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美味しいご飯は大事です

ちゅんちゅん、ぴちゅちゅ。

私の耳に現在届くのは爽やかな朝の代名詞に使える美味しそ…んんっ、可愛らしい小鳥ちゃんの声ではなくて、ほこほこちゃぷんってな感じの…朝風呂の音ですね!



真っ赤な汁のスタンバイ?いえいえ四日目の朝ともなれば、悟りも開けるんですよ皆様方。ぷにぷにもち肌幼児体型に羞恥心なんて無用の長物、気にした方が負け。

そんなボクをお風呂に入れてくださる成人男性ボディの保護者殿については、一部を見なければどうとでもなるんです!細くても引き締まって逞しい肉付きなところはTVや映画のサービスショットとでも思え!

湯船に沈んでしまわないように抱きかかえてくれている時のお肌とお肌の触れ合いも、心頭滅却すれば火もまた涼し、慣れてしまえばこっちのものだ!お風呂は好きですっそう言う習慣のお国生まれでしたから!

おちびなお陰で大きな湯船が余計に広い、泳いでみてもいいですか?溺れているようにしか見えない犬かきくらいならこの幼児体型でもできると思うんです。

ああ因みにこの湯船、ボクの身長より深いので浮力の関係で楽に立てても見事に水没しますので間違っても試しません。お風呂で溺死は勘弁です。


「何をうずうずしてるんだ?」


くすくすと背後から聞こえる笑い声にばれたかと頭上を仰ぎ見れば、水分を含んで肌に張り付く赤薔薇色の髪が普段と違った印象を与えて大変セクシーです。うん、気をつけないと色気にのぼせそうですね。

ぶっ倒れついでに湯船が赤く染まるとか流石に引かれそうだからないようにしましょう。


「楽しそうなのは良いけれど、そろそろ上がろうな」


あらま残念。四日目にしてようやくお風呂を楽しむ余裕ができたので満喫したかったのだが、次の機会に持ち越しか。一人で湯船に浸かれるようにならないと長湯は許可されないだろうな。流石に私もしょうもないデッドオアアライブは繰り広げたくない。


例の如く片腕抱きされてざぶりと湯船から出ると浴室の一角でもっふもふな手触りのタオルに包まれて水気を拭われる。異常に長い髪の毛もこの時点では軽く結い上げられてタオルに包まれる為、とっても頭がもっふりした見た目になっているはずだ。

どうして“はず”なんて曖昧な表現なのかと言えば、その姿を鏡で見たことがないからです。

というより自分の姿を鏡で見たことが未だにありません。ええ、羞恥などと格闘しておりました故そんなことに気が付く余裕なんて全く持ってありませんでしたのでね。

なのでようやくですかと思いますが、本日の朝の目標、鏡で自分の姿を確認する。


「うーん」


ふんっと意気込んでいると器用にボクを抱き上げたまま自身の水気を拭い、濡れた髪をやる気なくもそもそとタオルドライしているイルファが唸っていた。どうした保護者殿、何があった。

もっふりタオルに包まれ白い塊と化しているボクが疑問に小首を傾げれば、気付いたお日様色の目と視線が合った。反射的に浮かべられた笑みはちょっと困ったものだ。


「リトの機嫌を損ねてた理由がわからないままなのに今日はご機嫌みたいだから、ちょっとな」


あ、それ。元々機嫌を損ねていたのではなく、勝手に羞恥に悶えていただけなので無視して頂きたいもしくは記憶から消し去って頂きたい。とか思っているがきっとイルファは納得しない。

だって最初に言ったもの、自分で気が付けなかった時はどれだけ後になってもいいから教えて欲しいって。

その上で謝るとか勘弁してください。イルファに問題はない、明らかに私の脳内の問題なので。


「…参った。本気で教えてもらうことになるかもしれないな」


そんなことに溜息吐かないの。話せるようになったら…一応お教えしますよ、約束ですから。

でも謝らせはしませんから、絶対。そんなの居た堪れないもの。

「あなたの裸を見て恥ずかしくて堪らなかったの。だから謝って頂戴」とかのたまうぶっとんだキャラ構成してないんで。何処のお嬢様キャラだよ。


ボクがそんな妄想世界に片足突っ込んでいる間、どうしたものかと息を吐きながらも止まることなく行動しているイルファは、浴室から出て着替えを始める。

順番は一度ボクを洗面台の上に誤って落ちたりしないように腰掛けさせて、手早く…下着?肌着?とにかく自身の大事な部分を隠す装備品を着込んでくださる。ええ、ボクの心にとっても嬉しい配慮です。

着替えている姿?見る訳ないでしょう。視線は無難にやや上向きですよ。下は見ない、見てはいけない。

私痴女チガウ。


洗面台の上なので身を捻れば背後にそびえる鏡を見ることが叶うのですが、如何せんバランス感覚に不安のあるおちびボディ故、上半身だけ捻るとかやると恐らく変な方向に体重が傾く。鏡へと倒れるか、洗面台から落ちるか、はたまた倒れた上でさらに落ちるかの選択肢とみているので、流石に試さない。

そもそも綺麗にタオルに包まれているのでまともに動ける気がしないってのが一番かな。

そういったわけで目に留まるものを眺めて待っていれば、薄着の状態まで着替えると自分のことは一度止めて、ボクの着替えに移るイルファ。別に退屈している訳ではないのだからきちんと着替え終えてからで構わないのにね。


まず最初になっがい髪の毛を精霊ドライヤーであっという間に乾かしてしまい、白い塊にしてくれていたタオルを剥いで下着類から着用。中身がどうであれ体はちびっ子でいまいち言うことを聞かない状態なのだからこれは仕方のないことだと言い聞かせておくのがポイントです。深く考えてはいけない。

と、襟の高い服を着る前にイルファが手にしたのは、リボン?生地が絹のような光沢を持って見える御色は鮮烈な紅。髪を結うのだろうかと思ったのに、リボンの両端が交差したのは…、ボクの首の前でした。

一瞬絞められるのかと思いました。

しゅるっと音を立てながら幅の広いリボンが所謂蝶々結びにされるのをじぃっとみつめているボクにイルファがにこりと微笑む。


「うん、可愛い」


それは、ようございました。

しかしながら保護者殿、わたくし少々背筋に寒いものが走りましてございます。首にリボンがきゅっと飾られて「可愛い」発言は何と言いますかこう…倒錯的と言いますか、その…リボンの色からの印象もありましてやんわり表現すると「これ俺の!」的な自己主張とも取れますと言いますか…。うん、ペット気分。

