礼儀作法は最低限です
豪奢、よりも楚々とした印象を与える開かれた両扉の向こうに伸びている広い通路には塵一つ落ちていない。静寂と静謐が混在し、場に満ちている空気が足を踏み入れるものに誠実さを求めさせる。
シンプルどころか無機質と言ってもいいほど飾りのないただの通路なのに美しい。印象に反し重厚な見た目の両扉は開かれているのに開放的には見えず、逆に内側と外の雰囲気差が顕著になり拒絶的ですらある。
通路の端へと慎重に足を下ろしたイルファの緊張具合はこの場所に一因があるのだろう。
「…到着、と」
ふっと大気に溶け消えるようにイルファの背から翼が消えて原理を教えてくれと凝視…したかったのだが。
「……胃が」
消えた翼のように消えてしまいそうな声量で発されたイルファの弱々しい声に大丈夫なのかと心配になって顔を覗きこんで、私はきゅっと唇を閉ざす。
大丈夫じゃない。顔色は問題ないが目が虚ろでなく軽く臨死体験している。
戻ってこい、キミがその調子ではお留守番の選択肢すら与えられずこの場に共にいる私はどうしていいのか途方に暮れるしかないじゃないか。しっかりしてくれ保護者殿。
どうしたものかと傾げかけた首だったが、足音が聞こえて視線と共に通路へと向けた。
静かすぎると感じる場所ならば足音のような小さなものでも反響して大きな音に聞こえそうなのだが、どうやら静かだからこそ聞こえる類の音らしい。
堂々とけれど優美な様子で通路を歩んでこちらへと近付いてくるのは白銀の髪を持つただ一人の悪魔。
「おはようイルファ、リトネウィア」
麗しいご尊顔に微笑みを浮かべて朝の挨拶を述べたリフォルドに反射で頭だけを下げて挨拶を返した。
返したが、同時にこの神殿やら聖堂を彷彿とさせるある種異質な場所が何処なのかに私の思考は傾いた。
「おはようございますリフォルド様」
イルファも挨拶を返しているが、如何せん目が臨死体験で表情は引きつっていらっしゃる。
緊張にしては行き過ぎではないかと精神を案じたくなる様子のイルファにリフォルドも微笑みから苦笑いへと表情を変えた。
「おい、そんな死にそうな顔するほど緊張を強いる場所なのかここは」
「いえっそういうわけでは…ないのですが…」
最初の否定だけしゃきっと答えたのに後半は声の萎み具合と連動して虚ろになった。
何がイルファに緊張を与えているのかわからないのは私もリフォルドもきっと同じだ。
「慣れないと居心地が悪いのは確かだが、どうにもできないからな…」
苦笑いに困った色を追加したリフォルドは腕を軽く組んで高い天井を仰ぐ。
シャンデリアが下がっていても違和感はそうないであろう吹き抜けはどういった意味合いがあってのものなのだろうかと視線を追った私はガチガチなイルファと正反対にマイペースな思考を働かせている。
そのおかげでこの場所が何処であるのか結論には至った。
聖魔殿。側近により出入りするものが厳しく管理される天魔両王が坐す地。
気付いてしまえば納得の一言しか出ない場所だ。
出入口である扉が開かれているのは決して開放的なわけではないだろう。むしろ私が感じた拒絶の印象が正解に近いと思う。
聖魔殿の最奥には天魔の最上位たる天王、魔王の二人の王が執務をなす場がある。
両王は全天魔の司令塔、故に聖魔殿を出ることはそう多くない。そのため両王へと会う、謁見するためにはこの聖魔殿へと足を踏み入れる必要がある。謁見と一口に示しているがどういった目的でこの聖魔殿を訪れるのかが非常に重要だ。
全天魔の司令塔である王が執務を行う場、つまりは様々な情報が集まり決定される場だ。危急、急務といった差し迫った物事の指示を仰ぐために天魔が駆け込んでくることもある。
そんな時に入り口が閉ざされていて入室管理をされていたのでは一刻を争う事態の時よろしくない結果を招くことがあり得る。恐らく扉を閉ざして入室管理をしていないのはそれが理由だろう。
そういう意味では開放的と言えなくもない。ないが、やはり違うと思う。
開放的というのは来るもの拒まず去る者追わずの出入りがしやすい場のことだと思う。
その定義でいけばこの場所は余りにも威圧的だ。
静寂は犯し難さ、他を排し侵入を拒む独特な空気を持っている。この場所、正確にはこの通路は恐らくそれを意図して起こしている。理由はきっと来るもの選んで去る者背を押すといったものなのではなかろうか。
危急、急務を拒むことはしなくとも面倒、厄介ごとは拒む。そういうことだ。
王への謁見を望むのは良識あるものだけとは限らない。むしろ比率はそれ以外の方が遥かに上回ると思われる。その相手すらしたくない無用の長物を問答無用で排除するためにこの場の空気は整えられている。
扉が開いていて一見入り易そうに思えたが、足を踏み込もうとしたらその奥に面倒事なら帰れと威圧してくる番人がいる。そんな光景に空気。
そしてそれを作り出しているのが通路の奥、さらに奥へと続く扉の前に受付よろしく立ち塞がる側近というわけだ。因みに常駐二名。
「四大で出入りする機会が多いのはマリエルとディルの二人ですから」
自分はあまり来ないので慣れません、と言いたいのだろうイルファは油断すると行ってはいけないところへと心を飛ばしてしまいそうで不安だ。
「あの二人は妙なところで肝が据わってるからな。まあ、そう長くは拘束しないだろうからもう少し気を楽にしろ」
「はい」
返答は是でも内心はきっと無理だって様子ですよね。こればかりは上位者からの許しがあっても例え命令が下ってもどうにもならない。
明らかに憂鬱を背負って家から出た時点で自発的ではないのかもしれないと思っていたが、どうやら呼び出されての往訪みたいだ。
一体何で呼び出されるのか、と思うが…ボクがいることを当然の様子で迎え入れたリフォルドと卵の時から問題児、生まれてすぐさま四大室で暴走未遂をやらかした己が残念っぷりを考えれば答えは目の前に掲げられているも同然だ。
私という名の問題児を引き取った可哀想なイルファに保護者として昨日の暴走未遂を報告せよ、といったところか。そうでなければリフォルドが行ったはずの報告で何らかの問題点が見つかったとか。
うん。要するに王様方からの御呼び出しってことですね。すまぬ、イルファ。
「んじゃ、行くか」
着いて来いと先に歩き出すことで示すリフォルドの背を見つめてふぅと一つ息が降る。勿論イルファのだ。
「…往生際が悪いなあ、俺」
切なくなるお声で切実ですね。ものすごく他人事のようですが伝えられないのを承知でいい言葉を思い浮かべていますよ。
人生諦めが肝心。
どうにもならないできないことは間々あるのです。どんまい。
何の解決にもならないどころかさらに凹ませそうだとかいう発想はない。
