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努力することもあります

「っ?!」


閉ざされていた瞼が微睡(まどろ)みを与えられることなくばちりと開かれた。

反射的に身を起こしていても不思議ではない急激な目覚めだというのに横になったままなのは、起こそうとしなかったのではなく、起こせなかったからだ。

身が竦んで、動けなかった。


ずしりと全身に圧し掛かり、地に額づくことを強制する何かに呼吸すらままならない。ひ、ひゅ、と上手く通らない空気が、歯の音が合わずにかちかちと鳴る音が、ひどく耳に障る。すぐにでも解消してしまいたい事柄だけれど、それ以上の音でガンガンと警鐘を打ち鳴らす本能に従い、体を丸めてしまう。

逃げることができないなら、動くことで注意を引いてしまうくらいなら、動くな。

体を小さくし、可能な限り身を隠せ。息を殺せ、音を立てるな。

その存在感を無に帰せ。私は――。


「高らかに舞い歌う大気の恩寵、穢れを弾き守護成す衣に宿れ」


ふわりと風が頬を撫で、不可視の圧力に押し潰されそうになっていた体から重みが消える。


「…っ、……ゅっ」


発声器官が機能する気がまだない故に音のない咳をしていると滲んだ視界に発色の見事な緑と青が映る。


「大丈夫、あれはリトネウィアに向けられたものじゃない。リトネウィアを傷つけようとしているものじゃない」


大丈夫、大丈夫と何度も繰り返すのは四大風天使マリエル・アスティータ・オルフィ。その言葉に応じるように春風を思い起こさせる風が髪や頬を緩く撫ぜ吹く。

穏やかな声音とやさしい風に怯えて縮こまり、小さく丸まって何かから必死で、それこそ己の存在を押し殺そうとするほどの恐怖からゆっくりと解放される。


「……~~っ」


「うん、恐かったね。苦しかったね。もう大丈夫だよ、ここには僕がいるからね」


死すら彷彿とさせる圧力から解放されてぐずぐずと鼻を鳴らし、込み上げてくるものを逃がそうとする。


「泣いても平気だよ。誰も責めないし怒らないよ。そんなお馬鹿さんがいたら僕が懲らしめてあげる。だから我慢しないで、リトネウィア」


宥めながら、けれど促そうとしてくれる声に、やさしさに、抵抗する。

マリエルが悪いわけではない。ただただ、私の愚かしさがそれを許せない。


「……ち、力不足が胸を抉るなぁ。怒る理由はわかり過ぎる程にわかったけれどその分配慮が甘かったよディル~」


明らかにどうしようと天を仰いだマリエルの言葉がちゃんと耳に届いたおかげで、受け流そう、逃そうとして上手くいかずに焦りを生み出していた意識が釣り針で引っかけられたかのようにひょいっと持ち上げられた。


ディル、と言いましたよね、いま。

配慮が甘いと、怒る理由とも。

ねえ、つまりはさあ…いまの死ぬ!と怯えてガクブル呼吸も奪うほどの恐ろしい圧力の発生源は、ディルだったって申しますのか?

いや確かに力ある天魔が感情的になれば周囲には恐ろしい影響を及ぼしますよ。

ほら、人間だって怒っている人がいる場所ってのは妙な緊張感が場に満ちていたりして誰が何を言わなくてもあ、何かやばい雰囲気なんてわかることがあるじゃないか。所謂空気を読む的な。それが天魔だとちょっとどころではなくなるだけだ。


いっそ物理的に効果を感じさせてくれてますよねと言わんばかりのどんなに空気が読めないKでYな奴でも一網打尽、漏れ零れる気配だけで召されます。

流石ですね高位天魔、人間世界の常識が大気圏突破に耐えきれず塵にもなれないほどのレベルで打ち上げされて滅殺されそうです。

恐らく並以下の胆力しか持たない相手であればあなた方に睨まれただけでぽっくり逝けるのでしょうそうに決まっていますそうじゃないと納得できんわ!

ひぃーん、恐かったですよぅ。


滲んだ涙を零さないよう意地になりながら、でも体の震えは簡単には治まってくれず、生まれたての小鹿ちゃん並みにぷるぷるとなっております。

そして床に両膝をついて視線の高さを合わせた位置からそんなボクを覗き込んでいるマリエルはというと、おろおろと落ち着きを失くしている。

いや、ひょっとしなくても元々あまり落ち着きはないのではないかな?

なんて本人に言えば失礼だと言われそうなことを考えられるくらいには余裕が戻ってきたようである。


「あぅあぅあぅ、むしろ僕が甘かったのかも。やってくる、なんて物騒極まりない発言をディルがした時点で守護をかけておけばこんな可哀相な目には合わなかったんじゃないかな。……あれ?僕、結構まずくない?」


うん。逆にマリエルの方に余裕がなくなっていこうとしている気がする。

つい先程の安心感を与えてくれるやさしくも凛とした表情が幻の如く消え、いまにも冷や汗を噴き出しそうなぎこちなく固まった半笑いが代わりにセットされている。大丈夫じゃないな。

近くに居る誰かが平静を失ったり慌てたりすると見ている方は逆に冷静になるって本当らしい。

ゆっくりと血の気を失っていくマリエルに反して、ボクの震えはゆっくりと治まっていく。

にぎ、にぎ、と手を動かしてちゃんと要求通りに動くことを確認すると、もぞもぞと蠢いて上半身を起こし、広げた視野でまずは確認作業から。


現在地、四大室の中にあります休憩室です。

お仕事に疲れた四大の皆々様が来客なんかがあってもゆっくり休める憩いの場で、ボクが暴走未遂を起こした現場ですね、はい。(くだん)のソファにあの時と同じようにイルファの上着を上掛け代わりにしておやすみなさいしておりましたのです。

はい、何故ですかって?

ちびっ子ってすぐに体力が尽きるんですよ。電池の切れた玩具、電源を落とされた電気製品みたく一気にぱたーんと。お陰様で凄まじい眠気に襲われまして眠りに落ちる直前の記憶がひどく曖昧です。

何もやらかしていないことを祈る。

はい、何やってそんなことにと申しますと、


ディル先生による私の為のちょっと自力でできることを増やしましょう講座


どんどんぱふ~。

とかふざけないとしょっぱいお水が目から溢れちゃいそうな教育と名をつければどうにかなりそうに聞こえる御指導だこなちきしょい。

はい、ではこちらがその御指導の回想になります。






「まずは…そうだな、ソファから降りることは可能か?」


優雅なティータイムはあっさりと終わりを告げるんですね。

しかしながらボクのカップの中身が空になるまで待ってくれていたところに出会って三日ですがあなたらしいと思えるようになりましたよディル。


さて現在の己が状態はソファの上、背凭れに体を預けて両足は真っ直ぐに伸ばされているL字型。

補足すると下半身はイルファの上着で覆われていて、一度も床を踏みしめたことのないピカピカの靴を履いた足も一緒に収納されている。

真っ直ぐに伸びている足は完全にソファの上に乗っており、ソファの縁から足を出すには一度体を前に出す必要がある。…念のため言っておくが、ボクの足が短いわけでは決してない。

