心配するのは当然です
てち、うごうご、てち、うごうご、てち。
ふうっと息を吐いて顔を持ち上げてもソファしか見えないその理由は、歩行訓練という特訓故に。
現在室内にいるのはディル、マリエル、アシスの三名で、ナヴァはまた出て行ってしまいました。
どうやら外でのお仕事途中だったナヴァは、あの野郎が理解不能なことに四大室へと突撃して来ちゃったから連絡を受けて急遽戻ったのだとか。
追い払うだけで良ければこの場にいた三人で事足りたが、何らかの目的があってのあしらうであればそうもいかない。
そんな確認も含めての連絡で戻ってくることになったナヴァは、そのまま折角だからと居合わせたボクへと知りたい情報の確認をして、外でのお仕事へと戻ったわけである。
さて、話し合いの現場に居合わせた為にある程度の会話を耳にできただけの私には、何の目的があってあの野郎をあしらうだけで留めているのかの詳細は不明だ。
知る必要がないと言われればそれまでだが、その言葉はきっと出てはこない。
もしもそうであれば目の前であれやこれやと話はしていないはずなので、この詳細不明はあえて私が突っ込まなかった故のことである。
何故って?問題が職務怠慢新生担当失格のあの野郎だけのこと、もしくは上司になるマヌセインとかいう元老までで済む話であるならば聞いたと思う。
何故何どうしてこうなったから、今後はそんなことが起きないようにこうしてああして改善するよってところまでをね。そのくらいはいくら幼くとも当事者でもあるのだから聞く権利がある。
そしてそれを許してくれる雰囲気も感じた。
なのに問うことをしなかったのは、勘だ。物凄く信憑性のないただの勘。
感覚のものだから上手く表現ができないが、立ち入るべきではない、そんな漠然とした触れてはいけないものに思えたからだ。
誕生することが叶うのかどうかわからないほど力の弱い卵を脅かし、時に消滅に追い込んだあの野郎。
優秀な天魔のヘッドハンティングを目論んでいたらしい上司の元老位、マヌセイン。
簡素な情報だけでもズレが生じているとわかるこの二者。
優秀な天魔が欲しいだけならば、部下であるあの野郎は力の強い卵にだけ目を配ればいい。
それこそ問題児ではあったが、力だけは確実にあると知れていたボクとか、ね。
そして声すらよく覚えていない不特定多数の「うちにおいでよ」と粉をかけに来ていた奴らみたいに胡麻をすっていればいいだけのはずだ。
けれど、現実は力の弱い子を甚振ってボクの怒りを買い、心声もどきで追い出される三下悪役状態。
他の力が強いと思われる卵の子に声をかけていたかと言われれば、否だ。救いようのない屑発言以外の言葉を私は聞いていない。そしてあの場にいた卵たちの会話でそんな誘いを受けたという話も聞いていない。
大樹から教わるお勉強以外はおしゃべりくらいしかすることがない卵たちは純粋で、無垢で、思考能力がまだまだ育っていない。だから楽しい、嬉しい、悲しい、怖いなんかはわかっても善悪なんてものは判別ができない。
お陰で隠し事なんてまったくなく、一人が聞いたことは全ての卵に拡散されてあっという間に共有情報になっている。……ええ、私が心声下手な子認識されているのもこの情報共有のお陰ですね。
そういう訳で、優秀な天魔の子を求める上司という設定で元老のマヌセインを考えると、弱い者いじめをしているだけのあの野郎はとっても無能な部下。新生担当という本来の仕事だけではなく、元老からの仕事もしていないので二つの場所で職務放棄をしているとんだサボり魔だ。呆れてものも言えない。
これが真実であるならば、新生担当不適切とクビを切られ、新生担当を外れたことで目的の達成ができなくなる為に元老でもクビを切られる可能性がある。
何処にも行く宛てがなくなって可哀想な気がするかもしれないが自業自得、何の咎もない幼子を害した罰がその程度で済むのであれば可愛いものだ。
気掛かりなのは、これが真実であるならば、という状況だ。
私の勘違いでなければの話になるが、あの野郎は間違いなくプライドが物凄く、それも分不相応に高いと思われる。
自身の能力が大したことがなくても、自分は超一流だと訳のわからぬ自信に満ち溢れ信じて疑わない残念な頭を持っていて、そんな自分より優位になる可能性があるとわかる相手には、鬱陶しいほどに食って掛かってくる。そんな面倒極まりないタイプ。