そんな暴言めいた我が思考は伝わってはいないだろうけれど意識を切り替えたのか真っ直ぐに前を向いた目は虚ろではなくなっていた。緊張はそのままなので表情も体も硬いがそこは仕方のないことだと妥協すべきだろう。
先導するリフォルドの後にイルファが続き、聖魔殿へとようやく足を踏み入れた。
かつん、こつんと足音が響いては消えていくのを不思議に思いながらイルファに運ばれていく。
進む先に待ち受けているのはぱっと見た目は会社でよく見る受付窓口らしき机とその向こうに見える扉。
配置と見た目のおかげで受付を思い起こさせるが、その場に配置されているのは王の傍らに控え数多の害悪を排除する精鋭中の精鋭、側近。
聖魔殿の入り口、奥へと続く扉を管理する番人でもある側近の内一名は先導しているリフォルド。
残り三名、物語通りなら見ればわかるのだろう。設定画を描いてある面々なら判別できる自信はある。
どういった理屈であれ曲がりなりにも作者を名乗れる立場だったのだからそれくらいできなきゃね。
さて、基本的に常駐側近二名なのだが、一人がリフォルドとするならばもう一人は誰なのだろうか。
疑問に思い前方を歩くリフォルドの向こうを窺うが、人間であったとき眼鏡がなければ生きていけない規模の残念通り越した視力と比べれば雲泥の差である開けた視界でも見える範囲と見えない範囲はあるわけです。
おぉう、角度で見えない。誰なのだろうか。
「お帰りなさいを言うべきですか?僅かな距離でしたけれど」
「…からかってるな?」
くすくすと聞こえたのは鈴を転がすような声。姿は見えないけれど丁寧な口調で誰なのかが予想できた。
「珍しくリフが落ち着かない様子でしたからね。態々出迎えに行くほどのお相手はどのような方なのか楽しみにしているんですよ」
リフォルドのことをリフと愛称で呼ぶのはたった一人だけ。
「面白がるなよ」
はあと息を吐きながら窓口っぽい恐らくは執務机の内側へと向かうリフォルドと数歩の距離を置いて執務机前で足を止めたイルファ。リフォルドの背に隠されていた向こう側、見えなかった声の主。
側近水天使、シータ・クラヴィシス。
輝く金髪と水色の目、これぞ天使と思い描かれる配色の美女がそこにいる。
「シータ、この子がリトネウィアだ」
リフォルドの紹介で互いの名が知れるのだけれど、それより早く彼女の水色の目はボクを映して目を見張り、息を呑んだ。
「初めましてリトネウィア。私はシータ・クラヴィシス、リフと同じ側近の水天使です」
にこりと微笑んだシータは綺麗だけれど、先程の表情が気にかかるので何とも言えない心地になってしまう。
そうでなければ美女の微笑にきゃーきゃーと内心で騒ぐところだ。
ほんの一瞬とはいえそんな驚いた顔をされては気にならない方がおかしいよね。ボクの何処に驚きポイントがあるのか見当もつきませんが。
思うところはあれど挨拶には挨拶を、と声は出ないので代わりにぺこりと頭を下げる。
実は地味にバランス保つの大変なんですよ。イルファが支えてくれているので無様に落下しないだけで結構危ういんです。幼児体型恐るべし。
くだらないことを考えつつ下げた頭を戻せば、丁度リフォルドがどうして心声を使用しないのかを説明してくれていた。
「封印石で法ごと使用不可。挨拶はまた声が出せるようになってからな」
「そうですか、では今回は顔合わせだけになりますね」
微笑んで語りかけてくれるシータにこちらも笑みを返せばくすりと彼女は笑って視線をボクからイルファへと転じた。
「おはようございますイルファ」
「おはようございますシータ様」
あ、うん。リフォルドには多少の慣れがあるんだなと実感しましたよイルファ。表情硬い。
「リフも言っていたとおり気を楽にするといいですよ。この場の空気が影響しているとはいえ私たち相手にその様子では後が大変です」
くすりと微笑みながらのお言葉にイルファはやや引きつり気味での苦笑。これはどうにもならないのではないだろうか、と私は半ば思い始めている。
「わかってはいるんですが…」
項垂れ気味のイルファの様子にあらあらと聞こえそうな様子で笑んでいるシータ。
動作に合わせてサラサラと揺れる長い金糸の髪が非常に美しい。隣には白銀の髪のリフォルドがいるため金と銀の対比が輝いています。とってもいい光景。誰か私にカメラを授けてください。連写します。
イルファが緊張に胃を攻撃されているというのに保護者を放置してマイペースに目の保養中。
大変薄情者ですね私。大丈夫、自覚してます。
そして余裕ぶっこいてると痛い目を見るものなんですよ。世の中バランスよくできていらっしゃることで。
「シータには笑い返すんだな。やっぱり男の方が警戒されてるのか?それとも」
小さめの声ではあったが近くに集まっているため全員に聞こえたやや不満そうな色を覗かせる呟き。
声の主へと目を向けてばちりと深紅にぶつかってしまった私の行動は、身を竦める。反射の行動だった。
「俺の方に問題あり、か」
イルファに抱き上げられて目線の合う高さにいる我が身を小さく縮めている己の動作は身構えていると言われても仕方のないものだ。もしくは怯えている、か。
別に恐怖を抱いているわけではない。怖いと思えるものは感じていないのだから当然だ。
では何故なのか、そう問われたならばひどく簡潔に答えられる。
ただの人見知りだ。
そもそも人間であった時人付き合いが得意とは言い難かった。自分の時間と世界観を最優先として行動していたためにそれを乱されることをとにかく厭う。仮にも成人している年齢であったが為に必要最低限の人付き合いはするがそれ以外は引きこもりと呼んでいい。
そんな根本の記憶を残したままの生まれたて、知ってはいるけれど知らない天魔に全幅の信頼と安全性を即座に寄せられるほど軽い頭はお持ちでない。
平々凡々、生温く平和を謳って生きていた世界での警戒心などお情け程度しか意味をなさずとも多少は持ち合わせがあったそれは懸命に働いているらしい。一応褒めておこう。無意識であろうと存在していることに意味がある。
自分に非があると困った顔で笑うリフォルドは悲しそうに見えた。悲しげでも見惚れる美しさのお顔だが、見て取れる感情が問題でそれを生み出しているのが私であるという事実がなお問題。
ちくちく胸が痛みますよ。
とはいえ、己が命に直接関わるであろう生涯かけて守り通す必要がある秘事、それを見透かされると怯えた記憶はそう簡単には消えないということです。
そして恐らく消えてはいけない。それによって守られるのは、己だけではないはずだから。
「…リフ、何かしたんですか?」
ぽむぽむとイルファに背を叩いて宥められる身を竦めたボクと困り顔のリフォルドを見てシータが問う。
やや咎める響きが入っているように聞こえたのは気の所為だろうか?