様々な生活用品が揃いも揃ってモデル顔負けの素晴らしい体型の皆々様方に合わせて作られているらしく、どれもこれも高さと長さと広さがおちびのボクには全て大きいのだからこの状況になるのは必然であり仕方のないことだ。

まあいい。とにかくこのソファから降りることだが、当然不可能ではない。

ただし、時間がかかる事だけは断言するぞ。何せ作業工程が多いのだから。


まずは動くことの邪魔になるイルファの上着を一時撤去。

頭の重い幼児体型なので座っている状態のままでソファから降りようとすればバランスを崩して恐らく落下する。その際に落下地点にあるテーブルで頭を強打する未来は予想ではなく確定だろう。

なので一度ソファの上で方向転換を行う。

ソファに俯せる形を取って、見た目は少々悪いが這いずりながら足をソファから出し、急激に落ちてしまわないよう注意しつつソファにへばりついて、足が床に到着するまで上体を衣服の摩擦力と上半身の重み、なけなしの腕力で支える。

床に足が付けば掴まり立ちに移行して、ソファから降りるとミッションクリアかな。


「…」


足組み頬杖姿勢で視線を近い位置に合わせてくれているディルと己の足、ソファの縁と足までの間をじっくりと見てシミュレーションをしていたボクは、ふむっと気合を入れつつ首肯を返す。

はいではなくて、やってみますなのは伝わっているのだろうか?


「ん。急ぐ必要性は皆無だ。ゆっくりやれ」


小さく頷きながら返してくれたディルの反応は伝わっていると思う方向で勝手に解釈。

おす、頑張ってみるっす。


「もしも危ないと思ったらこっちを見ろ。無理だと思った時には止める」


基本無表情と言われていたが、そうじゃないよね。たぶん表情を読み取り辛いだけなんだと思う。

別にボクはわかるよなんて言うわけじゃないが、それでも真っ直ぐに見てくれる空色とちゃんと見ててやるからと告げてくれていることでディルの人となりが垣間見れる気がしないかい?

助けを求めたら助けてくれて、見てて危険だと判断したら止めてくれるって言うのだから、大船に乗ったつもりでいきましょうか。

女は度胸です!愛嬌?そんなものは私に備わってない。他をあたれ。

では、レッツゴーなのです。


まずはイルファの上着ですね。薄い水色の上着は柔らかくもしっかりした手触りだが、重いとは思わない不思議素材。自分の着せてもらっている衣服もそうだが生地の素材を知りたい。いま聞いてもわからない気はするが。

イルファが着るとやや短い丈の上着でもおちびのボクには上掛けにできる大きさなので手元に手繰り寄せるだけでもなかなかの労働にござる。

はふと息を吐き、膝上に布地を集めきると一先ず自分の隣に落とす。

できることならば畳みたい。皺にならないように置いておきたい。でも広げて畳んでは膝立ち状態で自由にソファの上を移動できなければ難しい。

その為現時点では諦める。すまないイルファの上着よ、皺にならずに耐えてくれ。


では気を取り直して次だ。お座り状態からの方向転換。

ソファにしっかりと背をつけて座っている状態なので、まずはソファへ横になる必要がある、のだが…。

この腕で体重を支えながら横になるのか…この貧弱な腕で。


「……」


ちらりと空いている隣のスペースを見て、ボクは態と体重を片側へとかけてバランスを崩し、自主的に横へと倒れることを選ぶ。…自力で横になるのが面倒だったとか考えてない。


「「っ」」


ぽふ、とほとんど衝撃を感じさせずに横倒しになれた体で俯せになろうとしているボクの行動に、様子を見守っている四大三名がぎょっとなったのなんて知らないし興味もなかった。

何事もない顔で転がって、予定通りにもぞもぞと蠢いて足をソファから空中へと移動させております。

よいしょ、うんしょ、なんて心の中で掛け声を発しながらもぞついて、すかっと足先が空中を蹴ったので念のため首の角度を変えて足元側を確認。

テーブルに近い位置でひょこひょことボクの命令に応じて動く靴を履いた足先が見えたので、そのまま後方へと匍匐前進…いや、匍匐後進?効果音はずりずりずりり。

うん。それっぽい雰囲気演出すればホラー映画のワンシーンで使えそうな音ですね。


はいはい、ふざけてないで頑張りませんと床へ向けて下半身を動かしているので油断すると床にお尻から墜落して後頭部をテーブルの縁に強打します。

間違いなく悶絶、下手すればぽっくりな危険性を孕んだ工程なのですから真面目にやりましょう。

絵面は非常に地味ですがそこはもう少々お付き合い願いたく。

わっせ、ほいせ、うんこらしょい。

はいそこ、変な掛け声とか突っ込みいらん。


現在下半身はソファの側面に沿っている状態なのだが、恐らくこのソファの高さ、ボクの身長と大差ないと思われるのですよね。

そうなると一時的に腕力と握力によって全体重を支える必要性が出てくるのだが、箸すら持ったことがないなんて笑いすら引っ込みそうな使用頻度しかない貧弱な手と腕で、短時間限定とはいえ全体重を支えきれるわけないですよね~。

なのでちょっと乱暴というか雑なやり方…って、俯せになる時すでに頭の重みで自由落下なんて横着をしたから今更か。

そんなわけで足の裏が無事床についてくれることを祈って、半自由落下を開始したいと思います。いえー。

大丈夫だ。危ないときは止めてくれるって言った。他人任せな身の安全万歳。

はい、ということなのでいってみよう。

よいしょと腰の位置をソファ側面側へと落し、本来なら上半身と腕で落下しないように支えるところをソファから離れてしまわない程度の力しか残さず、ずるりと落下~。


「「!」」


なんか横と後方で反応があったっぽいが生憎わたくしの顔は現在ソファにべったりと張り付いておりますので視界零よ。そしてぐきっなんて足首を挫くことなく無事に床へと足先が接触した瞬間、反射なのだろうね上半身に力込めてちゃんとブレーキかけましたよって。

なので、完成したのはソファの側面にべったりと張り付いているというか、走ってきてソファに激突して停止したガキんちょの図?


「……」


周囲にどう映っているかなんて当の本人には全く関係ないのでわたくしはマイペースにぺちぺちと足元の床を踏んで今世初の感触を確認しております。

ふおぉ~、リトネウィアが立ってますよ保護者殿。

ソファにへばりついている滑稽な掴まり立ちというか張り付き立ちですが自力で立っておりますぞ!

