ひとりぼっちじゃ生きてけません
「ちょっとちょっと何があったの!?」
ドアが開きっぱなしでなければ破壊も辞さぬ、なんて勢いとご様子で室内に飛び込んできた小柄な人物。
まあ、見目麗しき天魔の方々って基本的にモデル並みの長身にスタイルなので小柄とはいえど目測百六十は確実に超えていると思われます。現在抱きかかえられているために体験できているイルファの視点の高さは人間だった時百五十代だったボクにはちょっとした踏み台が必要な高さだ。故にイルファの身長は百七十から百八十はあると思われるが如何せん測定できるものがないので正確にはわかりかねる。
明後日の方向に思考を展開しているのは疲れた休みたいという無言の訴えですね、わかります。
「お帰り、アシス」
よ、なんて軽い挨拶のノリでイルファが名を呼んでああやっぱり。
四大火悪魔、アシェリス・モルガナ・コンツェシーザ。通称アシス。
蜜柑色と表現したくなる柑橘系の濃いオレンジ色の髪はショートなのだが一部だけ長い部位があり、マリエルとは逆の右側に高い位置で結われ揺れている。瞳は金色と発色よろしいキラキラ色で何故か猫の印象が強いのだが、内面は描いたことがないため未知の領域。
正直四大で内面をまともに把握してたのはマリエルだけだ。ディルは比較的登場が多かったが細かい描写は途中止まり、イルファも表面的なもの以外描いていないので比べるものがないに等しい。あって大まかな印象だけだ。
因みにディルは寡黙、イルファは兄貴分。アシスは元気っ子。
ボクが初見のアシスに設定を思い出そうとして頓挫している間にイルファにお帰りと言われたアシスは想定外の言葉を受けたようで慌てたものがきょとんへと変化していた。
こういう時の反応はいくつかパターンがあるよね。一旦停止状態になる、そのまま会話に流される、ちゃんと答えろよと再度の問い、とか。
「あ、うん、ただいま」
しゅぴっと音が聞こえそうな動作で右手が顔の高さまで持ち上げられて挙手状態になったアシス。
ん~これは一旦流されてから我に返りそうかな?
「お帰り~」
「片付いたのか?」
続いてマリエルとディルが声をかけるのにもアシスは同じ動作をしたのでその挙手動作は挨拶動作と認識する。
「ただいま。一応片はつけたけど後片付けは下級位に任せてきちゃったよ。いきなりこっちで異常反応だったから…って違う!あの異常な力は何事だったのさっ問題なさそうに見えるけど!」
があっと全身で感情を表現するご様子に乗りが良さそうだなと勝手な印象をつける。そして予想が当たってちょっと嬉しいです。期待を裏切らない乗り突っ込みな会話、ありがとう。
「怪我がないなら一安心ですが慌てて切り上げて来た分の説明はよろしく願いたいですよ僕は」
ひょこり、なんて効果音が聞こえそうな様子でアシスの背後から顔を覗かせる天魔がまた一人。
肩より少し長い程度だろうイルファと対照的な青髪は首下で一つ結い、横に長い楕円形の眼鏡をかけた天魔の特徴は瞳の色。右目は緑、左目は桃のオッドアイ。確か色違いの目に面白設定詰め込もうとしていた記憶があるが現実はどうなっているのだろうか。
「カーリィもお帰り。切り上げて来たってナヴァと陣の調整だったんじゃなかった?」
四大水悪魔、カラリナ・アージナイオ・ケリテ。通称カーリィ。
本が似合うおとなしい見た目のカラリナにマリエルが首を傾げながら訊ねていると、アシスの隣に並んだカラリナは腰に手を当ててやれやれと言いたげな雰囲気を醸し出した。
…ん?おとなしいイメージの御人がやる動作と違う気がする。
「危急かと思ってナヴァに任せて僕が戻ることにしたんですよ。連絡役が必要でしょう?」
ゆっくりとした口調に湛えられた微笑はおとなしいのイメージを持ちそうなのに、のんびり朗らかな印象が浮かばないのはどうしてだろうか。
「討伐に出ているレミィとタルージャには動かないよう心声を飛ばし、戻った時に事態が深刻ではなさそうだったのでナヴァも含めて三人には追って報告と伝えてます。三人いるのですからせめて一人は連絡をくれると助かったんですけれど、どう思います?」
「異議なし」
仁王立ちに腕組みのアシスがふんっと強く息をして同意し、カラリナはにこりと笑ってイルファ、ディル、マリエルの三名に無言の圧力をかけたように見える。
ややちくちくした言葉繰りに己の抱いた印象が間違えていないことを悟る。
カラリナはおとなしくなどない。笑顔の威圧を意図して発せるものがおとなしいわけがない。
「ごめん」
「悪かった」
「すみません」
