表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/44

置いてけぼりは嫌いです

縋るように見上げた視線の先で引きつった困り顔で固まってしまったその人は、どうしようどうすればと聞こえてきそうなくらいにお日様色の目を揺らした。

ねえ、仕方ないでしょう?だって、あなたを困らせたいわけではないのだから。



石畳の長い階段、広大な境内、静かに佇む本殿。

立派なお寺を想像すれば、聞こえてくるであろうこれまた立派な梵鐘のお腹に響く重低音。


ごぉおぉぉーーーーーんんーー、と。


いまの心境、それ。

ささやかにおりんを鳴らすちーんなんて可愛いものじゃない。思いっきり釣り下げられている橦木(しゅもく)を振りかぶっての全力打音。しょぼんと俯くのではなく、ばったり倒れて起き上がる気力もない。

ふええぇと泣き出しそうな凹み具合に気が付くまではもうしばらくかかるのだろう茫然自失状態。

まともに思考が働いていない、いやむしろ意図的に働かせていない。

ゆらゆらと揺り籠のように揺れる場所で、癒しのふわもこ羊さんを握り潰さんばかりの力でむんぎゅと掴み抱き締めて、静かに縋り付いていた。


「……………………はぁ」


時折視線と共に困惑の溜息が落ちてくるが、真っ白で何も考えられていない頭は沈黙を貫き、溜息に対する返答を命じない。だから小さく丸めた体をさらに丸めて小さくなろうとする無意識かつ無音の返答にどうしたものかと悩ましい空気が流れているのを感じても、頑なに反応を示さない。


だって、いま何かを意識したら思考が働いてしまう。無理矢理楔を打った思考の歯車が高速回転を始めてしまえば……色々とやらかす自信がある。勿論、駄目な方向で。

それ故に顕現している翼に興奮することもなく、果てのない青空へ羽ばたき風を切る感覚に何の感慨もなく、怯えることも怖がることも怖気づくこともせずに、リビングからお供頂いている羊さんに顔を埋めて現実逃避を実行中だ。


大丈夫、大丈夫、大丈夫だから。ちゃんとわかってる。理解してる。

それは当然で、そうあるべきで、仕方のないことで、きっと正しいこと。だから、大丈夫。


ただ只管に同じ言葉だけが繰り返され、それは何の解決も変化ももたらさない。

動かすことを拒否した思考だが、五感を刺激する様々な事象全てをシャットアウトすることは難しい。

飛翔し羽ばたく音が止み、結われた髪を揺らす風がなくなれば、代わりに耳へと届くのは控えめな足音と素早いパネルタッチ音に何かの開閉音。

無理に止めてしまった思考の片隅で、正常に務めを果たそうと働く部分がハムスターの回し車並みの慌ただしさで今を告げる。

到着しましたよ、と。


「おはよ……う?」


明るい朝の挨拶は間を空けた上で疑問へと転じ止まった。


「……はよ」


返した挨拶も何か色々と考えたのか言い澱むもので、早速落ちる沈黙が気まずい空気を醸し出しているご様子だ。


「ふわぁあ……、おはようディル、マリエル」


眠そうな、けれど溌剌とした声はボクを運んでくださったやさしい御人の背後から聞こえた。


「な~に出入り口に突っ立ってんの?何かあった?」


何してるのと訝しむ疑問が混ざったところで、隣から抜き去ろうとしたらしい足音はカツンと高い音を立てて止まった。


「…………………………何があったの?」


はっ?!ってな感じに叫ばれるかと思われたのに、予想に反して静かな問いでした。


「……話すと短いんだが」


短いんだ、なんて突っ込みも奈落ではない何処かの底で地面と仲良しこよししている精神状況では入れようがなく、また信じ難い光景を目の当たりにしているであろう二人の天魔もそれどころではないらしい。


「イルファが現場直行になったことに泣きも喚きも暴れもせず人見知りの癖に俺に運ばれることまで承諾したが、そこから静かに沈んでいった結果だ」


わあ本当に短いのに分かり易いですねお師匠さん。

でもね、ちゃんとどうしてこうなったのかは理解しているし理由だってあるんです。

ただ、わかってはいるけれどこんな感じかな~なんて、態と曖昧に誤魔化しておかなければいけない理由もあるのだ。


私という生き物はひどく面倒くさい精神構造をしている。その主たる原因は人間であった時の精神構造がほぼそのままと言えそうなくらいに引き継がれてしまっているからだ。

どこまでも自分に自信がなくて、己を否定することにばかり前向きないっそ感心できるかもしれないくらいの逆肯定的。

それ故に自分を必要としてくれる誰かに縋って依存する、実情を知られればドン引き必至な粘着性質持ち。

……それがストーカーに発展しないものまた自分に自信がないからこそなのだが、それはいいだろう。


とにかく他者に必要とされることで安堵する依存傾向がある私は、実は置いて行かれることが大の苦手である。

恐らく幼少期に見知らぬ土地に置いてけぼりをくらってしまったことが原因なのではないかと思うが、正確なところには興味ない。突き詰めたところで変化の仕様がない物事などどうでもいいし、根が深いと思い込んでいることもあって改善の見込みがなさそうだからだ。

