内気。麻衣都だったら女の子を演じれる。麻衣都だったら俺の好きな女の子のタイプも、俺の性格も知っているはずだ。
ずっと気づいていたはずだ。あまりにも不自然だと。最悪な考えが頭に浮かんでくる。桜の本当の正体は麻衣都なんじゃないか。麻衣都は何らかの理由で別人になって俺に近づいてきた。そして、俺がバーベキューに行った事が気に入らなくて参加者を消していっているのではないか。
「麻衣都…」
俺は携帯を取り出した。着信と受信がかなり来ている。開いて確認してみると、すべて桜からだった。
《今どこにいるの?》
《またあいつらと一緒にいるの?》
《私以外といる事は許さない》
《麻希都は私のもの》
《麻希都、愛しているわ》
そんな内容のメールが何通も送られてきていた。
家に着いた俺は、すぐに風呂に入った。先ほどまでの考えをかき消すようにお湯を頭から被る。たぶん隆治が言っていた事は憶測なんかじゃない。桜は言っていた。昔からそう、私の事なんか全然気にしてない。って。俺と桜が出会ったのは、そこまで昔の話じゃない。なのに、桜のその発言は昔から俺と関わりがあったかのような口ぶりだ。それは、桜が桜以外の何者かという事を意味している。そしてそれは、麻衣都しかいない。
俺は大きくため息をつく。
もう疲れた。今日はもう寝よう。髪の毛を乾かすと、すぐに布団に入った。一応携帯を確認しようとしたが、たぶん桜からのメールでいっぱいだろう。そう思うと怖くて見ることができない。俺は何を言っているんだ。桜は俺の大切な彼女だろ。なのに何怖がっているんだ。桜が麻衣都だと決まったわけじゃないのに。けど、もう俺には何もわからない。何も考えたくない。最悪な考えしか浮かばないのだから。
俺はゆっくり目を閉じた。
翌朝、携帯を確認する。予想通り、桜からのメールで埋め尽くされていた。下に下げていくと、桜の名前の間に隆治の名前を見つける。俺はそれを開いた。
《麻希都、さっきは変な事言ってごめん。俺も同様してたわ。麻希都、一人じゃ危ないから、やっぱり俺の家に来てくれないか?》
受信した時間を見ると、昨日別れてからすぐか。俺はすぐに返信をした。
《おはよう。俺も感情的になってごめん。今起きたばっかだから、準備したらすぐ行くよ》
職場にはしばらく休む事を伝えていた。とてもじゃないが、こんな状態で仕事をする事なんてできない。周りに迷惑がかかるだけなら、いっその事休んでしまったほうが良いだろう。隆治達も同じ考えらしい。とりあえず仕事の心配はいらない。
洗面所で顔を洗う。着替えを済ませ家を出ようとした時だった。家のインターフォンが鳴った。誰だ? こんな時間に訪ねてくる人なんていないはずなんだけど。俺は玄関に向かい扉を開けた。
「麻希都」
そこには桜が立っていた。
「桜、どうして?」
どうしているの? 俺が今から外出すると知っているかのようなタイミング。
「電話もメールの無視するから心配したの。ねぇどうして無視するの?」
桜は家に中に入ってきた。そして、いつものように俺の胸に自分の顔を埋める。
「ねぇ、どうして?」
桜のこの行動はいつもの事。今に始まった事じゃない。けれど、昨日の隆治との会話。隆治と別れてからの俺の思考。そのせいか桜がものすごく怖い。もしかしたら桜じゃなくて麻衣都かもしれないけど。
麻衣都は昔から小柄だったな。あのまま成長していたら、きっとこれくらいの身長だよな。今俺の胸に顔を埋めている桜の身長は一体どれくらいなのだろう。背の低い子なら、これくらいの身長の男がいても不思議ではないな。桜が麻衣都。その可能性は一層強くなっていった。
「ごめん。昨日は遊び疲れちゃってさ。すぐ寝ちゃったんだ」
「俺は笑ってごまかした」
「ふーん。そうなんだ」
「うん。ごめんね」
「でも、疲れてたなら、どうしてお友達と一緒にいたの?」
「え?」
桜は昨日俺は友人と一緒に居た事を知っている?
「家にはいっぱい人がいたようだけど、楽しかった? 途中で二人きりになったけど、喧嘩してたね。どうしたの? どうして喧嘩しちゃったの? 私の大切な麻希都をいじめるなんて大谷隆治は酷いね」
何で桜がそんな事を知っているんだ。確かに桜は家に帰った。電車に乗るのをちゃんと確認した。桜と別れた後の事を知っているはずがない。なのに…何で…?