順にマリエル、ディル、イルファ。選んだ言葉によって相手への心証がある程度知れるよね。
言い訳もなく謝罪を述べた三人にカラリナの笑みが苦笑へと変わる。
「はい、次回からはなしにしてくださいよ。これでも結構焦ったんですから」
肩をすくめて笑うカラリナの表情変化を見つつ恐らく最後の苦笑が一番素の表情なのだろうなんて観察をしている我関せずの完全観客気分。
存在感?いまなら空気で結構です。私はこのやり取りで四大の面々の人となりを計っている。
己が身の抱える爆弾っぷりを考えると人間観察ならぬ天魔観察は物理的にも精神的にも安全を確保するために必要だと思っています。
ん?設定と現実の差異を確認しているだけ?あーあー、聞こえない。
「そーだよ、カーリィの言うとおり。心配かけたんだからちゃんと説明しなさい」
めっ、と親が子どもを叱る効果音が脳内で勝手に再生されてアシスの印象が見た目は幼いが実は年上のお姉さん?になる。
年齢設定どうしてたっけ。設定資料が欲しい。
「それから」
ないものねだりのちょっと遠い目になっていたボクを金色の目が捉えて細められた。
「ようやくお目覚めのおちびちゃんの紹介もして欲しいんだよあたし」
「右に同じ」
喜色を乗せた笑みを浮かべるアシスとカラリナ、二人分の視線を受けたボクの行動はというと。
「…」
無言で身を竦めることだったりする。終始無言ですが重ねる言葉に意味がある…と思う。
いや、うん。なんか視線が新しい玩具見てわくわくしている子供を彷彿とさせたものだから、防御姿勢?視線を外さないことがコツ。
猫とか犬とかの毛玉系小動物なら毛を膨らませて警戒レベルを引き上げている状態だと思うよ現在の私は。
先のリフォルド相手とは少々反応の異なる様子にイルファが顔を覗きこんでくるが視線は向けない。
警戒対象から視線を逸らすなんて隙だらけなこと致しませんわよ。
そうやってアシスとカラリナを睨むようにしてじっと見ていると二人はゆっくりと視線を合わせてにっこり笑ってこう言った。
「「新鮮な反応」」
おい何だそのコメント。
「警戒されて楽しいと思うな。変な角度が付いた性格が見える」
我が心を代弁してくださった抑揚のないワンブレスはディルから頂きましたが後半の発言が大変不穏。
頭の重さに振り回される幼児体型を支えてくれているイルファ、二の腕辺りをぽむぽむとやんわりあやす力加減で刺激しないでくれ、警戒が薄れる。聞き捨ててはならない言葉が発されているんだ。緊張感は大事です。
「変な角度とは失礼な」
「そうですよディル。三十七.五度は切りのいい角度の丁度中心です」
ねー、なんて互いを見て笑いあうアシスとカラリナに思うところがあるよね。出てくるよね。仕方ないよね。そう思うボクは正常だよね。
「三十度と四十五度の間は切りがいいとは言わないからね二人とも!そもそも性格が曲がってるって言われてるところを否定しようよっ」
突っ込みありがとうマリエル。その調子で頑張れ。私はキミを応援している。
心の中で緑髪の天使にサムズアップ。
「あたしたちは“真面目で強いぞ質実剛健、心が綺麗だ清廉潔白、正直者だよ公明正大、猪も真っ青猪突猛進、驚くほどに清く正しく美しく真っ直ぐです!”とか言った方がいいの?」
キリッ、ビシッ、そんな擬音が背後に表示されそうなキレのいいポージングを披露した割に最後でやる気なさそうに問うアシス。
「わあ~清々しいほどに嘘が横行してますね。大法螺も己の矮小さに恥じ入るばかりですよ」
ぱちぱちと拍手をしながらにっこり笑って白々しく毒づくカラリナ。
コントか。何だこの乗りは。いろいろおかしいが一番気になるのは猪突猛進だ。自分で言っていい表現なのかそれは。
「胡散臭さもここまでいくとどうでもよくなってくるな」
「ちょっとっ変なお題提供しておいて一抜けはずるいんだからねディル!責任もってしっかり相手を務めてよ!」
純度百パーセント呆れの息を吐き出したディルにマリエルが食いついたが、食いつかれた方は視線だけをちらりと向けて再度一息。
「知るか」
極冷の一刀両断にマリエルが頭を抱えて唸っている。
そんな様子を見て非常に楽しそうなアシスとカラリナ。第一印象なんてものは所詮見てくれの印象で勝手な思い込み、当てにはならないってことだろう、と心の中でしみじみと呟く。
ついでに気になるので聞きたいのだがねマリエルよ、変なお題って何だ。ディルは二人に対してネタを振った訳ではないだろう。否定もせずに切り捨てられたが。
「あっという間にいつもの四大だな」
このどう考えてもおふざけ過多な光景がいつもの光景だと?