無駄だと割り切ったことに労力を割くのは嫌いである。


まあそれが始まりなのかどうなのかはわからないが、何も知らされずにひとりぼっちにされると分かり易く挙動不審になる。

きっと第三者視点で見ていると爆笑するか、振り切れて心配になってくるかのどちらかだろうな。


例えば、待ち合わせで約束の場所へ先に到着して相手を待っている時など「時間間違えてないよね?」、「場所合ってるよね?」、「日にち今日だよね?」と只管に自問自答の外面だけ落ち着き払った余裕顔で内心大パニック。驚くなかれ、約束相手が身内から知り合ったばかりの人まで等しく同じ反応をする残念極まりない程の待ちぼうけビビりである。

更に休日の自宅、惰眠を貪り遅い時間に目が覚めたら家には自分以外誰もいない、行き先や帰りの時刻を記した書き置きがなければ、一体何処へ家族が行ったのかと只管にそわそわする始末だ。

…………冷静に考えると呆れてものが言えないレベルである。四捨五入、三十路になるおばちゃんがだぜ、と付け加えるとより顕著であろう。


実は昨日の置いてけぼりも凹んでいたんですよ本当は。思わず「うわぁ」と憐れみの声が零れてしまいそうな小心者が、唯一頼っていいだろうと認知したばかりの保護者様にお仕事なので仕方がないとわかってはいるけれど、いきなりの置いてけぼり。地味にショック。おとなしく座っているではなくて実は固まっているの間違い。

見送り直後のボクを見てマリエルとカラリナが微妙な表情で互いの顔を見合わせたのは、恐らく状況にもついていけなくてボクが茫然としていたからだ。大丈夫かを問われて何のことかわからずに首を縦に振った記憶がある。何かあったら音を立ててくれればわかるからと明らかに現状理解できていないボクを放置する形になったのは、きっと放っておいてくれと無意識の拒絶が見て取れたからだ。うへぇ性質悪い。


人見知りする癖にひとりぼっちは恐いのだから心細くもなるし、しょんぼりもなるってものだ。

自分の性質はわかっているから説明しろと言われれば割と簡単に客観視点で答えることができるくらいに理解しているのに、ぼやかす理由は……ひどく単純なものだ。

認めきらないことでギリギリ不安定な感情を宙に浮かせているのだ。認めることは受け入れることだから、認めないことで縋れるものがない場所に置き去りにされた現実を拒絶して、負の感情から必死に目を背けているのだ。


私にとって置いて行かれることは、存在の否定にも等しい。お前などいらぬと捨てられていることと等しいのだ。それ故に覚える感情は恐怖であり悲嘆であり……絶望ですら、ある。

だから懸命に目を逸らす。背を向ける。只管に逃げ続ける。そうまでしなければ他者に縋り依存してようやく生きている脆弱な私という存在が泡のように弾けて消えてしまうから。

これで、地味に必死で懸命なんですよ。


「それは、アレかな?あたしが途中経過あげちゃったから……とか」


僅かに活動している部分に鞭打ってまで凹むことしか考えないとことん悲観的で呆れる思考の海へ沈んだ耳に届いた戸惑いの声と意味の知れぬ言葉に、きしと動かぬよう固定された部分が微かに鳴り、きつく握り締めて羊さんに縋る指先に変化をもたらす。きっと気が付けるのは、このままでは我がふわもこが毟り取られてしまうかもしれないと怯えているかもしれない羊さんだけだ。


「必要なことだ。むしろ放置して後手に回る方が厄介で面倒かつ危険になる。それをわかっているからお前は途中にも拘らず報告を挙げ、注意を促した。その重要性を理解して適任であるイルファとレミィが動くことになったのは、当人を含む四大全員の意見だ」


ゆらゆらと何処かあやすように揺らされるのに落ち着けと言われている気がして、手を開いては閉じて柔らかいふわもこを握り締めるのではなく、揉む。おーけー、砂粒くらいは落ち着いた気がする。

何だかよくはわからないけれど、無視してはいけない面倒事が発生しているらしい。

それに気が付いたのがボク達の後に到着した溌剌声のアシスで、四大の面々にこれヤバくね?と何かを報告して満場一致のヤバい結果が出たのだろう。そうしてそのヤバい何かは時間が経つほどにまずいっぽい為、早急に問題解決を図る必要があって、その適任が我が保護者殿とぱっと見た目はおっとり和やかなのに技能は全くの正反対であるレミエルとの近接コンビだったと。


メイン思考回路が無理に止められている為必死になって回転しているハムスターの回し車部分は、歯車に噛まされている楔を粉砕せんと躍起になっている動力部へと理由と言う名の水を差す。

「詳細は不明で正直聞くのはお勧めしないがそんな理由だそうだから落ち着け、な?」

「…ふむ、やはり重要度の高いお仕事なのか。そんな気はしていたよ」

そんな楔を守るやり取りが脳内で発生して現状を少しばかり把握したボクの手は僅かに緩む。


「いや、まあそうなんだけど……ね」


そこで歯切れが悪くなるのはどうしてでしょうか。何か意味があるのですか?