鈴が下がっていたら完璧だと思いますにゃ。


「とはいえこれは一時的でちゃんとしたのは装飾具が完成してからになるな」


服を着せる作業に戻ったイルファの発言が我が被害妄想に近付いている気がしてちょっとだけ恐いなと思ってもいいでしょうか。勘違いだったねと後々の笑い話になってくれることを希望します。

それにしても、ボクの着替えと身支度には丁寧に時間を取るのに自分の身支度は慣れているのか手早いですね。一瞬で髪を乾かし服を着込み、使用済みのタオル類は籠へと収められている。

…天魔の洗濯事情ってどんなのなのかな。ちょっと気になるとか考えながらイルファの動作を追っていたら、準備が終わったのかボクへと向き直られた。


「髪はリビングで結わえるから…よし、行こう」


ひょいっと抱き上げられたこの瞬間こそ、狙っていた時です!とっても長い我が髪を引き摺らないよう調節しているイルファを尻目に背から左へと場所が変わった鏡へ頭ごと方向転換!

さあ感動の対面ですっリトネウィア・レム・オルテンシア!


見事な鏡面加工の成された大きな一枚鏡はちびっ子を抱きかかえるイルファの姿を映してくれていた。

異常な長さを忘却すれば艶めく美しい黒髪が滝の如く真っ直ぐに流れ落ち、白い肌色との対比でより黒く映る。子供らしい柔らかな頬のフォルムと淡く桃色に色づく瑞々しい唇が愛らしく、興奮しているのかキラキラと輝いて見える目は髪色と同じ黒だ。

見事に前世の人ごみに紛れる平凡顔の要素が何処にもない美人さんで、他人事のように見惚れてしまいそうですね。将来有望間違いなしですが一つ気になります。

わくわくドキドキと胸を弾ませていますので締まりのない表情になっているだろうと思っていたのに、爛々とした目以外の表情筋死滅してるんじゃないかと思う程におとなしいですね。辛うじて口角がほんにょり持ち上がっている気がしなくもないという間違い探しの領域。


…もしかしなくても、ボクってば内心ハッスルしているのに感情が顔へ素直に反映されないおかげで無表情勘違いされキャラになるんでしょうか。

ああでも目だけはわかりやすく感情投影されていますね。疑問が浮かんだ直後、爛々状態から何で?なんて聞こえそうなきょとんものに素早く変化したもの。

…駄々漏れってこういうことだったんですかお師匠さん。

いや、確かにこれは駄々漏れで非常に分かり易い、同時に駄々漏れ過ぎてすぐさま感情が反映されて影響を受け、思考が回っていればいるほどに読み取り辛い。

これは、微妙だ。


初めて自身の姿を鏡で見たのは僅か数秒足らず、イルファの腕に抱かれリビングへと移動している間、百面相ならぬ百目相をしている自覚は当然ある訳なく、そんなボクを見てイルファが微笑んでいるのにも気が付かない。

自分の世界にのめり込むと返ってこないある意味すごい集中力だが、カラランカラランと聞き覚えのない音が耳に届いて顔を上げる。

妙な感じの音だったな。牧場の白山羊さんが首に下げていそうなベルよりは音が高くて軽やかなんだけれど、(ハー)(デー)の音が混ざって聞こえたぞ。何だその音は、と怪訝に首を傾げた時、イルファが零した言葉が耳に入る。


「早くないか?」


え、何が?傾げた首はそのまま疑問へと変化することになったが、イルファの視線は音が鳴った方向へと固定されており、ちょっと戸惑いが見える。

ふむ、あのカラランという音が何かを知らせるチャイムの役割を果たしているのだとすれば、イルファの言葉を合わせると来客と取れるのではないかな。そうなると生憎正確な時間は把握する術がないので知らないのだが、早いと言うのはわかる。だって低血圧っぽいイルファが起きる時間はどうやら朝として早い時間らしいからね。そこから身支度時間を経過させても人様が訪ねて来るには早すぎると考えて間違いないだろう。

そうだね…朝の六時くらいの来客は普通に考えたら非常識だと思う感じかな。天魔の起床時間は早いってのが普通ならともかくね。


思考中も足を止めていなかったイルファがリビングへと向かう予定だった進行方向を玄関へと変更したので、あの音は来客知らせで確定と。そういえば昨日うとうとと眠りに誘われている時誰かと話している声が聞こえていた気がする。突然の来客に驚くではなくて時間のことを口にしたのは約束があったからなのかもしれないな。

私の知るイルファの交友関係は顔を合わせた四大八名、側近二名、天魔両王の合計十二名なのだが、思わず零れたにしても高位者に対する姿勢にブレがないことから同僚の四大なのかなと見当をつけてみよう。

それ以外ならば予想の仕様もないから当たらなくて当然ということで。…さあ、どっち?


うっすらと人影の確認できる玄関扉の向こうに立つ相手を確認することなく、ガチャリと施錠を外したイルファがこれまたあっさりと扉を開いて迎えたのは…。


「ふあぁ……はよぅ」


大変眠そうに欠伸をしているディルでした。おはようございます。


「おはよう」


ぺこりと反射的にボクが頭を下げているとイルファも朝の挨拶を述べてディルを中へと招き入れ、扉を閉めて施錠。そして招き入れられたはいいが何処となくぼんやりしている感じのディルを見て呆れ交じりに声をかける。


「そんなに眠そうにするならもっと遅い時間にすればよかっただろう」


心なし咎めているように聞こえる響きでしたが眠そうなディルに効果はないようです。

実にやる気なさそうなのにふわぁと追加された欠伸で潤いが増した空色は、玄関扉から差し込む柔らかい朝日を反射して実に鮮やかに我が目に映る。


「出る直前ってのも考えたが、気になる事があってこの時間にしてみた」


「気になる事ってのはその手に持ってる何かが関係してくるのか?」


いまからピクニックにでも行くのですか?と問いたくなる大きさの植物素材で編まれたバスケットを持っているディルの手へと視線が落ちるのは必然だ。何が入っているのかとただ疑問に思う私と訝しむイルファとの間にある差は一体何なのだろうか。