はははと間近で聞こえたイルファの笑い声と発言に目が点になっているボクの視界へとイルファが顔を覗かせる。
「警戒、解けたな」
良いことだと聞こえる微笑みを浮かべているイルファだが、こちらは微妙な心境だよ。
笑いと呆れと唸り声ってカオスだろ。ぴたりと閉ざしている口を開いて盛大に溜息を吐きたい。
やめてぽむぽむあやさないで。何か割合大事だと思われる事象を諦めろって幻聴が聞こえそうだから。
「そんなに不安にならなくていいんだよリトネウィア。俺がついてる」
一定のリズムを刻む手と温かなお日様色の橙が何とも言えない光景で脱力しつつあった体からさらに警戒や緊張を奪っていく。
「ここに恐いものはないよ。お前を脅かすものはない。この場にいる全員リトネウィアを害することはない。俺が保証するよ、大丈夫だ」
その音、聞いた覚えがある。卵を割ってくれた時じゃない…もっと前、わけもわからずに喚いていた時。
そっか、キミだったのかイルファ。
最初に聞こえた優しい音と温かさ。顔を見たわけでもないのに雛のすり込みみたいに覚えて勝手に懐いてるんだ。だから私はイルファを恐れない。
我ながら悲しいほどに人見知りをする身が何故イルファ一人を例外にしているのかと思えばそういうことか。
納得すると疑問による抵抗も失せ、警戒する毛玉ちゃん状態から虎の威を借り安心くつろぎ気分へと変化する。変わり身の早いことである。
「いい子だ」
うん。そのにっこりと目元が下がる柔らかい笑みはたまりませんね。
どうして私の目にはカメラ機能が搭載されていないかな。もしも搭載されていたならば動画で収めて繰り返し巻き返し再生して堪能するよ。幼児にあるまじきによによと怪しい表情で。
「う~む、卵割りしたイルファママに勝るものなしってことか。和ませようと思ったのに警戒されたままなんて…精進します」
「ディルが騒音扱いした音もイルファママには声に聞こえていたそうですからね。心声も聞き取れない僕たちが緊張を解きほぐそうなんて笑止千万ということですよアシス。頑張りましょう」
がしっと手を取り視線を合わせえらく真面目な顔で頷き決心するアシスとカラリナのシュールさに現実へと脳を呼び戻されて微妙な気持ちになる。
「精進と頑張る方向性が違うと思うぞ二人とも。そしてママってなんだ。俺は男なんだからせめて兄だろう」
あ、そういえば天魔は両性具有で生まれて性別は後から別れるようになっている。変化時期は個々それぞれ、一生性別なしのままなんて天魔も稀にだが存在はするらしい。
性別転化は精神的な影響からで、多いのは恋愛感情かららしいが必ずしもそれが理由とは限らない。
性別を転化させてもいい、させる必要がある、なんて強烈な衝撃を受けた時と考えておくべきだろう。
親告のあったイルファは男。マリエル、アシスは女でディル、カラリナは男。
確か四大は男女比率が半々設定だったはずだが、見た目ですぐにわかる女性体はともかく男性体は判別が難しいな。本当に男かどうかは現状では断言できないので後々にでも確認したいと思う。…お話でですよ。
下品な話触って確認しても正直わかりませんから。男性器と女性器両方が備わっているのが天魔の両性具有なので。視覚で確認とかありえないからね。性別確認したいので下半身見せてくださいとか何処の変態だよ。
冗談きつい。そんなふざけたことを聞くなら初めから素直に「性別どっち?」と聞けよですから。
「シェネレスの現状なら父でも良さそうな気がするけど。イルファは兄がいいんだってさリトネウィア」
すみません。気になる前半の発言を放置してcall him brotherはないわマリエル。唐突のうえ意味不明すぎる。
「いやいや外界勤務でほぼいないとはいえ一応シェネレスの父親は存在してるからなマリエル。あの父親を差し置いて俺が父呼びされてたら後が面倒くさくて堪らないって」
すみません。遠い目をして苦笑いしているイルファの父に当たる天使がどんな御方なのか気になりますがそれよりなにより何故私がイルファを父呼びする可能性が話題になりますの?兄呼びは別に近所のお兄ちゃんお姉ちゃんでも有り得る呼び方なのでどうということもないが何でですのん?
「いたっ」
疑問が渦巻きそうなところにマリエルの声が入って視線を動かすと、半眼でマリエルを見下ろすディルと頭を押さえてディルを恨めしそうに見上げるマリエルがいる。
ひょっとして腰に置かれたディルの手はマリエルの頭を殴るか叩くかなさいましたの?空色の目がどうにも馬鹿とか阿呆と告げているように見えるのですが気の所為でしょうか?
「司会進行役がいないと脱線しかしない奴らめ」
舌打ちはやめようよディル。心に突き刺さるよその音。
あわわ、なんて会話に参加できないボクが意味もないのに焦っているとどうしてかディルと目が合ってボクも御叱りの対象ですか?!とびくつけば、溜息が一つ零された。余計なことかもですが溜息多いと鬱に近づくらしいですよ。スマイルひとつお願いします。
「そっちのお調子者がアシス、似非丁寧がカーリィだ」
私の内心など当然知るわけのないディルがぴっと親指で指し示す二人の紹介がひどい。
「はい、こちらお調子者アシェリスです。アシスでいいよ~」
「同じく似非丁寧カラリナです。カーリィと呼んでくださって結構ですよ」
なのにあははははと挙手してひどい呼び名付きで自己紹介した二人はもう芸人認識してもいいと思います。
間違っても四大と新生の会話じゃない。
「で、騒音兵器だ」
「違うっ!リトネウィア!!」
即座の突っ込み素晴らしいですマリエル。あなたは立派な突っ込みだ。
「依頼直後のイルファが新生の地からすぐに連れて来たんだからこいつの名前はすでに知れてる」
「ああああぁ…本気でまともな心声使えなきゃずっとそう呼ぶ気だよぉ」