ないのであれば、しっかりと言い切ってください。へーそうなんだと納得させるから。


「わかる、わかるよアシス。ちゃんと納得できる理由があるんだけれど、そんなにしょんぼりされちゃうと物凄く悪いことした気がするんだよね」


うんうんと力強く頷いている姿を想像させるのは、ディルに運ばれて四大室に到着した私の最初の目撃者で元から室内にいたマリエル。


「そうっそうなのよ!イルファ以外を近寄らせない野生の獣みたいな人見知りちゃんがその運ばれ方は正直どうなのかと思うけれど子供に好かれることが奇跡レベルのディルにおとなしく運ばれてるなんて衝撃の光景を目にしたあたしの心にグサリと突き刺さるっふ!」


よくぞ言ってくれたとでも言うような食いつきようでさり気なさは何処にもなく堂々と失礼なことを言い連ねていたアシスの言葉は不自然に途切れた。……鈍い音と共に。告げるまでもなく我がお師匠さんの拳が落ちたのでしょう。頭に素敵な山ができる勢いでなければ良いですね。


「余計なことしか言わないなら今日一日喋れないようにしてやろうか?」


くぅおぉおおとか下の方から聞こえてくる恐らく呻き声に何の反応も見せず淡々と当たり前の如く告げるお師匠さんよ、ひょっとして怒ってますか?


「痛いっひどいっ何するのさ!」


今度はがあっと吼えて文句を告げるのに、変化のない落ち着いた声音が紡いだのはこれである。


「舌は噛まなかったのか」


「噛んでませんがそれが何かっ?」


「ほんの僅かでも静かになるかと思って期待して損したなと思っただけだ」


ふぅと嘆息した発言に沈黙。ハムスターの回し車規模の思考しか回っていない中で捉えた音はゴッと鈍く、その勢いで舌を噛んだのであれば結構な鉄の味が広がると推測されるのに……残念としか聞こえない言葉でした。


「マリエル!ディルがひどいっ」


恐らく拳で殴ったであろう本人への抗議をやめて目撃者へと訴えてみたが、


「いつものことだよ」


これはこれでひどく失礼な発言がにこやかに返ってきた異常な会話だった。どんまい。


「お前も一発いるか?」


「何で?!やだよいらない!」


ああ、きっと拳を掲げて目の笑わない微笑みを浮かべての問いだったのだろうな。

でもって拳の振り下ろせる範囲から否定しながら慌てて退いたんだろうね。ずざって典型的な音がしました。


「え~仲良く頭を抱えようよマリエル~」


「やだよ!僕は殴られるようなこと言ってないからねっ」


いやどこが?ぶーぶーとこれまた典型的な効果音を発しているアシスに即否定できる即答を返したマリエルはすごいと思います。当然残念な方向で。

はあと溜息が落ちて歩き出したディルの動きに合わせてゆらゆらと揺られていたボクだったが、ポスッと何処かに降ろされて近くにあった温もりが離れたことに慌てて羊さんに埋めていた顔を上げた。



置いて行かないで!



「なんて顔してるんだ、お前」


みっともなく耳障りに喚く声が自分の内側で反響している。きっとその声に相応しい顔をしているだろうボクを、空色に映してくれているディルがそこにいた。困った顔で、とても難しい問題を渡されてどうすれば解を導き出せるのかと取っ掛かりを探す、そんな顔をして……いなくならずにボクを見てくれている。

よかった、とほっと息を吐き出したらほんの少しだけ体から力が抜けた。


「………………」


ぽすんと何だか可愛らしくも聞こえる控えめな音と振動で視線の高さが近くなったディル。何処かに座ったんだろうと経験からはじき出された答えで周囲の風景がようやく認識された。

ここ、ソファの上だ。見覚えのある色と視点でボクが降ろされた場所が四大室のソファだと気が付く。

そしてソファの背凭れに体の側面を押し付けて姿勢悪くボクの正面位置に横向きに座っているディルをぼんやりと見上げる。

空色の目はボクを映してくれている様子だが、恐らく見ているけれど見ていない状態だ。

渋面を作っている顔が物凄く考え込んでいることをこれ以上ないほど分かり易く教えてくれているから。


「っち」

「……」


舌打ちはご勘弁をお師匠さん。ついでにその考え事の結果が思わしくなくて苛立っているとわかる御顔をせめて基本装備へと戻してくれると喜べます。


「疑う余地が何処にあるんだ」


ぼんやりのままで遠い目になりそうになっているとぶっきらぼう、と言うのかな?そんなちょっと荒いというか、雑というか、淡々としていない調子の声で前置きなく、しかも目を伏せられていらっしゃる為に視線すらも合っていない状態での発声に一体誰に向けて何を言いたいのかわからずにきょとんとなる。

余程悩ましいことをお考えなのか、ふうっと重苦しそうな息を吐き出しながら開いた空色に再びボクが映される。

うん、今度はボクを見ていますね。


「お前を俺に任せるのを散々渋り、実際に運び出せばいつまでも人の背中を睨みつけてきたんだぞあの馬鹿は。俺は人攫いか何かか」


またも舌打ちが飛び出ているが向かう相手が誰なのかがわかって何とも言えない心境になる。

微妙な顔になっているかもしれないボクと視線を合わせて紡がれているディルのお言葉は、眉間に一本線を刻んだまま続く。消えてくれないのならば、せめてこれ以上深くならないことを祈る。


えらく消極的?だって不機嫌の理由が不明なんだもんどうにもならなくないか?