「別に劇物は入ってない」


「そりゃ良かった。水の音がしたからついあの危険物のこと思い出した」


「なんで態々シェネレスの家でそんなものの調合作業をしなきゃならないんだ。抵抗力のない幼子がいるのにそんな馬鹿げたことをするか」


「ちょっと待て、リトがいなきゃ別にやってもいいって聞こえるから完全に否定しろ。オイこら目を逸らすなこっち見ろ」


「お邪魔します」


「今更そんな挨拶はいらねえから否定しろこの野郎」


「あーしないしないしないと思えるなら幸せなんだろうな」


「ってめ、勝手に行くなっ」


わぁ、入り込む余地のない会話と展開だな。正直面白いのでもっとやれと思うのは、イルファの口調と態度がボク相手とでは異なっているからだろうな。親しいからこその砕け方って感じで、それに流れる空気が何処かのんびり温かい気がする。まあ、会話の中身は不穏な気がするが…気にしない方向で行こう。

きっとそれが正しいと思う。きっと知らなくても生きていけることだよ。うん。


勝手知ったる、に見える様子で家主よりも先にリビングへと向かうディルを追い、ややむっとした様子で歩き出すイルファを見て、ふふふなんて音もなく笑っているのに気付いていないのはきっと前を行くディルしか見てないからだろうね。仲良きことです。


「オイ、ディルッ」


「キッチン借りるぞ」


「は?」


一足早くリビングへとたどり着いたお客様のはずのディルは、手にしていたバスケットを台所の横にある棚の上に無造作に置いていた。徐に箱を開くと取り出したのは…エプロン?

えっと、実にシンプルな作りの白が眩しいですが、え?

予想外どころか想像できる訳がないだろうと突っ込みが入っている脳内の声を聞きながら、視覚から入ってくる情報を理解しよう。


最初に取り出したエプロンを手慣れた様子で身に着けると袖を捲り上げる。準備完了ということなのかバスケットから次に取り出すのは、レタスっぽい丸い植物、トマトっぽい真っ赤な球体、キュウリっぽい細長い棒、パンらしき長方形の物体に何かの卵に見えるもの、ワインボトルの中で揺れる色のはっきり見えない液体に………。うん。材料持参でキッチン借りて、エプロンつけたらいざクッキングってことでいいでしょうかお師匠さん。

声をかけるだけで承諾は二の次、むしろあってもなくても関係ないご様子で使用する予定なのだろう調理道具を次々と取り出している姿を見て、つい先程出て来た勝手知ったる他人の家という言葉が肯定された気がします。


「…材料持参の朝食作り?」


「不平不満は聞かない」


虚を衝かれたのだろうイルファが平坦にも聞こえる調子で疑問を乗せた呟きに応じたディルだが、小鍋に張った水の中に何かの卵を沈めながらの受け答えで何をどう反応していいのかに困る。

取りあえず、ゆで卵でも作るおつもりですか?と火にかけられた小鍋の様子を見て疑問でも浮かべておくか。


「不平不満はないが、疑問は浮かぶぞ」


事態についていけていないとわかるイルファの様子と発言にしれしれっと頷いて同意を示してみるが、肝心のディルの視線は手元の野菜と判別していいだろうものたちへと向かっている。

ざっと表面の汚れを洗い流し、流し台に設置したまな板の上でキラリと輝く包丁を閃かせる。

うん。手際よくトントンと野菜を切っているだけです。


「常時食料貯蔵庫が空に等しい生活環境のお前がまともに食える食事を作り与えている姿が全く想像できなかった。反論があれば受けて立つ」


突っ込みを入れようにも天魔の食生活に関しての知識が齧った程度もない私では前半部分に対して突っ込みようがないので、一番最後の部分にだけ注目します。

普通は受け付けるのであって受けて立つのは間違ってないか?アレですか?半端なことであれば叩きのめすっていう宣言なのですか?反撃前提での会話とかすごいなオイ。


一瞥もくれずに朝食作りを始めているマイペースなディルの発言に静かな突っ込みをしている傍観者のボクと当事者のイルファは当然反応が違う。

ふんっと短く勢いよく吐き出された無言の吐息は不満だと言葉に変換されて耳に届き、これぞお母さんと言いたくなってしまう光景のディルから視線を傍らの音源へと誘導した。

不平不満はなくとも不服と顔に書いているようですよ、保護者殿。


「自分一人ならともかくリトにはちゃんと食事を出してるよ」


はい何その発言と思われましたならば解説いたしましょう。

イルファはボクに食事を出してくれます。まだ固形物は早いかなって流動食、スープ系の飲み物を朝、昼…はがっつりしっかり昼食ではなく、仕事の合間にお茶休憩的な感じらしくて飲み物を頂き、晩に再びスープの食事。食事二回に間食一回といった計三度、朝夕の食事は膝上に抱き上げられカップを支えられながらの甘やかしスタイル。ちびちびと餌付けされておりますがお師匠さんが見たらなんとおっしゃるのでしょうかね。


そんな食生活を提供されているのだが、ボクの飲みきれなかったスープを飲んでくれている以外のイルファの食事風景を私は見たことがない。ボクが知らないところで食べているのかなと思っていたのですが、いまの発言はどうにもそう取れない。むしろ明らかに自分だけの食事なんてどうでもいいと受け取れる絶食発言ではありませんか。

どういうことなのかと視線を送るボクと呆れの溜息を吐いたディルの心は近いところをいっていると思うのです。


「…どんな?」


気の所為でなければ少し冷めた調子に聞こえるディルの声だが、イルファには気にならないものらしい。


「取りあえず食べることに慣れるためにスープから。味付けはいまのところは最低限からにしてあるが」


気にはならなくても自信はあまりないのかもしれないな。語尾に向かう程に声量が小さくなっていったので。


「…妥当といえば妥当だが、食事内容だけと言うのが正しいな」


溜息なのか吐息なのか判別のつかない息を吐きつつ別の鍋を火にかける準備をしたかと思えば、まな板の上で包丁が軽やかに音楽を奏で始める。慣れているじゃなくて板についているだよねこれは。玉葱っぽい野菜が見事な薄切りにされていくよ。何処の料理人ですかあなたは。


「何がいけないのかはっきり言えよ。生憎俺にお前ほどの調理技能はない」


むすっ。そんな擬音がくっついて聞こえそうなイルファにちらりと、本当に一瞬だけの一瞥をくれた空色が寒々しくて体が強張った。


「食事内容でも調理技能でもない根本問題だ馬鹿が」


タンッとまな板を叩いた包丁の音が耳を打ち、少々よろしくない空気が流れている感じに何ができるわけでもないのにそわそわと様子を窺う。視線が二人の間を右往左往しているがどちらもボクを見ることはない。

調理中のディルが手元を見ている為に睨み合いにはなっていないが、それに近いものがあって落ち着けない。


「だから―」


「一人で取る食事を美味いと思ったことがあったなら前言を撤回してやる」


苛立った調子のイルファを遮った声は、正反対に思える程に落ち着き払っているけれど、どうしてか呆れと確認されているような意味合いを感じた。

そう、知らない訳じゃないだろうにとでも言いたげに。

別の引っ掛かりも覚えてしまうその発言は、疑問を浮かべたボクを抱きかかえる腕が震えたことで肯定され、目を見張ったお日様色が即座にボクへと落とされたことで確証へと転じる。


「ぁ」


ちょっと待って。どうしてそんなとんでもない大失敗を犯して奈落の底にでも沈みそうな悲愴感たっぷりな表情を浮かべなさるのかイルファよ!至近距離で見ているボクの方が慌てるからな!