項垂れないでくれマリエル。何を今更と言いたげなディルの視線が見えるボクこそ項垂れたい。
当分は騒音兵器確定なんですねそうなんですね。
そして項垂れているマリエルを清々しいまでにスルーしてアシスとカラリナを見た表情はちょっと真面目。
「イルファの封印石を木端微塵にして騒音兵器が暴走未遂を起こした。いまはリフォルドの封印石だが相性最悪らしく最大で十日後にはこちらも大破予定だ。下手に刺激するなよ期限が減る。暴走未遂の報告はリフォルドに押し付け済みで、後はイルファが新生の地での報告と封印石の詳細報告の必要がある。以上だ」
ざっと状況を説明したディルだけど…本当に言葉の選択が、さ。
「大体把握したけど多忙なリフォルド様に報告押しつけとかディルにしかできない所業だね」
気になるのはそこだけですかアシス。私はその後も気になりましたよ。
「ふむ。イルファの封印石というとアレですか?僕とタルージャで作った心声だけ使えるように設定したお試し品」
カラリナが注目したのは封印石で製作者でしたか。あら吃驚。
「その通り。詳細報告先にって言われてるから俺の端末に情報送っておいてくれるか?」
「わかりました。成程…すぐに壊れたのは心声を使えるように穴を作っていたからというのもありそうですね。情報追加しておきますから目だけ通してくださいね。タルージャにも伝えておきます」
「悪いな」
「お試し品でも製作者としての責任と義務がありますからね。イルファ用にはまた準備しておきますよ。あなたが使う分には問題ないようでしたが少し改良するようにしておきますので期待してください」
「はは、助かる」
イルファとカラリナの会話のキャッチボールがスムーズになされてなんだかようやく普通に話が進んだ気がする。司会進行役がいないと駄目って言ったディルの言葉は正しいんですね。そして普段その役割を果たしているであろう天魔はどちら様なのかちょっと気になります。
「一先ず現状はこれでいいだろうから、イルファ」
「ん?」
やれやれといった様子から切り替えてイルファの名を呼んだディル。
「休憩室を貸し切ってやるからそいつの今後を説明しろ。…こういう話は第三者から聞かされるものじゃない」
咎めるニュアンスが入ったディルの言葉にばつの悪い顔になるマリエルとふぅっと表現上は軽い音なのにそう聞こえない息を吐いたイルファ。
「確かに。ありがとうなディル」
「いいからちゃんと説明してやれ。終わったら封印石の報告だけ上げて帰れ。…疲れてるはずだ」
「そうだな、そうさせて貰うよ。ありがとう」
口元に笑みを浮かべたディルは自然にしか見えない動作でマリエルの首根っこを掴んだ。
母猫が子猫を運ぶ様子を思い浮かべて欲しい。足が浮いていないだけでほぼ同一の光景だ。
何故その動作を取ろうと思い至ったのだろうか。あなたの行動が読めません。
「はい?」
「邪魔者は消えるぞ。アシス、カーリィ」
「わかってるよ。また会おうね~」
「次に会えるのは話せるようになってからかもですね」
「あ、ちょ、またねリトネウィア」
「じゃあな」
ぱたむ、とドアが閉じられて室内にちょっとした沈黙が落ちる。
何だかよくわからないがマリエルを引きずっていたディル以外ひらひらと手を振って退出していった。
状況がよく呑み込めないが、イルファから今後の私についてお話があるので場所提供、邪魔者退散でいいのでしょうかディルさんや。
「…気配り屋さんが場所提供までしてくれたから、少し話をしようか」
それはディルのことですよね。何やら真面目な話をしろよ的空気だったのはわかりましたが繋がりがママ、父、兄の呼び方しかないので何をどう判断材料にしていいのかわかりかねます。
なんて内心は置いておいて、ボクの今後とのことでしたのでおとなしく拝聴致しますですよ。
こくりと首肯を返したボクを見て笑んだイルファは落ち着いて話をしたかったのかソファへと移動した。
こちらボクが最初に寝かされていたソファでどうやってか記憶にないが落下したソファです。
そういえばあの上着はやはりイルファのもののようですね。一枚足りない感じなのは気の所為ではないでしょう。後日お礼を言いたいと思っています。お気遣いありがとう。
で、どうして私はソファに座られたあなたの膝上に向き合う形で配置されたのかを三十文字以内で説明願いたいところです。真正面で向き合って話したいんですよということでしょうか?そうであれば仕方ないかなと妥協いたしましょう。あなたと比べれば随分なおちびですから普通にソファへ座っては視線を合わせるのは大変でしょうからね。
「遅くなったけれどまずは自己紹介をさせて貰うな。イルファ・ソル・フライトシェネレス、リトネウィアの卵を割らせてもらった天使だ」
はい、存じ上げておりますよ。自己紹介いただきありがとうございます。
こくりと首肯しているだけにしか見えないだろうが一応答えてるからね心の中で。
「あー、どうしてもいまは一方的にしか話ができないけれどしばらく我慢して欲しい。明日からは読み書きで話ができるように準備しておくからいまだけは、ごめんな」
口での会話ができないのは仕方のないことで本来代用できるはずの心声を使えないのはこちらの……不手際でもあるので仕方のないこと。あなたが謝る必要性は何処にもない。言葉を繰る以外のコミュニケーション手段を提案してくれただけで十分だ。
そう伝えたいのだけれどどう考えても縦横の首振り運動では不可能な領域なのでにっこりと笑ってお返事とさせて頂きます。伝われ私の思い。
「気にするなって感じかな?」
ナイス読み取り能力ですよイルファ。こくこくこくと首を縦振りします。
「はは、わかった。じゃあ、本題に入ろうか」
真面目な表情も眼福です。ふざけたくなる程度には緊張していますが何か?