何よりメイン思考回路動かす代わりにハムスターに労働させている私がどうにか出来る案件なのか?

無理じゃないかとは言わない。だが、わからないねと曖昧に誤魔化しておく。

狡くて結構、なにせ余裕はいつもない!


「そもそも昨日の夜からぐちぐちといつまでもしつこく納得しなかったんだあの粘着質は。行き先が一点特化地で他の適任がいないと理解して仕方がないともわかっているのに、あーいえばこーいう往生際の悪いどうしようもなく情けない面したあの馬鹿の様子を……ほんの少しでも見ていれば、その餅みたいによく伸びそうな頬を限界まで引っ張ってやりたくなるような腹立つ顔じゃなかったのかもしれないな、お前」


はあって憂い気に再び目を伏せられて息を吐き出されましたがお師匠さん、いま大層物騒な発言が耳を飛び越えて我が脳にブッ込まれたと思われるんですがこれ如何に。


「何でそんな面倒くさいところが似てるんだよ。腹が立つ」


し、舌打ちが荒ぶっておりませぬか?すでにどん底級に沈み込んでおりますのにその音はざっくざっくと我が身に突き刺さりまして大変恐ろしく存じますですお師匠さん。

目の前の何事か憂いながら苛立っていらっしゃる御人のご様子に、ハムスターが最優先で情報処理を図っているのだが……どうしよう、あまりに必死過ぎてそろそろ回し車の中でハムスターが回されそうだ。

脳内で馬車馬も哀れみそうな過重労働を強いられているハムスターを更に現実逃避の思考に労働させている無意識鬼畜な私を三度捉える空色は、じとりとボクを見据えていらっしゃいまして流石にびくりと身が跳ねた。


「騒音兵器」


はいっ何事でしょうか隊長!


「泣け」


はい?

短すぎて意味不明でまるきり意図が推し量れない単語に首が疑問の角度を作った。


「泣け」


ら、同じ単語が全く同じ文字数で紡がれてどうしていいのかわからない。誰かテロップを出して欲しい。

リトネウィアは混乱しているって某RPG風に。


「ちょ、ちょっとディル」


「離れてろ面倒くさい。場ならちゃんと区切る」


「いやそういう問題……でもあるんだけれどそうじゃないでしょっ」


まさかの二文字の単語を聞き咎めたのかそれとも眉間に皺を寄せたまま苛々を隠すどころか堂々と表に出して隠す気もないご様子を見かねたのか、マリエルが口を挟んだ。

そしてボクから視線の外された一本線が深くなった。おーのー。


「現状の理解を拒むことで感情に蓋をしている馬鹿を変に追い込まずにどうにかする方法が他にあるなら提示しろ。俺だってガキを泣かせて悦ぶ特殊かつ吐き気のする嗜好はない」


「え?」


「そこらのガキと同列の思考でこいつを見てるならすっこんでろ。気が向いたら説明くらいはしてやる」


言いたいことは言った、そんな様子で首下の(ぼたん)を指先で弾くディル。

ポーンと音叉を叩くような安定した音が響く。音は、D(デー)。弾かれた釦から黄色の光が現れて躍るように宙を回り出した。黄色の光、地の精霊はボクとディルを包むシャボン玉の膜を作り、役目を終えたと釦へと消えて行った。残ったのはひよこのほわほわとした羽毛を思い出す色のシャボン玉と微かに聞こえるDの音。

たぶんきっと恐らく、これは結界とかそういう類のものではないのだろうか。

中と外を切り離し区切るもので、魔法に憧れを持った経験がおありならば心ときめき強制シャットダウンする為の電源を探されるかもしれない程に大ハッスルすること間違いない不思議の世界の産物。

通常時であれば先に述べた通りの問題児に成り果てるだろうけれど、思考放棄している為に感情が動き辛い現状では感動的な光景に浸ることすらできない。

そして何より、辛うじて働いているハムスター部位もそれどころではなくなっている。

音は絶対にむにぃだ。


「……」


実際には音を発している訳ではないその擬音の発生源は、先刻お餅表現いただいた幼児特有のぷにぷにほっぺからである。


「…………」


そして、擬音を生み出しているのは目の前にいらっしゃる我がお師匠さん、ディルのすらりと長く細くて美しい指先だったりします。

ええ、いつの間にやら我が頬、摘まれてます。お師匠さんに。限界まで引っ張ってやりたくなるなんてちょっと待ったと言いたい発言をしてくださったお師匠さんが、幼児の特権我が魅惑のもち肌ほっぺたを、むにぃとソフト摘み。