こういう奴は自分の肩書きを大事にする。だから誰の目にも明らかに優秀であるとわかる王直属配下の側近・四大・司令ではないただの新生担当よりも、元老の配下であることの方があの野郎には誉れであり、偉そうに吹聴できる肩書きのはずだ。
そうなれば、大事な元老配下の肩書きのランクアップ、例えば元老の右腕とか懐刀とかそういった内輪での発言力のある立場を求めるだろう。
実力が伴っていないとは思っていない思い上がりだもの。上司に気に入られるために見当違いの胡麻をすって敵を増やし、最終的に自滅するタイプのはずだ。
適当に口が上手ければ疑うことを知らないちびっ子たちは比較的簡単に引き抜くことができるだろう。
怪しまれる可能性の低い担当職で楽に事を運べる仕事を任されているはずなのに、成功すればお褒めの言葉を貰えるだろう力ある天魔の子を引き入れるのではなく、真逆の弱い子を虐げることを良しとした。
この行動の矛盾が気にかかる。
少ない情報の中で考え得るのは、元老マヌセインは優秀な天魔の引き抜きを考えている訳ではない可能性。
これなら力の強い子らへと声をかけない理由にはなる。ただし力ない子を虐げる理由にはならない。
本人の趣味嗜好であるとなれば話は別で、それがないとは言わないが……。
あの執拗で許し難い、疎ましいと蔑む感情は、本人だけから発生しているものではなく外的要因、例えば誰かからの影響を受けて生じたものではないかと思ったのだ。
なんだろう、悪口を言われた本人よりもそれを知った周りの友達の方が憤慨するあの感覚。
もしくは……カルトの教祖を神として崇め奉る異様な傾倒からくるものみたいな。
この感覚を元に考えると元老マヌセインは弱者を好まない傾向にあり、憎悪し、可能であればそんな弱い生き物は根絶やしにしたいとか考えている危険な天魔である可能性が出て来る。
そこでひっかかるのは、ディルが見せてくれたあの野郎の情報だ。容姿と名前、そして簡易パラメーター。
中級位の風天使、位は司令の下プルヴァ。年齢は位を考えるとまあ順当に上がったんだろうなという妥当とも言える若輩者。パラメーターもボクの計測不能とかおかしな表記があるようなものではなく、風天使故に風が高くて地が低い、それ以外はまあ普通といった目立つところがないものだった。
どの属性値を見てもボク以下の低い値、つまり特筆して優秀でもなければ劣悪でもない平均値の天使。
普通の言葉がとてもしっくりくる能力の天使である。
もしも先に述べた弱者を好まないだけでなく排除したいという危険思考を元老マヌセインが持っているならば、その考えの根本は恐らく自分自身の力が弱いとか優秀ではないとかのコンプレックスがあって発生した同属嫌悪に似た鬱憤晴らしだと思われる。
そうであれば、こういった輩は優秀な存在を自分の下に敷くことで優越感を得る傾向があるはずだ。
自分の能力以上のものを持っている優秀な天魔が自分に心酔したり、傅くことで自尊心を慰めている可能性があるのだ。
で、この考えで行くと普通の能力しかないあの野郎、マイア・ゼラ・クフェトに価値はない。
優秀ではない自分が優秀な相手を足蹴にしている、その優越感に浸っていることが重要な奴に普通でしかない天使の存在など一体なんの価値があるのか。
気持ちを高ぶらせることもなければ慰めることもない。場合によっては優秀ではない自分を思い出させる普通に苛立ちすら覚えるかもしれない存在を、態々手元に置いておく必要はないだろう。
そう考えるともう一つ可能性が思い浮かぶ。
元老マヌセインは優秀な天魔の引き抜きを考えているが、配下であるあの野郎はその考えに賛同していない。
そして、力ない天魔などに生きる価値はないと弱者を排除する危険思考を持った別の第三者がいる。
そんな可能性。
もしもあの野郎がマヌセインの配下であることにすら不満を覚えているほど己の価値を過大評価しているのだとすれば、弱者を排除することを望む第三者には扱いやすい存在だろう。
現状に不満を持っている者ほど唆しやすいものはない。
第三者にとっては最も簡単に弱者を消すことができる場所、新生の地を担当している天魔であるあの野郎はとても都合がいい存在だ。担当者故に新生の地へと立ち入っても怪しまれることはなく、卵の子らは次は自分かもしれないと恐怖に曝されることでその記憶を誕生した後も閉ざそうとするだろう。