「明確に何かやらかしたわけじゃない。…ちょっと探る目を向けた、それが悪かった」
ばつが悪い、と感じさせるリフォルドにシータは静かに息を吐いた。
「生まれてすぐに封印石を必要とするのであれば警戒せよと大樹にしつこいくらいに諭されているでしょう。それはリフが迂闊だったとしか言い様がありませんね。例え悪気がなくとも受けた側には悪意でしかありません。反省なさい」
にこやかにきつい、それがシータ。
設定上では知っているが目の当たりにすると…ね。リフォルドも心なし身を小さくして「すみません」と謝っている。間違っても逆らってはならない天使であると脳みそに刻みつけておこう。
なんて密かに考えているとシータがボクを見たので小さな肝が縮みました。
「恐い思いをさせて御免なさい。けれどリフは決してあなたを害そうと考えていたわけではありません。どうかその印象だけでリフを判断なさらないでください。昨日からずっとそわそわと落ち着かなかったのはあなたを思ってのことでしょうから」
「シータ」
己を擁護するシータにリフォルドは深紅を細めたが、対する水色は怯むこともしない。
「抵抗する術を持たない幼子が害されることを許さない己が、本心はどうあれ同じことを成したと苛まされているのでしょう?」
「…」
沈黙とは言葉よりも雄弁なことがある。声なき返答にシータは口角を上げる。
「自己弁護なさらないのは潔くありますが、あなたを誤解されたくない私たちには恨めしくもあります。幼子に怯えられて落ち込んでいる方は黙って弁護されていてくださればよろしいのですよ」
強制力が発生していませんかシータ様。
笑顔の向こうで何かが睨みつけているように感じられて少々恐いです。
「とはいえ、私のリフ語りに時間を取るわけには参りませんから今回は諦めましょう。あまり両王をお待たせするわけには参りません」
すみません、リフ語りって何でございましょうか。そして諦めるのは今回だけですか?次回があるってことですか?不安しか生まれない言葉が聞こえてますよシータ様。
戦々恐々な私と側近二人の会話を見送るしかないイルファがその存在感を空気にしかけていたところで聖魔殿へと来た本題へ話は戻ります。
カタカタとやはり執務机であたりらしい機械端末をシータが操作すると私とイルファの正面、側近の二人の後方にある扉が自動開閉。端末での操作で開閉管理しているらしい扉の向こうは当然ながら通路。
直線らしいが距離が長そうに見えるのはボクの気の所為でしょうか。
「はい、いってらっしゃいませ」
許可したのでどうぞ、ではあるが釈然としないものがある。
だがこのまま話し込むのもどうかと思う。なにより当初の目的が謁見である以上ここで話し込む選択肢は存在していない。
「…行ってくる」
何かを一つ諦めた様子のリフォルドに同意をしておこう。
「失礼します」と述べてイルファも先に動き出したリフォルドの後に続くので見送ってくれるシータに言葉の代わりにぺこりと頭を下げればにっこりと笑ってくれた。美人なお姉さんは素敵だと思います。
扉を潜り通路を歩きだす二人の後方で、ずずんと重厚な音が聞こえてもよさそうなのに静かに扉が閉まった。
リフォルドに先導されて通路を歩くイルファ、その腕に揺られるボク。
聖魔殿の入り口とはまた違った静かさがある通路に反響するのはやはり足音だけだ。
「イルファ、別にとって食われるわけじゃないんだからそう緊張するな」
どういう不思議か外から見た時は果てがないように見えたのに、歩き出して見れば長くはない通路を静かに進みながらリフォルドは後を追うイルファに小さく笑いながら声をかける。
「重々承知なのですが、聖魔殿に立ち入ること自体が少ない私が両王様方の御前を拝するなど…緊張するなという方が、無理です」
余程緊張しているのであろう。イルファの表情は強張っている状態から変化がない。
意味がなくても大丈夫かを問うてやりたくなる。
「リトネウィアの方が余程落ち着いてるな」
ちらりとボクを見た深紅の瞳に「ん?」なんて瞬き、緊張なんて一切していないことに今更ながら気が付いて首を傾ぐ。けれど疑問を思うよりも通路の奥を見てほぅと息を吐く方が先だった。
綺麗な音がする。
穏やかで温かい。とても静かな湖面とそれを照らす柔らかな陽光。
そんな印象を与えるFにAとGの混ざった音。
ひどく優しい調和の取れた音はきっとこの扉の向こうにいる天魔が作り出している世界。
「むしろ目を覚ましてからいままでで一番落ち着いてる様子が不思議ですね。ちょっと羨ましいですよ」
「お前も相当だな」
何処か夢見心地な心地よさにうっとりしているボクを見て言葉通りの表情を向けているイルファにリフォルドは苦笑した。
そうして再び現れた扉に足を止め、リフォルドは扉の傍らにある端末を操作する。
恐らく扉の開閉には専用のパスワード的なものが存在しているのだろう。こうして入れるものと入れないものを管理しているのかと細かな世界事情に内心で感心しながら密かに楽しんでいる。
「側近リフォルド・シェル・フェイルス、入室します」
音声入力かな。リフォルドの発言の後、圧縮された空気が抜けるような音がして扉が開く。
緊張の一瞬、なのだろうがイルファのような緊張はボクにはない。きっとこの聞こえている音に緊張を緩和されているからだろう。
視界に映るのは王の執務室…というよりは何処かのSF物語に見られそうな基地司令室、そう呼ぶのがふさわしいだろう機器端末とディスプレイ表示ではなく空中投影されている映像の数々。オタクやマニアが喜びそうな光景だ。正直私もかなりときめく。
と、その画面に視線を向けていた室内の二人が動いた。
アイスブルーに碧眼、墨色の黒に蒼。天魔最高位の天王、魔王の御二方。
「遅かったで…す……ね…」
「……」
どうしたわけか両王はゆっくりと固まった。驚きで。視線の先にあるのはボクなのに。
まさかのお前なんか呼んでないよとか、抱き上げられての登場かよなんてことではないですよね?
前者だったらなんでやねん、後者だったらいまのところ自力歩行はまだ無理なので御容赦頂きたく。
緊張しているイルファはもとよりボクはどうしていいのだろうか。生まれたての下っ端が王様方の行動より先に何らかの動作をしていいものなのか。抱き上げられているので先程シータへと向けたように会釈しかできないが。
そんなことを考えているボクを知ってか知らずか、リフォルドがボクを見てから苦笑する。
「やっぱり両王でも驚きますよね。この髪」
髪?この恐ろしく長い髪のことですか?