ビビる暇すらないのに避けたり逃れたりなんて反応ができる訳もないですねと人見知りが諦めの息を吐くのを聞いた頃、お師匠様はおっしゃった。


「泣け」


二度言われたら三度目がありますよね。そして三度目は見逃してくれないんだよ。

仏の顔だって三度目で鬼神に変貌する正しく鬼仕様だもの。ましてその言葉を三度紡いだのは悪魔様、見逃してくれるわけないじゃないですかやだー。

因みにこの思考は後から付け足した記憶への補足です。

だって、先に述べました。それどころじゃなかったのです。


「っ~~~~~?!」


突如として左の頬から脳を介して全身へと激痛です警報が緊急発令し、あまりの痛みで暴走車と化した回し車から吹き飛ばされた哀れ過ぎる功労ハムスターが思考を停止させていた楔に激突――せずに短めあんよで勢いよろしくドロップキック。

もしかして交代要員もなくたった一匹だけ働かされてついにストライキでも起こされたのでしょうか。

腹いせにしか思えない素晴らしい衝撃を与えられ、軋んでいた歯車から楔が外れてしまい、何処かへと飛んで行ってしまった。

思考内でまさかの裏切りにあったことで楔から解放されがっちりかみ合った歯車は、低速中速高速と段階を踏むことすら許さずにいきなりトップスピードで回り出す。

ありえない速度で動き出した思考が最初に、何よりも速く巡らせたもの。

それは……、



ぃいいぃぃいいいいっったああぁぁあああぁぁーーーーーーーーーーーっ!!



頬に走る激痛に対する心の底からの訴えでした。

ひぃいいぃい痛い痛い痛い痛い潰れる捥げる千切れますよぉおおぉおおぉうぅっ!!

バンバンと叩いて訴えたいが威力のない我が愛らしき紅葉の手ではぺちんぺちんが精一杯ですのでこれで必死の訴えでございますお師匠さん!痛い痛い痛いですっ何故むにぃが、ぎゅむぃっへと変化なさるのかわたくしめには理解不能にございます故解放願う解放願うっぎにゃぁああぁっ更に力込めるのとかマジでなしです鬼畜の所業ってお言葉ご存知ですかお師匠さんっ?ああいやいや嘘嘘冗談ちょっとしたお茶目ぃぃいいいいぃいぃいやぁあぁああああぁあぁっ!!


「……しぶといな」


ほわぁっつ?!

しぶといってどういうことですのんお師匠さんっ無理無理無理無理本当に捥げますってばあっ!


「…………マリエル、あたしほっぺた痛い」


「…………うん、僕も」


お前らただの目撃者だろうがっ痛いわけあるかこんちきしょい!代われ代われ代わってくださいMじゃないから悦べないですからドSはお呼びじゃございませんってごめんなさいいぃいぃぃ痛い痛い痛いぃぃぅうふぅえええぇぇえええぇぇっ。

ぽろんっと一滴零れたのを見て、渾身の力でも指先に宿したのかと幼児虐待を訴えられたら確実に敗訴に追いやれそうなありえない頬の摘み方をしていたディルが指先から力を抜いた。


「さっさと泣いていればいいものを……清き水よ、癒しの力となれ」


やさしい冷たさがディルの美しい指の跡がくっきり残る予定だったであろう頬から痛みを癒していくのだが、呼び水になった一滴にぼろぼろと大粒の涙を零し始めたボクに気付く余裕は何処にもない。

だらりと力なく体の横へと落ちてしまった両腕、天を仰ぎ大きな口を開けて声の代わりに叫ぶ呼吸、無色透明のけれど塩辛い雨粒に降られて抱き寄せる腕を失くし所在無く膝上に納まる羊さんが何処か心配そうにボクを見上げていた。


痛い。痛い痛い痛いよ。とても、とても痛いのです。どうしてですか?何でですか?

痛いのは嫌なのです。恐いのです。辛いのです。悲しいのです。……どうしようもなく、寂しいのです。

ひとりは嫌なのです。一人は寂しいのです。独りは恐いのです。置いて行かないでください。

ひとりでは生きてはいけないのです。寂しくて、悲しくて、胸の奥が泣き叫ぶのです。

痛い、痛い、痛い。寂しいのは恐い、恐いのは悲しい、悲しいと、痛いのです。痛くて、苦しいのです。

嫌なのです、嫌だ、嫌だ、嫌だぁ……置いて、行かないで………。


いい子になんてなれないんです。そんなのみんな嘘っぱちなのです。我慢なんてできないんです。

だって、いまの私にはあなたしかいないのです。私がリトネウィアであると刻み付けながら、ここにいていいのだと、生きていていいのだと、存在していいのだと、私をリトネウィアとしてこの世界に結びつけたのは、他の誰でもないあなたなのに、どうして傍にいられないんですか。傍にいてくれるって言った癖に、嘘吐き、嘘吐きぃ……。