「それに、昨日私のメール見てたよね。なのに無視?」
俺は何も言えなくなった。何で知っているの? 俺の表情を見た桜は、小さく微笑んだ。
「どうしてそんなに驚いているの? 当然じゃない。私が麻希都の事を知っているのは。私には何でもわかるのよ。だって私と麻希都は愛し合っているんだもの」
そう言って力強く俺を抱きしめる。離してくれ…。俺は桜を引き離す。
「麻希都?」
桜は驚いていた。
「桜ごめん、せっかく来てくれたんだけど、俺、これから行かなきゃいけない所があるんだ。だから、今日は帰ってもらっていいかな」
その言葉を聞いた桜は鬼のような形相をした。
「そんなに大谷隆治が大切なの?」
「え?」
何で隆治と会うって知っているんだ。俺は隆治の名前は出していない。
「昔から大谷は私達の邪魔をするのが好きね。いつもいつも私達の邪魔ばかりして。本当に…邪魔」
桜は振り返った。
「大谷に伝えておいて。今度邪魔をしたら許さないって」
そう言い捨てると、桜は去っていった。俺はその場で腰を抜かせた。
今のは一体なんだったんだ。どこかで監視しているのか? 俺の家? 隆治の家?
俺は携帯と財布だけ持ち、隆治の家に向かった。
インターフォンを押すと、佐久間が鍵を開けてくれた。どうやら、佐久間と貴一と神崎の三人は、隆治の家に泊まったらしい。
「隆治!」
「麻希都、遅かったな」
「隆治、やっぱり桜が二人を消したんだと思う。桜は普通じゃない」
「何かあったのか?」
俺は昨日隆治と別れてから自分で考えていた事と、今朝の桜の話をした。
「マジかよ」
「ここも監視されてるって事かよ」
貴一と隆治が言った。
「そんなアニメみたいな事あるのかよ。弟が彼女と似てるからってそんな事…有り得ないだろ」
佐久間はそう言った。俺だって信じられない。けれど、それしか考えられないんだ。
「俺だって認めたくないよ。俺は麻希都と幼馴染で、麻衣都ともそうなんだ。昔はよく一緒に遊んでたし、あいつがそんな奴じゃないって思いたかった。けど、この状況じゃそう思うしかないだろ」
隆治は言った。ここにいる誰よりも俺の話を理解しているだろう。麻衣都も桜も実際に会った事があるのは隆治だけなのだから。
「ちょっと…整理させて」
貴一は頭を抱えた。俺の話をいきなり信じろなんて無理な話だ。話をした俺だって、正直言って完璧に理解できているわけではない。
その時、ポストに何かが落ちる音がした。
「郵便?」
「かな。ちょっと見てくる」
隆治は立ち上がり、玄関に向かう。隆治がいなくなってから、しばらく口を開く者はいなかった。各々が今自分達が置かれている状況を理解しようとしていた。
「隆治、遅くね?」
佐久間が言った。確かに遅い。郵便物を取りに行っただけのはずなのに。
「ちょっと待ってて」
俺は玄関に向かう。隆治は何かを持って玄関で立ち竦んでいた。
「隆治? どうした?」
俺は隆治に声を掛ける。俺に気づいた隆治はゆっくり振り向く。その時、隆治の手に握られていた者が確認できた。
白い封筒。
その時、俺は全てを理解した。また誰かが消えると。
そういえば、話の途中から神崎の姿を見ていない。トイレにでも行っているのだろうと気にしていなかったが、もしかして…。俺はトイレの扉を開けた。誰も居ない。
「神崎! どこだ神崎!」
俺は叫んだ。佐久間と貴一が俺の声に気づいてやってきた。
「どうした、麻希都」
「神崎がどうかしたのか?」
貴一はまだ状況を理解していない様子だったが、俺の後ろにいた隆治が持っている白い封筒を見て理解した様子だった。
「またかよ」
佐久間は目を見開いた。
「今度は神崎がいなくなって隆治に手紙が送られてきたっていうのかよ」
「いや、違う」
佐久間の言葉を隆治は否定する。そして、手紙を俺達に見せ付けた。
「ここ見て」
隆治が指指す場所は手紙の右端。小さく何かが書かれている。
「坂上…貴一…?」
貴一の名前が書かれていた。
「おれ…?」
貴一の声は震えていた。
「ああ、これはお前宛だよ。貴一」
隆治は小さく言った。貴一は顔面蒼白した状態で膝から崩れ落ちた。
「隆治、ちょっとどいて」
俺は隆治の横を通り玄関の扉を開けると、はだしのまま外に飛び出した。
「神崎!」
俺は神崎の名前を呼ぶ。神崎がいなくなってからまだあまり時間は経っていないはず。神崎が外に出たとしても、もしかしたらまだ近くにいるかもしれない。