はい、見てわかります通りちょっと興奮しております。

ぺちぺちと足踏みして感じる床の感触に地味にご満悦なのです。現在我が頭上には間違いなく音符が躍っておりましょう。音が出ているなら、ふふふ~んなんて微妙な音がしていたかもしれません。

むふんっと張りついていたソファから顔を剥がして持ち上げた時、きょとんとこちらを見ている空色とぶつかってどや顔を晒したことをここに報告します。


「……っぷ」


基本無表情が口元をぱしりと押さえて噴き出したことも併せてご報告致しますのでカメラください。

体を横向きにしてボクを正面から見ていたことが判明したディルは、現在ソファの背凭れ部分に体の側面を押し付けてくつくつと笑っていらっしゃる。


「……」


何がそんなに受けた?私は何かしたのか?どや顔か?どや顔がいかんのか?

基本無表情の情報を疑いたくなってきたディルの笑う原因が恐らくというか間違いなく自分なのはわかっても、そもそも何が原因なのかがわからないのだから首を捻る以外にない。

疑問を解消するには声がなく、また目は口ほどにと言われたが笑いを収めようとしていらっしゃるディルと目が合う様子もいまのところない。どうしていいのか困ります。

実は後方からも似たり寄ったりなくすくす音が先刻から聞こえておりまして、マリエルとカラリナも笑っていると見なくてもわかりますのですよ。

揃いも揃って何を笑とんねん。せめて説明しろや。除け者反対。まっぜろ、まっぜろって違うだろう自分。

落ち着けおかしな興奮状態。

原因さて置き、囁きの如く小さいとはいえ楽しそうなお声たちが聞こえる中に一人だけ取り残されている現状は、大変面白くない。


「……」


むすーっと頬でも膨らませたろか。中身的には年甲斐もなくだが見た目には年齢相応だから大丈夫な行動だぞ。

というかソファから降りるミッションはコンプリートですのでこの後どうしていいのか示してくだされディルさんや。

じぃーーーっと見つめると書いて半分以上睨むと読む視線に気付いたのか、楽しげに緩まっているディルの目がボクを捉えてくれた。


「ぁあ、悪い。気になるところはあるが、ちゃんと立ってるな」


あ、やっぱり色々とあかんでしたか。そりゃそうですよね、客観的に見れば危なっかしいの一言だろうから。

反省なんてしませんよ。自他の命に危機ない事柄についてのやらかしちゃったは自己責任なので成功したならそれで良し。良い子は絶対真似しちゃいけないぞ。碌な精神育たない。実例があるのでわかりやすいね。

どんまいっ自分!


「そのままあの端まで行けるか?」


脳内自分言い訳をしていたところに次のミッションを放り込まれましたので確認を行いたいと思います。

長くお綺麗な指先で示されるのは自分が座っているのとは逆側のソファの端。

ボクの現在地はソファ中央、ここから端までは凡その目算大人の歩幅で二から三歩といったところか。

かなりゆったりと一人分の位置を取って考えると、このソファは五から六人掛けなので少なくとも二席分は歩かなければ端には到達できない。

そしてこちらのソファ、肘かけ部分がないので端っこはすとんと崖仕様となっております。そのため端っこだけが一段高いので背伸びでもして頑張って掴まれとはならない様子。なので示されている端、最後は直角に曲がってねも何とかなりそうである。

確認を終えてからやってみます首肯を返し、ふんっと気合充填。

では、第二戦と参りましょうか。掴まり歩き、レッツゴーなのです。


てち……うごうご、てち……うごうご、てち。


何だその効果音とお思いの皆々様に実況を致しますと、一歩横に足を踏み出しますとバランスを取るための体重移動が必要になります。二足歩行をとうの昔にマスターされました皆様方には遥か遠い記憶になりますでしょうが、幼児体型は本当に頭が重いのです。さらに全身どこもかしこも柔らかくできており「筋肉?何それ、おいしいの?」状態。

幸い首はちゃんとお座りできていますが、地面と垂直の角度から少しでも傾くと重みを支える筋力のない体は、バランスをあっという間に失ってバタリ、です。

ですので一歩動くことでずれる重心を慎重に調整してから次の動作に移る必要があり、ひっじょーに時間と手間がかかることこの上ないのでございますよ。

おまけに関節部分もまだしっかりと固定されていないのかぐにゃっとした不安定さ加減。正直踏み込むの恐いです。

ほら、足が痺れて動けない時ありますでしょう?それの痺れてビリビリとはなっていないけれど感覚がない状態を御想像あれ。歩こうとすると何処に体重を乗せていいのか下手すると捻挫しそうなあの状態。

この体は今現在それが通常の状態なんですよ。我が体なのに壊しそうで怖い。


当たり前の動作が上手くいかないもどかしさにすこぶる苛つきますが、焦ればぐきっでゴンッな未来なので、そんな愚行を犯したくない私は慎重に慎重を期すのですよ。

はい?体の性能上多少の失敗は付き物さ?

それでは外見幼児、中身は四捨五入三十路女が、初めてのあんよで失敗してぴぎゃーと本物の幼児よろしく泣き叫ぶ光景をご覧になりたいのか?ん?

私は御免だぞ。例え中身が前世を引きずって成人しているとはいえ、肉体は間違いなく幼児。肉体に精神が引っ張られる幼児返りなんてものが起こらないと言い切れない。…食事風景然り、運ばれることに何ら抵抗を持っていないこと然りだ。

そういった色々と込み入った事情から亀、蝸牛となら勝負になるかもしれないのろのろとした歩みは仕方のないこととなるわけだ。御理解頂けただろうか。


しっかし、本当に苛々する。

足を踏み出したらバランスを取り直し、進んだ分だけ体を支えている手も同じだけ伸ばし、動いた分だけまたバランス調整。開いた体を今度は閉じるために残した足を引き寄せてバランスを取り、同じく残した手を引き寄せてバランスを取る。

一歩進むためにこれだけの工程を要し、繰り返しを余儀なくされる。ものすごーく苛々する。

いまなら当然な顔して歩いている万物の生物に一人あたり六発プラス一発のセミオートマチック仕様で次々と弾倉交換を繰り返しながら呪いを吐き連ねることができる気がする。涼しい顔して歩いている奴全てが妬ましい。滅びろ。


「………何だろう、一所懸命に歩行練習してる姿にハラハラドキドキじゃなくてちょっと禍々しい何かを感じるなんて、僕おかしいのかな?」


おっと、マリエルに気が付かれた。禍々しい判定はいかん、自重自重。


「間違えてないと思いますよ。何処からどう見ても物凄く苛々しながら歩いてますからね」


カラリナから苛々断定されました。駄々漏れですね自分。


「まあ、それでも慎重に事を運んで課題をクリアしようとする気概は褒めるに値するところでしょう。頑張ってくださいね~おちびさん」


妙な応援までついてきた。え、何?ちょっと恐いんですけれど。


「黙って見ていられないなら働けへたれ共。邪魔だ」


とか思ってたら良くわからないけれど辛辣なお言葉がディルから発せられてますがコレをどう解釈するべきなのか。無難なのは聞かなかったことにしてスルーですよね。事勿れ主義万歳。

正直自分に関する発言があると気になって気が散ります故、黙れ発言は不遜という言葉を葬り去った上で歓迎致しますが、気になるのはへたれの単語。

何処から出て来たその要素。私が知らない二人の一面的なものなのか?