わんわんと音があれば泣き叫んでいるだろうに、その音がない所為で何処か滑稽にも聞こえる空気の音だけが未熟な発声器から零れ落ちていく。

顔に集まった熱をゆっくりと腫れていこうとする目元を時折ひんやりとした空気が撫でていく。

おろおろと宥めるそれは、まるで泣かないでと言っているように聞こえて……より泣き叫ぶ。


だって、だって仕方ないってわかってるのに無茶苦茶言ってるこのわがままぷー最低だってすごくすごく嫌になる。

お仕事なんですよお仕事。それもごく少数の者にしか任せられない難易度高く、危険性も高く、放置なんて駄目絶対の御急ぎのお仕事なんだって教えてくれてるじゃないかこんのド戯け。それを解決することによって今後危険に曝され苦しみ哀しむ誰かが、失われるかもしれない命が救われるかもしれないのだから寂しいくらいで泣き喚くな根性なしめっ気合が足らん!そもそも傍にいてくれるってのはあの人が御暇な時間のわたくし如きに使ってもいいと思って頂ける心の広いごく一部の範囲であって、四六時中いつでもどこでもどこまでもぺったり粘着べったり執拗なんてやらかした日には、ウザい、キモい、イタいの勘違いストーカー野郎爆誕ですからね。ええ、野郎ではありませんがそれは言葉の都合上で勢いです。


しっかりと思い考え反芻すればあまりのひどい思考と思想に目を覆い頭を抱えた挙句に人畜無害なフリして堂々と真正面から近づいて隙だらけの腹部へと渾身の一撃をお見舞いしてやりたい。半回転加えた捩り込みの鳩尾狙いあわよくばそのまま数秒間呼吸困難に陥って苦しさに悶えて空気を求めてのたうち回り酸素不足によって違う意味に冷めた頭で冷静に考え直して出直して来いと目の全く笑わないとびきり冷めきった笑顔で言ってやりたい。

因みに加害者も被害者も共に自分であることを理解していることを宣言しておく。


思考の歯車の傍らにある速度調節機の傍らで、トップスピードにギアを押し上げているハムスターがにやりと笑っている。

そうか、裏切っていなかったのか功労ハムスター。グッジョブ。お陰で暴走具合がだいぶおかしい。

だがしかし、それはそれで良し。


できれば脳内だけではなく物理的に甘ったれんなこのクソガキと鉄槌と言う名の軌道修正が欲しいところであるが、いま現在ボクの周囲には成人年齢なんてとっくの昔に天元突破していらっしゃる方々ばかり。

何処をどうやさしいフィルター掛けて見ても幼児虐待にしか見えないですよねこりゃ駄目だ。

ひっく、えっぐと治まる兆しを見せてきた泣き虫と共にそもそもどうしてこんな無様なぎゃん泣きを始めたのだったかと考えていて、つっと触れるか触れないかのギリギリのラインで目元をなぞって滲んだ涙を掬っていく美しい指先が見えた。


「………………」


何だろう、こう……ぎゅっと顰めた感じなんだけれど主成分が困ったに参ったどうしようの系統があって不満そうで不服そうでちょっと苛立ってもいるけれど恐る恐る慎重になんて気遣いが見えて複雑としか言い表せない表情のディルがボクを見ていらっしゃる。


何故そんな御顔になり申してますのんお師匠さん。無情にも我が頬を捩じ切るのではなくて押し潰す勢いで摘みなさった躊躇いの無さは何処へいった。

ああ、でもいまはそんなものどうでもいいです。私がいま欲しいのは先刻のような容赦ない仕打ちでございます。断じてM思考ではない。お求めなのは甘ったれんなこのクソガキ的鉄槌。

そんな勝手な訳でしてお師匠さん、鉄槌プリーズ。


ん、と意思表示にだらりと体の側面に垂れ下がって活動していなかった両腕をディルの方へと突き出せば、複雑な表情から一転きょとんへ変化。悩ましそうに細まっていた空色がぱっちり瞬き、両腕を突き出して可愛く見えるかどうかは知らないおねだりポーズのボクを映す。