真っ黒で真っ直ぐな髪は驚くことに目算百七十から百八十近くありそうなイルファの身長よりもはるかに長く、ボクのミニマムな体では何処をどうやっても床に引きずる。現にイルファに抱き上げられているいまも引きずらないようにとボクの背中からイルファの肩を経由し、それでも彼の膝下の高さで揺れている程。
長過ぎだ。
「…な、んですかその髪は」
衝撃から返ったのか見目麗しい御方は思い切り顔を引きつらせて言った。眉間に皺が寄っていないので不愉快ではなく驚きで表情が引きつっているのだと推測する。
そうしなくては私の心がへし折れる。初対面で不愉快認定とかめげる。
どうにも驚きポイントはこの長過ぎる我が髪の毛のようだ。視線が痛いくらいにボクの髪へと注がれているのがわかる。
長過ぎて見苦しいのでしょうか。だとすれば直ちに切り裂き処分致しますよ。
「そんなことが出来る馬鹿が何処にいるんですか。大体その密度の髪を切り裂ける技量持ちの天魔は上位者の中でもさらに限定されます。そしてそれが出来るものは頼まれてもそんな愚行に応じません」
碧眼が細められて呆れ半分苛立ち半分という感じですぱっと言い切られました。
美人に凄まれると迫力があります。
というか…切れないのか。重くはないが常時床を引きずりモップ代わりになるのですか。密度というのはよくわからないがその所為で切れないとなると面倒なことですね。成長に合わせて伸びてくれればいいのに現時点で異常な長さとか邪魔以外の何物でもないではないですか。
どうにもならないらしい結論にむすっとしていれば、今度ははあっと溜息が零れた。
自分の髪に視線を落としていた目を動かして音の出所を見れば両サイドが長いアイスブルーの髪をかき上げている彼の方の姿がある。
「髪は制御に必要なバランサーの役割があるんですよ。邪魔と切ることから離れなさい。とりあえず結い上げてあげますから」
どうしたものかという様子ではあるが説明をしながらもこちらへと歩み寄ってボクへと手を伸ばしてくれる姿に自然とボクもイルファの腕から身を乗り出していた。
イルファよりも小柄で細い方だが抱き上げる腕は危なげなくしっかりとしていて優しい。
「三週間も孵らなかったにしては小柄な子ですね。リトネウィアでしたか?ミカエル・シーフィリフス、天使の王、天王です」
小柄なのですか…。そういえば大きな力を抑えるのは大変だと大樹がぼやいてましたね。
成長阻害になっても仕方ないほどの力にさらされているのに己が制御は残念通り越していますから未熟な体に負担を強いて発育不足にでも陥っていたのではないでしょうか。そうであるならばその程度で済んでいるのは御の字ではないかと思われます。
ああ、ご挨拶が遅れました。私はリトネウィア・レム・オルテンシアと申します天王殿。
自身の椅子に腰を下ろし、対面する形でボクを膝上に乗せた彼の方へにこりと愛想よく笑んで自己紹介をすれば、きょとんと目を丸くしてから天王殿、ミカエル様は笑った。
「リフォルド君と同じ呼び方ですか」
…様の方がよろしかったでしょうか?
「いえ、構いませんよ。煩い元老共の前でなければ別段名を呼んでも問題はありませんからね。必要なのは相手からの了承くらいでしょう。王の位についてからは私もレイジェルも親しい一部にしか名を呼ばれませんが」
生まれたてほやほやの新生が名を呼んでいたら馴れ馴れしいと周囲に間違いなく叱責されますね。
ミカエル様とお呼びするのは心の中だけに致しましょう。
うんうんと頷けばくすくすと笑う美人様。眼福です。
「いま聞こえているのであれば同じことでしょうに。面白い子ですね」
失礼とか無礼とか身の程わきまえろとか怒られないのですか?
「さっきも言いましたが煩い元老共の前でなければ別段構わないんですよ。ミカエルでも天王でもリトネウィアが呼びやすい方で呼べばいいんです」
成程、公私を分けられるのであればそれでいいというわけですね。
「そういうことです。重くないとは言っていましたが大丈夫そうですか?」
話しながら髪を結ってくれていた天王殿。意識を髪へと向けるが重みはない。精々背中ほどしかなかった髪を簪で結い上げたときと同じくらいだ。不思議でならない。
どうして重くないのでしょうか。物量的にかなりおかしいと思います。
「言ったでしょう。髪は制御のバランサー、髪の密度が濃いということは法の力が濃いということです。レイジェルもそうですがリトネウィアもここまで密度が濃ければ最早髪というより翼に近いです。自身が意識などしなくてもあなたを何より第一に考える加護精霊が勝手に管理してくれます。重量操作なんてわけありませんよ。あなたに構いたくて仕方ないんですから加護精同士で熾烈な役割争いをしていますよきっと」
熾烈な争いって…。
「冗談ではありませんよ。精霊は感情の機微に敏いものです。気に入ったものの為になら身を粉にして働くというようなところがあります。呼びかければ嬉々として、声をかけずとも感情に応じて集う。私ならば火と光ですがリトネウィアは水天使ですから水の割合が多そうですね」
そうなのですか。やはり最優位は自身の属性なのですね。
「加護精が率先して動く所為でしょうね。どれほどの数の精霊が集まろうと、集まった精霊の力に差異があろうと、最も身近な加護を持つ精霊が優先権を持っているようですから必然加護精霊の同属性が優位に働くようですね」
納得。
「ほら、出来ましたよ。手持ちがないので結い上げただけになりますが自分で歩いても引きずることはないですよ」
きゅっと何かを結ぶ音がしてボクの髪を結ってくれていた天王殿の手が髪から離れた。
生憎鏡はないのでどのように結われているのかわからないが、背中に髪が流れている感触はあるので簡易に折りたたまれているのかもしれない。自力歩行はまだ無理だろうがありがたい。
ありがとうございます天王殿。
にっこりと笑って礼を述べると同じくにこりと笑みが返ってくる。
「どういたしまして」
うん、美人の笑みはすごい威力。眩いですね。カメラください。
「…落ち着いたところで口を出してもいいか?」
降ってきた流麗なお声に頭上を振り仰ぐと…。
「おっと」
頭の重みで天王殿の膝上から転がり落ちそうになった。
