水難、其の弐
濡れ鼠。
どうして鼠で例えるんだと思う表現を思い出しながら頭から足の爪先まで余すところなく全身に水気を含まされて滴らせる自分ともう一人。
「……」
「……」
無言で額に張り付いた前髪を払い上げ、掌で顔についた水を拭い去る。
そのまま一つ深呼吸をして、たっぷりと吸い込んだ空気で思い切り舌打ちをする。
「真上に水噴き上げといてなんでこっちに降ってくるのよふざけんな!」
「毒でも酸でもないが水属性一点特化地のこれでもかって恩恵を受けた水がただの水なわけないよな畜生!」
しっとりでもじっとりでもなく、びっちゃりとかべっちょりと表現するしかない全身ずぶ濡れへと変貌させられた俺とアシスの怒りは一瞬で沸点に達した。
理由はひどく単純かつ明快なもので、むしろそれ以外の理由があるものかと声を大にして物申してやれる。
誰しも嫌いなものや苦手なものが一つは存在するだろうが、これはそういった個人の意思による好き嫌いなどではなく、種族と属性によるどうしようもない先天的に受け付けられない要素だ。
よく人間の書物で狼男には銀の弾丸、吸血鬼には十字架、悪魔には聖水などと描かれているが、当たらずといえども遠からずといったところだ。
悪魔という種族は性質的に闇の属性を持ち得ている為、反属性になる光には耐性が低い。
聖水は生成者の腕にもよるが光の加護、光の恩恵を集めたものの為、光耐性の低い悪魔にとっては有害でしかない。因みに天使の耐性は悪魔の逆で光耐性が高く、闇耐性は低くなる。
このように属性には互いに相反する属性が存在する。
火と水。地と風。光と闇。
混ざり合うことのない反属性は、磁石でいうところのS極とN極でどうしたって反発してしまうもの。
正面で向き合ってくっつけようとしても目視できない力が互いを撥ね除けようとしてどちらともなくぱちんと弾きあう。
もっとも、抵抗力の低い属性からのダメージがぱちんなんて可愛らしいものなわけがない。
悪魔に上質な聖水ぶっかけてみろよ、大惨事が起きる。
近い効果をもたらす劇物なら酸の類だろう。硫酸とか塩酸とか、か。
皮膚に触れた瞬間ぷすぷすと細く煙を上げて皮膚組織を分解され、じわじわと拡がっていく爛れは水で洗い流したところで容易に治まることはなく、焼け付く痛みが肌を侵食して最後には…といった感じか。
上質な聖水なら下手すれば骨まで一気にどろりなんて恐ろしいこともあり得るんだが。
余談はさて置き、まとめる。
先天的なもの、個人の得手不得手、程度に差はあれど不得手な属性に対しては耐性、抵抗力が弱いためにそれなりに痛い思いをします。以上。
では改めて現在地と俺とアシスの属性を思い出して貰いたい。
現在地は水霧の地、水属性一点特化地。水属性者には恩恵を、火属性者には徹底した排除を施す火属性者の鬼門といっても過言ではない地。
そんな水霧の地の恐らく大地から吸い上げたのであろう水は、当然の如くこれでもかと水精霊の恩恵を受けており、成分表記をするならば水属性百パーセントなどとやや過剰かもしれないがそう言いたくなる程度には純度の濃い御水様だ。
そんなものを水耐性の低い火属性者が全身余すところなくびっしょびっしょに浴びてどうなるのか考えてみるといい。
「ああーっ、くっそ痛えぇーーっ!!」
どんな温厚な平和主義者でもそんなもの糞くらえ、と罵りたくなる程度には痛いです。
流石に種族性質上の抵抗力の低さには及ばないから骨までどろりなんて恐ろしいことは起きないが、とにかく痛い。
あー、例えるなら静電気か?ただし指と指の間なんて微細なものじゃなくて接触面全体に万遍なく発生し続ける。一瞬じゃない、接触している限りずーっと続く。その持続時間は恩恵具合による。
つまり恩恵が強ければ強いほどに長続きという性質の悪さ。威力は抵抗力の高低差によってくるが、先に言った静電気程度から雷と同等だとか言ったりする奴もいるだろう。あくまで電気での例えだが。
因みに俺にとっていまの水は静電気よりはきついものがあってなおかつ濡れっ放しのこの状況だと皮膚の上をビリビリと電気が流れ続けているに等しいちょっとした拷問。