「は?」


流石のお師匠さんも戸惑うご様子。まじまじとボクを観察して空色の目で正気かコイツと真意を問うから、正気でござるとお手々を限界まで伸ばしてくれくれアピール。


「……あー…………これは、予想外だった」


目が逸らされて何処か中空を見たかと思えば、はあっと何かを諦めとも決心ともつかぬ息を一つ吐き出して視線を戻したディル。


「最後まで面倒見ろってことだよな。仕方ないか」


おう、覚悟はできている。……でもお手柔らかにお願い致したく。

願っておきながらやっぱりちょっとビビります、と伸ばされた手にきゅっと目を閉じてしまうボクのもち肌ほっぺにディルの指が、かからなかった。

ん?かからなかったら伸ばされていた手は何処へ行ったのか。そんな疑問の答えは我が脇下に生じた。


「っ」


すっふわっぽすっ。擬音三音で表せてしまうそれは、


一、すっ、両腕を突き出していたボクの両脇の下に両手を差し込まれる。

二、ふわっ、運搬用に羊さんと共にインしていたバスケットからボク一人だけが取り出される。

三、ぽすっ、ぷらりと空中に伸びきった体をイルファとは逆位置になるが片腕抱きで抱き上げられる。


の三つである。


さあ、ここで疑問の声を上げようではないか。

何かが違う、と。

ええ、それはもう予想していたのとだいぶ違う。どこら辺がって全部違う。

ボクはほっぺたぎゅむぃ待ちしていたつもりだったのだが、何故だ。何が起きているんだこれは。


「抱かれ心地が良くないのは大目に見ろ。俺は基本的にガキに好まれない。……こういう経験はほぼないに等しいんだからな」


そう言いながら納まりの良いところに体の位置を調整してくれているお師匠さん、その言葉繰りとちょっと困っている表情はツンデレさんの専売特許です。

無表情キャラの実は気遣い屋のやさしい御人にお料理上手のお母さん、更にツンデレとか幅広いっすね。

茫然と間近に映る秀麗な御顔をガン見していたらちょっと不機嫌そうに目が細められた。

至近距離でその目線は迫力があります。


「お前、いま何か失礼なこと考えなかったか?」


いえいえそんな滅相もないでやんすよお師匠さん。あっしがそんな無礼を働くわけがございやせんでしょう?ちょっとばかり素直な感想が脳裏を横切っただけでやんす。

ふりふりと首を横振りしての即答にじぃっと疑う視線を向けられたが、予想外が起きて少々ついていけていない脳味噌は、近くで見ることができる空色が綺麗だなとか全然違うこと考えていたりする。


「…………」


だから見つめていたはずなのにより熱心に見つめ返されて困った顔になってふいっと視線を外された。

さらりと揺れた短めな紫の髪も発色美しい。


「……もう少し嫌がるかと思ったのに、泣くどころか泣き止みやがった」


理解できんと聞こえそうなディルに私はこの状況が理解できぬと返したい。

さっきは左の頬を摘まれたから今度は右の頬を差し出そうかと思っていたのに…、あれか?両手を突き出した格好が所謂抱っこのおねだりをしていると捉えられたのか?それで頬を摘んで泣かせた手前抱き上げろくらいの要求は呑んでやるかとそういうことなの?


「ほら」


バスケットに取り残された羊さんを渡してくれるから反射で受け取りもふっと抱き締めたその感触に、癒されるけれど、解せぬ。

何だろう、ボクは人見知りなんだよね?例外判定の両王様方は別として、イルファ以外に触られることをいやんと拒否ってしまう極度と言ってもいいはずの人見知りのはずだよね?


…………何故平気ですかね。いや、違和感はある。多分利き腕の関係でだろうがイルファとは抱き上げている方向が違うし、本人の親告通り子供を抱き上げることに慣れていないとわかるぎこちなさがある。

でも落とさないようにとか、揺らさないようにとかの配慮がちゃんと見えて真面目だなと感心します。

って違う、そういうことではない。注目すべきはディルではなくて自分自身である。


シェネレスの家を出発する時と何が違うのかがまったくわからない。だってあの時はそりゃあもう置いてけぼりを自覚するまいと一番最初に感情を頑丈な箱にぶち込んで、現実逃避しながら状況に流されていったんだもの。朝御飯、途中から味がよくわからなかった。

ああ、でもボク以上にご飯に消極的になったイルファはディルから食べさせられてました。


親鳥が小鳥に「はい、どうぞ」と差し出すのでも、バカップルがいちゃこらしながら「はい、あ~ん」とするのでもなくて、顎を鷲掴みにして口を強制開口、開いたところにズボッと押し込み、吐き出すことは許さん咀嚼しろと口を塞ぐ荒業。

これは食事風景ではないと箱にぶち込んだはずの感情が隙間からチラ見して恐れ戦いていた。

あれは苦しい。気心知れた相手でなければ一種の拷問だ。なんちゅーことを子供の前で行ってるんだ人生の先輩方。普通のお子様なら時間差で泣き叫ぶぞ。


いや、違う。衝撃の食事風景でもなくて現在何ともないのに出発時には触れ合い拒否ったボクですってば。

イルファとはシェネレスの家で別れなくてはいけないからと王命で一人にしておくのは許されないボクは、態々迎えに来てくださったディルに連れられて四大室へと向かうことになっていた、らしい。

ボクの知らないところでそんなお約束があったんだとさ。きっと急に入った仕事内容と同時に変更になって決定したのだろうけれど、もっと早くに知りたかったです。そうすればもっと上手に取り繕いました。

突然知らされたお陰で慌てて緊急招集掛けた困った時の接客対応術、“笑顔大事に”によって平気平気大丈夫~と表情筋死滅級で頑張って誤魔化そうとしたら青褪めた上に悲愴な顔されてさ……。失敗したよ。


まあそんな訳で移動手段が翼を羽ばたかせてのときめけ飛翔風景なんだが、イルファがいないんですよ、ここで本日お別れですのお知らせで思考自発的停止状態にしたボクがときめける訳もなく、更に人見知りを運ぶのが昨日やや慣れてきて頭二撫でまでは成功したが、なディル。

試しに抱き上げてみるかと手を差し伸べられて身を竦めたチキンはわたくしです。

触れることなく移動させるとか何処のマジックショーだよと思いつつ、そういえば魔法がある世界ですよと思い出すけれど、生まれてまだまだ四日のおちびに空間移動の法は恐いと却下。