ひょいと浮遊感を味わったかと思えば再び視点が高くなり、視界に入るのはこれまた美人な御方。
「幼い体でその動作は危ないな」
苦笑しながら体を抱き直してくれるのは悪魔の王様です。墨色の長く綺麗な髪と他にはない蒼い瞳。
ああ、なんて綺麗。
「なんとなく会話は察するがお前しか理解出来ない会話を続けるな」
視線はボクではなく天王殿に向かっているが、そのおかげでさらりと高い位置で留められている髪が近くに流れる。無意識のうちに伸ばした手が触れた感触は驚きの一言だ。
極上の絹糸のように滑らかで柔らかく、艶やかで細いのにしっかりとした触り心地。
そして、至近距離に来て初めて認識できる髪に込められた力。
力を光として認識して見ることが可能らしい目であるが、現在封印石によって強制的にその機能は閉じられている状態だ。それでもなお見て取れる光に成程密度というのはこういうことかと一人で納得する。
「…何を笑ってるんだミカエル」
返答せずくつくつと笑う天王殿に軽く苛立ったのか彼の方の表情がむっとしたものになる。
「笑うなという方が無理でしょう。自他ともに認める生まれたての新生が、私たちを王と認識しているにも拘わらず、怖じるどころかマイペースにレイジェルの髪を見て密度という言葉を実感しているんですから」
「は?」
笑い続ける天王殿から視線をボクへと戻した彼の方が見るのは流れてきた墨色の髪を一房そっと捕獲して凝視しているボクの姿だ。
「ふふふ。リトネウィア、密度を実感しているところ悪いんですが視線を上げて貰えますか?」
「ん?」なんて呼ばれた名に反応して椅子に座っているままのため下に見える天王殿に言われるまま視線を持ち上げると蒼い瞳とぶつかった。それも結構近い位置で。
「……」
「……」
互いに無言で視線を合わせて三拍。ボクはそっと捕獲していた触り心地が堪らない髪を解放した。
その動作にちらりと彼の方の視線が解放された自身の髪へと流れたが、すぐにボクの目へと戻る。
「私の髪と比べたところで自分の髪と大差ないと思うのだが…」
そう言って視線をボクの結われたばかりの髪へと向けるので静かに、しかし激しく思います。
いやいやまさかそんな。ボクの髪と比べたら天と地ほども差がありますから。最高級の絹糸とそこらの木綿糸比べるようなものです。身の程を知れですよ。
と即座の反論を内心で行っていれば、ぷはっと吹き出す音がした。必然視線は音がした方へと向かう。
「…ミカエル」
「ふっ…はは、あはは…本当に面白い子ですね」
「ミカエル」
一人笑う天王様にいい加減にしろと言いたげに名を呼ぶ彼の方。
「特異性を使って声を聞くのはいいが一人だけ理解して笑うな。せめて伝わるように説明しろ」
特異性。…そういえばボクはさっきから一言も喋ってないのに会話が成立していましたね。
ま、話すこと自体が現在不可能ですが。
「法とは別の他にない能力、それを総じて特異性と呼ぶんですよ。私が持っているのは精神感応。簡単に言ってしまえば考えている心の声を感じ取る能力ですね。私がリトネウィアと会話出来ていたのはこの特異性のおかげです」
ああ、成程と頷くボクとついに眉間に皺を寄せた彼の方。
「ミカエル」
「別におかしな話はしてませんし込み入った話もしてないですよ。この子が自分の髪の重要性を知らずに邪魔なら切ってしまおうなんて考えていましたからやめなさいと説明した程度です。あとは自己紹介くらいですね」
微笑を絶やさない天王殿にはあっと溜息を吐いて彼の方も自身の椅子に腰を下ろした。
そうしてボクは膝の上に下ろされるわけでして…。冷静に考えたら両王様方のお膝に乗せてもらうなんてすごいことではなかろうか。
「もういい。リトネウィア」
心ときめく美麗なお声に名を呼ばれて再び蒼い瞳を見つめる。
「レイジェル・シェル・フェイルス。そこにいるミカエルと同じく王位についている悪魔だ。魔王でも名でも好きに呼ぶといい」
軽く投げやりですねレイジェル様。
「おや、私は天王殿でレイジェルは様なんですね」
即座に反応してくる天王殿に魔王、レイジェル様は溜息を吐いた。
分かり易すぎるくらいにしっかりはあっと。
「生まれたばかりでこれでは会話は無理だな」
さらりとレイジェル様の長い指先がボクの横髪を払う。横髪を払った先にあるのは耳とそこに下がる封印石だ。深紅の石を見て僅かに眉を寄せるレイジェル様。何事でしょうか。
「リフォルドの霊泪石か。許容量は妥当だが……致命的なまでに合わんな」
じぃっと耳元で揺れる石を見て呟かれたレイジェル様はごそごそと懐を探り始めた。
何をしているのだろうかと小首を傾げてその動作を見つめていると宝飾品を納めていそうな小さな箱を取り出された。蓋を開けて中身を確認すると蒼い瞳が真っ直ぐにボクを見つめるのだが、話しかけるでもなく無言。
何をなさっているのか知りようのないボクは例えようのない色合いの蒼を間近で堪能することになる。
本当に綺麗だ。見る角度によっては淡くも濃くも見える様子はカットを施された宝石のようでもある。
「許容量が不安だが、合ってないよりはましか。少し触れるぞ」
断りを告げるレイジェル様にこくりと首肯で応じれば難しい顔をしていたのをほんの少し緩ませてくださった。
目元が緩んだそれだけでドキドキなのだから満面の笑みとか見たら卒倒ものだなんてぼんやりと考えていると横からはくすくすと笑っているのが聞こえる。内心駄々漏れでちょっとだけ自重できればいいのにと自身を残念に思うのだが、これもきっと聞こえているのだろうな。
そう思うと精神感応は基本的に受け身であることから扱いには相当難儀しただろう、とそこまで考えて自分は?と疑問に思ってしまいげんなりとなる。
明らかな面倒事がリトネウィアとして生じた瞬間から山積しているのだから凹みたくもなる。
と、思考があちこちへと錯綜していると耳に指先が触れてリンッと音がする。
覚えのない感覚なので不思議なものだが、どうやらピアスが外されているようだ。何故?と思うより途端に変化した視覚と聴覚に目を見開くことになる。
蒼い世界。
三百六十度の全てが様々なあおに彩られて万華鏡のように煌く。
薄い薄い薄氷に覆われた澄み渡る湖面の上で立ち尽くす不安定な孤独感。
とても静かなのに哀しい寂しいと哀切を謡う水の揺り籠に包まれる。