「大樹がある程度の知識を授けてくれているから知っているとは思うが、誕生したばかりの子は新生の位に登録される。これは新生の地を担当している下級位天魔が生まれたばかりの天魔を新生室まで移動させてから行われる。登録手続きは本人が行うのが通常だが、いろいろな事情があって本人ができないこともある。リトネウィアの場合も本人ができない方だな。俺が代理で登録手続きを行ったから新生位への登録は済んでる」
卵から出た記憶ほぼないです。眩しかったような気はするけれどそれも不確か。
つまりは卵を割って貰ってめでたく誕生できたは良いけれど意識はなくて、自力でするはずの生まれたよ報告と住民登録ならぬ新生位登録はイルファが行ってくれたと。
ねえ、ボクは生まれてからどころか卵の時からどれだけあなたに迷惑を被っているの?土下座した方がよろしいか?大人に幼児が土下座している光景は誤解しか招かないだろうが必要であるならば額に泥を擦り込む勢いでやりますよ。
「……なんで遠い目をしているのか気になるんだが」
思考は伝わらなくても心境は表情にちゃんと反映されているようでした。
いけない、何を考えているのかわからない幼児は取り扱いが大変なのだ。面倒くさい子供とか相手にしたくないのが世の大人の大半だ。かくいう過去の私もそちら側。自分が不快に思うことは基本的に相手にしてはいけないのだよ。…基本的には、ね。
すでに多量の迷惑をかけている相手に不快な思いなどさせたい訳などない。なので表情を取り繕おうと顔の筋肉に命令を出すのだが、ぽすんと頭に落ちた重みで作ろうとした笑顔ではなく間抜けな瞬きが顔面に発生してしまった。
「もしも迷惑かけた、とか考えたならそれ勘違いだからな」
ぽむぽむと大きなイルファの手が頭を揺らす。恐らく宥めるあやすのどちらかの意図だろうと思われるがちょっと力加減がまだ強いようであります。
ええはい。勘違いって何でですか?
わかりませんとでかでかと顔に表示して首を傾げればイルファは口の端を上げる。
何故にこやか?いや険しい顔は勘弁ですけれどね。
「事情があってできない子もいるって言っただろう?誕生の時一割はそういった子がいるんだからリトネウィアのことだって珍しいことじゃない。俺が代理だったのはその時その場にいたから。さらに言えば下級位にあとよろしくって任せても良かったのにそれを良しとしなかった。ようは俺がやりたかったからやった、それだけだ。俺が勝手にやったんだからリトネウィアが気に病む必要はない」
見目良い男が爽やかに「俺が勝手にやったんだから気にするな」発言はいけないと思います。良くて勘違い、悪くてストーカーが湧きますよ。
ちくしょい絵になるし格好いいじゃないか。これで違うとは言えないだろうが。
ああっ話せないって本当にもどかしい!
「おっと、感情的になるのはまずいから落ち着け~」
よしよしぽむぽむと宥めるのは封印石の関係ですね。暴走はいけない。それはまずい。
しかし、私自身は封印石へ負担がかかってなのか音が鳴る構造でもないだろうにリンッと音が聞こえて気が付くが、イルファはどうやって察するのだろうか。力が揺らいでるのを感知するの?それとも加護精霊が揺らぐのか?いやそうなると加護精霊の揺らぎはどう感知するのか別の疑問が…。
はい。取りあえずは落ち着くために深呼吸。吐くのが先で吸うのが後らしいよ。
「いい子だな」
ちょっと力が強いままだけれど頭を撫でられて、燻る感情は消えることはしないが燃え上がることはやめた様子。褒められると調子に乗るんですボク。
じぃっと視線を向けて続きをせがむと気が付いたのか口元を緩めるイルファ。
「悪い、話を続けような。新生位登録をした後は…通常なら担当天魔が家族へと無事生まれましたので迎えに来てくださいって連絡を入れて、家族が家へと連れて帰る。そこからしばらくは自宅で勉強だ」
うん。どうして困った顔になって“通常”という言葉に詰まったの?
私、天使としては生まれたばかりだけれど人間であった時の記憶と精神を持っているよ。
察しはそこまで悪くないつもりだ。
「落ち着いて聞いてくれ」
大丈夫、覚悟はできてる。どんとこい。
「リトネウィア・レム・オルテンシア。リトネウィアの生家はオルテンシアだ。本来オルテンシアの家の者がリトネウィアを迎える」
大丈夫、だからそんなに心配そうな顔をしないで。
「でも…オルテンシアにはいま、リトネウィア以外誰もいない」
うん。大丈夫、十分予想した。予測できた。衝撃は…そんなに大きくない。
「生まれたばかりのリトネウィアが現在唯一のオルテンシアの天使だ。そして、家名家族のいない天魔は新生の地に預けられて同じ境遇の天魔と共に育つ」
天魔には血の繋がりはなくて真名である名前による繋がりを家族とする。それが家名家族。その家族がいないってことは家がない、育つ場所がない、育ててくれる天魔がいないということ。
つまりは孤児ちゃんってことです。
長く続く家があれば廃れる家もあるのだからそういう事態はさもありなん。
そんな行く場のないちびっ子たちに「自力で頑張れ!逞しく生き抜くんだ!」なんて暑苦しいことこの上ない体育会系無茶ぶりをするほどこの世界は過酷ではないので孤児院、施設ではないがちゃんと生家のない子らが育つための集合住宅が存在している、ということ。
ボクの生家、オルテンシアは何時途切れたのか知らないが現在ボク以外がいない状態なので集合住宅行きってことです。
集合住宅には同じ境遇の天魔がいらっしゃる、つまるところは完全にひとりきりではないということ。
…それで十分。
「っ、なんつー顔してんだっ話は最後まで聞け!」
「!?」
ぺちんと額から音がした。何事かと気分と共に下がっていた視線を持ち上げれば見えるのはイルファの指。
痛みはないが衝撃のあった額と何か行動を起こした後らしきイルファの指。
ひょっとしなくてもデコピンですか?何故ですか?