ついでにそちらも同伴者がいる際には接触が条件にありますので結局無理。


そうして目についたのが、ディルが食材と調理道具を持参した大きなバスケット。

当然イルファが渋りました。箱入り娘ならぬ箱入り天使、物を運ぶみたいで許しませんと怒るお父さん(イルファ)は、だったら他の解決策を提示しろとお母さん(ディル)に正論叩き返されてあえなく撃沈。

しぶしぶボクをバスケットに詰めたイルファに実に嫌そうに頼まれて揺り籠に揺られるようにしてディルに運搬されて来たのであります。因みに羊さんは私が癒しと言う名の精神安定を求めて離さなかったら持ち出し許可が下りていました。……意外にボクが入っても隙間があったバスケットの梱包材的扱いとかじゃないですよね?私の布地の友をそんな扱いは不貞腐れますよ。


「っ」


むぅんと考え込んでいたらふらっと体が揺れて片手を羊さんから離してもっと安定感のあるものを掴む。

ええ、抱き上げてくれているディルですね。


「……気をつけるが、お前も落ちないようにちゃんと掴まってろ」


きゅっとお互い抱き上げ掴んだ場所に力を込めて無言の意思疎通完了。落としませんし落ちたくありませんってことです。

ソファから立ち上がったディルは空になったバスケットを持ち上げてスタスタと移動する。

ありえないものを見てしまったとあんぐり大口開いて固まっている風天使と火悪魔を完全スルーして、涼しい顔して自席横にバスケットを置いて着席。パチンと機器を立ち上げてお仕事なさる気満々でございますねお師匠さん。しかし…、作業内容が新生位では逆立ちしても閲覧できない重要物でしょうに私を抱いたままお仕事始めちゃってよろしいの?


「………………」


なんて思い上がった意見でした申し訳ありません。カタカタ、タタタタとパネルとキーボードをボクが片腕に居るので片手で操作する手元がまず追えない。一気に展開された恐らく報告や未処理案件などの画面、ざっと数えて二十。その一つ一つにみっちりと文字やら図形、グラフ、映像、静止画などが表示されている。

みっちり文字は……A四サイズの一行六から七ミリ幅の三十五、六行を参考にすると丁度いい感じかも。

つまり、ルーズリーフやノート一枚分を頭に思い浮かべてその用紙に隙間なく、みっちりと文字が書き込まれているご様子。白い紙が文字で黒く見える、ソレ。

ちょっとどころかついて行けない。単品なら読むこと自体は不可能ではないが、それをするべきではないと思っているのでおとなしくしているつもりですよ。


「……」


もふりと片腕で抱いた羊さんに顔を半分埋めて、お仕事に勤しむキリリと格好良いディルの横顔と忙しそうなのにきっと正確なのだろうタイピングをこなす手を特段意味もなくぼんやりと眺めている。


ねえ、お師匠さん。昨日は力尽きて寝落ちするまで歩行訓練に勤しませましたのに、いまそれをしないのは自分の手が空いていないからって訳ではないですよね。

だって完全な二足歩行はまだできないけれど、掴まって歩くことは一人でもできるのだから適当に頑張れって放り出して時折ちらりと見ていれば、子供らしくないボクはとんでもない予想外や危ないことを自発的に起こしたりしないから安心して自分は仕事、ボクは特訓ができる。


でも、現実は慣れてないからぎこちないのは我慢しろなんて言って、軽くはないだろうに抱き上げたままでいてくれる。もしかしかなくてもイルファに置いて行かれて悲しい寂しいのボクを甘やかしてくれてますよね。

あ、ちびっこの頬を摘んで泣かせたことにも思うところがあったりするのかもしれないなこの御人は。

子供を泣かせて悦ぶ危険な嗜好はお持ちでないとのことですし。


ああ、なんだか人見知り判定から外れた理由がぼんやり見えてきた気がする。言葉の辛辣チョイスと基本無表情が身構えさせるけれど、その実とても真面目で面倒見の良いやさしい気遣い屋さん。

ボクを見た目通りの子供として見るのではなく、複雑怪奇な中身を読み取ろうと心を砕いてくれる思いやりの深さ。苦手と認識しているのにこうして甘えさせてくれる度量の広さ。

ぐんぐんめきめき鰻登りに上がっていく好印象の止めを刺したのは、泣き虫なのにそれを許すまいと歯を食いしばって耐えようとして自分の首を絞めている馬鹿を手段こそ乱暴ではあったけれど、泣かせてくれたから、かな。


「……」


羊さんに埋もれながら、ディルの肩口にぽてりと頭を乗せてみる。ちらりと視線こそ寄越したけれど、辛辣な言葉も不満の言葉も何もなく、でもふぅと小さく息を吐いて力を抜いたのがわかって、ちょっとおかしくなる。慣れないことをして貴方様も緊張していたりするのでしょうかお師匠さん。

人見知りなのに人肌恋しいとか面倒極まりない矛盾を抱えている保護者殿不在で簡単にぐらつく寂しがり。

新しく与えられた温もりにほぅと息を吐き、重くなってきた目を伏せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