「神崎! どこだ!」
しかし、神崎の姿はどこにもない。通りすがりの人が俺を怪訝な目で見つめてくる。はだしのまま一心不乱に名前を叫びながら走り回っている男。傍から見れば頭がおかしいと思われたかもしれない。そんな事はどうでもいい。神崎はきっとすぐ近くにいる。ただ俺らを脅かそうとしているだけ。そう思いたかった。
どれくらい走っただろう。慌てて飛び出して来たから気にしている余裕はなかったが、靴くらいはいてくればよかった。はだしの両足からは血が出ていた。俺は公園のベンチに腰掛けた。
「麻希都…」
名前を呼ばれ振り返ると佐久間が立っていた。
神崎はどこにもいない。自分の無力さを思い知る。ついさっきまで同じ部屋にいたはずなのに、気を抜いた瞬間に消えてしまった。一緒にいたのに消えてしまった。一緒にいたのに……。
「戻ろう…麻希都…」
俺は立ち上がる。
「ああ」
それだけ言うとゆっくり歩き出す。
俺と佐久間は隆治の部屋の戻ってきた。シャワーを借りて足を洗う。傷口には泥が入り込んでおり、洗うのに時間がかかった。その後は消毒をしてガーゼと絆創膏でしっかりと手当てをする。
「大丈夫か」
隆治が俺を心配して手当てを手伝ってくれた。随分となれた手つきでテーピングを巻きつけていく隆治。
「ああ。ありがとう」
手際が良い隆治とは裏腹に、俺の両手はひどく震えていた。自分でも驚くくらいに動揺しているようだった。皆桜の事があったとはいえ、何故ここまで動揺しているのかわからない。皆不安なはずなのに…情けない。
手当てが終わると、隆治はテーブルに置いてあった手紙を手に取った。
「中身…確認しよ」
そう言って確認するように周りを見回す。
大東と神崎に送られてきた物ときっと同じものだ。手紙と写真が入っていて、赤黒い液体で何かが書かれている。気味の悪い手紙。はじめは正人、次は大東。だとしたら、この封筒にはきっと神崎の写真が入っている。
「貴一、お前が開けるか?」
隆治は貴一に手紙を差し出す。しかし、貴一はそれを阻止した。
「嫌だ!」
両手を大きく横に振り、差し出された隆治の手を弾く。隆治の手から手紙は落とされた。
「嫌だ。絶対に見たくない。隆治が開けてくれよ」
貴一は震えた声で言った。
「わかった」
隆治は手紙を拾い上げると、封筒の中身を取り出した。静寂に包まれた部屋に、紙から出される小さな音だけが響いていた。
手紙の中身はやはり一枚の手紙と写真。写真は神崎のものだ。前回と同様、眠っている写真のようだ。赤黒い液体で書かれた罰印で潰されている事以外は、本当にただ眠っているだけの写真。写真の裏には漢字で三と書かれていた。
「三人目って事?」
佐久間は独り言のように呟いた。きっとそうだろう。正人に大東。そして神崎。丁度三人。
手紙は小さく折りたたまれていた。その手紙は何かを包んでいるようだった。前の二人は二人の私物である指輪が同封されていた。今回は一体……。ゆっくりとその正体を現していく。少し開けたところで、何かが転がり落ちた。それはころころと転がり、隆治の足のすぐ近くで止まった。青紫色に変色した五センチくらいの何かだった。
「何これ?」
一瞬虫か何かかと思った。毛虫的なね。けれど、それは間違い。俺の頭は随分と平和にできているようだ。それを虫と勘違いするんだから。
「な…なんだよ…」
隆治の手に持たれていた紙は力を無くし地面に落ちる。その紙は、前回送られてきたものよりずっと液体で染まっていた。きっと今回も文字が書かれているのだろう。しかし、全く読むことができない。それくらい染まっていたんだ。
それを見てようやく俺にも理解ができた。今転がり落ちたものは指だ。それも人間の。そして、赤黒い液体は人間の血液。
気持ち悪い。
誰が見てもそう思うはずだ。ずっと否定していただけで本当は気づいていた。けれど、こんな非現実的な事が実際に起こるなんて思わないだろ。だから俺は気づかないふりをしていた。
俺はトイレに駆け込んだ。ものすごい吐き気に襲われたのだ。大東と神崎に送られてきた手紙も含め、一体誰の血で書かれているんだ? あの指は誰のもの? 今までは送られてきたものはどちらも写真に写っている人物の私物だった。だとしたら、もしかしてあの指は写真に写っている人物である神崎のもの…? いや、でも…何で…? 今はもう考える事すらできない。ただ込み上げてくる胃の内容物を吐き出していくだけ。