そんな風に身動ぎひとつせず只管に心と脳内だけで騒ぎ立てながら、ふと浮かんでしまったことがある。

それは勝手な想像で痛い妄想なのかもしれないけれど、何となく朧気に思って問うことをしなかった事柄がありはするんですよ、イルファ。


視線を外さぬまま脳裏に浮かべる現在地、イルファのご自宅。シェネレスのお家は相当広く、全容は…運んで貰ってばかりだからよくは知らない。

リビングが広いのは見てわかるが、それ以外の場所も広いのだ。実はイルファの寝室になる個人の部屋からこのリビングに到達するまでの間、各部屋に通じているだろうドアが結構な数あるんですよ。

それが個人の部屋なのか客間なのか、それとも資料とか何かの材料倉庫とか貯蔵部屋なのかは定かではないけれど、何となく個人部屋の確率は少なそうだと思う。


どうしてそう思うのかと問われたら、がらんとした特有の雰囲気だと答えようか。生活感が感じられない空虚な空気と言ってもいい。たぶんその原因はイルファが使用している部屋が限られているからだと思う。

他にシェネレスの天使はいないのかと思うでしょう?シェネレスの天使はちゃんと存在しているんですよ。

会ったことも見たこともいまのところないですが、少なくともイルファが“父”と呼べるであろう天使は確実にいるんです。

ただ天魔界で生活しているのがイルファ一人だというだけ。父君は外界勤務らしいのですが、詳細は不明。

話しにくいのか聞けないボクの問題なのか、イルファは家のことも家族のことも自発的には語ろうとしない。

外界勤務のお父さんの話もイルファをどう呼ぶのかってマリエルが話した時に耳にしただけですからね。

シェネレスには父がいるからイルファが父呼びされてたら面倒なのだという話だけ。


情報、少ないっす。ボクと会話ができないのにイルファが次から次へと話し続けているというのもなかなかどうして微妙な見た目になると思うのだが、ちょーっと思うところが出てくるものです。

物語上のイルファがどんな天使だったかは描写が少なすぎて完全に未知数。家族構成も知らなければどんな幼少期を経て四大位に至ったのかも知りません。

尤も、知っていたところで参考程度にしかならないのはわかっている。そして決めつけてはいけないと理解もしている。

この世界は机上の空論でも人間であったボクが好き勝手に描いていた物語でもない。

現在進行形の確かな現実なのだから同じなんてありえないのだ。


でもね、何となくなんとなーくだけど現在のシェネレスのお家事情を考えるに、父母子供の和気藹々、順風満帆なご家庭には思えない。どうしても無理。それを想像させるにはどうしてもこの家の空気が、寂しい。

広いお家にたった一人でぽつりと所在無く立ち尽くす幼いイルファを想像してしまう。

そんな想像ができてしまうのだから、きっと複雑な事情があるんじゃないかと邪推してしまって…私の知るイルファの笑顔が曇りそうで、問えない。

声がなくたって聞けることはあるし、問う方法はある。対象が家族のことなのだから生活空間である家にはそれを問える機会とものがそこかしこに散らばっている。いくらすぐに寝こけてしまう活動時間の短いお子様でもそのくらいのことを訊ねられる時間とタイミングには行き当たれるし、無ければ作ればいいだけの話だ任しとけ。けれど簡単にできるであろうそれを行わないのは、躊躇われるから。


閉じられたドアの前を通り過ぎる時、誰もいないのだと思わせる空気を感じるその場所を通り過ぎる時、イルファは目を伏せるから。意識的なのか、無意識なのか、それとも…意識してのことが無意識として定着したのか。

これは私の勝手な想像で少々気の滅入る方向での痛々しい妄想と憶測。

でも、もしも笑顔が曇るような何かがあるのだとすれば、いま問うのは危険だ。主に私が。


どうして聞かれたイルファじゃなくて聞いた私なんだと思うでしょうが、万が一家庭事情が重くって話さなくてもいいからとか思ったとしても、話してくれている内容に違和感とか間違いが感じられても、止めることも意見することもできなくて只管聞くだけとか消化不良起こすからね!

深刻なことなら絶対聞いたその場で解決しないと後を引くんですよ。やばいと思ったら止める、否定すべきだと思ったらきっちり否定する、誤解が生じていると思ったらしっかり訂正する、などのもしもの時の備えと心構えが必要で、心構えは万全とは言わないがそこそこあるのに対して肝心の備えがないという残念極まりない現状が立ちはだかりましてねこんちきしょい。

ジェスチャーで伝えようとしても詳細はわからない、筆談できたとしても見て貰えない状況だったらどうにもならない。そこで何よりも有効で確実なのは会話になるってのに、いまの私にはそれが備わってない。


だからいまは聞かない。気になっても聞かない。聞いてはいけない。中途半端な覚悟で聞いてはならない。

勝手な妄想に憶測で馬鹿じゃないのと後で笑える杞憂だったとしても、確実に笑い話にできると確証がなければ、試すべきではない。

万が一であった時、傷つけるだけだなんて嫌だもの。常に最悪の事態を想定しておく、それが貧弱な精神を守るのに必要なことですからね。

何せわたくし、チキンですので!

胸を張って堂々と宣言できますが何か?


なんて真面目なようで不真面目な思考が巡ったのは、愕然と息を呑むなんてボクの想定以上の反応をしている貴方の所為だと言ってもいいでしょうかね。

ああ、やめたやめた。語れぬままの現状でこの事態は勘弁願いたいんですよチキンだって言ってんでしょうがまったくもう。

ほら、その今にも死にそうなお顔を下げてしまいなさいな。いい男が台無しじゃないか、ね?

良い子良い子。


伸ばした小さな手でふんわりと柔らかい猫っ毛な赤薔薇色の髪を、頭を撫でるボクの様子に一瞬の驚きの後、戸惑いを見せるお日様色が揺れる。そうしてじんわりと頬が紅く染まっていき、目線が逸らされたのに…萌えた!