果てのない湖面の蒼く澄みきった薄氷世界。
生物が芽吹かない終焉の静けさ。
そんな世界の中心で、たった一人咲き誇る瑞々しくも可憐な蒼い花。
ああ、これが彼の人、彼の存在。大樹の言った“凍てつく地に愛された子”。
「レイジェルッ!」
悲鳴とも非難とも取れる叫びに意識が引き戻された。
ちりんと可愛らしい音が耳元から聞こえて不慣れな感触が耳についたことを知る。
「……ミカエル?」
困惑の声を発するレイジェル様の姿を視界で認識していまの風景は何だったのかと呆然となりながら、ふるりと頭を振ったのは見たばかりの世界の名残を振り払うためだ。
「お前…っなんて顔色!」
「っ!」
天王殿に異変があったらしく腰を浮かせたレイジェル様。膝上に乗せて頂いていた私は落ちそうになって反射的にしっかと彼の御方の衣服を掴んでしまう。皺になったら御免なさいとか考えているあたりちょっと余裕がある気がしてならない。そうでなければ突発事態に対しての現実逃避だ。残念極まりない。
「動くなっ」
ボクが衣服を掴むのと、ボクの存在を思い出し手を伸ばしてレイジェル様が支えてくれるのと、天王殿が制止の声を上げるのはほぼ同時。上げられた鋭い声は強く、耳だけでなく体を竦ませるほどの何かがあった。
日に焼けたことがあるのかと伺いたくなる肌色が青白くなり、微笑みではなく厳しい苦痛の表情を浮かべた天王殿は椅子に体重を預けて深呼吸をした。
「…不意打ちだ」
舌打ちせんばかりの様子で言葉を発し、深く呼吸を繰り返す天王殿。その周囲には何時の間にやら熱を灯すGの音が遠く聞こえる。
「何か拾ったのか?」
制止に従って椅子に座り直したレイジェル様がボクの体制も整え直してくださるので掴んでしまった衣服から手を放す。共に視線は天王殿へと向かっているのだが、肝心の天王殿は碧眼を伏せてこちらを見ていない。
一体何が起きたのか、大丈夫なのか。不安に思えど答えがなくてはどうしようもない。
「ふぅ…いや、意識を寄せてた所為で巻き込まれた。こっちの落ち度だ。いいからもう片方も付け替えてやれ」
自分のことは良いからと突き放す様子で手を振られてどちらからでもなくボクとレイジェル様は目を合わせた。
「……黒」
「?」
ぽつりと呟かれた声はよく聞こえなくて首を傾ぐが、何かを確かめようと見つめるレイジェル様は先程のボクのように頭を振った。
「じっとしていろ」
言葉を発せないボクにレイジェル様が何をお考えなのか問うことはできない。それに天王殿の様子も気にかかるので一先ず首肯を返す。
そうして理解する。先程は左耳、今度は右耳。リンと音を鳴らした霊泪石の封印石付きピアスが外され、レイジェル様が取り出した別のピアスに付け替えをされていることに。
古き良き日本家屋の蔵を守るがっしりずっしり重厚な鍵、そう感じたリフォルドの霊泪石で作られた封印石とイメージが全く異なる。
一言で言えば華奢。付け加えれば精緻。複雑に重なり連動する時計の内部構造を思わせるのに、見えているのは西洋骨董品な装飾を施された小さな箱。
どちらも南京錠の形状を取り窓に封をしているのだが、そこまで違うかと言いたくなるほどに様相が異なる。
リフォルドのものはG、こちらはFだが属性の問題もあるのだろうか?まったくわからん。
「……………蒼」
聞こえた小さな声で思考に沈んだ意識が戻される。
ちりんと音をさせるのは取り替えられたピアスらしいが、レイジェル様の表情が…いただけない様子なのだがこれ如何に。
幽霊か何か、見てはいけない存在してはいけない類のものを見てしまった、そんなご様子に見えるのだが私はあなた様にそのようなお顔をさせてしまう言動を働いた覚えは一切ございませぬよ。
そして私はナマモノです。
「…あの」
意味不明の沈黙が落ちて困惑しているのはボクだけではない。
「全く持って状況についていけないのですが説明を求めてもよろしいですか、両王?」
室内に入ってから空気同然となっていたリフォルドが挙手して発言し、そのやや後方でイルファも緊張ではなく困惑を表情に出している。
「そう、ですね。簡易ですが顔合わせも紹介も済みましたから取りあえず昨日の四大室の報告を改めて聞きましょう。正直そちらは話が長くなるうえ場所を改めた方が良さそうです」
ふうっと何かの名残を払い飛ばすかのように息を吐いた天王殿はまだやや青みがかった顔色でよろしい様子には見えないのだが、先程の余裕のなさそうな荒い口調からは戻っている。
平素は丁寧な言葉遣いでも機嫌を損ねたり余裕がなくなると地が出てくる御人設定は健在かな。
「場所を、ですか」
ちらりとリフォルドが現在の場所を確認したのは仕方のないことだろう。
聖魔殿最奥、天魔両王の執務室たる場に施された幾重もの防壁に結界。何処よりも強固で堅牢であるはずの場所が相応しくない話とは一体何なのか。
問いたくても問えない不吉な響きに顔が引きつるのは自然な流れだ。
「ではご報告を」
何故何どうしてを一先ず飲み込んで口火を切ったリフォルド。
お仕事ですと切り替えたんだろうな。
「新生水天使リトネウィア・レム・オルテンシア」
名を、それもフルネームで呼ばれて何事かと瞬くボクだが、報告中のリフォルドは近くにある機器へと手を伸ばして空中へと投影表示されている画面を操作している。
両王へと示されるそれを肩越しに振り仰げば、どうにも個人情報のようだ。…ボクの。
「昨日誕生したばかりの新生位、水属性一点特化。なかでも氷雪系へ偏っています。続くのは光、反属性である火より闇の方が低い値の為光天使であるとも言えます」
所謂パラメーター表なのかな。六角形のグラフで表記されているのは各属性のボクに割り振られた値なのだろう。中心を零として凸凹となっている図はリフォルドの言う通り闇の値が一番低く、次いで火の値が低い。地の値は火よりやや高いくらいだが、反属性の風の値が代わりに高い。光は風よりもなお高く、一点だけ異常あり。
「…」
すみません、視線がそこから動くことを拒否しているのですが、計測不能表示されている水の値は何ぞや。
誰か突っ込みを入れてくれ。
「また特異性も有しているようです。そのため誕生後封印石による封じを施しましたが、封印石は目を覚ましてから僅か数分の間で台座のみを残し石は粉砕」