吐ける物はすべて吐き出した。もう吐き出せる物は何も残っていない。俺は深呼吸をしてトイレを出た。部屋に入ると同時に異臭に襲われた。
「ああ、麻希都。大丈夫か?」
佐久間は貴一の背中を擦りながら、顔だけを俺に向けながら言った。俯く貴一は袋を口に当てていた。この部屋の異臭はどうやらその袋からしているようだった。
そうか。貴一も戻したのか。俺は妙に冷静だった。それにしても、佐久間と隆治はよく平気でいられるな。俺の視界に再び指らしきものが入る。無造作に床に置かれている指。どういう経緯でこの指は持ち主から離れてしまったのだろうか。切断された事は見ればわかる。誰かにやられた? 自分でやるなんて事はないだろう。生きたまま切断? 指を? そんな事をしてみろ。痛いなんてものじゃないぞ。それとも死んで切断したというのか? しかしそれなら、この指の持ち主は死んでいるという事になる。
もう嫌だ……。逃げ出したい……。
どうして俺達がこんな目にあわなきゃいけないんだ。誰がこんな事をしているんだ。俺達に一体なんの怨みがあるというんだ。俺は力なく座り込んだ。
その日、俺達は隆治の部屋に泊まる事になった。絶対に一人にならない、それだけは約束した。
「いいか、室内だからって油断するなよ。貴一以外もだぞ」
「ああ、わかった」
隆治の意見に皆が賛同する。神崎は室内にいたのに消えてしまった。神崎がいない以上、どうして消えてしまったのかは知りようがない。もう誰もいなくならないよう、俺達は万全の体制を整えた。
俺はソファに横になって天井を眺める。そういえば、今日はいろいろとあって携帯を一度も見ていない。バックから携帯を取り出す。すると、おびただしい量のメールが届いていた。それは全部桜からだった。一通一通開いて中身を確認する。
《おはよう麻希都。今日は仕事休んでるんだね。どうしたの?》
《ねぇ麻希都。今日は家にいないんだね。仕事でもないし家にいるわけでもないならどこにいるの? 私のためにお休みをとってくれたんじゃないの?》
《ねぇ麻希都、私ずっと待ってるの。早く来て。今日は映画を見に行きたいな》
《早く。もう日が暮れちゃう》
《まだ時間かかりそうなの? 大谷はまだ麻希都を離さないの? 仕方ないわね。私が直接話しに行くわ。すぐに着くからもう少し待っててね》
全身に嫌な汗が流れてくるのを感じた。仕事を休んでいる事も家にいない事も言っていない。ましては隆治と一緒にいるなんて…どうして桜が知ってるんだ? その時、インターフォンの音が部屋中に鳴り響いた。
桜だ。直感的にそう思った。
「誰だ? こんな時間に」
隆治は来客を確認するために玄関に向かう。ダメだ。止めないと。どう思っているのに、何故か声が出ない。ダメだ。隆治が殺される。俺の視界から隆治の姿が消える。
「はーい」
玄関から隆治の声がした。それとほぼ同時にガシャンという音が響いた。ガシャンガシャンと何度も鳴り響く。
「麻―希―都。迎えに来たよ」
桜の声が聞こえた。
俺は震える足を何とか動かして急いで玄関に行く。
「さ、桜…」
「あ、麻希都」
桜な俺を見つけると笑顔を見せた。
玄関にはチェーンがかかっている。隆治はチェーンをしたまま鍵だけをあけたようだ。先ほどから鳴り響いているガシャンガシャンという音は、桜がチェーンを外そうとしていた音だった。
「ねぇ麻希都、ここを開けてよ。寒いよー」
桜はチェーンを掴んで言った。俺達が開けなくても、桜自身でチェーンを破壊して家の中に進入してきそうな勢いだった。
やっぱり桜はおかしい。改めてそう思った。
「麻希都」
隆治が扉の前で立ち竦んでいる。狂気的な桜を前に、隆治は同様しているようだ。
「隆治、部屋に入ってて」
「え?」
「ちょっと桜と話があるから」
俺はそう言って隆治をこの場から立ち去らせようとした。しかし、隆治はなかなか部屋に戻ろうとしない。
「隆治? どうした?」
「お前…」
隆治は何か言いたそうにしていたが、俺はいまいち聞き取る事ができない。その間にも、桜はチェーンを外そうとしてくる。
隆治が言いたい事は何となくわかる。隆治は桜を麻衣都だと思っている。俺と桜が二人きりになるのは危険と言いたいのだろう。
「大丈夫。少し話すだけだから。話が終わったらすぐに戻るからお前は部屋に戻ってて」
俺は隆治の背中を押して部屋まで連れて行った。