なのに洗い流すことをしないのは、したところで意味がないとわかっているからだ。
硫酸や塩酸を少量の水で流しても大した効果がない様に水属性を帯びたものをただの水で流したところでどこ吹く風、張り付いて離れてなんてくれない。引き剥がしたければ反発するものをぶつけるのみ。
つまりは火属性をぶつけることになるが、冷静に考えよう。
何度も繰り返すがここは水霧の地、高位の火属性者が呼ばなければ火精霊が集まることは決してない場所だ。火精霊が極端に少ない土地で火を起こそうとするならば他の地では小規模な火災、火柱クラスの火力が必要になる。いくら火属性者で火に関する法の扱いが得意であってもこの地に置いては少々勝手が違う。
その為細かいこと、具体的には服の水気を払うとか乾かすなんていつもなら簡単にできる行為ができなくなる。
加減をしようとしても力が弱すぎるとそもそも効力はなく、ちょっと強くしようとすると…加護精が間に入って火力が想定以上に増すなんて自分の意識が介在しないところで火力が上げられてはどうしようもない。
だからどんなに鬱陶しくかつ痛くてもこの地で張り付いている水気とその中にたっぷり含まれている水精霊の恩恵を火によって払い除けることはやってはいけない。…仮にやったとすればほぼ間違いなく何処かが燃える。下手すれば火傷もする。火属性者が己の繰る炎で火傷を負うなんて間抜けな話は流石に無しだ。
さてそうなると必然的にこの絶えず肌へと必要のない痛みを与えてくれている刺激物を放置せざるを得ないという結論に至る。
一時的に地の外に出て払ってくる、なんて提案は端から却下だ。
何があってもその選択だけはあり得ないし許さない。
そんなことしていてこの得体の知れない物体がとんでもない変貌を遂げたらどうする?
忽然と消え去られでもしたら何処をどう捜す?
一人を見張りに残して行ったとして、突如としてこちらに牙を向いてきて一人では対処しきれない事態だった時どうするつもりだ?
謝って済む問題じゃないぞ。
こういう事態の時、用心や警戒が足りずに後悔はしても、し過ぎて後悔することはない。
「あぁ~う~っいぃいたぁあ~~~っ」
だからアシスも隣で痛みに悶えていてもこの場を離れることも危険を冒すこともしない。
代わりとばかりにさっきからあの物体に対してありとあらゆる罵詈雑言、悪口雑言が語彙の続く限り脳内で展開され続けてるんだがな。
あとはせめてもの抵抗で肌に直接ついた水は拭い落とす。服の水気も絞れるものは絞る。多少でも痛みを減らしたいと思うのが当然だろう。
俺には被虐の趣味も自虐の趣味もないし痛めつけられて悦ぶ趣味嗜好もない。
「イルファ」
互いにひとしきり呻いて痛みを我慢する選択に落ち着いたので呼ばれた名に短く返事をすると、ぎろりと座った目で得体の知れない物体を睨みつける金色が見えた。ここまでとはいかないだろうが、恐らくいまの自分も似たり寄ったりだ。
「切り倒そう。そして消滅させよう。燃やし尽くす労力も惜しまないくらいには今現在あたしはご立腹なんだけれど、イルファの意見は如何かな?」
えらく丁寧に意見を聞いてきたアシスにだいぶキてるなと何処かで思うが、俺もかなり苛立っているので止める選択はない。
「訳の分からない伸び方したが調査用に一部確保できそうか?それができれば俺も先の提案に諸手を挙げて乗ってやる。とっとと帰りたい」
一刻も早くこの地を後にしたい理由が増えたので遠慮と容赦はいま必要ない。
厳重に箱へと放り込んで鍵をかけておいてやろう。
「一枝だけ細切れにしてみて確保できそうなら考えようね。あの急速再生能力が続くって言うんだったら最大火力で焼き払わないとあたしたちの手に余る可能性も捨てきれないでしょ」
四大の火属性天魔の手に余れば次に助力を請われるのは側近の火悪魔であるリフォルド様だ。
ただでさえお忙しい方の手を煩わせるのは遠慮したい。
違うことで今後しばらく御迷惑をおかけすることがほぼ確定しているのだから個人的にもここで何とかしておきたいところだ。
「あとはアレを植物素体の人工物と仮定して劇物投下で枯らしてみる、とか」