驚きから突然のことで不満へと表情を推移させたボクを見て、イルファはどうしてか安堵の息を吐く。
どうして安堵なのかわかるように説明願いたい。
「リトネウィアは俺が引き取った」
デコピンしといて何故か労わる様子ですりすりと弾いたばかりのボクの額を親指の腹で撫でるイルファ。
短く告げられた言葉は全く頭に入ってこなくて沈黙三拍後に私はこてりと首を傾げた。
もう一回。
「リトネウィアは新生の地預かりじゃない。俺が引き取り手として名乗り出た。生家のない新生位は保護申請、うちで引き取るって申請を出せば引き取り手の家へ連れて帰り預かることができる。わかるか?」
えーっと、ボクは集合住宅へは行かない。何故かというとイルファが引き取ると名乗り出たから。
家族なし家無しのちびっ子は「うちにおいでよ」という申し出があればその家に引き取って貰える。
つまり?
「リトネウィアは俺、イルファ・ソル・フライトシェネレスが引き取り、今後はシェネレスの家で預かる」
シェネレスの家で預かる。へー、預かるんだ。イルファがボクを。
………は?なんでっ?!
何がどうしてそうなったんでございましょうかイルファさんんん!?
目を見開いてイルファを凝視するボクに彼は何を思ったのだろうか。
はははと困った様子で笑ったかと思えば視線を遠くへと放り投げてしまう。
へい、こっち見ろよ。説明して欲しいんだってこっちはさ。
ぺしぺしと乗せられている膝上を叩いて自己主張すれば視線は戻ってきたが表情は困ったまま。
いや、驚いただけで困らせたいわけではないんですよ?ただどうしてそうなったのかを聞きたいだけでして…無理なら後日でも。
「なんでどうしては言葉がなくてもわかってるんだけれどな…説明ができないというかなんというか」
おいこら、説明する気があるならごにょごにょと後半声量を小さく絞るな聞き取りにくい。
話す気があると判断したため不満顔でぺちりと再び膝上を叩く。困った顔しても今度は引かないんだからね。
「……」
「……」
じぃーっと見つめるよ。穴が開けばいいと思うほどに一点集中ですよ。いくら美形で見つめてると照れるわなんて思いがちらついても意地で見つめ続けるよ。何故何どうしてが思考を牛耳ってるので引かないよ。
「納得いく説明が必要、だよな?」
こくりと頷いたボク。困った顔のイルファ。
沈黙が数拍、困り顔のままイルファが口を開いたので耳を澄まして聞き取りたいと思います。
準備万端、よっしゃこい。
「実は…これといった理由が、ない」
ん?
「どうしてリトネウィアを引き取ろうと思ったのか、明確な理由がないんだ。…強いて言うなら気にかかったことがあるからなんていうもので、何が気にかかったんだって聞かれても、これもまた言葉にできない」
はい?
「悪い…自分でもよくわかってないんだ。ただ、リトネウィアを引き取りたかったんだ。他の誰かのところじゃなくて、さ」
説明になってない。なってないけど…あ、そうなんですかと引き下がろうとしている自分がいてどうしましょう。
だって、爽やか笑顔が似合う好青年に苦笑交じりの笑みで「キミを引き取りたかった」って言われたんでございますですよ!鼻血噴くわ!
あえて言わずにいたがとてもいいお声なんですよ奥さん!声フェチもちゃっかり引き継いだ我が身にこの「何処の乙女ゲーだ!」と叫びたくなる台詞はあかんでしょう!非人道的なことでもやってない限り異性に免疫のない残念は流されてしまうよ!誤魔化されちゃうよ!コロッと逝っちゃうよ!もち付け自分!
「明確な理由はなくても、もっともらしい理由付けはできるんだよ一応」
それお願いします!勿体ないけど恥ずか死ぬ台詞を一先ずなかったことにできる説明をいますぐにプリーズ!
ちょっぴり必死さが滲み出ていたかもしれないご様子で、はしゅっと小さな手でイルファの服を握ったからか、一度瞬いてからぽむぽむと背を撫でられる。落ち着けですか?そりゃちょっと無理なご相談かと。
「力の強い天魔は将来的に力に見合うだけの立場についていることが多い。だから早い内から良くも悪くも各方面に目をつけられるんだよ。…元老とか」
すみません。最後の一言だけお声が低くなりませんでしたか?