「っ!」


ととと、あっぶな。足首ぐにょっと感で踏み込みし損ねるところだった。

一旦停止して、ぺちぺち足踏み。うん、別に痛みはなく捻りも挫きもしてないようなので大丈夫だろう。

注意力散漫はいけませんとの何かからのお達しと捉えて参りましょう。再開!


てち……うごうご、てち……うごうご、てち。


「「すみません」」


ん?ハモり謝罪にフンッと鼻息返事が聞こえた気がするが、気にしてはいけません。

二度同じこと繰り返したら駄目ですよね、と。


てち……うごうご、てち。


「……」


さて、ようやく角だ。ソファ自体の角は丸くなっているが、角度は直角九十度、と。

蝉よろしく角に張り付いてもいいが見た目が残念にも程があるし、何より掴まり立ち及び歩きを平然とクリアできなきゃ歩くなんて夢のまた夢ですよね。

正直さっさと歩けるようになりたいです。それこそいますぐにでも。

イルファが運んでくれるのを当然みたいに受け入れている現在の心境を早急に改善したいという理由と、他にもあるんですが…それはまあ置いておきましょう。


取りあえず、可能な範囲での無茶から始めよう。

大丈夫だ。できないことをできると過信して無茶をするほど愚かなつもりはないし、今回に至っては危ない判断を下されたら恐らく問答無用で停止をかけられると思われるストッパー付き。

試すのにここまで御誂え向きの状況もないだろう?

だから、安全策の張り付いて角曲りではなく、腕を伸ばしてソファと自分の間に空間を作り、ソファについた手を支点にコンパスの如く円形に足を運び、作った空間で角をやり過ごしましょう。

先刻は半自由落下を選択して楽をさせたが、今度はちゃんと体重を支える大役を担って頂こう。

頑張れ、我が貧弱な腕及び手。此度の作戦成功はキミたちの物理的な力にかかっている。

むふん、と息をして突撃!……とか言いながら変わらぬ亀具合ですが。

ぺちんとソファの角部分に両手を置き、掌全体で沈み込む部分をにぎゅっと掴む。

それから腕を伸ばす為に横ではなく後ろへと足を下げ、距離を確保できたら開いた距離を狭めないよう気をつけ、弧を描く位置に足をちまちまと動かしていく。


「…、…」


慎重に、慎重に。力の入った腕がぷるぷるして、足を床から持ち上げる度にゆらゆらと体の重心がぶれるのに、ふんにゅー!と奇怪な掛け声をかけて己に気合を追加する。

ほら、こういうのって気合と根性が最後は必要になる部類でしょう?

実はそういうのは得意な方です。勢いって大事ですよね。


とかなんとかしているうちに体が最もソファから離れる角の頂点に到達しましたぞ。

その姿は格好良く言えば、剣を大地に突き刺し、柄に両手を乗せ立つ騎士。身も蓋もなく適切な表現をするならば、ギャグ漫画とかで見る足腰立たないよぼでしわなおじいちゃんおばあちゃんが両手で持った杖を支えに仁王立ち、しかしぷるぷる震えている。

落差がすごいって?ふっ、現実なんて所詮はそんなものだろう。

というか、頑張れ!転ぶな!と思いながら見守るちびっ子の必死の格闘がそんな格好良い見た目な訳ないでしょうに。

そもそも何かに必死な姿ってのは基本的に見栄えがいい訳じゃないですからね。格好良く見えるのは姿よりもその内側から溢れ出てる気迫とかの作用でしょう。

何が何でもやってやる的な食らいつき精神が人の目を奪い、時としてその在り様を崇高なものだと思う。

そういうこと。

とかなんとかそれっぽく言っておきながらバッサリ切って捨ててしまえば、見ている側の好意フィルターにより生じるキラキラ性能でのきゃーかっこいい。ただの勘違いとかでも可。


ああ、枯れてるとかほざいた奴、二、三日中にいいことあると思いますよ。

喉が渇いて自販機前に立ったのにお金が十円足りないとか、公共交通機関の発車時間に間に合ったと思ったらあり得ないほどの超満員で乗れなかったとか、避けたと思ったはずの机の角に腰骨強打とか、筆記テスト当日持参したシャープペンが見た目同じの実はボールペンとか。

人様のことを悪し様に言う時にはそれ相応に還るものがあると思え。

それを受け入れられないならば思ったとしても口にするな。言わなければ無かったことにできなくもない。

尤も、断言はできないがな。


さて、脱線したが現実に戻るとしよう。

一番の難所である角をぷるぷるしながら攻略したボクは、そのままの勢いで横移動を繰り返した。

てち……うごうご、てち、と。

そうしてついにソファの端に立った私は…。


「…っ…」


むふん!と胸を張りました。やりましたぞ保護者殿ーーっ!ってな具合で。

ちょっぴり汗ばんで熱を帯びた体の周囲にひんやりとした空気が流れて行くのを感じてどや顔をきょとんにしばし変更しましたが、達成感で興奮状態のボクは大して気に留めずにふふふ~んとご機嫌である。

音がないので鼻歌も呼吸音のみとがっかり音だが、いまはよしとしましょう。ご機嫌ですから。


「ふふっご機嫌だね、リトネウィア。加護精が一緒に喜んでるよ」


微笑ましいと表情と声で分かり易く表されているマリエルが疑問の答えを出してくれたのだが、当然聞いちゃいない。


「クールダウンできていいかもしれませんが、ちょっと多い気が……」


ボクの周囲でくるくると流れているひんやり空気だが、わかる者には浮かれているボクに同調した加護精がきゃっきゃと周囲を飛び回っていると認識されているらしい。生憎本人はこれっぽっちも気付いてない。


「水属性一点特化、それも計測不能域だ。イルファの話じゃ涙にも水精霊が寄って来るらしいぞ。制御が効かないのに集まられちゃ堪ったもんじゃないな」


カラリナはやや困り顔になっただけだったが、ディルははっきり不快だと示してくれていた。


「―」


そして真正面側に位置したこと、距離が開いたことによって視野が広がりディルの全身が視界に入るようになったことで、ボクは眉間に皺をお寄せになった瞬間を目撃してしまった。

浮かれた気分なんてその一瞬でかっ飛びました。血の気と共に。ひょこひょこと意味なく揺らしていた体もびしりと固まりましたよ。


「あ、止まった」

「止まりましたね」


え?何が?ボクの動作のことか?止まりますし止めますよ、そりゃ。

マリエルとカラリナの短い発言に意識が一瞬逃げたが、視線はディルの眉間に発生してしまった迫力と凄みをたった一本で生み出す驚異の線に釘づけ。

ああああどうしよう、とか内心泡食ってましたら眉間に皺は変わりないのだが、そこに込められた意味合いが不快から不可解に変わったように見受けられる。

何故に?何かありましたか?何かしましたか?それとも何かやらかしましたか!?