ぎゅうっと髪を絞るアシスが呟いた言葉に思い出されるやり取りがある。
三日前の朝、四大室へとレミィから渡されて運んだ籠にみっちり詰められていた危険物。
あれは最終調整を任されたディルによれば除草剤らしい。
あんな単品でも十分な危険物を混ぜ合わせて作り上げる更なる危険物が必要とされる植物とは一体何だ、本当に植物なのかと疑ったのだが、同じことを考えてレミィとタルージャに問い質したディルに返ってきたのは表情だけの笑みで「除草剤です」の一言だったらしい。
この際真実などどうでもいい、障らぬ神に何とやらだ。その後の詳細は知らないが…聞いてみるのも悪い選択ではないかもしれない。
「アシ…」
「でも取りあえず切り倒す!痛いの我慢とかできるかぁっ!」
呼びかけた名前は引っ込む羽目になった。
ゴゥッとアシスの怒りに応じて熱気を放つ加護精と、話を聞く気など皆無で火精霊に呼びかけるアシスを見て、案外加護精の熱気だけでこの鬱陶しい水を払い飛ばせるのではないかと思うが、自分を中心に火柱という悲し過ぎる落ちが予想できているので絶対に試すことはしない。そして今更アシスを止めることもしない。
怒りの矛先を俺に向けられても困る。俺だって苛ついているのだから最悪喧嘩に発展しそうだ。
そんな不毛なやり取りなんてしたくないので回避しておくに越したことはない。なので話を聞かないアシスへの提案は見送りにし、事後承諾とする。
やることが決まったので一度アシスのことは無視して行動に移る。
視覚によるものではなく己の内側、相手を特定して知覚範囲を拡げ、目的の気配を捕捉すると法によってパスを作り、対象者へと声を届ける。知っている相手に対して離れた場所から心声を繋ぐときの方法だ。
『マリエル、聞こえるか?』
『ふぇいっ?!ななな何かなイルファ?』
心声を向けた先の不審な驚きっぷりに別の気掛かりが発生したが、いまはさっさと用件を済ませることを優先させる。何に驚いているのか、は後でいい。
『レミィに聞きたいことがあるんだが、連絡は取れる状態なのか?』
『あ~、うん。大丈夫だって連絡来たから水霧の地のこと伝えてあるよ。戻る前に寄ってみるって言ってたからそっちで合流するかも』
それは手っ取り早くて助かる。
『じゃあレミィに連絡取ることにする。じゃあな』
『う、うん。早く終るといいね!』
……言動不審。さては何か後ろめたいことをやらかしてるなマリエル。呆れるのを通り越して可哀想になるほどわかりやすいぞお前。
溜息を吐きそうになりながら増してきた周囲の熱気から後ろへと三歩分離れることにする。
集められている火精霊の熱に俺の加護精が浮ついてきているのがわかったからだ。
ぱっと見た目にはやや表情が怒っている程度の変化なのだろうけれど、中身は爆発こそしていないが苛々が地味に導火線を短くしていっている感じがある。
いますぐにどうにかはならないが、早急に解放して欲しいと思う程度には機嫌が斜め方向を向いている。
そんな俺の感情に呼応している加護精が先走りそうなので適度な退避距離が必要というところか。
さて、気を取り直して今度はレミィだ。
『レミィ、話しかけて大丈夫か?』
大丈夫とは聞いているがどの時点でマリエルにそう返したのかが分からない以上問いかけは必要だろう。
『あらあら、いまそちらへ向かっているところですが危急ですの?それとも暇つぶしですか?』
のほほんとした何処か間延びして聞こえる応答にちょっとだけ脱力する。
『何で危急と暇つぶしの二択なんだよ。極端すぎる上に俺が暇つぶしで心声をとばすとでも思ってるのかと問い詰めてやりたくなるんだが?』
『らしくもなく苛立っている様子ですから少々話題の提供をと思いまして』
ご丁寧にくすくすと笑い声まで伝えてくるレミィにさっきは我慢した溜息を吐くことにした。
心声でわかるほど苛立ってるのかよ俺。
『それで、ご入り用ですの?』
『ディルに最終調整任せた除草剤、アレどうした?』
何か、という言葉がないのは慣れだな。
短く問われたので同じく短く返せば、ほんの少し間を空けて心声が返る。