目撃者と言える存在ができ難く、自発的に語ろうとする口もまた少ない。実に理想的だ。
優秀なキミがあんな無能な元老の下で燻っているのは勿体ない、もっと能力のある元老の下に就くべきだ、例えばうちとか。
なんて感じで褒めそやしてその気にさせて、うちに移動させるための条件は力の弱い天魔の卵を誕生前に消滅させることだよ、とかの条件をつけたとすれば、どうだろうか。
元老マヌセイン配下ではあるがその命令には反した行動を取っている。なのでマヌセインは関係ないのかもしれない。とはいえマヌセインには卵の子を唆して引き入れようとしている様子はあり、配下の行動と一致しないが放置はできない。
関係ないけれど関係がある?何処を向いているのかわからなくて白くはないけれど、この方向での黒であると断言もできない困った状況、になっていないだろうか。
まあ、ナヴァの言うように本当にあの野郎の暴走、本来は引き抜き希望だけれど実は違うことしてますよ自発的に、なんてことも十分あり得るだろう。
所詮は薄っぺらい情報を元に考えた推理にもならない妄想、暇つぶしにはなってもそこに真実はない。
その程度のもの。
最終的にどんな結論が出るにせよ、側近位と同等の立場を有する元老位の存在が出て来るような物事に、守られなければ生きていけない新生如きが関与するべきではない。
首を突っ込むからには責任が生じ、覚悟が必要とされる。真実を追求し、不正を正し、罪を許さず罰する責任と、誰かを傷つけ自分も傷つけられる、その過程で失われた物事をその身に負う覚悟が。
それらが伴っていないのに、興味本位や面白半分なんて軽い動機で首を突っ込むなんて私にはできない。
それに、そこへ至るために起きるかもしれない危険から心身を守る事だって必要なのだ。
語ることも歩くこともできない生まれて四日のおちびで、人様に迷惑をかけることでやっと生きている現状の私にそんなことは不可能である。
これ以上の面倒事を保護者殿は当然、ありがたくも気にかけてくださる四大位の皆様方にかけるわけにはいかぬのです。
だから、私にできるのは当事者として知り得る情報を提供することくらい。
何より、さして優秀でもなかった元人間の私が考えうる事態など数多の天魔、そのほんの一握りの精鋭である四大位が気付かない訳がない。というか、それを疑っての事実確認だったのだろうあれは。
だからこそ私の発想もそこへと流れ着いたのだ。
ふんっとおちびが考えるには重い議題を吐息と共に吹き飛ばし、張り付いたソファの周囲をぐるぐると回り続ける。
ナヴァが再び外出した後、通信端末によって会話が成立し、呼び方に差があると判明したことで発生するであろう事象への対策を相談しましたよ。発想が初めての子供の成長と反応にうきうきのお父さん化しているイルファが狡い、妬ましい、羨ましいなんて理由で周囲、特に一番面倒を見てくれているディルに八つ当たらないようにする為に。
その相談が終わり、しくしくめそめそ状態から脱出した私が次に何をしましょうかとなった時に、歩行訓練を提案したところでございます。
四大室に常駐組らしい御三方は当然室内でのお仕事があり、その邪魔をする訳には参りません。
とはいえ一人で放置するわけにもいかないのでどうするかとなっていたので、私は私の都合でやりたいことを申し上げたのですよ。
歩けるようになって驚かせてやりたいんです保護者殿を、と。
ええ、別に根に持ってるわけじゃないです。
掴んだディルの裾に引っ張って貰っていたとはいえ一応前進していたことを完全に無視されていることなんてこれっぽっちも根に持ってないです。ちっくしょいいまに見てろよとか思ってないです。はっはっはっ。
根に持ってるよっとっても悔しく思っているよ!前髪を五ミリ切ったの気が付いた?とかのパッと見でわかるかどうかの話じゃないのよ違うだろう!お師匠さんに激オコイルファのお怒り鎮めを命じられ、泣く泣く無抵抗で倒れていこうとしていたことを案じて焦って救出してくださった時にどうして気が付かないっ。それどころじゃなかったってか、ありがとう!でも倒れる為にはそもそも立ち上がっていることが条件にあるでしょうがっ何故にそこがスルーされたのよ納得いかないっ!