誰もあの表示に疑問を持ってくれないのかスルー。報告を続けるリフォルドはイルファに何かを渡し、機器の操作を行う。何かを受け取ったイルファはレイジェル様へと近付き、膝を折ると掌の上のものを差し出す。
「それが現物です。所有者は四大火天使イルファ・ソル・フライトシェネレス。本人が使用することのあった四大適用可能な火属性の封印石で石の種類は…」
「二級品の紅玉、加工者は四大地悪魔タルージャ・ボリグエ・フリシェリオ、四大水悪魔カラリナ・アージナイオ・ケリテの二名。石に特性はありませんが封印石を装着したまま心声だけを使えるよう特殊な加工はされていました」
リフォルドの説明を引き継ぎ破砕してしまった封印石の詳細を述べるイルファ。現時点でボクはこの内容を聞いても品の良し悪しなど分かりもしない。紅玉ってアレですか?宝石のルビーとか。
加工者として挙げられた四大二人、昨日会った想像の斜め上に性格がぶっ飛んでいたカラリナと同じく眼鏡をかけているタルージャは学者肌という印象しか残っていない。こちらも抜き出して書いたことがないのでよく知らないが、アシス、カラリナの両名以上におかしな性格の天魔でなければいいと思う。
レイジェル様が何かを手に取るとイルファは下がり、レイジェル様は手にしたものを眺めてから天王殿へと示す。
「装飾師でないにしては良い出来だ。単純に石の問題だな」
手にしていたのは小さな箱で、それは四大室でリフォルドが破砕した封印石のピアスの台座を納めていたものだった。…報告用に回収していたのか。
「石の容量よりなによりレイジェル同様の水属性一点特化者に反属性が問題ありですね。しかし、異常こそ感知しましたがよく暴走しませんでしたね」
ボクを映した碧眼に言葉になされなかったものがある気がしてならない。それが何かはわからないけれど。
「それ、なんですが……」
カタカタカタとコンソールパネルを叩く音がして画面表示が移り変わっていく。
パパパパパと次から次へと様々な図とグラフ、長大な文面に何者かの情報と表示されては消えていく様子に操作しているリフォルド以外が微妙な顔になる。
何をしているのかを問いたいのだが口を挿める様子ではない。何故ならば示されている画面の比ではない量と速さでリフォルドの手元で情報が躍っているからだ。流石情報を得手とした悪魔、処理速度についていけない。
「おっと、これは駄目かな」
続いていたパネルを叩く音が急に消え、代わりに表示された画面は…毒々しいほどに真っ赤な文字で表記されたパスワードの入力画面でした。
見るからにやばそうなにおいがプンプンしている画面でございますね。
情報の閲覧は機器の基本操作さえわかっていれば誰にでも可能だが、すべての情報にはパスワードがかけられているため閲覧したければパスワードを入力する他ない。
「パスワードは何処から入手するのか?」と問われれば、画面上から必死に読み取りなさいと返される。
全ての情報を管理記録しているのはマザーと呼ばれる存在で、天魔はその情報を指定されたパスワードを入力することで「自分はこの情報を見るに値するだけの実力を有している」と示し、閲覧許可を得ている。
画面上から読み取るとはいうが実際は視覚や聴覚などの知覚できるものへヒント情報がもたらされているらしく、それを正しく解読できれば晴れてパスワードの入力が可能になる。そんな感じらしい。
で、だ。この表示されている画面がその実際のパスワード入力画面なのだが、ご覧の通りの派手な色。
自然界で目立つ色している生き物は毒持ちと相場が決まっているんですよ。触るな危険。
「アタックシールド内包か…。条件がきついなコレ」
面倒そうに呟くリフォルドの言葉にいまこの場の全員の視線が向けられている。恐らく思っていることは同じはずだ。
「一体何の情報を見ようとしているんだ」と。
アタックシールドというのは読んで字の如く、攻撃してくる防壁である。正確に言うならば防壁内に内包された攻撃性の法か。
パスワードとは別に攻撃性の法が情報内に組み込まれており、通常のパスワード入力だけでは情報閲覧はなされない。
とはいえパスワード入力が正しければ閲覧できないというわけでもないのだ。その場合アタックシールドが展開する法から生き延びられれば、なんていう一歩間違えば死亡直行便に強制乗車させられるのだが。
この誰がどう見ても危険物、一応解除条件は存在する。
マザーによる許可が下りているものであれば同じ情報を閲覧しようとしてもアタックシールド付きのパスワード入力画面へと進まない。どう許可が下りているのかは全く不明だ。
それ以外での解除は、所謂ハッキングだ。パスワード画面上から情報管理を行っているマザーの端末へと侵入し、アタックシールドを取り除く。
必須条件は機器の取り扱いに詳しく情報能力が高いこと、さらにマザーの端末へと侵入するためには法の力を必要とするため、侵入・解除・撤収を行う間ガンガン消費されていく力を賄えるだけの力保有者でなければいけない。
想像すらできそうにない所業を何でもない顔でさらりとこなすのが天魔界一の力保有者であり情報に特化した技能を持つリフォルドである。
「うん、駄目だなこれは。ワード自体が異様に重いのもあるけれど解呪に失敗すると流石に死ぬ」
さらっととんでもないことを述べて展開していた画面を今度は次々と閉じていくリフォルドのあっさりとした声音と静かになった室内の空気の重さの対比が凄まじい。
「……リフォルド、お前は一体何を調べていたんだ?」
当人以外の全員が思っていたことを問うてくれたのはレイジェル様でした。
いくらなんでも死亡発言は聞き捨てならないですよね。
「暴走は自身の力を御しきれないことで起こるもの。制御力を補う抑止鉱石や封印石が破損することによって制御を失い体内から体外へと発散される力、もしくはそれにより集った精霊たちによって引き起こされる属性を伴った力が炸裂し、周囲へと被害をもたらす。中心地で直接被害を被るか力が枯渇するかによって当人の生存率には差がある」
いくつかの画面が表示されるが、そのどれもが何処かの爆心地のような有様の画像だ。
ひょっとしなくても暴走を引き起こした後の現場写真的な?