「麻希都」
隆治を部屋に入れた。最後に隆治の名残惜しそうな顔が見えたが、気づかないふりをして扉を閉めた。
俺は玄関に戻る。
「お待たせ。桜」
「麻希都」
俺はチェーンを付けたまま、扉にかけてある桜の手に触れた。桜の手は冷たかった。まるで人ではないかのように冷たい。この寒い外ずっといたのならさぞかし冷えただろう。かわいそうな事をしたな。少しだけ心が痛んだ。
「ねぇ麻希都、早くここを開けてよ」
桜はチェーンに触れる。俺も桜の手を包み込むようにチェーンに触れた。金属のチェーンと桜の手。なのに、どちらも同じ金属のような錯覚に陥った。桜は本当に人間なのか。金属と何も変わらないじゃないか。動く金属。人形のようだ。
隆治はいなくなったとはいえ、チェーンを開けるのは躊躇った。このいかれた人間と俺の間にはチェーンで繋がれた扉だけだ。もしチェーンを外せば、桜と俺を隔てるものは何もなくなる。
怖い。その思いが強い。
「ねー、麻希都」
桜が不思議そうな顔をして俺を見上げる。扉の間の隙間から、俺の記憶の中にある麻衣都と重なる懐かしい顔が覗いている。
「じゃあ、開けるから。一回だけ扉閉めるよ」
「うん。わかった」
そう言うと桜は手を離した。きっとどこの扉も同じだろうけど、チェーンを外すためには一回扉を完全に閉める必要があるのだ。桜の顔がだんだんと小さくなっていく。
バタンという音と共に扉が完全に閉まった。早くチェーンを外さなければいけない。それはわかってる。けれど、これを外した時の桜の行動は予測できない。桜が何を企んでいるのか、想像するだけで恐ろしかった。
正人に大東。そして神崎。この四人が消えた理由が桜にあるのなら、今話を聞けるチャンスではないか。桜から話を聞く事ができるのは俺しかいない。俺は怯えててどうするんだ。消えた三人は、もっと怖い思いをしているかもしれないんだ。
ゆっくりとチェーンを開けた。完全に外した瞬間、外から勢いよく扉が開かれた。
「麻―希都」
桜が俺に抱きついてくると、俺の胸元に顔を埋めた。
「やっと会えた。会いたかったよ、麻希都」
桜は顔を俺から離すと、背伸びをして俺の唇に自分の唇を押し当てた。
「会いたかった。会いたかったよ麻希都。私の大切な麻衣都。私だけの麻希都。誰にも渡さない」
唇を離すとそんな事を呟いた。桜はどうあっても俺を束縛したいらしい。
「ごめん、桜」
俺は桜の頭を優しく撫でた。
「桜、ちょっと外歩かないか」
この家には皆がいる。桜の目的が皆を消すことなら、このままここにいるのは危険だ。桜は俺の恋人だ。皆は関係ないし巻き込みたくない。
「いいよ」
桜は俺の手を引いて歩き出した。
「私も麻希都と二人きりになりたかったの」
「そっか」
俺達は当てもなく歩き出した。
隆治の部屋から大分離れた所にある公園に辿り着いた。この時間になると、もう殆どの店は閉まっていて公園くらいしかゆっくりできる場所がなかった。
「ココアでいい?」
「うん。いいよ」
俺は自動販売機でココアとコーヒーを買って桜と共にベンチに腰掛けた。桜にココアを渡し、俺は自分のために買ったコーヒーを両手で包んだ。缶を伝わってコーヒーを暖かさが体にしみる。
「暖かい」
桜は俺の肩に自分の頭を預けた。
「会いたかったよ、麻希都」
もう何度も聞いたその台詞。
「うん。ごめんね。返事できなくて」
口先だけのその台詞。感情なんて全くこもっていない。皆を消したのは桜なのか。桜の正体は一体何なのか。知りたいのはその二つ。それを確認するために俺は桜と話をすると決めたんだ。
「ねぇ桜」
「ん? 何?」
ココアを自分の頬に押し当て、幸せそうな表情をしている桜。桜…だよね。麻衣都じゃない、きっと桜が言った。
「君は一体誰なの?」
二人の間に沈黙が流れた。どれくらいの時が過ぎたのかはわからない。大した時間は過ぎていないと思う。けれど、それはすごく長い時間に思えた。桜はゆっくりと顔を上げる。いつもの笑顔なんて一切ない。冷めた表情で俺を見つめる。
「何言ってるの? 麻希都の恋人の斉井桜でしょ?」
予想道理の答え。だから別に驚いたわけじゃない。
「どうしたの? いきなり変な質問してきて」
「ごめん」
「大谷隆治に言われた事気にしてるの?」
これには驚いた。
「やっぱり」
俺の表情を見た桜が言った。どうやら桜に隠し事は通用しないらしい。俺は慌てて訂正しようとした。