と、静かに憤慨しているのが伝わったのか駄々漏れだったのか、注意して見てあげられる範囲でやりなさいとの条件付きで許可が下りました。やったね。
そんな理由で四大室の中央にあるので、室内の何処からでも目につくソファの周囲を只管回り続けているのであります。
二足歩行に必要なのはバランス感覚とスムーズな体重移動だろう。掴まり歩きですらふらふらする状態で歩くのは先走り過ぎだ。ここは基礎訓練あるのみ。
そんな感じで嬉しい訳でも楽しい訳でもはしゃいでいる訳でもないけれど、同じ場所をぐるぐるぐるぐる回り続けているのである。
どれくらいの時間が経過したのかとかは知ったことではないが、もうしばらく粘れば掴まり歩きはマスターできるのではないかな。足首の感覚がふにゃふにゃと捻挫しないかと不安になるものではなくなったので、安心して体重がかけられるようになったもの。
ただ、本人はともかくとして、傍から見るとソファに張り付いて蠢いているちびっ子にしか見えないのでかなり面白い光景を作り出しているはずだ。条件付け通り気にしてくれているのだろうけれど、時々くすりと笑う声が耳に入るもの。
いいのよ別に、努力している姿は必ずしも美しく格好良く見えるものではないのだから。
練習仮定がどんなにみっともなく見えたとしても、できなかったことができるようになったことが格好悪い訳はない。
なのでおちびは頑張り続けます。心配させたとはいえど、気付きもしなかった保護者殿に目に物見せてくれるのです。うん?目的理由が少々物騒に聞こえる?気の所為だよ。
てち、うご、てち、てちてち、うご、すかっ。……すか?
バリアフリー仕様のとっても平面な床を歩いていてどうして空気を踏む感覚を味わうのか、という疑問はすぐに回答を得る。脇にかかる自重とひょいっという浮遊感とくればもうおわかりだろう。
高くなった視線の先、呆れた様子の空色に近い位置でぶつかった。
ええ、すっかり人見知り枠から外れたらしいお師匠さん、ディルの抱っこです。
でも何で?
「熱心なのはいいことだが、休憩という言葉を知っているかお前」
歩行訓練強制終了の上にどうしてそんなことを聞かれているのかと首を傾ごうとしていれば、ふぅと息を吐いているディルがちょっと困った顔になった。
どうしたのだお師匠さん、何かあったのか?
「息が弾んでいるのに自覚はないとかありえないだろうが。小休止だ、マリエル」
「僕はお茶係じゃないってば」
名を呼ばれるなり次の言葉を予測して、じとりとディルを睨みながら即座に応じたマリエルだけれど、その言葉を選んだのは失敗だと思う。
「何も言ってないのにその言葉が出て来るならそれでいいだろう。茶」
「~~~~~っ」
ああ、言うだけ無駄だってことをどう自分の中で消化しようかって葛藤が見える。
どんまい、マリエル。
「休憩?だったらあたしお菓子持って来てるよ。一緒に食べよ~」
そして消化する前にアシスが便乗っと。
うん、がっくりと肩を落としたマリエルに心なしかの幸あれ。
「わかりましたよ……リクエストは?」
「柑橘系は断る」
「お菓子が結構甘いから花系は向かないかな」
「了解。ちょっと待ってて、準備してくるから」
きっと豊富な茶葉の種類なのだろうけれど、いまのところわかるのはディルが柑橘系を好んでいないことくらいだ。いつか必要になるかもしれないよ。覚えておこう。
はあと溜息を吐きながら歩いて行くマリエルを追うことは当然せず、ボクを抱き上げてくれたディルは一度自席へと向かう。休憩する為に開いている画面を整理するのかなと、遠い目をしたくなるたくさんの画面から視線を逸らしていたらピピピピピッと電子音が鳴り響いた。この音、聞いた覚えがあるね。
「はい、こちら四大室アシェリスです」
パチンとキーを弾く音と共にディルの隣、アシスの席で大きな画面が開いた。
会社の電話は遅くても三コールで取りましょう、理想は一コールっていうのを思い出しましたそれは外部からの通信ってやつですね。無言で抱きかかえているボクを画面の範囲外になるようディルが体の位置をずらしたので、誰からの通信なのかはわからないってことかな。
―「いまそこにリトはいるのか?」
は?