ぞっとしないなと思っていると画像は消された。
「リトネウィアは違う」
機器操作を終えたのかリフォルドの目がボクを捉える。
ぶつかった視線にやはり反射で身が竦むが、話題は私自身のことで重要性が高いと判断されるもの。
竦んだ身はどうにもならないが、目は逸らさない。
気の所為でなければほんの少しだけリフォルドの目元が和らいだ。
「力が噴き出したのは封印石が砕けた所為ですが問題はその後。通常噴き出した力は周囲に散らず、意図的に散らすか法によって消費されない限り場に留まり凝り固まる。室内ならば閉鎖空間の為より場に留まりやすいはずなのに、リトネウィアの力は大気へと還元され流れていた。自身へと還るわけでもなく凝り固まることもせず、始めから大気へと還ることが自然であるかのように周囲へと溶けて流れていった」
えーっと、ドライアイスで作り出す人為的なスモークを想像すればいいのか?二酸化炭素の塊を水に投下、ぼこぼこと激しく固体から気体へと昇華作業をしているドライアイスは白い煙の形状を取る。
二酸化炭素は空気より重いので地表に溜まり、風がなければ流れて行かずにその場でたゆんと溜まる。
溜まるが放っておけばその内無色透明何時の間にやら消えてます状態になるのだが、力は自然還元など起こらないので地表に溜まりっぱなし。だがしかし、私の力はどうしてか二酸化炭素の如く解体されていたと。
恐らくいろいろ化学に関して情報的に間違えている気はするが詳細なんて気にしてはいけない。
取りあえず、通常の暴走と状況が違うことは理解。
「ほとんどの暴走は完全に制御不能に陥っているからなのかと思い調べてみましたが、そもそも自分自身が制御困難に陥ったとき必死に制御を成そうとしても還元は起こっていなかった。それ故リトネウィアが懸命に制御を成そうとしていたために起きた現象ではない」
ボクがあわや爆発四散の壮絶死かと必死の抵抗を試みていたことはどうやら制御を成そうとしている状態だったようです。客観的情報ありがとう。
そしてなお他者との差異が示されているがそんなこと言われましてもである。
「力を大気に還元することは意識して力を発露させれば可能なため条件を狭めて調べてみました。属性特化者、髪の緻密さ、特異性持ち」
複数の単語によりクロス検索と。機器類はパソコンと非常に似た構造ですよね。
法の概念がないこととマザーの存在がないことを除けば。
「当人であるリトネウィアを始めに条件を満たしている高位者を除外して確認を行い、古い記録に珍しい天魔が見つかったので詳細を調べた結果がこの二名です」
少し言い澱んで再び機器を操作するリフォルド。
映し出されたのは個人情報、見た目の年齢十歳ほどの子と十五、六歳ほどのまだ幼さの残る天魔。
どちらも色彩は異なるが髪は長く、腰まではありそうだ。
同時に表示されているパラメーターは計測不能とまではいかないが、二人とも一つの属性が飛びぬけて高い値を出している。
「力の保有量はそこまで高くはないですが彼らは翼に難があった子たちです」
翼に難、その言葉に静かに瞬いたのだが、次の画像に目を奪われて気付くものはいない。
表示されたのは先程の二人の天魔の背中、その背にある翼が通常とは様子が異なっていた。
「翼が小さい?」
何故、とも聞こえる疑問を乗せて呟いたのはイルファだ。
イルファの言葉通り表示されている天魔の翼は小さい。片方は片翼が小さく、片方は体と見合わない大きさの翼。
「卵の中で何かあったのか元々そうなのかは不明。ただ翼が未発達だったために法の行使が上手くいかず、制御が困難であった記述あり。姿が幼い頃のものなのは幼くして亡くなったから。しかし、制御や力の問題ではなく外的要因で文面上の死因は殺害された、です。中級位の天魔にしてはワードが重いのは、まあ…そういうことでしょう」
緊張感なく表現するならいじめ、きつく言えば迫害かな。本来あるべきものが異常をきたしていると嫌な方向へと注目を集めるのは必然なのかね。
…他人事と決して笑えないが。我が身には洒落にならない大欠陥が存在しているのだからとてもそんな気にはならない、なれない。
「いま開こうとしていたのはさらに古い記録。単純に名が重いのか他に理由があるのか詳細は不明。名前の開示を求めるだけで命懸けだったので流石に諦めました」
先程のパスワード画面を思い出してか微妙に納得いかないご様子のリフォルドだが、聞いている方はしんっと静まり返りますからね。説明を拝聴していたので元々静かでしたがそんな心境になるんですよ貴方様の発言は。
「先の二名ですが、彼らは暴走を起こした事があります。被害は地の一部破損、軽傷とは言えない程度の負傷ではありますが存命。司令から四大に届かない程度の力の保有量ですが、自身を巻き込んでの暴走でこの年齢の天魔が生き残るのは珍しい」
二枚の画像が表示されるが、場所と少しばかりクレーターの大きさが異なる程度の差しかない何処ぞの爆心地画像再び。
つまりその二方の暴走現場なんですね。これの中心で巻き込まれて生き残れるとかなかなかガッツがありますね。真似できそうにありません。したくもありません。
「なので暴走現場の観測データがどうなっていたかを確認したところ今回のリトネウィアと同じように一部力の還元が起きていたことがわかりました。リトネウィアと比べれば微々たるものでしたが」
それで、と画像を消してボクへと一度視線を向けたリフォルドは両王へと言葉を括る。
「リトネウィアにも彼らのように翼に何らかの異変があるのではないかと推測します」
「わーお」なんて声が出せたならば言っていたかもしれないが、現実は無表情で停止している。
いや、だって過去に虐げられたとまで言及していないが何らかの嫌がらせは受けたらしい実例挙げられて「こいつらと一緒じゃないっすか?」発言ですよ奥様。反応に困るわ。
「生まれたばかりだというのに長い髪は魔王であるレイジェルと同等の密度。加えてこの時期常に背に現れているはずの翼がないことから、ですね」
推測へと解を返す天王殿の言葉にリフォルドは頷く。
天王殿が髪を結い上げてくださったおかげで見えるようになった背中。
この時期、というのは生まれてから大体一ヶ月から三ヶ月の体が外気に馴染むまでの期間のこと。
ある程度の知識だけは卵の中で大樹に御教授頂くが、孵ってしまえば卵の中で守られていたころと異なる外の世界。己の力にすら振り回される不安定な力の塊でしかない幼子たちは声を発することと同じように体を徐々に世界へ馴染ませていく。
法を用いる最重要機関である翼は外気に触れ続けることで世界を巡る力に馴染む。同時に常時顕現していることで使い方を知らない不安定な力を無意識に制御することを体に覚えさせてもいる。
そのため翼を消すことができるようになるまでを赤子として扱い、それ以降は天魔として仕事をこなすための勉強が始まる見習い期間へと移行する。
人間でいう新生児、生まれたてから乳幼児へと成長した感じか。
さて、昨日生まれたばかりであるわたくしことリトネウィアの背中、そこに本来あるべき天使の翼は顕現していない。
「四大室で制御を成そうとしていた時にも翼は確認できていません。また誕生が遅れた理由が、“心声が上手く使えなかったために殻を自身で割ることができなかった”と例の音を言葉として聞き取れたイルファから報告を受けています。さらに付け加えますと、“力の通し方がわからない”らしいです」
続け様の報告に言葉を失っている両王。そんなレイジェル様の膝上でそういえばそんなことを喚いた気がする、なんてたった一日前のことなのに忘却している自分に気が付く。
何というか…追い詰められた精神状態だったものね。
「…」
「…」
静かに視線を合わせた両王。その表情は…よろしくない出来事を見聞きして頭痛いな、そんな表情に見える。
ええ、わかります。他人事として聞いているならばその状況だが、生憎我がことなので天魔両王の御二方が示された実状から導き出す答えと対策は気にかかるところなのです。
はあ、と溜息としか取れない息を吐いたのは天王殿だ。少々苛立たしげに細めた目をレイジェル様に向けて無言。対するレイジェル様は困った顔…に少しばかり愁いが見えるのは気の所為だろうか。
リフォルド、イルファの二人も両王の言葉待ちのため無言。
沈黙、と呼べる状態ではあるがそう表現しないのは“心声”があるからだ。
ボクの知る御二方ならば周囲がそれと気付くようなやり取りを行うとは思えないが、もしもこの身が抱える最大級の秘事に気付いたのだとすればありえなくもないと勝手な想像をしてしまう。
…私は気が付いて欲しいのだろうか?それとも隠していたいのだろうか。
なんて、リフォルドに見透かされそうになって怯えたのは誰だと自嘲する。