単語が単語だけに物語を知る身ゆえなんとなく理解は示せますが…いまの反応だけでイルファが元老にどういう感情をお持ちなのか如実に示されていた気が致しまする。
「生家のない新生位はどうしても守ってくれる存在が少ない。家族は最大の守り手だから力の強い天魔にそれがないのは、な」
成程。それで私の今後なんて表現をされたわけか。
確か条件付きではあったと思うが後ろ盾のない天魔、つまり生家のないちびっ子さんの後見人につく「私が保護者になってあげてもよろしくてよ」な制度があったはずだ。条件は中級位以上の家持ちであることが大前提。
しかしながら物語上で下種しか書いていない元老は側近位と同等、つまり高位者であるために必須条件を易々とクリアしている。
引き取った後のことは気の所為でなければ詐欺かと文句を言いたくなるような変な設定があったはずだ。
○○してしまえば後はこっちのもの的な。
ああ、恐らくお目覚め直後のマリエルとディルの会話にブラックリスト作れってあったのはこれのことだ。
げぇ…本気でよろしくないお話だよ。
で、それを前提に考えればイルファは真っ当な感性をお持ちの常識人ならぬ常識天使に該当するだろうから我が身の安全を何よりも図りたい私としては渡りに船。拝んでもいいですか?
「俺が引き取ったことで今後の選択肢をちゃんとリトネウィア自身が選べるようになった、ってそれっぽい理由ならつけられるんだよ。実際そういう意図もある。将来オルテンシアを興すならそれでもいいし、うちを気に入ってくれたならそのままシェネレスに居てくれて構わない」
ありがた過ぎる配慮にこれはもう見た目がいただけなくても土下座確定じゃないかなと静かに思う。
同時にいらぬ世話だろうけれど心配になってくる。人がよろし過ぎて利用とかされたりしてない?ってさ。
迷惑しかかけた覚えがない相手にここまで心を裂いてくれるなんて感動ものですよ。むしろ居た堪れなくなってきます。何か後ろ暗いことでもあるのですかとあることないこと勝手に疑いたくもなってくる。
そんな自分の心の狭さと浅ましさが照らし出されているように思えるのでちょっと涙目よ。
「勿論、嫌だと思うならそれでも構わない。その時はリトネウィアにとって一番安全な場所を一緒に探すつもりだ。これでも伝手は多い方だから安心していいぞ」
天魔両王直属配下、四大位ともなれば顔も広くなるし伝手も多かろう。
っていうかそこまでの自由権を与えてくれるのかあなたは!
甘すぎやしませんか?そこは自立できるまでは面倒見てやるから嫌でも我慢しとけくらいでもOKだと思いますよ?それでも釣り合いが取れないほどの心配り。もういっそ腹立つくらいの俺様キャラでいてよ。
「この俺が引き取ってやったんだから文句は言わせない」なんて何勘違いしてんだこの野郎と拳を握る程度に腹立つ奴で十分ですよ!?
ああああああ!!誰か本気で口貸してくれ!私にこの思いを告げさせろ!
「なあ、リトネウィア」
ううっ、興奮するなってのはわかりますからいまぽむぽむ宥めるのはやめたげてぇ。
「お試し期間でも構わない。うちにおいで」
柔らかい声音が耳朶を包み、やさしい微笑みが胸に染み入る。
「俺と一緒に暮らそう、リトネウィア」
服を握り締めた手が小刻みに震える。
かひゅ、なんて音を紡げない咽喉が零した呼吸音が耳に障る。
ぽつりと落ちた一滴が呼び水、後はもう止まらない。ぽたぽた、ぼろぼろと溢れては流れ落ちる。
大樹は言ったんだ。
“それは珍しい”と。“覚えているのね”と。
“それは愛おしくて、けれど辛いものだね”と。
自由の利かない小さく狭い暗闇の中、絶対に考えてはいけないことがあった。
与えられる知識に食いついて、知らないことに心を躍らせ、理解できない事象に頭をひねり、上手くいかないことに奮闘する。
卵の中で命を育まれながら一喜一憂する忙しない思考は、違うことで頭を満たしていれば、考えずに済むと知っていたから。
だからそれを小さな箱の中に無理矢理入れて閉ざし、鍵をかけて頭の片隅へと押しやった。
私は、覚えているのだ。■■■という名を失っても人間であった短くも長い二十余年を。
蝸牛のようにゆっくりと進んだ人生を。何に喜び何を愁いたかを。全てではないけれど、覚えているのだ。
裕福とは言えないだろうけれど、我儘放題好き放題、親の脛をがじがじ齧ってやりたい放題。
重ねた人生で知り得たかけがえのないものがたくさんあった。
大切だと、失くしたくないと、守りたいと思えるものが、人たちがいた。
その記憶は、何よりも美しく、愛おしい。
大切に想っていた。大切に想って貰えていた。
だけど自分自身に自信が持てなくて、何時だって誰かの顔色を窺って嫌われることに怯えていた。
誰かに必要とされたくて、愛して欲しくて。名前を呼ばれる度に思っていた。
「ここにいていいよ」、「キミが必要だよ」と言って貰えているんだって。
自分の存在価値を自分で見出せないから他者にそれを求め、縋り、依存する。
それは不安定な生き方、心の内に飼った孤独を知るが故の辛さ。
新たな世界に生まれ落ちたことはきっと幸い。憂いの入る隙間など一分たりとてないであろう幸いだと思うのだ。
だが、自分の存在価値を他者に求めた己を支えきれぬ薄弱精神は、誰一人とて私を知るものがいない世界を嘆き悲しむのだ。愛しいと想う人たちのいない世界を認めることが堪らなく哀しいと泣き叫ぶのだ。
大切な人たちとの記憶を失くさず持ち続けていられることはとても幸福なことだと思う。
けれど、覚えていることは思い出すことができるということ。思い出すということは懐かしむことができるということ。懐かしむということは…逢いたいと願ってしまうこと。
けれどそれは決して叶わない。叶えられるとしても、きっと叶えてはいけない。
何故ならばいまの私はもう■■■ではない。精神と記憶を引き継いでいようとも、リトネウィアで在ることを受け入れた時点で「過去に■■■であったリトネウィア」でしかない。
それ故に邂逅が叶い、どんなに懐かしく思っても、きっと…満たされない。
亡くしてしまった過去と同一の思いと感情は、どれだけ願ってももう二度と得られることはないからだ。
■■■が大切にその腕に抱いていたものを知っていても、リトネウィアの腕にそれは抱けない。
それはリトネウィアとして生まれるために■■■の肉体と共に置いてきたものだから。
あるはずのものがない空洞、そこに生まれたのは孤独という寂しさ。
その寂しさは記憶を持つが故に生じるもの。記憶がなければ、知り得ないもの。
だからこそ“それは愛おしくて、けれど辛いもの”なのだ。
その事実に気が付いて、認めることはリトネウィアとして芽生えた生命を蝕むと理解してしまった。
だから、閉ざした。決して考えないように、卵から生まれる前に心を殺してしまわないように。
自分から自分を守るために。
“寂しい”と囁く感情を隔離した。
卵というひとりぼっちの孤独な空間で、傍らにある心の深淵に背を向けていられたのは生まれ出でた先に家族という希望を信じていたから。リトネウィアを迎えてくれる家族がいると期待していたから。
卵の時から問題ありだったのでいきなり高位者ばかりの状況も致し方なしと思いつつ戸惑いながら、それでもポツンと浮かんだ疑問。
リトネウィアの家族は何処にいるのだろうか?