聞こえた声といまのところ一人しか呼ばない愛称に通信相手が誰なのかがわかって驚くが、通信画面を開いたアシスも驚いたのか瞬いていた。
「なんでまた個人コード抜いて通信してるのイルファってば。誰かと思ったよ」
あ、やっぱり誰からですってわかるような仕様にはなっているのね通信って。
でも、いまのイルファはそれを態々外して自分だとわからないようにして四大室に通信をしてきたってことですか。何で?
―「いいから、いるのかいないのか答えろ」
ディルが画面外へとボクを隠したので、対峙しているアシスは見えても通信画面が見えないから断言はできないが、声の様子からするとちょっと苛々しているように思われる保護者殿。何かあったのだろうか。
いやあったから通信してきているのだろうけれど、第一声がボクの所在確認だもの。何用なのかがわからない。
「外部通信だったから非難させましたが、連れてきちゃう?」
むふふっと悪い顔をしたアシスの連れて来るは、本日四大室にやって来た時のバスケットに揺られて状態ではなく、いま現在のディルに抱き上げられてを示している。
だからこそあの悪戯な笑みを浮かべた様子なのだろうが……もう少し学習しようぜ、お調子者の火悪魔さん。
あなたナヴァが外出した後、からかった代償としてディルに三人分の代表の一撃であるかなり鈍い音がした拳骨を頂いたばかりでしょうに。一日に何度痛い目に合えば気が済むのですか。Mですか?まさかのMな人ですか?いえ別にそうでも違うでもいいのですけれどね。
ただ、貴女様の発言のお陰で私は視線を上に上げられなくなりました。ちって舌打ちが聞こえたんですよ。
絶対眉間に一本線が刻まれているでしょうお師匠さん。
何てことをしてくれたのかと流石に呆れの息を吐こうとしていたが、ボクより早く画面から深く息を吐く音が聞こえ、意識を持っていかれる。
―「いや、そのまま非難させておいてくれ。それを狙って外部通信にしたんだ。マリエルは休憩室にいるのか?」
どういう意味だろうかと疑問に思うより早く、悪戯に笑っていたアシスの表情が険しくなった。
「イルファ、いま何処にいるの?レミィはどうしたの」
声の調子まで厳しくなり、問い詰めるようにしてイルファへ現在地と本日共に行動しているはずの相方の所在を聞くアシス。
何だろう、嫌な予感がする。
そんな不安に駆られるボクの耳にさっきよりは浅い、けれど溜息に違いない息を吐く音が届く。
―「癒しの地。炎火でのことは片付いたが水霧のことを考えてレミィは補助石を準備する為に一度帰らせた。この後水霧で合流する予定だ」
癒しの地というのは、その名が冠する通り傷を癒すための場所である。設定上では治癒効果を高める泉があって、その泉の水は軽傷なら消毒液よろしく塗り込んだり、重傷なら死海の光景よろしくぷかぷかと浮かんで貰ったりなど幅が広い。また法と組み合わせることによってどちらか一方だけでは得られないより高い治癒力を発揮することもでき、瀕死の相手にだって使えます。
そんな場所に、どうしてあなたはいるのでしょうか、イルファ。
四大位が出向く物事はその能力に見合った難易度で、ものによっては命の危険をも伴うものである。
そんな設定上では当然のこととして認識されていたことを突き付けられた気がした。
すぅっと体温が下がっていく嫌な感覚に襲われ、弾んでいると言われた呼吸は浅くなり、ひゅっとか細く鳴ったその音は、まるで悲鳴のようにも聞こえた。
「怪我をしたのか?」
「っ?」
ぎゅっと抱き寄せられ、背中に回された大きな手がトントンと何かを伝えるように打たれる。
『大丈夫だ、落ち着け。苛立ってはいるが声は落ち着いているだろう?』