ねえ見たっ?見ましたか皆様っ!爽やか系青年なイルファの赤面ですよ!!

ねえねえねえねえ教えておくれよ保護者殿っちびっ子によしよしなんてされちゃって恥ずかしいの?それとも照れてるの?両方ですとかもありですわよ!

ああもうやだ堪らなくキュンキュンしちゃうよ!暴走しちゃうよ!ブレーキなんて何処にもないよ!全力べた踏みアクセル一択、乙女ゲーに悶えた若かりし淡い春色を冒涜せんばかりの痛々しいショッキングピンクの脳みそが蘇って勢い余って鼻から真っ赤な汁を飛び散らせちゃうわよ!

誰か止めてね、ここに犯罪者予備軍がいます!!


「騒音兵器」


ぅわっはあぁあいぃっっ!!

びっくん、と思い切り全身が跳ねて背筋が直立に固定されましたありがとうございますお師匠さん。

危なすぎる橋なのに高らかに笑いながら出来もしないスキップで渡り切ってしまうところでした。

……それってなんて変質者だ。

おかしすぎる想像で密かに凹みながら、鈍い動作で間違いなく駄目な道程から引き戻してくださった御方へと視線を向ける。

半眼の空色と基本装備から外れた複雑な表情が見えて己が行動は第三者視点で相当やらかした部類に入ると教えられました。やっちゃったね!


「我が身が可愛かったら加減を知らない暴走者に燃料を注ぐな。危険極まりないその手を下ろして不用意な行動に走らぬよう押さえつけていろ」


…お師匠さんよ、弟子は教えを請うてよい立場だと思うので問いたいのです。

頭痛いと全力プッシュしていらっしゃいます御顔のことは一先ず置いておいて全く持って理解できない恐らく助言と推測できる発言を懇切丁寧に噛み砕いてはくださいませぬかいますぐに。

正直拝聴致しました文面全てが気にかかるのですが一番引っかかるのは「我が身が可愛かったら」の一文にございますれば。心の底と書いて心底気にかかります。

どういう意味ですかお師匠さん。理解力に乏しい不出来な弟子で大変申し訳ないのですが、ご指摘の通り「我が身が可愛い」ので教えて頂きとうございまする。


ディルの難解な発言に理解に苦しみ遠い目をしながらも、助言に従ってイルファのふわふわ感触の髪から我が手を引き戻し、これ以上おかしな行動に及ばぬように胸の前でぎゅうっと両手を組んだ。

祈っているように見える手の組み方だが、どちらかの手を握るよりも外す時に指に引っ掛かりを覚えるのがこれだと思うので採用しています。はい。

じぃっと視線による疑問をぶつけてみたが、複雑な表情をしたディルはボクの疑問には答えず、一言。


「気持ち悪い」


ひどい!

あっという間に基本装備に表情変更されて淡々と告げられた身も蓋もない暴言にどう反応していいのかわからないよお師匠さん。聞くのが恐いが聞いておきたい、その発言はボクとイルファのどちらに向けられたものでございますか?まさかの両方だった時には床に(くずお)れたい所存。


「…言うに事欠いてそれかよ」


ボクみたいに衝撃的な発言に固まらなかったらしいイルファがぼやいたが、その程度を気になさる御方ではないですよね。ええ、わかっています。一度止まっていた調理の手が動き出したのがその証拠ですね。


「締まりのない顔をどうにかしろ。そしてぼんやりと見てないでやることをやれ鈍間」


それが平常運行のご様子で紡ぎ出される暴言に耳が慣れてきそうでどうかと思います。

まな板の上に山を作った薄切りさんを置いて、設置していた鍋に火をかけるとワインボトルの謎の液体を少量投入。その上に薄切りさんを放り込んで木べらで軽く混ぜる動作と、耳に届く炒め物の音で液体は油なのかなと推測。芳しい匂いがすることからオリーブオイル的な植物性の油とみた。

…何を作っているのだろうか。


「締まりのない顔とか言われてもなあ…」


自覚のないこと言われても?どうしようもないのに無茶を言う?

そんな感じの心境なのでございましょうか保護者殿。心どころか脳内沸き立つ照れ顔、御馳走様です。

にへらっと音からして怪しい笑いを浮かべている、つもりだが…ついさっき知ったばかりである鏡の向こうの我が顔面事実から推測するに、目だけがによによしているんだろうなきっと。多少なり口角が上がっているのはわかるんだがね。

表情に出ているのかどうかは置いておき、心はとっても弾んでにんまりしているボクがまだうっすらと頬に赤みを残したままのイルファを堪能していると、戸惑いを滲ませているお日様色にぶつかった。

へらりと反射的に笑うボクと、ぱちぱちと瞬いてから眉尻を下げて苦笑するイルファ。


「本当に今日は朝からご機嫌だな」


そりゃあもう。一部のことに目を瞑ってしまえば、興味が尽きないことばかりなのですよここは。

物語ではない生の天魔がどのように生きているのかとか、私の知る面々が本当はどんな性格で存在なのかとか、考え出すと際限なくて楽しくて堪らないよ。

…とってもシビアなことから目を逸らしている気がしなくもないけれど、それはそれってことで。

基本が否定的な思考持ちでも人生楽しまなくちゃ損ですよ、なんて楽天的なことだって考えていますのでね。


「その言い様は少なくとも昨日の朝はご機嫌斜めだったってことだな」


にっこり笑ってこくりと首肯しているとそんな突っ込みがじゅわあぁっと蒸気を上げる鍋の音を裂いて耳に届く。…本当に何を作っているんでしょうか。


「初日からってのが正しい。どうしてか朝はそこの羊に顔を埋めてこっちを見てくれなくてさ…」


はは…と力ない笑い声は悲しい困り顔から紡ぎ出されて、


「何やったんだお前」


何らかの疑いをかけられてより困ったものへと変化してしまう。どうしたものか。

鋭く入った疑いに答えるのではなく、ソファへと移動を始めたイルファに疑問の視線を向けては見るが、予想通りボクへの返事も反応もない。困り顔のまま視線は記憶をたどっているのかやや上向きだ。


「特に何かやらかしたつもりはないんだけれど、な」


ぽすりと定位置扱いになる羊さんの隣に下ろされたのでふわもこ触感を求めて手を伸ばすが、今日は顔を埋めないぜ。とことんふわもこを堪能するんだ。手触りがいいものっていつまでも触っていたくなるよね。