名の繋がりにより家族をなす天魔の在り方を知る故に、過去に描いた物語と同一ではないにしても同じ名であると知るが故に、オルテンシアがいないことに気付いていた。
家族がいない可能性に気付いていた。
例え私に家族がいなくとも、同じ境遇の天魔は他にもいるのだと揺らぐ箱を押さえつける。私だけではないと必死に言い聞かせる。
そうしないと、閉ざした箱は希望のない災厄の箱になってしまうと理解していたから。
面白おかしく思考をころころ転がしながら、その陰で怯え震える愚かしさ。
きっと、遠くはない未来に内側から己を食い破り死に絶えるのだろうと何処かで悲観が生まれた。諦めすら孕んで。
昏く深い感情は抑えの緩んだ箱の中で大きく大きく膨らみ、やがて鍵を粉砕し自由を得た。
それは誰よりも何よりも親身に寄り添い囁く呪縛の言の葉。
一人は寂しい。独りは恐い。
ひとりにしないで。必要として。愛して。
ひとりは嫌だ。ひとりでは生きられない。
寂しい、淋しい、さびしい、サミシイ。
ただ只管に繰り返される言の葉に縛り付けられる。
身じろぐことすらできない孤独の深淵で、誰にも気付かれずにゆっくりと朽ちて逝く。
はずだったのに、唐突に「うちで引き取ります」宣言である。寝耳に水ではなくきっと氷水。生体反応の関係で強制的に眩暈が起きますね素晴らしい。
閉ざしたばかりの道がモーセの十戒の如く強制開拓された気分ですよ。見晴らし良すぎてまあびつくり。
余りの驚きにしくしくめそめそじめじめと嘆きのたまっていた場も思わず沈黙きょとんにぽかんですよ。
さらに、何の衒いもなく「うちにおいで」なんて言葉をくれるから、箱に閉じ込めてまで見て見ぬふりを、気付かぬふりをしていた感情が突然スポットライトを浴びせられて挙動不審に狼狽えていますよ。可哀想に。
いい男が凶悪なまでに優しい顔で「一緒に暮らそう」とか言うなんて、狡いですよね。勘違いもストーカーも山ほど誕生するでしょう。被害を被ってからそんなつもりじゃなかったのなんて言い訳は通りませんよ。大丈夫ですか?
ああもうまったく…。
私は弱い。とてもとても弱くて、狡い。己を支える術を持たず、それを変えようともしない。
本当に、愚かで醜悪な生き物だった。
そんな自分が誰よりも嫌いだった。憎かった。疎ましかった。
だからこそ、リトネウィアはそうならないようにと思う。
目を逸らして見たくないことから逃げているのでは何の解決もしない。
わかっていて、それでも過去の痛みと向き合えなかったのはどうしようもないほど臆病な自分の弱さ。
新しく踏み出すための勇気を家族という希望に勝手に抱いた自分の甘さ。勝手に期待して勝手に打ちひしがれて…思いがけず拾い上げて貰えた。
溢れ出した負の感情に搦め捕られ、昏い奈落へと沈むはずだった弱虫で泣き虫な私を抱き上げてくれた。
大きな体、広い胸に抱き寄せられて、得ることができないと諦念した温もりに涙を零す。
ねえ、私頑張りますよ。
逃げるんじゃなくて、閉じ込めるんじゃなくて、ちゃんと向き合って、認めて、共に在れるように。
弱い私も、狡い私も抱き締めてあげられるように。
「誕生おめでとう。無事に生まれてくれてよかった」
それは違えようのない幸い。
だから、私は泣き声のない声を張り上げる。
それは求めた家族がいないことを、孤独を嘆く悲愁ではない。
これは、生まれ出ずることが適った寿ぎの声、私が私へと送る誕生祝い。
新たな生を喜び謳う、新たな生を全うすべく決意する宣誓の産声。