麻衣都
今日は土曜日。天気は曇り。僕、関市麻衣都は自分の部屋で勉強をしていた。中学三年生の僕は、受験を控えていた。まだどうするか、詳しいことは決めていない。だいたいは決めているけれど、まだ悩んでいるといった方がいいだろう。
僕の隣の部屋で、楽しそうな会話が聞こえて来る。
「ねぇ、麻希都。駅前においしいクレープ屋さんできたの知ってる? 今度行こう?」
「いいよ。梨花、クレープ好きだもんな」
お兄ちゃんが家に彼女を連れてきた。大学一年生の麻希都お兄ちゃんは、とても格好良い。何でもできて、ちっちゃい時から僕はお兄ちゃんが大好きだ。いつもお兄ちゃんの背中を追いかけてきた。それはずっと変わらない。お兄ちゃんと彼女は、お兄ちゃんの部屋でずっと喋っていた。二人とも楽しそうに喋っていた。僕の大好きなお兄ちゃんが、初めて僕以外のものになろうとしている。
「じゃあ、ちょっと送ってくるから」
「お邪魔しました」
お兄ちゃんと彼女が家を出て行った。僕は二人の姿を二階の窓から眺めていた。二人は手をつないで仲良く歩いて行った。二人の間に入る隙なんて存在しない。
僕はお兄ちゃんが好きだ。彼女なんかよりもずっとずっと好きなんだ。誰もいなくなったお兄ちゃんの部屋。僕はお兄ちゃんのベッドに寝転んだ。お兄ちゃんの匂いがする。そして、そのまま眠りについた。
「麻衣都、また俺の部屋に来てたのか。起きろ。晩飯できたぞ」
そう言って僕を起こしに来た。目を開けると、すごく近い距離にお兄ちゃんの顔があった。お兄ちゃん、また格好良くなったな。昔よりもずっと大人びたお兄ちゃん。愛しているよ。それがいけない恋愛でも構わない。
ある朝、僕は頭が痛くて起き上がれなかった。お母さんが呼んでいる。早く起きなきゃ遅刻してしまう。早くしなきゃ…そう思っても起き上がることができない。なんだか熱っぽいな。頭がくらくらする。
「麻衣都。いつまで寝てるんだ?」
お兄ちゃんが部屋に入って来て僕の顔を見る。
「あれ、お前、顔真っ赤だぞ、熱でもあるんじゃね?」
そう言って僕の額に触れるお兄ちゃん。お兄ちゃんの手は冷たくて気持ちがいい。
「あっつ。ちょっと待ってて」
そう言って部屋を出て行くお兄ちゃん。行かないで、お兄ちゃん。
お兄ちゃんはすぐに戻ってきた。お母さんと一緒に。手には体温計が握られている。
「麻衣都、熱計って」
お兄ちゃんは僕に体温計を渡した。熱を計ると、37・8と出ていた。
「こりゃ学校は休みだな」
「今日はゆっくり休みなさい」
僕は学校を休む事になった。仕方ない。今日はゆっくりしているか。
「母さん仕事行くでしょ、麻衣都ひとりで平気か? 俺、学校休んで看病しようか?」
びっくりした。お兄ちゃんと二人で過ごせるの? もしお兄ちゃんと二人で過ごせるなら、風邪をひくのも悪くない。幸せだよ。しかし、そんな気持ちは一瞬で消えた。
「ダメよ、お母さんがお仕事休むから、麻希都は学校に行きなさい」
お母さんはそう言い切った。当たり前の反応か。それに、お母さんは僕の気持ちを知っているんじゃないかな。お兄ちゃんが好きだという、僕の気持ち。兄弟でそんなこと許されない。そんなこと、僕だってわかっているよ。でも抑えられないんだ。僕はお兄ちゃんだけを見ている。だから、お兄ちゃんにも僕だけを見てて欲しいんだ。
お兄ちゃんが学校に行ってしまった。お母さんはご飯を薬を持って部屋に戻ってきた。
「食欲はある? 少しでも食べなさい」
「わかった」
僕はゆっくりとご飯を食べ始めた。食欲はあまりなかったが、お腹に何か入れてからでないと薬は飲めない。普段の倍時間をかけ、ようやく間食をした。薬を飲み、仰向けに寝転がる。
お兄ちゃん、今頃何してるのかな。今日も彼女と会っているのかな。僕のお兄ちゃんに触れている女の姿が目に焼きついて離れない。気持ち悪い。僕はその映像を掻き消すように枕に顔を埋めた。そうして僕は深い眠りについた。
しばらくすると、部屋の扉が開いた音で目が覚めた。もう日が暮れている。随分と長い時間眠っていたらしい。
「麻衣都、大丈夫か?」
「お兄ちゃん」
そこにはお兄ちゃんが立っていた。学校から帰って来たんだ。お兄ちゃんは僕の額に手を当てた。朝と同じ。冷たくて気持ちいい。何より大好きなお兄ちゃんに触れられている事が嬉しくて仕方がなかった。
「うん、熱は下がったみたいだな」
そう言って手を離す。離さないで。そんな事、絶対に言えないけど。今日は食事をした後は薬を飲んでずっと寝ていたので、熱はすっかり下がっていた。