「理由なく拒否する行動をそいつは取らないだろう。お前が自覚なく問題行動を行ったのか、もしくは受け手であるそいつの問題かだ」


ぎゅっぱぎゅっぱと抱き寄せては離してを繰り返す一人遊び状態のボクへと視線が二種類寄せられたが、ディルの視線はすぐに手元へと戻され、イルファの視線もディルへと向かい、違うことに意識を向けていたボクは視線の意味どころか会話すらまともに耳にしていない有り様だ。

一瞬の沈黙へと落とされた溜息に視線を上げれば、イルファが唸り出しそうな苦い顔をしていた。私が羊さんと戯れている間に何があったんだ。


「一応、教えてくれるように頼んではいる」


「だったらおとなしく待ってろ。いま悩んだところで何の解決も望めない案件、つまるところ時間と労力と思考の無駄だ」


「ばっさり置き去りにできないから悩んでるってのに…」


「今日は悩む暇がない程忙しいだろう。喜べ」


「それで喜べたら違う意味で問題だ」


「それもそうか。じゃあ嘆くか?」


「………もういい」


「だったらいい加減身支度を整えてやれ。こっちはそう時間を取らないぞ」


「はいはい鈍間で悪うございました」


見聞きしている分にはテンポが軽快で大変面白い会話なんだけれど、何の会話なのかわかると前半部分には微妙な気持ちにしかなれない。何か?私の羞恥で身悶え話はもれなくディルに伝わってしまうということなのか?……まさか四大全員になんて馬鹿なことにはならないだろうな。そんな事態になったならば地面と仲良しこよしになったまま立ち直らないぞ。


薄ら寒くなりそうな想像にむぎゅっと羊さんを抱き締めているボクのところへディルとの会話を打ち切られたイルファが、髪結いセットを手に戻ってくる。

セットと言うと大袈裟だが、戦う相手が長身のイルファよりも長い我が髪の毛様なので、櫛を通すだけでもちょっとした労働、さらに結うとなれば色々と必要なものが出てくるのです。幸い櫛通りは大変よろしいらしく、昨日結われる時には楽しまれている感じがしていた。そしてボクも髪を梳かれているのは頭を撫でられているのに似ていて満更でもない。


断りを入れられてソファの背凭れと直角方向へと体の位置変更を行われると、背後に座ったイルファは間違ってもボクが床へと落下しないように自分の足でバリケードを作る。なくても落ちることはないと思うのですが、掴まり歩きまでならいけるぜとドヤ顔できる状態とイルファは知らないからな。

でもってまだ内緒にしておきたいのです。ええ、ディルの力を借りての引き摺られ前進に気が付いて貰えなかったとすねている訳じゃありませんよ。そんなちまい事柄に囚われる程思考は狭くないはずなので。

はい。


もふっと羊さんに頭を乗せて髪を結われる感覚をくすぐったく思いながらのほほんと和んでいる脳裏に、本日の御予定はどうなっているのだろうかとようやく降ってきた疑問。

天王殿のお達しでひとりぼっちは許可されていないから四大室へと一緒に通勤は確定なのだが、イルファは今日忙しいって言われていたぞ。雑務でも溜まっているのか、それとも報告系が大量に出てくる予定でも立っているのだろうか。

昨日はお師匠さんご指導の下歩行訓練が行われたが、今日はどうなのだろうか。可能ならイルファに内緒で自力前進できるように特訓したいところだが……イルファは自身の目の届く範囲にボクのことを置いておきたそうな話があったから難しいかな。急にできるようになって驚かせたいんだけれど、その為にはどうするべきか。


「…何悩んでるんだこいつは」


うーん、と小首を傾げているところに投下されたのは言葉と一致した何していると告げる視線がセットのお師匠さん。味も素っ気もないシンプルすぎるエプロンが本当に眩しいですよ。個人的にはカフェスタイルの黒いエプロンも捨て難い、と邪な発想に向かってしまったのは、トレイの上に乗せられたサラダを運んで来てソファ前の硝子テーブルに配膳している姿を目撃しているからです。

ああ、今日は妄想日和のネタが大量過ぎて困ります。こんなにウハウハ状態を与えられたら後でその調整ですとばかりに楽しくないことが起こりそうですね。

世の中正負のバランスが大事、偏ってると何処かにしわ寄せが来ると思うんです。個人的な意見ですけれどね。


「見えてない俺に聞かれても察せないだろう」


「見えていても思考の変化が早過ぎて追いきれない」


つーかーには練度が足りず、駄々漏れ過ぎて支障あり。それでもこんなおちびの様子に気を配ってくれる良い男どもめ。面倒くさくて誠に申し訳ない。


「今日が四日目だから…順調にいけば後三日もしくは四日か。意外に言葉がなくてもどうにかなってることもあって後回しになってるが、書く練習した方がいいのか?」


読みは問題ないことが幅を持たせていたらしい本を読んだことで実証済み、今度は書く方へってのは至極当然な流れだ。握力、腕力共に不安しかない手で筆談に応じることが可能なところへと到達できるか否かはまた別問題になるのだろうけれど。


「意思の疎通は確かに大事だが、他にすることがあることを忘れるな間抜け」


つい、くい、と髪が結われていく感覚に頭を動かさず固定しているので見え辛いが、カタコトとテーブルに小さくぶつかる硬めの音が何かが配膳されていることを教えてくれる。

すぴすぴと美味しそうな匂いを鼻が感知したのでお腹も鳴きそうな気がします。天魔に空腹という概念があるのかどうかは置いておくよ。少なくとも人間であった時の感覚でしか語れないんですよ現状では。

情報収集させろ。端末機器の最低限の扱い方を教えてくれ、自分に閲覧可能な常識の範囲内で検索かけまくるから。それが駄目なら天魔の世界観について勉強できる書物が閲覧できるような場所に放置してくれ、本の虫になるから。


「万が一の時自力で逃走するための手段が何よりも優先するべきものだ。俺の勝手な意見だが、異論があるか?」


配膳を終えたのかテーブルを挟んだ向こう側の背凭れのないソファに座るディルの言葉で、思考がいつも通りに脱線していたボクははっとなる。

どうしてボク自身よりも歩かせることに熱心なのかと思えば、そういう事情か。それは確かに何よりも優先されるべきで熱心にもなるわけだよ。物凄く納得した。


「ない」


きゅっと何かを結んだ音と同時にイルファが言葉を返し、ボクはふるりと首を横に振った。命を思っての意見に何を反論できようか。


「ないけれど、納得したくないと訴える自分がいる」


「気持ちの整理の問題なら自分でどうにかしろ。そこまでの面倒は見てやらない」


釈然としない、と取れる調子でのイルファの発言に突き放すディルの返し。正論で他人がどうにもしてあげられない部分なのはよくわかるが、言葉だけで捉えるとなかなかきつい言い様である。言葉って不思議だ。

しかし何故納得したくないのであろうか。ボクが自力逃走できると何か不都合なのですか?足手纏いになるよりはるかに有意義だし何より当人であるボク自身が最低限の安全を確保できる術があると安心するのですが…駄目なのでしょうか?