「ち、違うよ。別に隆治は関係ない。ただ…ちょっと…」
「ちょっと何?」
「いや、ちょっと気になって。俺、よく考えたら桜の事何も知らないし、桜から自分から言ってくれる事もなかったでしょ? だからどうなのかなって思って。気を悪くしたならごめん」
うまくごまかせただろうか。いや、全然ダメ。それは自分でもわかる。俺は昔から嘘をつくのが下手なんだ。
「何それ、意味わからないよ」
「ごめん」
我ながら最悪な言い訳だと思うよ。
「本当。麻希都は昔から嘘が下手」
「う、嘘なんてついてないよ」
「嘘。だって麻希都は嘘をつくとき、必ず唇を手で隠す癖があるもの」
「え?」
そうなのか? そんな事、指摘されるまで全く気づかなかった。確かに、嘘をついたこの瞬間、俺の手は唇を隠すように口の前に置かれていた。
「昔からそう。小さい時に大谷が言ってたわ。麻希都には癖があるってね。麻希都は嘘をつくとき必ず唇を手で隠すからあいつが嘘をつくとすぐにわかるって」
そうだったのか。道理で昔から隆治には嘘が通じないわけだ。俺は本来の目的を忘れてそんな事を考えていた。
「ねぇ麻希都。どうして嘘つくの?」
「嘘じゃないって。本当に。今、ちょっと唇が痒くってそれで…」
明らかに無理な言い訳だ。それでも俺は必死で嘘を考える。
あれ? そういえば今変な事を言わなかった? 動物園に行った時も気になってた事。桜は“昔から”そう言った。やっぱり桜は昔の俺を知っている? それに小さい頃、桜は隆治から俺の癖について聞いていると言っていた。それは、桜は隆治とも友達だったって事か? でも、隆治は桜の事は俺は紹介するまで知らなかったし、今までそんな事は一度だって言ってきた事はない。
「さ、桜…?」
俺は再び恐怖に襲われた。怖い…。でも聞かなくちゃ。
「俺の友達…知らない?」
最後までちゃんと言えただろうか。すごく震えていたのが自分でもわかる。
「ともだち…?」
桜は無表情のまま言った。そして、不気味は笑顔を見せた。
「必要ないでしょ?」
「え?」
「麻希都には私がいればそれでいい。私以外必要ない。昔からずっとそう。私と麻希都はずっと一緒。二人で一つ。私達は一緒にいなきゃいけないの他には何もいらない。いつもそうやって生きてきたじゃない」
穏やかな表情で答える桜。俺にはその言葉の意味がわからなかった。
桜は発した言葉の恐怖じゃない。もっと恐ろしい恐怖に支配された。俺と桜はずっと昔から知り合いだった。桜が俺を一方的に知っていた可能性はあるが、隆治とも交流があり、俺の昔の性格は癖まで知っているとなると俺とある程度親しい関係だったのだろう。そして、次の質問。消えた俺の友人について。きっとこれも桜が関わっている。桜の返答だと、そう解釈して間違いないだろう。この二つから何がわかる? 桜は桜じゃない。桜の正体は、俺と隆治と昔から親しい間柄の人物。そして、桜が皆を消していっている事に深く関わっているという事実。
「麻衣都」
俺の口からは無意識にそう漏れていた。
「麻希都? 何言っているの?」
桜は先ほどの笑顔のまま答えた。特に驚いた様子もない。機械の様に、登録された単語を淡々と答える。そんな感じ。
やっぱり隆治が言っていた通り、桜の正体は麻衣都なのか? 麻衣都が性別を変えて再び俺に近づいてきたのか? 十年かけて麻衣都は変わった。それは、俺達が想像していた事より、ずっと最悪な変貌を遂げていた。認めたくない。でも、もしそうなら全て辻褄が合うんだ。
「やっぱり…麻衣都なのか?」
否定してくれ。そう思いながら恐る恐る聞いた。
「やっと気づいてくれたんだね。お兄ちゃん」
桜から帰ってきた言葉は一番恐れていたものだった。
目の前が真っ白になった。やっぱり桜は麻衣都だったのか。麻衣都が性別を変えて俺に近づいてきた。そして、不気味な手紙を送りつけて俺の友人達を消しているのだ。
「どうして? どうして麻衣都がこんな事してるの?」
必死に言葉を探した。正直、それ以外の言葉は思い浮かばない。桜がその質問に答えたところで、しっかりと頭に入ってくる気はしなかった。
「ずっと気づいてほしかった」
そう言って俺の腕に自分の腕を絡める。
「だってお兄ちゃんは私のものでしょ? 昔からずっとそう。お兄ちゃんは私だけのヒーローなんだよ。誰にも渡さない」
平然と答える。桜。いや、麻衣都。