無言の視線が痛いですっ。あ、ふぅっていまのは溜息じゃないですよね?


「……ころころころころ感情が流れていって追いきれない」


…目頭押さえて長めの息を吐かれたので、察します。目は口ほどに、ですね。

眉間に皺は寄ってましたが真っ直ぐにこちらを見てくださっていらっしゃいましたので駄々漏れと評価されましたものを読んでくださっていたのですね。それはすみませんでした。

ころころなんて可愛い表現をして頂いておいてなんですが、濁点が必要だと思います。二転三転どころじゃなくて結構な角度の坂道をローリングでしょうから。本当に申し訳ない。


「まあいい」


目頭を押さえていた手を外すと、眉間の皺を撤収してくださったディルが基本の表情でボクを見た。


「何もできない状態から考えれば褒めるに値する速度だろう。多少なら浮かれても目をつぶってやる。限度を超えるなら止めるだけだ」


うん。開いていた手がきゅってな感じで握られたように見えた気がしたけれど気の所為だと思う。

ボクは何も見てないしそこから考えられるであろう正直楽しいものが想像できない予想なんてしていない。

する気もない。考えてもいけない。心の平穏、これ大事。


「あっさり散ったからいいだろう」


何が?!不穏な想像が掻き立てられて前言撤回して色々考えちゃいそうなんですけれどボク嫌です!

想像で痛恐いとか損一択じゃないか!


「支えはいるが直立姿勢を維持できる、か。周りを気にしないマイペースなところもプラスに働いてるな」


いま聞こえた一言を私はそのまま貴方様にお返しできると思いますよ、ディル。

マイペースってのは視線はボクに向けていても己の思考に入っている為、視界には入れているけれど実は見ていないいまのキミの状態ですよね。自分がそうだからわかりますよその状況。

しかも視界からの情報も耳からの情報も完全にシャットアウトしているわけじゃないから気になる物事が発生すればちゃんと反応するんですよ。知らない人には怪訝な顔される技能ですよね、それ。

あー、なるほろ。無意識に周辺情報を拾い上げてるから“何か”に気が付くのが早いんだこの御人。

でもって気が付いたら無視はできない性格だから気配り屋さんで気遣い屋さんなんだよ。

何というか、苦労性気質?一癖も二癖もある面々の中でその性質は難儀だと思われるのだが、逆にこういう人がいないと円滑に回らないのか。おお、大変な立ち位置っぽいですね。

うん?何か重大なことに気が付いていない気がしますが…まあいいでしょう。


「騒音兵器」


はいはい、お呼びでございますね何でしょう。


「手を放して姿勢維持」


短く端的な次のミッションに瞬く暇も、


「三、二、一」


くれない強制カウントダウン。


「っ」


あまりに急で混乱しながらも反射的に両手を挙げた現在のボクの姿はホールドアップ、の一言で想像つくかと。

心当たりなんてまるきりないのにいきなり警察に両手を挙げろと指示されて戸惑いながらも直立不動、そんな状態。だけど完全な姿勢維持は大人でも不可能に近いことで、ふらふらと何処からともなくバランスが崩れていく。


「…、……っ」


揺れる体を支えようと足元に力を入れて、幼児の柔らかすぎる体だったと思い出しても時すでに遅し、支えるどころか逆にくにゃりとぶれた足元に静かに悲鳴を上げた。ひぃっと。

普通の幼児ならばそのまま転んでぴぎゃーだろうが、生憎普通と違いましてね、わたくし。

こけるなんて情けなくかつ痛い未来なんて回避するに決まってんだろう!


幸い動かした瞬間重心が嫌でも傾く頭はソファから手を放した瞬間から前後左右のどの方向にも傾けないよう最も気を張った部位なので問題ない位置にある。

揺らいだのは足元だ。座ることで上半身を支えることはあったが、立つという動作がなかった足はいま初めて筋肉酷使されている為に耐久値も性能も恐らく断トツに低い。掴まり歩きが成功した時点で拍手喝采して足の筋肉を褒め殺ししていいほどだと思う。

だが、現在ディルが要求しているのはそれを超えた完全自力の直立姿勢維持。

そして私が己の苛々解消の為に求めているのはそれをも超えた二足歩行。

基本的には運動なんてしたくないと引き籠りがちな文系思考だが、そこそこの運動能力があった所為か時折顔を出す体育会系思考。ついでに妙な矜持。


「っ!」


柔らかい関節によってもたらされたぶれを一度足を持ち上げ、崩れたバランス方向と逆方向に突っ張るようにして踏み締め直す。いくら柔らかい体と間接部位でも、人体の構造上これ以上は無理って角度があるのだから言うことを利かせられないわけはない。推奨はしないがな。あくまで緊急回避だもの。

崩れたバランスに停止をかけることに成功すれば、即座に直立を保てる位置に重心を修正しなくてはならないのだから、次に行う必要があるのは細かな微調整。

てち、てち、てちてち、と治まりのいい位置を探りながら足踏みを繰り返す。

初期位置からだいぶ移動してしまっているが、指定されたミッションは掴まり立ちの状態から「手を放して姿勢維持」だ。動くな、ではないので問題ない。

なので思う存分酔っ払いの千鳥足に見えるであろう足踏み動作を繰り返す。

直立不動をいますぐには無理だが、多少ふらふらしても自力で立っているくらいならどうにかできると思うんだよ。だから、うぐとか、ふぎぎとか聞こえないから誰も突っ込めない奇声を体内に響かせ奮闘なう。

余裕なんて何処にもなくそれどころではない私は、そんな私を見て「え?」といった表情でハラハラしている四大がいることに気が付くわけもない。


て、ててち、てち、てちち、とんっ。………とん?


必死のバランス取りが唐突に終了した。

つぅと額から頬を汗が伝い落ちていくほどの孤軍奮闘ぶりを止めたのは、壁だ。

熱いとすら思う程火照った体にひんやりと心地いい温度を与えてくれるのは、背中からぶつかった、壁。


「…?」


何で壁?と背中が壁へ張り付いたことで姿勢維持に成功している体に休憩を与えながら視線を前に向ければ、………随分と遠い位置にソファが見えました。

それなりに広い四大室の中央部分に設置されているテーブルとソファが、壁に背をつけているボクから遠いのは当然の話だ。だって部屋の中央と部屋の外周、どんな室内でも大なり小なり距離があるのが当たり前の両者なのだから近い訳がない。

さて、問題なのはどうして私がそんな位置にいるのかというところなんですよ。

体勢を整えようとして千鳥足状態であっちへふらふら~、こっちにもふらふら~としてたのは自覚ありますが、何処をどう動いていたなんていうのは把握できていない。頭にあったのは、

転ぶな痛い!