「わかってるよ。…感情の整理が上手くつかないなんて久しぶりで調子がおかしいだけだ」


「それが普通だってことに気が付けていい傾向だ」


しゅるり、きゅっと結わえる音が途切れ、すっと脇下に手が差し込まれると横向きの体が正面へと方向転換される。そこまで気を遣わなくてもと思える程に確認してきていたのが声かけなく行われたのはどういう心境変化なのかと頭上を仰げば、困っているのか悩んでいるのか笑いたいのか怒りたいのか色々と凝縮してしまった顔が見えました。


「微妙」


ぽつりと零したあなたの発言が的確な自身の表情表現です。


「いままで考えることすら放棄していたからだろう。器用な髪結いが終わったならさっさと食え」


器用、なんて聞けばどんな髪型に仕上がっているのか気になるけれど確認できるものがないのでやむなく断念したが、残念に思う間もなくテーブルの上に目を奪われる。

サラダ、スープ、サンドウィッチ。見事な朝食セットメニューでした。


「咀嚼できないわけじゃあないんだから食べやすそうなものから慣れろ」


あ、それで三セットある内のボクの前にあるものだけ野菜たっぷりサンドではなく卵サンド、サラダではなく兎耳仕様の林檎っぽい果実なのですね。サイズも小さめに切り分けられていて気配りが見えます。

マリエルの二の舞になるので絶対口にできないし駄々漏れなので思うことも憚られるが、本気の本気でお母さんの言葉が浮かんでしまいます。こんな見目良い男性に使われる言葉と違うのになんでかな…。


「流石に量の加減はわからなかったから残して良いぞ。残りはイルファに押しやれ、そしてお前は残すなよイルファ」


食え、と命令が続いたのに口の端を引きつらせる保護者殿を私は見た。


「それは態々言わなきゃいけないことなのかよ」


「マリエルと二人がかりで押さえつけて無理矢理食わせた時期があったのは俺の記憶違いか?」


……はい?何ですかその想像するによろしくない光景と状況しか出てこない異常な食事風景は。


「…………いまは食べてるだろう」


「監視付きのうえ無理矢理押し付けられてならな」


否定しないどころか追加情報だと?保護者殿、よくわかっていない天魔の食事事情を抜きに考えてもそれはどう考えてもあかん奴です。どうなってんですか!他人様のご飯の心配なんぞしどころかっ己の現状からどうにかしなさい!

ギッと睨みつける視線に気が付いてか、ボクを見たイルファはへにょんと情けなく眉尻を下げた。


「…リト、視線が刺さってる」


刺してんですよ意図してね!

ばつが悪そうなイルファの心境を慮る気、いまはないぞ。詳細は置いておき、一生食事なしで活動できる程天魔は燃費良くないだろうが。食事の放棄ってことは生きることを放棄しているのとほぼほぼ同義だぞ。

自分を大事にしない人は嫌いですよボクは。自分のことは空高く放り投げてるが気にしてはいけない。


「いいぞ騒音兵器。生まれて四日の幼子にも咎められることだと胸に刻み込めるようにもっとやれ」


言われずともでありますお師匠さん!


「けしかけるな!」


自発的だよこんちくしょい!


「俺が言う前からだって訴えが出てるのを無視してやるなよ保護者」


「っの」


ほ・ご・しゃ、と句切っての呼び方にイラッとするのは必然でしょうね。


「もうしばらく突いてやりたいところだが今回はこの辺にしておいて、食え。時間に余裕は持っているがぐだぐだやってられるほどじゃないからな」


切り出すなり自分のサンドウィッチに齧り付くディル。握った拳がプルプルしているイルファは見てないことにした方がよろしいのかなあ。

そっとイルファから視線を自分用の朝食へと視線を戻したところでディルが声をかけてきた。


「ああ、手掴みできる内容にしたんだから自力で食え。もしも重いと思えば世話焼き加護精が勝手に重量操作する。俺の前で過剰な甘やかしは許さん」


「っちょ」


はいですお師匠さん。いただきます。

ぱちりと手を合わせてお決まりの挨拶をし、食事しやすいようにボクの座っている場所へと寄せられている朝食セットへと手を伸ばす。戸惑っているイルファは知りません。ちゃんと自分の食事をしてください。


二人のものと比べると小さめのスープカップへと手を伸ばし、ある程度の重みを想定して慎重に持ち上げようとすれば……うん、ディルの言う通りの現象起きました。

ひんやり空気が流れて指をかけた取っ手から重みが極端に減らされました。ありがとうございます我が加護精霊さん。力が足りない内はご助力願います。

重量の問題をクリアして零さないようもう一方の手を器に添えてわかる温度への配慮。

至れり尽くせりです。ある種貴方にも甘やかされている気がしますよお師匠さん。


口元へとカップを運んで、最初に行うのは観察ですね。琥珀色に煌くスープの中にひらひらとうっすら見えるのは、薄切りされていた玉葱疑問系でしょうか。となると、これはオニオンスープ?あれって玉葱炒めるのバターだった気がするんだが、自力で作ったことないにわか知識じゃ断言できないし聞ける相手いないしそもそも聞くこと自体が不可能だし…。よし、美味しそうな匂いするんだから食べちゃえ。

悩んで何かあるわけでもないんだからいっただっきまーす。


ふうふうと火傷防止に息を吹きかけて実食。そこに至るまでの様子を二人に見つめられていたのに全く気が付いていない自分世界の住人は、スープを飲み込んで一拍後、へれりと締まりなく笑った。

おいちい。とってもおいちいのですお師匠さん。主原料が何だとか見覚えのあるなしどうでもいいね。

イルファの味付け最低限にようやく気が付いたよ。塩味、甘味、酸味、辛味、苦味と味を感じるために在る味覚が味付けって大事だって訴えてる。

いや別に素材の味を大事にする素朴な味付けを悪いとは言わないしむしろ好きですけれど、連続すると味気ないって思ってしまうものなんですよ。濃い味付けばかりの時にあっさり味食べたいと思うのもまた自然の摂理。ああ、おいちい。