『炎火の地で地中深く根らしきものを張っていました植物に見えなくもない何かを根絶やしにするために使いましたわ。まだ残りがありますけれど、必要ですの?』
水霧の地と同じく火属性一点特化地の炎火の地で、根らしきもの、植物に見えなくもない何か。
気になる単語が使われてるなオイ。
『植物素体の人工物と仮定したら除草剤が効くかもしれないなって話してる物体があってな。いまからアシスが刈り取ろうとしてるが…』
『あなたの予想では駄目っぽい、ということですのね』
ぷちキレを起こして火精霊に呼びかけているアシスは現在聞く耳がないから諦める。
一発派手にやれば少しくらいは落ち着くだろうと期待する。
『いっそ凍らせてみるのもありかと思わせる見た目なんだが、耐性持ちに不得手な水属性は躊躇われる』
あの表面の粘液が凍ってくれないかと思っているんだが、最初の報告で水耐性持ちと聞いているからな。
そこまで俺の属性値は極端じゃないが水は相性がどうにも悪いんだよな。この苦手意識も相まってこの場所では水精霊を集めることには苦労しないが制御するのには他の地以上に骨を折る。
そんな理由で試すことは後回しだ。
『耐性どころか吸収する可能性も捨てきれませんのが一点特化地の異常ですものね。二人以外に誰かいますの?』
『いや、調査で中級位の水属性者を残してたんだが場所が中層域に向かっていくから変なの釣り上げそうで帰した。得体の知れないのプラス手間がかかる水生植物は勘弁だ』
強い水の気配がすると周辺の生き物が得物認知して寄って来るんだよ。現場にいた中級位はそこまで力が強くなさそうだったとはいえ不測の事態は御免被る。
俺とアシスだけなら水の気配に釣られて寄って来るやつはそういない。どちらかといえば強い火を不快だと感じて出てくるものがいるだろうが、下層域と中層域の狭間ではそんな面倒な奴は出ないだろう。
『っと、余程腹に据えかねたんだな。レミィ、いま来ると巻き込まれるから気をつけろよ』
『あらあら物騒ですわね。気をつけますわ』
楽しげにも聞こえるレミィの心声を聞き終えると同時にさらに五歩分アシスから退く。
落ち着け俺の加護精たち、俺には暴れるつもりはまだない。
「集え、猛き焔の一欠けたち」
伸ばしたアシスの腕の周囲で陽炎と共に踊る蛍火。
火精霊の力が制限されるこの地で、視覚化できるほどの力を持った火精霊がアシスの声に応えて集まり、熱気を放ちながらふわふわと宙を踊る。
「我が声は導、深き水冷にありなおも消ええぬ勇ましき焔よっ集え!」
立ち昇った熱気は鮮やかな朱の炎へと姿を変え、周囲の霧をかき消し、蒸気によって発生した気流が炎を生き物のように揺らめかせる。
「滅びを謳い全てを無に帰す灰燼の業火っ烈風纏いて刃を成し」
形を持たない炎に烈風の刃を纏わせたことで燃え盛る炎が刃を形作っていく。それは一つではなく、無数。
振り払われたアシスの腕と導とした声を合図に法が解き放たれる。
「切り刻め!焼き尽くせ!舞い狂えっ!」
スパンッと幅二メートルはある蔦の塊を炎の刃は刈り取った。だけでなく、無数の刃が一塊の物体を分断、いや細切れにするかのように次々と切り裂いていき、切り裂いた場所からは御水様が噴き出すより速く業火が全てを焼き尽くしていく。その様は炎の嵐。
「…」
法の構成はどうしても絶対数の足りない火精霊のために上級寄りの中級位、そこに火属性ほどの属性制限を受けない風の中級位を複合しているので威力としては上級位で通用するだろう。
音速に迫る速度と勢いで執拗に切り裂き、切り裂いたら再生する間も与えずに圧倒的火力で焼き尽くす。
表面を覆った粘膜も、蔦の内部を通っているだろう水も全てを蒸発、還元するほどの火力が惜しげもなく行使されている為に周囲の霧が強制的に払われて十メートル程しか見えなかった視界が開けていく。
霧が払われたことで奥行きが何処まであるのかと不安に思われていた得体の知れない物体の全容が明らかにされた。
幅二メートル、地面からの傾斜角度凡そ四十から六十度、地面から地上へと伸びていた部位は十メートルから十二メートルとそこまでの長さではなかったらしい。
伸びていた、と過去形にされた理由は予想がつかないか?