この一文のみ。何処の標語だ。

しかし、前方に初期位置であるソファがあるということは、だ。


「器用に後退したな」


うわっはいぃっ!!

ビクンッと思い切り心臓も体も飛び跳ねた。うぉわ…心臓が爆音状態ですよ。

頭上から降ってきたお声に典型的な驚き表現を体現したボクがそろそろと視線を上に持ち上げてどちら様かと確認を致しましたところ、お声からわかった通りの御人でございました。

ほぉ、なんてちょっと感心するように見える表情は、口角がやや持ち上げられている基本外。

ディルさんや、いつの間にそんなお近くへ?つい先程までソファに座っていらっしゃいましたでしょうに。

あ~でもちょっと待って、さっきソファ見た時すでにいなかったよこの御人。…速いっすね。


「姿勢維持より面白かったぞ」


面白かったんですかそーですかだからちょっとばかり口角が上向きなんですか。

姿勢維持はできてないのですが面白い評価を頂けたということはミッションクリアくらいには思ってもいいのでしょうか?

はふ、はふとやや乱れている呼吸を整えながら見上げているディルがくれたのは、姿勢維持のミッションクリア判定ではなかった。


「次は元の位置に戻るか」


さらっと次のミッション投下。それもちょっと待ってと縋りたくなる発言だった。

無意識に心情が漏れたのか、それともこちらを見る空色で読み解いたのか。


「後退できたのなら前進もできるだろう」


どうして貴方様はそういう方面でならスマイルしちゃうんでしょうかと物申しつつ返品願います。

なんて固まって現実から逃避したのも駄々漏れだったんでしょうかねぇ。


「やれ」


たった二文字の短すぎる言葉の強制力と圧力が脊髄反射という単語を思い出させてくださいましたよ。

辛い時でも失敗した時でも困った時でもどうしてか浮かんでしまう表情を張り付けて、世界に誇るサービス業大国を前世の生国に持った私は心の中で震えながら答えた。

「はい、喜んで!」と。

笑顔って多種多様な精神状態で使える便利な表情ツールですよね。






はい、しょっぱい回想をここで終了とさせて頂きます。これ以上はいけません。

今現在がしょっぱくなるのは勘弁願いたいのです。

意図せぬ後退ができたからって前進ができるわけないじゃんとか言えないお口でよかった。目は口ほどにの駄々漏れ具合で読み取りが難しいらしくて本当によかった。じゃなかったら流石にどつかれてると思うんですよね、間違いなく。

確かにさっさと歩けるようになりたいと思いましたけれど、ボクが思ったのは無理のない範囲での無茶であって、あんな短時間で二足歩行どころか走れるようになれレベルの無茶と違うからな!

悪魔だよ本当にっ、とか心の中で叫んで、何当然のこと言ってんだよこの御人(ディル)は悪魔だよ!とセルフ突っ込みいれたあの虚しさったらない。


そして気が付いたら寝落ちですね。はい。見事に記憶にございません。

要するにそれほどの疲労度だったってことですね。ご愁傷様でした、私。

しかし、昼寝ってRPGゲーム的な回復要素でもあるんでございますかね?それとも若さの特権、回復が早いね効果なのか。もう無理疲れた状態からHPフルな元気具合に戻っておるのですが気の所為なのでしょうか。

そんなに長い時間眠っていたわけではないと思われるのでその要素を疑っているのですが、疲労が残っていないならありがたいので別に何でもいいです。…目覚めがだいぶアレでしたけど。


「…」


ところで、個人的にはそろそろ適切な距離よりやや近く寄りにいる緑髪の風天使殿に突っ込みを入れたいところなのですよね。さっきから「うぅー」、「ああぁー」とか百面相…ではなく悲哀や嘆きのがっくり系表情を浮かべては唸り続けていて、かなり危ない見た目だ。

また誰かと心声でもしているのか?

と、そういえばここに居るのはマリエルだけでディルとカラリナがいない。執務室の方に誰かいるっぽい感じがするので恐らくそっちなんだろうな。

ということは、あのおっそろしい圧力は隣の部屋からのものだったということになる。

ふはは、同じ室内だったらどうなっていたのか想像したくないですね。


あ、今日気が付いたのですが、ボクにも気配を読む、という心躍り興奮のあまり頭から湯気が出そうな技能が備わっていることに気が付きました。狭い範囲かつぼんやーりとしているのですがね。

いまみたいに隣の部屋に何かいるっぽいとわかるだけ。精度を上げれば何処にいて何をしているとか、誰だとか特定もできるんだろう。能力向上の鍛える方法を知りたいところです。嬉々として鍛えますよって。


基本的に天魔の身体能力は人間と比べると、はっなんて鼻で笑ってあげたくなるほど差があるハイスペック仕様なのですよ。個々の差で当然上限はありますが、鍛えた分、限界まではきっちり答えてくれるお返事機能付きとかゲーム好きの脳みそには堪らない。レベルアップ音は流石に聞こえないだろうがその程度想像でカバーできる!なめんな無駄な脳みそ使用領域!

…違う、非常に楽しい方向の話だがいま考えなきゃいけないことはそういうことじゃない。


楽しいことではないバリエーションの表情と唸り声を発している事情を知らなければ「ママーあの人何してるの?見ちゃいけません!」なやり取りを向けられるであろう様子のマリエルを放置して、お隣の執務室のことを考えるべきなのです。

はい、何故ですかって?