抱き寄せられて触れた耳にバクバクと不安に走る自分の鼓動とは違うゆっくりとした拍動が聞こえ、血の気の引いた体に熱が伝わる。一定のリズムで背を打つ手は、柔らかい声音で響いた心声と同じことを示しているのだろう。落ち着いて、大丈夫だからと。
何が起きているのかわからず、勝手な想像でパニックを起こしそうになっていた私へとまだ何も起きていないと示してくれたディル。
そう、イルファは何も言っていない。癒しの地にいることと、レミエルと一度別れてまた後で合流するとしか言っていない。慌てる必要は、ない。
それでも、一度浮かんでしまった悪い想像は簡単にはいなくなってくれず、かたかたと震える手はいつの間にか縋るようにディルの服をきつく握り締めていた。
―「ディル?ってことはマリエルがリトといるのか」
通信画面の前に出ることはせず、声だけをかけるディルの様子を疑問に思うよりもいるはずの常駐組、マリエルの姿がない理由へと考えを向かわせたイルファ。
「質問に答えろ。怪我をしたのかと聞いたんだ」
そんな問いに答えなかったイルファに先程よりややきつい調子で言葉を重ねたディル。
勘違いでなければ、ボクがそれを確認したがっているとわかっているから急かしてくれているのだろう。
ありがとうございます、やさしいお師匠さん。
―「そんな問い詰められるようなものじゃない。ちょっとばかり焼けただけだ」
でも返って来たのはこんな回答でした。どういうことでしょうか。
「焼けたってどういうことなの。イルファ、君は仮にも火属性でしょ」
焼けたって何だ、まさか日に焼けましたなんてことではないだろう。
意味がわかりませんと浮かんだ疑問は、顔を顰めたアシスの口から衝いて出ていた。
助かりますありがとう。
―「仮にもってなんだよ仮にもって。詳細は省くが、巨大な精霊石化した奴をレミィが挽き肉にしたところまでは……まあ、見た目には難があるが良かったんだよ」
ごめんなさいよ保護者殿、相手が何かは知らないし知ってはいけない響きが続いたが、挽き肉ってどういうことでございましょうか。見た目に難がある挽き肉ってのは……その、法によるグロテスクな物体作成を本日の相方、レミエルがなさったということで、よろしいのでしょうか?
知りたいけれど知りたくないことがやや言い澱んだイルファの声で知らされて遠い目になる。
―「水霧で合流ってことでレミィを先に帰して後処理しようと近付いてたところ、それが一気に燃え上がりやがったんだよ」
すみませんが保護者殿、燃え上がる挽き肉って想像するとフライパンの上で加熱されて美味しそうな匂いを発生させているハンバーグになったんですがこれ如何に。絶対間違えているのにこれ以外が想像できません。補足願う。
「回避は?」
―「後ろに退くのが精々、防壁も一節しか間に合わなかった。幸運なのは俺が高位の火属性で、法の傾向がどちらかといえば防御よりだったことだな。ちょっときつめの火傷で済んだ」
申し訳ありませんが保護者殿、高位の火属性者が防壁展開してきつめの火傷って結構大変なことではありませんの?生半可な火力じゃあなたの火耐性は抜けないんじゃないかと法の知識はまだないなりにゲーム知識を動員して考えているのですが回答や如何に。
「一節展開ってことは当然火属性でしょ」
―「お察しの通り。火属性者有利の炎火で、法の傾向がやや防御より、高位の火属性者が、一節展開とはいえど、火属性の防壁を紡いでこの有り様だ」
む、画面上で火傷が示されているのかもしれないが、角度の問題で見えません。
仕方ないので目撃しているアシスの表情で判断するしかありませんが……ちょっと目つきがきつくなりましたよ。火傷、ひどいのですか?