現在進行形で切り刻まれながら燃えているからだと。
一部調査用に確保しろと言ったはずなのだが、あの様子では塵すら残りそうにない。
苛立ちをぶつけるのは結構だが、やるべきことはやって欲しいと横に半歩、後ろに合計八歩離れたところから法を繰るアシスと燃え上がる炎の嵐をものすごく客観的に眺めている俺。
にしても、周囲の霧ごと消し飛ばしている程の火力が振るわれているのに俺のいる場所の空気は相変わらずしっとりと水分多め。この距離でこの現状なのだから水霧の地の湿度に天晴れと言いたくなってくる。
「お」
アシスと法の影響でびっちょりからびしょびしょくらいの心なし、気の所為かもしれない程度の乾燥と変わらず続く鬱陶しい痛みを感じていたところ、ふいに地を蹴って燃え盛る炎へ向かって飛んだアシスがいつの間にやら手にしていた大振りの瓶で飛来してきた何かをキャッチしていた。
俺の目が悪くなければ、ただいま絶賛焼却中の得体の知れない物体の凶器にしか見えない天を向いた先端部分ではないだろうか。
一部確保、ちゃんと覚えていたところを褒めたいと思う。良く出来ました。
行動にも表情にも出さないでアシスの活躍を眺めているだけの俺だったが、そろそろかなと背に折り畳んでいた翼を広げて地を蹴る。
目標地点は炎の嵐が治まりつつある場所。
「地上分は綺麗に一掃できたと思うんだけどっ!?」
キュッと瓶の口を閉ざして簡易封印を施していたアシスの胴をラリアットだと言われても仕方のないくらいの勢いで掬い上げ、勢いを殺さずむしろ加速させて斜め方向へ上昇。呻いたアシスなど知ったことではない。
一応攻撃にならない角度で掬ったつもりだが確認はしない。違うことで忙しいからな。
「業火の残滓よ我が呼び声は焔の息吹、集い寄りて壁を成せ」
アシスの法で集められた火精霊をそのまま転用して作り上げたのは、アシスを掬い上げた俺を中心に円状に展開された防壁。
薄紅の防壁が完成する直前、背後で聞こえたのは間欠泉の噴き出し音に似た破裂音。
即座に身を反転させ、身構えつつ状況確認する視界に入ったのは、風を切り裂く速度で急速に伸びる鈍色の蔦。
「っぐ、え」
呻いたアシスの声は腕にぶら下がるような腹部を圧迫する体勢故のものだけではないだろう。
チィッと伸びた蔦先が防壁を掠めて行ったのを目と鼻の先で直視したはずだ。
ばさりと翼を羽ばたかせて見下ろすのは、つい先程アシスによって焼却処分行きになった物体が地中に残った部位から見事な復活を遂げている、という実に面白くない光景だ。
長さは先程の半分、五メートル程で蔦にはまだ粘膜がないツルツル状態―と思いきや見る間に粘膜が蔦全体から滲み出し、蔦を覆ってしまう。
成程、粘膜は吸い上げた水分から生成されているのか。
先程まで乾いていた地面は接触箇所から十センチ程だったのだが、その範囲が五センチ近く広がった。
とはいえ、一時的なものなのか罅割れすら見せた最も近い場所もすぐに罅が消え、広がって見えた範囲も遠目には乾いているとわからなくなる。
これはこの地の水分量と水分供給率がすごいのかそれとも得体の知れない物体の水分吸収率がすごいのか、どちらだ?