基本無表情、言葉は辛辣、態度はドライで時折ファイアが、そのニュアンスをまだ理解できていないのにファイアってるからですよ。

細かいニュアンスはさて置き、ファイアの表現は怒ることで間違ってないはずだ。

ほら、雰囲気的に普段物事に無関心でクールな印象の人物が突然怒って噴火する感じ。

最初に聞いた時になんとなーく想像されたのがこれなんですよ実は。

尤も、言葉の印象だけでディルの印象には全くと言っていいほどに重ならないのはすでに理解している。

あの御人別に物事に無関心でもクールでも何でもないし、何より不機嫌のメーターが動くのとっても速いですから。目の笑わない口角スマイルはもういらないです。ガタガタぶるぶる。


ああはいそうじゃなくてですね、問題なのは何に対して怒っているのか、だ。

悲しいかな生まれて三日でそれなりの回数ディルの不機嫌を見ているので、表面程度のうっすーーいところでしょうけれど怒り方が違うなと思ったんですよね。

何かに押し潰されて息ができなくなったアレは、恐らく殺気だ。

また前世からの漫画や小説知識ですか、と思うことも否定はしない。圧倒的な力の差がある相手からの威圧でよくある表現だもの。そういえばこんな表現あったよね、そっかこれか~な納得も確かにあるのだから。

でも、そんな言葉と記憶が出て来るより、何よりも早く浮かんだ一言が決め手だ。


死にたくない。


これだけで十分だと思わない?最速で出て来たこの言葉だけで。少なくとも私にとっては納得できるものだった。

で、だ。殺気を放つほどなんて思わないが、少なくとも背景ブリザードで怒ることはするんだろうなと思われている相手に一人心当たりがあるんです。

馬鹿発言に舌打ち、妄想脳による疑似極寒。はい、もう皆様おわかりかと思います。

我が保護者殿、四大火天使イルファ・ソル・フライトシェネレスにございます。

自分一人では何もできない無能っぷりが判明した直後のディルのお怒りは、逃走手段があったら早々に逃げの一手を打っているところ。ただ、逃げるわけにはいかないと思うのが、そのお怒りの原因だ。

怒っているところっておとなしく座っていることしかできないなんていうお人形さんか置物扱いできそうなボクの残念具合だと思うのです。


天魔の身体能力なら誕生初日、は流石にお疲れかもしれないが、おちびな体に見合う小さめな翼でちぱちぱパタパタとぎこちないながらも飛び回っていておかしくないのだ。誕生から三日ともなれば家の中を低空飛行で飛んで回るくらいはわけないだろう。

なのに、同じ日数経過してもボクにできるのはおとなしく座っていることだけ。

体が世界に馴染むまで常時翼が出っ放しの一般的な天魔の子と違い、一見すると人間の幼児に見えるボクとじゃ状況が違うとはいえ、例えその差を鑑みても本来持つ身体能力を考えれば突っ込みが入るでしょう。

乳幼児の○ヶ月健診とかで連れてこられた赤子が平均体重より丸々と肥え太っていたら健診先の方々に、

「お母様、一体何していらっしゃいましたか?」

と笑顔の詰問頂けるくらいには。

いまのイルファに適用されているのは恐らくこの状況だろう。飛ぶことができない状態ではあるが、他にもできることはたくさんあるはずだと。


ところが何度も繰り返して非常に切なくなるが、私なぁんにもできない子でした。

その目に余る私の残念状態が、保護者の怠慢だと思われているのだと思ったから殺気に中てられて縮み上がっていた身に特大級の鞭を打っているわけなのだ。

だって、もしもボクの予想通りにあの思い出すだけで震えが走る殺気がイルファに向けられていたのだとすれば、ボクは弁明をしなくてはいけない。

イルファが私を甘やかしてくれたのは事実だ。自ら動かなくてもいい程に甘やかしたそれは確かに問題ありだ。先程例えたように成長ではなくて肥え太らせただけの残念なお母様状態なのは、否定できない事実。


だけど、物事は与える側だけでは成り立たない。与えるイルファには、与えられる私が存在しなくては成り立たないのだ。需要と供給の関係は互いにあってこそ成り立つもの。逆に言えば、与えられるものを甘受する私の存在がなければ与えるイルファは成り立たない。

さて、ここまで言えば察しがついただろう。ボクは弁明しなくてはいけない。

叱責を受けるべきはイルファだけでなく、私もなのだと。

殺気を向けられたのがイルファであるならば、それは等しく私にも向けられるべきなのだと。

決して、保護者だけの問題ではないのだと申し上げなくてはならない。

例え語るべき声が現在機能していない状態であろうと関係はない。問題なのは何もしないことなのだから。


とかなんとか言っているが、実際本当にあの殺気が向けられた相手がイルファなのかこの部屋からではわからないので、まずは確認作業です。四大室を訪ねてきたお馬鹿さんの可能性も否定できないので。

起こした上体を胸側に倒してソファに両手と両膝をつく、準備ができたら膝と手を使ってソファの上を前進。所謂はいはいですね。掴まり立ちに歩き、さらには自力で立位の姿勢維持をしようとして何故か後退、と足を使うことに多少慣れたことで可能になった移動方法であります。

のそのそと移動した先はソファの端、一度ここでぺたりと俯せになり方向転換。次の行動はソファから降りての掴まり立ち。任せてくれ、一度成功したことだから余裕だぜ。なんて思うのは心の中だけでちゃんと気をつけながらの行動ですよ。


「うーん」


さっきまでは完全に目を逸らしておいた方が無難な様子だったが、今度は唸り出した見ても見なくてもどちらでも良さそうな様子のマリエルに、もしもの助けは期待しない方がよさそうなのでね。

まだ不慣れな動作なのでうっかりでもしもな事態を起こさないように精々気をつけましょう。

重力に任せての自由落下を今回はせずにちゃんと体を支えながらずるずるとソファに張り付いて床に足を着地させる。

ふぅと一つ息を吐いてぺちぺちと足元を確かめたら、今度は目指すべき方向を確認だ。

現在地は比較的出入り口らしきドアに近い位置なので、壁に到達できれば壁伝いに歩くことが可能だ。

が、そもそも壁が遠い。

最大の難関に差し掛かって掴まり立ちのままどうしたものかと遠い目になっていたのだが、マリエルの声が跳ねて何事かと視線を戻した。


「あ、いた!話を聞くのに集中してたらいないなんて吃驚したよ」


ソファから目元が辛うじて出ている状態のボクを見つけて未だソファ前で膝をついている体勢のマリエルは胸に手を当ててほうっと息を吐いている。

生まれて三日の新生如きが遥か上位の四大位にこんなことを言うのはどうかと思うんだけど、目の前で蠢いてる存在が幾ら取るに足らない格下だろうと認識外に置くのは危ないと思いますよ。

自ら危険なことをしようとは思っていませんが、意図せず危険物になってしまう可能性はありますので注意しておくのがよろしいかと。

なんて言葉にはできないので思って見つめているけれど「あーよかった」とさらにほっと一息しているマリエルは気が付いてはくれない様子。別によいのだけれどね。

さーて、壁を目指さないと。

無言の訴えに気が付いて貰えないなら勝手にします、と切り替えて再びドアを視界に入れたところ、かちゃりと内開きのドアが開いて誰かが休憩室へと入ってきた。


「ああ、目が覚めてた………じゃないな、マリエル」


ボクが足元を見て、あっと思っている間に視界を巡らせたらしく、ソファに隠れているようにも見える形でドアを窺っていたボクの姿を捕捉したディルは顔を顰めてマリエルを見た。