「おやまあ爛れてはいないがってところかなその赤色は。なかなか素敵な焼肉具合じゃないのよこのお馬鹿。さっさと泉にその両腕突っ込んで治しなさい」
―「馬鹿に馬鹿とは言われたかねえよ」
水音がしたのでアシスのいう通り泉に火傷したらしい両腕をつけたのかもしれない。
素敵な焼肉なんていうちょっと想像し辛い表現なのでいまいち重軽傷度が不明だが、命に別状のない怪我具合に取りあえずはほっとしたですよ。
そしてほっとして気が緩んだら違うところが気になってきたのでございますよ保護者殿。
長年のお付き合いの友人兼同僚相手だと言葉と口調が砕けているのはディルとのやり取りでほんの少し見てはいますが、いまはちょっと荒いですね。怪我をしてご機嫌斜めっている……とは別のこと、なのでしょうか?
「怪我した事実をおちびちゃんに知らせるまいと、態々外部通信でこの場にいないことを確認しようとする細かいところを含めて馬鹿って言ってんのよ。意図的うっかり及びただのうっかりのあたしと一緒にしない」
うん?胸中にもやりとしたものが浮かんだが前半はわかった。
でも後半は何かおかしかったけれど、触れなくてもいい話なのでしょうかアシスさんや。
―「お前それを自分で言うのって虚しくならないのかよ……」
あ、やはり突っ込みどころだったらしい。声だけでも呆れたとわかる調子での突っ込みが保護者殿から入りましたが、受けるアシスの態度は変わりない。
「あっはっはー、気にするところも突っ込むところもそこじゃないだろうって話でしょ」
言葉こそコミカルに聞こえるが、笑って見えるのは持ち上げられた口角だけで、猫を思い起こす大きな金色の瞳は鋭い色を宿している。
その様子はついさっきまで見ていた面白おかしくふざけているにこにこした印象はなく、声だって茶化すものではない真面目なものだ。
失礼ながら初めてまともに四大位の高位天魔らしく見えたアシスの様子に驚いていたのだが、同じものを見て聞いているディルは私とは別意見らしく、ふぅと息を吐いていた。
「呆れる部分が混ざってはいるが、同意だ。隠す必要があるのか?」
やはり突っ込みどころだったらしい。だが、本人のアシス同様こちらもさらりと話題を戻した。
何だろう、逃がさないし誤魔化すなと詰め寄っている図を想像してしまうのだが、もしかしてイルファって自分の怪我とか気にせず軽んじるタイプの御人ですか?食事のことみたいな。
……それは、嫌ですよ。いろんな意味で。
―「……いや、まあ……力の消費を惜しまなきゃすぐに治せる範囲だから怪我の内にも入らないだろうけれど、それは俺たちの感覚であって、生まれたばかりのリトには適用できないだろう」
言い澱んだところ及びすぐに治せるなら怪我の内にも入らない発言にその片鱗があると覚えておくことにするよ保護者殿。
そして、元人間故に怪我の基準が人間向け、天魔と比べればとても低い位置に設定されていることは否定しない。
が、生まれたばかりのと一括りでの表現をするからにはその感覚は私だけではなく、同期のおちびさんたち全員に言えることであるってことですよね。
ということは私も含む同期のおちびさんたち新生一同、イルファが負った火傷はおろおろと心配していい範囲の怪我だと認識します。
「まあな。現状頼りにできる相手は保護申請者のお前だけだからちょっとした怪我でも俺たちからすれば過剰に反応するだろうな」
ええ、いま現在それで貴方様のお手をちょー煩わせておりますよお師匠さん。
っていうか、とっても自然に貴方様もすぐに治るなら怪我の内に入らない派です宣言かこんにゃろう。
怪我などしないに越したことはないですが、もしもこの先あなたがそんな怪我したって知ったら、鬱陶しく心配してやるから覚悟しろお師匠さんめ。
―「だから余計な心配はさせたくないというか、この程度で不安にさせたくないというか」
「出がけに思い切り凹まれたのが堪えてるだけだろうへたれ」
沸々と、聞けば聞く程に物申してやりたいことばかりが聞こえてきて、怪我のことがどうでもよくないのにどうでもいいくらいの優先順位へと下げられていくのがわかる。