「…幸せそうだな」


ちびちびとしか食べられないのでちょっとずつ口に入れてはぱあぁっと花を散らしているボクを見て、予想外な反応なのかきょとんとして見えるディルにこくこくこくこくと高速肯定。


「作った側としては、悪い気はしないが…オーバーな反応だな」


くつりと笑みをこぼすディルにオーバーなものかと首を横振りし、しっかりはっきり告げようではないか。


「    」


美味しいってね。音を伴わないけれど読み取ってくれるから取れる行動です。


「はいはい、いいから食え」


しっしっと追い払うように手を振りましたがお師匠さん、ちゃんと御顔が笑っておりますから照れていると受け取りますね。そして私は食事に没頭しますよ。美味しいご飯って素晴らしい。…食に執着しているつもりはないが、舌は肥えていたから自覚がなかっただけかもしれないな。

ふんふんと鼻歌が聞こえてきそうなご機嫌具合に笑っているディルへ沈黙していたイルファが呟いた。


「……料理教えてくれ」


「っははは!」


もぎゅっと卵サンドを頬張ったところに笑い声が聞こえて顔を上げたが、声を上げて笑っているのは無表情何処へ状態のお師匠さんできょとーんです。あ、卵黄と油と御酢で作られる調味料に似てるようで違う酸味が利いた味付け、美味しいです。

味の感想を述べている場合かと思われるだろうが、予想外が起きた時の脳の再起動方法に直前の行動反芻は大事だと思うの。おかげでほら、どうしてか頬を赤くして苦虫噛み潰した表情のイルファと幼くも見える御顔で笑っているディルの様子がよぉくわかる。どうしてこうなったのかは別としてね。

疑問はさて置き、美味しいご飯の美味しいおかずとしてたっぷり眺めるとします。うまうま。


「別のことなら歓迎するがいまは、笑うなこの野郎!」


あ、怒った。そして余計に笑うディル。必然だね。もぎゅもぎゅ、良い光景。


「動機が不純だってのは言われなくても十分にわかってんだよ笑うな!」


ふむ、ボクが舌鼓打ってる間にやり取りがあったらしいね。ずずず。


「ふっく、わら、うなって方が、無理だ……っ。はあぁ…、狼狽えてるお前と、マイペースに食事を続ける対比が、っく…笑える」


おっと、ボクの所為でもありましたか。それは申し訳ないです。もぎゅもぎゅ。


「視界から外して笑いを治めろ。強制的に止めるぞこの野郎」


ふるふると拳を握って示すイルファがちょっぴり物騒。同じことを思ったのか笑いを治めようとしているディルと食事を続ける私。完全に我関せずな見物人です。


「ぁあ…ったく、予想外過ぎて参る」


「あーそーかよご機嫌麗しくてよかったなー」


作った笑顔の頬がひくついておりますよ保護者殿。もぎゅごくん。


「全くだ。そのままいい方向に作用してろよ騒音兵器」


はい?にやり笑いを向けられてそんなことをおっしゃられましても全然意味が分かりませんですよお師匠さん。たぶん大笑いし始めた原因の部分についてだとは思うが、肝心なところを把握してませんので答えようがないのですが。

困った挙句にこてんと首を傾げてわかりません表示を出すのだが、くつくつと笑んでいるだけでは困ります。


「その何処か抜けてるところが丁度いいんだろう。理解しなくていい」


これは貶されているのか喧嘩を売られているのかと通常なら悩むが、辛辣暴言が常のディルだと言われた言葉だけで判断できないっぽいんだよ。前後の会話とご機嫌状態の笑っている様子から察すると、ボクは特に何かしなくていい、そのままで十分ってことになって全然褒めてはいないが褒めている感じに取るべき、なのかな?つーかー技能もしくは空気は読まないが理解しているマリエルがこの場に欲しい。


「で、動機は不純だが食事に興味を持つ喜ばしい発言に偽りはないな」


普段笑わぬ御人に笑われまくってご機嫌斜めなイルファだけれど、食事に興味を持つ発言があったのでございますかお師匠さん。それはそれは大変よろしいことですね。どうにも長年悩まされていると思しき話を耳にしたばかりの身ですがご機嫌になるのもわかる気がしますよ。

笑われたイルファはご機嫌斜めですけれどね。ええ、大事なことなので二度言います。


「ない」


むっすーと不機嫌を隠さぬご様子ににやりと笑っているディルが段々悪どい感じに見えてきて、それはそれで面白いです。


「了解。流石に夕刻は俺も時間が取れないことが多いからしばらく朝通ってやる。別にマリエルみたいに調理が壊滅なわけじゃないんだから最低限の手順覚えればできるだろう。レシピは…俺よりもナヴァの方が多いだろうから伝えておく」


「……助かります、どうもありがとう」


さり気なく貶されているマリエルをスルーでとっても棒読み、表情だけだと不本意って書いてますよ保護者殿。興味って食べるのではなくて作る方だったんですね。

でもまあ、物体X作成スキルでもない限りは食べる方も味見とかしながらになるから付随するか。

それに、誰かと一緒に食べるって名目が付いていれば、それだけでご飯は美味しくなるんですよ不思議なことにね。ボクは美味しいご飯にありつけて万々歳です!やったね!


「さて、朝っぱらから面白おかしい話題提供してくれた騒音兵器に本日の予定を教えてやろう」


………そこでどうしてにっこりよろしくない系の笑顔を浮かべなさるかお師匠さん。本日の予定は知りたかったので嬉しいのですがその表情付きだと遠慮したくなります。

アレですか?ご機嫌麗しいから全力否定致しますがM属性かもしれないちびっ子をご褒美代わりにいじめてあげようか的S思考が働いてるんですか?それとも良いことあった分の取り立てですか?ここでそれなの?

でもって取り立てなさるのは貴方様ですかお師匠さん。その笑顔は不吉でしかありません。


「本日イルファは四大室には行かず現場へ直行。お前は俺に連れられて四大室行きだ。必然触ることになるが耐えろ」


…………………………ぱーどぅん?

身動ぎせず茫然と空色を見返すボクにご機嫌なお師匠さんはにっこりと笑ってくださった。


「多少の無茶なら利くんだ。取りあえず俺から慣れろビビり」


ぽてり、と捕まえようとしていた兎耳仕様の果実がお皿の上で倒れる音で再起動した我が脳は叫んだ。


おのれしわ寄せええぇえぇっ!!

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