「弟だといろいろと面倒くさいでしょ? お兄ちゃん、周りの目とか気になって私と一緒にいてくれないのかなって思って。それなら私が女になればもう何も気にしなくていいでしょ? だから私は女になったの。女になって、正々堂々とお兄ちゃんの彼女になったの。でもね、麻希都には私がいるっていうのに、私の麻希都に近づく悪い虫がいたから排除したの。それだけ」
もう何がなんだかわからない。
「皆はどこにいるの?」
「教えない」
「どうして?」
「あいつらは消えて当然。麻希都だってそう思うでしょ? あいつらは私と麻希都の邪魔をするのよ。だからもういらない」
いらないって…。あいつらはゴミじゃないんだぞ。
「ふざけるな!」
いつぶりだろう、久しぶりに思い切り叫んだ。桜は驚いた表情をして小さく一歩後ろに下がった。
「お前、一体何考えてるんだよ。俺に近づくために性別を変えただと? ふざけんじゃねぇよ」
「麻、麻希都?」
「あいつらは俺の大切は友達なんだよ。お前がどうこうできるような存在じゃない! 皆どこにいるんだ。場所を教えろ!」
俺は桜に掴みかかる。桜は怯えた様子で体を震わせていた。
「どうしてそんな怖い顔するの? やめて…怖いよ」
桜の目から涙が零れた。俺はとっさに我に帰る。
「ごめん」
桜から手を離す。
その時、俺の後ろの草むらから人が現れた。今は深夜だ。こんな時間誰だ? 俺は身を構えた。しかし、その人物を見た途端に拍子抜けした。
「隆治」
暗闇の中、街灯に照られさた隆治の姿が目に入った。
「隆治、いつからそこにいたの?」
隆治がいた事なんて全く気がつかなかった。こんな所にいたという事は、今までの話を全て聞いていたのかもれない。
「お前たちが出て行ってからずっと着けてたんだ。さすがに心配だったから」
部屋にいろと言ったのに。本当に隆治は心配性なんだから。下手に外をうろついたら隆治まで危ない目に会うかもしれないのに。
「話は全部聞かせてもらった。麻希都。それに麻衣都」
隆治の視線は俺から桜に注がれる。隆治はとても怪訝な表情をしていた。
「やっぱりお前は麻衣都だったのか。何のつもりだてめぇ。男のくせに女になって兄貴に近づくとは随分な悪趣味見せ付けられたぜ」
隆治は桜の胸倉を掴んで自分に近づけた。長身な隆治とは裏腹に小柄な桜は、必死に背伸びをする形になった。
「あいつらどこにやった。答えろ」
隆治の気圧に圧倒され、桜は再び涙を流した。先ほどの俺はこれで怯んだが隆治はそんな事はしない。
「泣けば済むと思ってんのか」
桜を掴んでいる腕とは別のほうの手は硬く握り締められていた。これ以上時間を過ぎれば、きっとその拳は桜の頬を打つ結果になるだろう。
「隆治、落ち着いて」
「これが落ち着いてられっかよ」
俺は隆治を制止しようとしたが、それは叶わなかった。隆治の拳は桜の頬を勢いよく弾いた。
「うっ」
桜の体は大きく弾かれ、地面に倒れ込んだ。
「隆治…」
俺の隣で息を切らしている隆治。その表情は怒りに満ちていた。
幼い頃からずっと一緒にいた隆治。しかし、こんな隆治は始めて見た。それほど隆治が桜に怒りを覚えているという事か。それは俺も一緒だけれど。どんなに感情的になっても俺に人は殴れない。それは偽善者とでも言われるのかな。相手はきっと男。それは先ほど自らが言っていた。そして、ずっと探していた俺のたった一人の弟。この世でもっとも大切な存在だから殴れないのかもしれない。
隆治は倒れ込んでいる桜に馬乗りになり、上を向かせた。
「いい加減答えろ」
桜が再び殴られるのでなないかという程に圧倒されていた。
「大谷隆治。お前を一番最初に消すべきだった」
「ふざけんな」
隆治に掴まれたままの桜は避ける事もできずに、隆治の拳が桜の頬に打たれた。白くて綺麗な顔から血が溢れてきた。俺はそれを黙って見ている事しかできない。
たぶん桜が本当の事を吐くまで隆治は桜を離さないだろう。それで桜が死ぬ事になったとしても、隆治は拳を振り下ろすのを止めない。そんな感じがした。
その時、遠くの方から小さな光と人影が見えた。その人影は、どうやら自転車に乗っているようだ。
「隆治、誰か来たぞ」
暗くてよく見えない。小さな光は自転車のライトのようだ。それはどんどん俺達の方向に近づいてくる。
「隆治、逃げるぞ」