そんな思考をしていたのだが、ちょっと先に迫った碌でもない未来を愁い、霧に遮られた空を仰ぐ。
どう表現するのが的確なのか判断に困るので、思ったことをそのままでいこう。
長身の成人男性が二人伸び伸びと横に並んで入れるくらいに広い浴槽一つ分、と。
先程より近い位置にいるとはいえ、それでもどうして狙ったように真上に平面で展開されているんだ、と答えが返るわけがないのに問い質してやりたくなる光景が落下した。
「っ!!」
その御水様は回避を諦めた俺が展開した中級位の防壁をメキメキと軋ませて、円状の形に沿って滑り、地面へと落ちて行った。
派手に飛び散った水飛沫は落下地点に小さめのクレーターを生み出して僅かな時間水溜りを作ったが、これも再度吸い上げられたのだろう。地面は水気を保ってはいるが、水溜りのないただの窪地になっている。
一瞬にして地形変化させられた地面を俺の腕にぶら下げられた状態のまま見ているアシスに短く問いかける。
「…何か言いたいことあるか?」
パチンと指を鳴らして役目を終えた防壁を消し、腕を拡げてアシスの体を解放する。
やや痛そうに胴、腹部を撫でたアシスだったが一瞬目を合わせた後がっくりと肩を落とした。
「あわや串刺し及び全身の骨を砕かんばかりの脅威からの救出感謝します」
「感謝してる見た目じゃないぞ、せめて俯くな。上った血が少しは下がったか、暴走特急?」
「うぅっ」
嫌味ったらしく聞こえたならそれで正解だ。叱責だからな、これ。
蔦を一つだけ切った時、伸びたのは地上側と地中側の両方だった。それはどちらか片方だけではなく、同時に消さなければ完全に消滅させることはできないということ。
だが、アシスが焼き払ったのは地上部分だけ。地中部分が同じように御水様を噴き出して伸びてくる可能性を頭から締め出していたということだ。
やや荒かったが、俺が拾って場所移動してなければ下手すると伸びてきた蔦に串刺しコースも在り得た未来だ。
「油断大敵。迂闊なのはフォローしてくれる奴がいる時だけにしてくれ」
「あ~、うぅ~、はい。反省します」
眉尻の下がった情けない顔を持ち上げたが、すぐにがっくりと項垂れるのを嘆息しながら見下ろす。
ずぅーーっと続いている痛みの所為で考え事をすぐに放り出したくなるのはわかる。
こちらから手を出さなければいまのところ危険がなさそうな物体が油断を誘うのもわかる。
だけど、もう少し我慢して考えろと言いたくなる俺の気持ちもわかれ。
多少なり我慢という言葉に縁があるが、ビリビリびりびりと苛立ちしか生まない痛みを早急にどうにかしたい欲求は俺にもちゃんとあるのだ。
「地表部分の全長は把握できたしあの粘液も吸い上げた水から生成してるってことも確認できた。問題は地中部分だが、俺もお前も感知はあまり得意じゃないからな。おまけに水属性地で水属性の感知とか何処からが土地のもので何処からがそうじゃないのか判断できる気がしない」
水が張られていれば小さな泉と言える程度に凹んだ窪地へと降り立てば、物体側に近いのかさっきまで立っていた場所よりも地面の水分量が少ない気がする。
「レミィかカーリィの手がいるね、それ」
「レミィには連絡ついてるぞ。そろそろ着くころじゃないか?」
失敗を引きずってか苦い顔しているアシスに事後報告をすれば、金色の大きな目を見開いて見上げてくるので、見下ろしてみる。
「そーなの?」
「そーなの」
小首を傾げて問うのに全く同じ言葉で返す。
察しが悪いわけではないので一体いつ連絡を取っていたのかがわかったのだろう。頬がやや引きつった。
「いつぞやタルージャに作らせてディルに最終調整させた取扱い厳重注意な除草剤という名の劇物に残りがあるみたいだから頼んでみた」
「え?何その聞くからに物騒でしかない危険物。除草剤ってそんな恐い注意事項が入る代物じゃないでしょ」
即座の突っ込みが入る程度の思考余裕は戻ったか。それはよかった。
「最終調整がディルの時点で取扱注意は確定事項だろう。名目が除草剤ってだけのただの劇物だありゃ。内容物の四分の三は毒薬だぞ。ありとあらゆる目的に転用できる」