そんな中、なかなかに辛辣な言葉を放り投げたお師匠さんがいつの間にやら取り出された通信端末を抱き寄せられ縋り付いての結構な密着具合になっていた我がお腹の上に、画面を開いた状態でポイッと落とされた。
『イルファに言ってやりたいことを書き込め。送りつけてやる』
……お師匠さん、なんて所業。だがしかし、乗った。
―「…………さらに不安を煽るだろう。火傷した両腕を泉に突っ込んでるこの何とも情けない姿の何処に安心させられる要素があるんだ」
何それちょっと気になるから見たいよその姿。
でも少々お待ちになってね、いま私の人差し指と思考はとても忙しい。
「確かにそうかもしれないが、それはお前の言い分であって受け手のこいつを無視しているとも取れるな、保護者」
すっと空気が流れ、ディルが動いたのがわかったが、私は視線を動かさないし忙しい手元を止めることもしない。
大泣きをしてからいままでの短い時間で安定した抱き方を習得してくださったお師匠さんに体勢維持を完全に任せ、私は手元の作業に集中している。
だから、ディルが声だけで姿を現さなかった理由を目の当たりにしたイルファを気にはなっても視界に収めることはしなかった。
両手を自由にしている私を落とさないようにしっかりと抱きかかえ、支えてくれているディルが通信画面内に姿を現したのにアシスはにんまりと笑い、ディルは基本表情を浮かべていた。
そして、それを目撃したイルファはというと……。
―「……………………」
完全に沈黙していた。直前のディルの言葉に反応して浮かべたのであろう不満そうに目を細めた顔のまま、固まっていた時間は決して短くはない。
「……」
「ん?ああ、いいんじゃないか」
というのも、私がイルファへと送り付ける文章を完成させる方が先だったからだ。
どんなに忙しく手を動かしていても人差し指でぽちぽち押すなんとも切ないタイピングで文章を作るのは時間がかかるものなのに、私の方が先。
できましたよとディルの胸元の服を引いて、完成した文章を示した私の行動の方が固まったイルファが動き出すよりも速かった。
さらに、その文面を雑に確認もしくは一瞬で全文を読んだディルが口元に意地悪そうな笑みを浮かべ、現在四大室への通信に使用中のイルファの通信端末へ完成した文章を送りつける時間まであった。
―「ぇ…………は、え?」
そこまでの時間を要してようやく、それも意味をなさない声を発したイルファ。
私もここで通信画面に映る保護者殿の姿を確認することとなったが、情けない姿がどういう状態なのかと思っていたのに、意外と普通の体勢でした。
地面と水平に広々と広がる湖みたいな図を想像していたのだが……いや、そういう場所があるのに現在のイルファが違う場所を選んでいるのかもしれない。
まあとにかくだ、噴水の水が段々になって低い方へと流れて行く、小規模な滝が段階を経て一段二段と流れて行く。つまるところがある程度の高さがあり、一段二段と段差を越えて下方へと流れて行く形らしい癒しの地の泉。
その源泉に近い側なのかそれとも高低差のある場所なだけなのか、普通の姿で通信画面に映し出されているイルファ。
情けない姿と言うからてっきり何処の行き倒れですかと問いたくなりそうな地面に寝転んで両腕だけが泉にちゃぷりな姿かと思ったのに。
近い姿はキッチンシンクに両手を入れ、シンク横に設置したカメラで自分を撮影しているものだろうか。
……正直、期待外れである保護者殿。情けない姿というのは、見た瞬間に大なり小なり笑いが起きるか突っ込みを入れずにいられない滑稽な姿であるべきだろう。そんな場合でも空気でもないのに「やり直し」と要求したくなる程度には緊張感のない部分ががっかりしました。
まあ、いいです。そもそも姿勢も体勢も関係ない出来事について述べたいのでそんなものは思考の彼方へと放り投げるべきだ。
ねえ、保護者殿。私が見て欲しいのはディルに抱き上げられてじとりと画面内に映し出されている貴方様をねめつけている私の姿ではないの。
ディルが送り付けてくださった言葉だけが丁寧に見える怒りの文面なのですよ!
「呆けてないでこいつが認めたお怒り文章に目を通せ残念」
ナイスアシストお師匠さん!