この状況を見たら、誰だって誤解をする。男二人が若い女性を暴行していると判断するだろうか。桜はどう見たって女性なのだから。そしたら警察を呼ばれて俺達は捕まる。犯罪者になるんだ。
最低な人間と思われるかもしれないが、これが最善の策だと思う。俺は隆治を連れて公園を出た。桜には悪いがここは引かせてもらう。公園に一人の残された桜は自力で立ち上がってどこかへ行ってしまった。
俺達は公園を出ると、すぐ近くのコンビニの駐車場に行った。
「大丈夫か、隆治」
コンビニで買った水を隆治に手渡す。隆治は水と受け取ると勢い欲半分ほどの水を一気に飲み干した。
「少しは落ち着いた?」
「ああ」
隆治は大きく息を吐きながら答えた。
何から話せばいいのだろうか。聞きたい事も言いたい事もいっぱいある。
「佐久間と貴一は? 部屋にいるの?」
「ああ。絶対に部屋から出るなって言ってきた」
「そっか」
「ああ。俺は出たらチェーンも閉めて絶対に開けるなって言っておいたから大丈夫だと思う」
「なら安心だね」
取り合えず、部屋に残っている二人は大丈夫だろう。
「麻衣都の事」
俺の大切な弟の話。これはどう言えばいいんだろう。
「桜との話聞いてたんだよね。桜が麻衣都っていうの」
「ああ。やっぱり麻衣都だったんだ。あんな似てる人間がこの世に存在するわけねぇもん。ふざけやがって」
隆治は残っていた水と一気に飲み干す。
俺達の憶測じゃない。桜本人から言われたのだから、もう俺達の勘違いなどでは済まないだろう。
「麻衣都」
俺は小さく呟いた。認めたくない。何かの勘違いであってほしい。ただそれだけを思っていた。
「やっぱり違うと思う」
「は?」
「麻衣都じゃないと思う。何かの間違いだよ」
往生際が悪いかもしれないが、俺は麻衣都を信じたい。
「お前、まだそんな事言ってんのかよ。あいつが自分で言ってただろ。自分は麻衣都であいつらを消したのは自分だって」
「そりゃそうだけど」
「それにお前だってあの女が麻衣都だって疑ってたじゃねぇか。なのにどうしんだよ、いきなり違うとか言いやがって。いざとなって認めたくないのもわかるけど、それが事実なんだよ」
隆治は俺の肩を掴んで言った。隆治の言っている事に間違いなんてない。それは俺が一番良くわかっている。
「それとも何か? 誰かが麻衣都そっくりに整形してるとでも言いたいのか?」
麻衣都そっくりに整形…。
「それだ!」
そうか、そう考える事もできるのか。きっとそれだ。麻衣都そっくりに整形して俺に近づいてきたんだ。そうだよ、きっとそうだ。
「けど、もしそうなら、本物の麻衣都が帰って来たらどうするんだよ。本物の麻衣都と偽者の麻衣都が鉢合わせする危険だってあるだろ。整形までしてそこまでリスクが高い事できるかよ」
「それは…」
きっとうまい具合に会わないように計算されているんだ。桜はきっととても頭がいい奴なんだよ。だからそういう計算だって得意なはず。
「そこまでするっていうなら、本物の麻衣都が絶対に麻希都に近づかなくする小細工も必要があるだろ」
「絶対に俺に近づかなくする…?」
「ああ。さすがにリスクが高すぎるからな。確実に会わないって保障もなしにそんな高いリスク犯せねぇだろ。もし誰かが麻衣都に成りすましているってんなら、麻衣都はもうこの世にいないかもしれないぞ」
え…? 麻衣都が…死んでいる?
「な、何で…?」
「麻衣都がお前に会わないための確実な方法って言ったら、それしなないだろ」
嘘だ、そんなの信じない。
「麻衣都は生きてるよ!」
「それなら、あの女は麻衣都って事になるぞ」
嫌だ…嫌だ…! 麻衣都は絶対に生きてる。けれど、桜の正体が麻衣都である事も違っていて欲しい。
「お前の気持ちもわからなくはないけどさ、仕方ないだろ。お前はどっちだと思うんだよ、麻希都」
俺にその二択を選択しろというのか。俺にはわからないよ。嫌だ。答えたくない。きっとこんな質問をしてくる隆治だって辛いのだろう。なのに俺だけ逃げるような答えをするわけにはいかない。わかってる。頭ではちゃんとわかってるんだよ。
「けど…」
「え?」
「俺は麻衣都を信じたい」
俺の目から涙が零れ落ちた。
「麻衣都は酷い事をするような奴じゃない。絶対に他人を傷つけたりはしない。そして今もどこかで生きている」
卑怯でごめん。俺は麻衣都の兄で麻衣都は俺の大切な弟なんだ。俺が麻衣都を信じるしかないんだ。最後まで俺だけは麻衣都を信じていたい。だからお願い。こんな俺を許してくれ。