運ばされたので材料を知っているからこそ断言できることだ。
仮に生物に転用したとすれば、それは筆舌に尽くし難い悲惨かつ残虐な過程を経てとても直視できない物体が完成すること間違いないだろう。
徐々に戻ってきた霧の視界でもアシスの顔が引きつっているのがよくわかる。
想像したな、するよな、そして聞かなかったことにして心の平穏を図るよな。
ただな、そうは問屋が卸さないんだ。
「あらあら、お待たせ致しましたか?ご所望のものをお持ち致しました配達員ですわよ」
ふんわりと柔らか素材スカートの裾を拡げて舞い降りたほのぼののんびり癒し系容姿の水天使の手に握られている仰々しいまでに強調された髑髏マークが入った薬瓶が現実を突き付けてくれる。
「…登場と共に危険物を朗らかな笑顔で提示しないでよぅレミィ」
心の平穏確保に失敗したアシスが悲愴感たっぷりに物申したが、きょとんとなったレミィはそのまま首を傾げて、元に戻して、再びにこり。
「ばら撒きながらの方がよろしかったですか?ご要望でしたらやり直しますわよ」
とんでもないこと提案してきた。
「血迷うなレミィ!!それは絶対やっちゃ駄目ぇっ!!」
普段カーリィとふざけてボケ倒しているアシスも慌てて止めに入る。
何故なら放っておいたらレミィは本気で、やる。必死の形相になったアシスを見てものほほんとした顔で身の毛もよだつ恐ろしい発言をした張本人は再提案。
「あらあら、でしたらどう致しましょうか。直にばら撒くのが駄目でしたら蒸発させて霧状に散布致します?元々霧深いこの地でしたら誰にも気付かれませんわよ」
「ばら撒くことから離れなさい!何なのその無差別殺傷発言はっ!一体何をどうしたいのかな君はっ!!」
再度のとんでも提案にアシスは半泣きだ。対するレミィの笑顔が逆に恐い。
「あらあら、目障りかつ有害な雑草を根絶やしになさりたいのではありませんでしたの?死滅させるのでしたら徹底的に、ですわよ。手心なんて何の役にも立ちませんもの」
にっこりと花が綻ぶような柔和な笑みが、全身の毛穴という毛穴を強制的に全開にさせ、逃れることなど許されない絶対的な死を本能に訴えてきた。
なんで笑顔にそんな死亡宣告効果があるのかを小一時間かけて俺に説いて欲しいところだが、間違ってもいまそれを行うべきではないと俺の直感が告げている。
「……機嫌、悪いのか?」
物理的に寒い気がするのは俺の気の所為じゃないと思う。隣でアシスが身震いしているから。
たれ目がちな容姿の造りで終始笑顔に見えなくもないレミィだが、にこにこにこと笑顔がいつもより過剰に振り撒かれている気がしなくもない。
「そう見えますの?悪くはないつもりですわよ。ですが…薬を取りに帰宅した折、兄様に“顔だけご機嫌の不機嫌が危険物手にして何しに行く”と聞かれましたわね」
つまり機嫌が悪いってことじゃないか。なんで本人に自覚がないんだよ。
「……それで、なんて返したんだ?」
「ちょっと目障りな雑草を刈りに、ですわ」
何処の世界にちょっとお花を摘みに感覚で劇物片手に満面の笑みで出かけていく天使がいるんだよ。
顔だけが和やかでそれ以外がいろいろぶち壊しの恐ろしい殺害予告じゃないか。
天使に幻想を抱いている可哀想な誰かに謝れ。
というかその手の劇物はお前のお兄様公認の危険物なのかよ。それをばら撒く、散布するとよくもまあそんなおっそろしいことをさらっと提案するよなこいつは。
何が恐いってその威力と効力をちゃんと把握した上での発言と行動なのが堪らなく恐い。
「…………レミィ」
「はい、何でしょうか?」
これは正直苦渋の選択だと先に言っておく。こんなことしたくない。
「一先ずその危険物を渡せ。ついさっきのアシス以上に何やらかすか不安で仕方ない」
天魔界でも指折り調合師であるレミィの兄君が危険物と言い放つ劇物を一時的といえども受け取りたくなんてない。ないが、手を伸ばした瞬間にほんの一瞬でも眉間に皺を寄せたレミィにこんなもの持たせておくのは自分が持っているよりも遥かに恐い!背に腹は代えられんだろう!