「はいっ!」


ビシッと音がしそうな勢いで直立不動の立ち姿になったマリエルの表情は、強張っている。

顔色も良くは見えない。それで気が付いた。

あ、これ怒られにいく状況だ、と。


「周囲に結界を張って防ぐじゃなく、服の守護に便乗させたのは、後手だな」


「はいっ申し開きもありません!」


腕を組んで問い質すディルと両腕を真っ直ぐに体の横へ沿わせた直立不動のマリエルの図は、軍隊の上官から叱責を頂く部下の図である。何があった。

はぁと一つ息が吐かれ、ディルがソファに向けて…ではなくマリエルに向かって歩き出し、ソファ越しに対面した二人を見ていた私は目撃した。

ディルの左手が音もなく持ち上げられて、身構える隙も与えられなかったマリエルの頭を拳が直撃する場面を。……ゴンッて鈍い音がしました。


「~~っぅう!」


「ったく、何の為に態々宣言して行ったと思ってるんだお前は」


「ぅう~、すみません」


「俺に言ってどうする底なしの間抜け。フォローはしてやらないから自分でどうにかしろ」


「あぅうぅ…はい」


ふんっと鼻息で締め括られたこのやり取りは何が原因で起こって終息したんだろうか。

いや、疑問に思っただけで聞く気はない。聞かない方がいい気がした。

呆然と眺めていたのだが、空色の目がこちらへ向けられたので反射的に背筋をピンと伸ばした。

お、怒られない、よね?と構えた私とは裏腹に微妙な様子のディル。どうしたの?


「……壁越しとはいえ余波に中てられただろうに、平気で目を合わせるなお前」


はい?何のことですか?


「未だにマリエルを寄せ付けないビビりのくせに変に肝が据わってるのか、それとも鈍いのか?」


何やら失礼な評価が下されようとしているみたいなのだが何故だ。


「まあいい。ついて来い」


ディルさんディルさん、内々結論の処理が早いです。もう少しゆっくり行ってくださるか説明をくださいませ。思ったところで無駄だと思いますがね。

静かな足取りでこちらへと歩み寄ってきたディルは、あと一歩分の距離を残してくるりと踵を返し、ボクへと背を向ける。急な反転動作に長衣の裾がひらりとボクの目の前で翻り揺れる。

ついて来いと言って態々ボクの目の前で百八十度回転での方向転換をなさった理由は、この翻る長衣の裾にある。目の前で揺らめく淡水色の衣を、ボクは掴む。

皺になるならないどころではない確実に皺を作る力、それも両手で二ヶ所むぎゅっと掴んでいるのに、ディルはそれを見ても何も言わないどころかむしろそれで良し、と示すように小さく頷くのだ。


「行くぞ」


何処にも何もないけれど、裾を掴んだボクがこくりと頷きを返せば、ディルが足を一歩踏み出した。

足の大きさ一つ分だけのとっても狭い歩幅を。

けれど、ディルの長衣の裾を握っているボクはその一歩分の歩みで、てててち、と三歩分ほど引っ張られて前進する。そう、前進するのですよ!

はい、何だその光景と思われた方、生暖かい目で眺めてください。生暖かい目で。


実は重心の取り方に問題があるのか、ふらふらと後退はできてもどうにも前に進まなくってですね。

前に進もうとするとバランス崩して顔面からべしょっと、ね。

何度となく無様にこけまくり、ちゃんと顔のパーツで一番高いらしい部位が痛々しく真っ赤にもなりました。

流石に見かねたのかディルが治癒を施してくださったりもしましてね…。

頑張ったんですが今日中に自力で前進は無理ですねと諦めかけたら後ろ向きに倒れそうになりまして、後頭部の強打は嫌だと抵抗した際に、溺れる者は藁をも掴むではないですが、うっかり近くにあったディルの服の裾を掴んで転倒を免れたわけでございます。

急にぐっと服を引っ張られたのに文句ひとつおっしゃらなかったディルに御免なさいとありがとうを口パクでもいいから述べようとしていたところ、何を思ったのかボクが掴んだままの服をくいっと引っ張ったディル。

完全に油断していて踏ん張りも放しもできなかったボクはたたらを踏んだ。前方向へと。

そこで気付いたのはバランスを取ることに必死になって後退しているボクを強制的に前へ引っ張れば、傾いた前方向へとバランスを保とうとするので前進できる、というなかなかに力技な方法だ。


無茶苦茶でしょ?ボクもそう思う。でもね、理由は知らないけれど、どーもさっさと歩けるようになりたいボクよりも、座っていることしかできないと気が付いたディルの方がボクを早急に歩かせたいらしくて。

ちゃんと前に進める歩幅と速度はどの程度かってそのまま実験始められちゃってさ…気が付いたら殺気で叩き起こされてました。寝落ちした箇所が大体わかったね、やった。

恐らく疲れて倒れるとか座り込むじゃなくて、限界寸前なのに気が付かずに引っ張られてべちょっと倒れてそのままちょっと引き摺られたんだよ、きっと。なんてひどい。

とか残念なこと思い出している間にも引っ張られ前進は続いておりますよ。

速度がボクの足に合わせられているので、ディルにとってはまさしく亀の歩みでさぞ苦痛だろう。

でもごくごく普通の会話やお仕事の話で胸を抉ってボディブローを打ち込む辛辣な言葉が、いまこの時は欠片たりとも披露されないのだから思うよね。

この御人、本当にやさしくて良い悪魔さんです。拝んでもいいと思う。


バリアフリー仕様なドアなので段差に足を取られることはないが、開いたドアや抜けていく壁側に誤ってぶつからないようにと裾を引くことで進行方向の調整をしてくれているこの細やかな心配り、とっても甲斐甲斐しいですよディル。

どうしてそんなに子供の扱いがお上手ですの?保父さんでも目指しておいでか?男の子と父親にはモテないだろうが、女の子と母親には大層おモテになると思いますよ。すんごい顰めっ面になるだろうけど。

そんなこんなでドアを潜り抜けて執務室側へと移動することに成功したボクは、


「っ!」


ぺふっと急停止したディルの足にぶつかって止まった。

速度が出ているわけではないので衝撃も痛みもまるでないが、踏み出そうとして踵を浮かせた側の足にぶつかったので、ディルの足に蝉の如くしがみつく形で停止してしまった。

この数時間の間が…何というか、濃かったおかげで多少慣れはしたものの触られるのは正直ノーサンキューなのだが、いまこの時は即座に逃げ打つ人見知り発動ではなく疑問が勝った。


基本が無表情な所為か動じることがなさそうな印象を与えるディルが思わず歩みを止めてしまう、それも触れることを良しとしていないボクがぶつかってしまっただけでなく足にしがみついているというのに無反応。

何事だろうか、と疑問に思うのは仕方のないことだと思う。

不可抗力とはいえ倒れることなく安定したことでディルの足元から恐らく彼が見ているだろう何事かを窺い見ようと、ひょいと顔を覗かせた先にあったのは…。


無表情にこちらを睨み据えるイルファの姿だった。

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