「良かった」
そう言って笑顔を見せたお兄ちゃん。今、その笑顔は僕にだけ向けられているんだよね。お兄ちゃん、ずっとその笑顔を見せてよ。大好きなお兄ちゃん。ずっとずっと愛しているよ。
「お母さん、お父さん。僕、高校では家を出るよ。実家からは通わない」
二人は驚いて僕を見た。
「何で急に?」
「家を出るなんて、まだ早いんじゃないの?」
予想通りの反応。やはり簡単には許してくれないか。当たり前だね。でも、僕にも考えがある。僕はすぐに家を出て、やらなきゃいけない事があるんだ。お兄ちゃんが僕を見てくれるように、準備しなくちゃいけないの。
「お願い、僕、どうしてもやりたい事があるんだ」
お兄ちゃんから離れなくちゃいけないんだ。少しだけね。何年かかるかはわからないけれど、またお兄ちゃんに会いに来るから。
「少し、考えさせてくれ」
「うん」
この日の会話はこれでお終い。
そうして僕は必死に勉強をして全寮制のエリート学校を受験した。結果は合格。まぁ当たり前か。僕は勉強ができるからね。
「おめでとう、麻衣都」
ありがとうお兄ちゃん。お兄ちゃんが僕を見てくれるように頑張るからね。
自分の部屋に向かう途中、お兄ちゃんの部屋の扉が少し開いていた。その隙間から光が漏れている。お兄ちゃんは、何かぶつぶつと喋っていた。
「何で…どうして…」
お兄ちゃんの部屋を覗くと、お兄ちゃんはベッドに座り、頭を抱えていた。手には携帯を持っている。誰かと電話をしていた様だ。
「お兄ちゃん」
「麻衣都…」
僕はお兄ちゃんの部屋に入った。突然の僕の登場にお兄ちゃんは少し驚いていた。
「どうしたの? お兄ちゃん」
僕の問いかけに、少し困った顔をした。
「梨花がさ、行方不明なんだって」
「梨花…さん?」
ああ。そう言って下を向いた。
「俺、梨花に別れたいって言ったんだ。梨花は嫌だって言ったけど、結果分かれる事になったんだ」
驚いた。お兄ちゃんと梨花は別れていたのか。全く知らなかった。
「別れてすぐなんだ。梨花が行方不明になったの。きっと俺のせいだ」
お兄ちゃんは再び下を向く。そうか、それで自分を責めていたのか。大丈夫、お兄ちゃんのせいじゃないから。僕はお兄ちゃんに優しく触れた。お兄ちゃんは僕が守ってあげるからね。
僕の頭の中はいつもお兄ちゃんの事でいっぱいだ。お兄ちゃんと一緒に出かけて、お兄ちゃんと一緒にいろいろな事をする。そんな妄想をするのが僕の楽しみ。勿論兄弟としてじゃないよ。恋人として。
お兄ちゃんの笑顔を見るたび思うんだ。その笑顔が僕だけに向けられるためにはどうしたら良いんだろうって。どうしたらその笑顔を独り占めできるんだろうって。きっと一番正しい答えはこれなんだと思う。僕はようやく答えを見つけた。その事を考えるだけでそわそわする。お兄ちゃん。待っててね。
今日も僕はお兄ちゃんの事を思いながら眠りに就いた。ベッドの中で一日中お兄ちゃんの事を考えていた。ああ。全く眠れない。明日はお兄ちゃんに会える最後の日なのに。しばらく会えないのだから、最高の最後にしたいのに、興奮しすぎて全く眠る事ができない。
梨花が行方不明になってから三ヶ月。三月になり、僕は中学校を卒業した。そして、新しい学校に向けて本格的に準備を始めた。引越しの準備はお兄ちゃんも手伝ってくれた。梨花がいなくなったショックからは、まだ立ち直れていないようだったが、だいぶ落ち着きを取り戻していた。
「麻衣都がいなくなるなんて寂しくなるな」
「ホントだよ」
引越しの手伝いに来てくれた近所の大谷隆治。隆治は幼い頃から仲が良く、ずっと遊んでいたっけ。隆治とお兄ちゃんは同い年で大学も一緒。梨花がいなくなったって電話をくれたのも隆治だった。
「これで最後?」
「うん、ありがとう」
荷物を全部まとめ終わった。後はもう運ぶだけ。
「寂しくなったら帰ってきてもいいんだぞ?」
「いつでも電話してこい」
隆治とお兄ちゃんにそんな事を言われた。でもそんな事しないよ? だって、お兄ちゃんに次に会うときは生まれ変わってなきゃいけないのだから。
「じゃあそろそろ行くね」
そう言って僕は車に乗り込んだ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
そして僕は家を出た。楽しみにしててね、お兄ちゃん。お兄ちゃんは僕のものなんだから。お兄ちゃんにふさわしい人間になって戻ってくるよ。