やめろアシス、半泣きの顔で救世主でも見るような視線を寄越すな。無性に泣きたくなる。
むしろ代われ、同じ目でお前を見てやるから。
「…後悔しませんの?」
「微笑みながらいま言う台詞じゃないからなソレ。言った瞬間から後悔してんだからこれ以上悔いる前に渡せ。封が厳重にされてあって正規手順で開けない限り問題しか起きないのはちゃんと理解してるから、渡せ」
光の速さで引っ込めたくて仕方のない手を気合と根性で出し続けている俺にレミィがふぅっと息を吐いた。
「仕方ありませんわね。間違っても落とさないでくださいね。実はまだ中和薬がありませんのよ、それ」
ぽん、とあっさり掌に載せられたレミィのたおやかな手に納まるサイズの瓶が鉛の塊かと思えるほどの質量に変化した気がする。それくらいの衝撃だ。
「な、んでそんな危険物をすでに使用した経験が御有りなのかなレミィ?」
引きつりしかない表情筋のみで無理矢理作り上げた俺の笑みにレミィはにっこりと微笑んだ。
「早急に消し去りたかったんですもの、あの害悪」
両の掌を胸の前で合わせて少しだけ傾げた首、その分角度のついた目線は上目使い、所謂おねだりポーズと呼ばれる本来可愛らしい仕草も口にしている内容が殺伐としているために台無しだ。
無言で震え始めたアシスを見てやれ。そして真正面からそれを見て対峙している俺を誰か労え。
こちらの震えあがる心境など微塵も介さず、気が付くことなく流れたレミィの視線は先程まで現在進行形で膨らみ続けていた苛立ちを返上して憐れみ一択を捧げてやりたくなった得体の知れない物体へと向けられた。
その瞬間、淡い緑の目から受ける柔らかな印象が急速に氷点下を突破していくのを目にした。
「どうも、アレは炎火の地で私が根絶やしにして差し上げたものの類似品と思われますわ。非常に不愉快ですので可及的速やかかつ徹底して容赦なく存在した事実すら抹消してしまいたいのですが…賛同、頂けますわよね?」
「!?」
ゾワッと戦慄が走り抜けた。
上目使いで見上げて微笑んでいるのはさっきと変わりないのに、目にこれでもかと乗せられた明確過ぎる憤怒の存在で全くの別物だ。
何があったのかなんて聞くある種の勇者がいたならば、俺は全力でそいつを崇めてやる。
お前の死は無駄にしない、ってな。
炎火の地の恐らく類似品、一体何をどうやってレミィをここまでブチ切れさせた。
とばっちりの精神被害が凄まじいぞ責任取れよこの野郎!
ふわふわと柔らかな線を描く水色の髪を肩から背へと払ったレミィは目を十秒程伏せて再び開いた。
「凡そ二十メートル、ですわね。周辺一帯の水をごくごくと飲み込んで一体何をなさりたいのか私には皆目見当が付きませんけれども、碌なことではないのでしょう、きっと。大切な友人でもある同僚を地味に痛めつける水塗れにしてくださるなんて…おいたが過ぎましてよ」
朗らかさも和やかさも葬り去られた極北ブリザードを纏った冷たすぎる冷笑を浮かべたレミィ。
自分に向けられたものではないがゾクゾクと戦慄が爆走し命の危険を知らせる警鐘がガンガンと打ち鳴らされる。
この場から逃げたい、せめて真正面から避難したいと願う俺の視界の端で静かに後退るアシスが見えた。
後で覚えてろよと恨みを込めて見つめつつ、心の中で低く呟く。
ああ…何してんだろう、俺。




