其の伍
目を開けた時に最初に目に入ったのは、綺麗な翡翠色の瞳だった。
「萌葱?大丈夫かい?」
「ちと、せ?」
なんで、ここに千歳がいるんだ?
折角、百入さんが上手く行きそうなのに、コイツが来たら台無しじゃないか。
「萌葱?萌葱?」
「あ……、あれっ!?」
「ああ、良かった、萌葱。無事かい?」
無事?ああ、無事、だと思う。
あれ、何があったんだっけ?
「……いきなり泣き喚いて、まだ半分しか食ってなかったのに。ああ、そうだ、何故か座卓が浮いてさ」
「あの女、萌葱にこんな傷をつけやがって」
「……あの女?」
「萌葱は何も心配する事は無いよ。ちなみにここは病院で、百入が萌葱を特別室に入れてる。それと、萌葱は頭を怪我したんだけど、覚えてるかい?」
え、怪我してる?
気になったので頭を触ってみようとして初めて気が付いた。俺の左腕に管が繋がってて、動かせなかったんだ。
「あれ、何だこれ?」
「点滴だよ。ああ、萌葱、あのね今日は見合いの日から二日目だよ」
「…………え?」
「あの日、百入から酷く狼狽した電話を貰ってね。夏江さんを置き去りにしてすっ飛んで来てしまった。後で夏江さんに謝らないとね」
そう言って笑いながら肩を竦めて見せた千歳にビックリだ。
千歳が女性を置き去りにするなんて、よっぽどじゃないか。
「俺、そんなに酷かったのか?」
「酷かった。もう、目を開けないんじゃないかってずっと不安だったよ」
「……百入さんは?」
「話し合いに行ってるよ。ああ、萌葱が目を覚ましたってあちこちに連絡して来ないと」
「気にしないように言ってくれないか?俺、大丈夫だから」
「……わかってるよ」
そう言って部屋を出て行く千歳を見送り、ふうと溜息を吐き出してもう一度自分の状態を確認してみた。
どうやら起き上がろうとするのはまだ危険なようで、ズキリと痛んだ頭に顔を顰めた後、今度はゆっくりと顔を動かしてみる。駄目だ、結局天上しか見えねえと自嘲した。
どうやら確かに酷い怪我だったみたいで、何だか頭がぼうっとする。
どうしよう、俺のせいで百入さんの見合いが台無しになってたら。
折角、相手があんなに乗り気だったのに。
溢れそうになる涙を堪えたくて右手を動かそうとしたけど。
「なんで……、上手く出来ないんだろう……」
声になった言葉は、そんな情けない言葉で。
動かない右手に余計惨めになりながら、零れて行く涙に余計に惨めな気持ちになった。
「大丈夫だよ、萌葱。百入が最高の医者を付けるって。絶対治すって言ってたからね」
「……千歳」
「大丈夫、大丈夫だよ」
だから泣かないでくれと言う千歳の方が泣きそうな顔をしてた。
俺と千歳がやっと落ち着いて来た頃、百入さんと鈍色さんが来てくれてやっと色んな事が聞けた。
あの時、梨葉さんが泣き喚いて食事を台無しにした後、座卓を持ち上げて投げ付けて来たらしい。勿論俺も百入さんも逃げたんだけど、あの人は何故か俺に向かって座卓を投げた。俺の後頭部に当たった座卓は、その勢いのまま俺を押し倒したのが悪かったらしい。
丁度座卓と畳に頭を挟まれた状態になったらしくて、そのせいで頭蓋骨が折れたと。
そのまま昏倒した俺はどうやら生死の境を彷徨ってたらしいけど、何か脳の出血はしてなかったから大丈夫だとか何とか。
「凄かったんだぜ?百入が言ってる事が支離滅裂でな」
「仕方がないだろう?」
「今まで何があってもこんなに慌てた百入を見た事が無い」
「黙ってろよ」
ニヒヒと笑う鈍色さんに百入さんが拳を入れて黙らせた後、百入さんはベッドの傍に来て俺の顔を覗き込むようにじっと見て来た。
「萌葱、お前が心配するような事にはなってない。あの女の事と桃葉は別だ」
百入さんのその言葉に凄くほっとしてさ。
良かったって溜息を吐き出した。
また泣きたくなって、それを隠したくて右腕で顔を隠し。
「動いた……」
鈍色さんの声にビックリして、もう一度右腕を動かしたらちゃんと動いてさ。
「動いてる……」
「動いてる!」
顔の上で手を何度か握ったり開いたりしてさ。
「おい、医者呼べ医者!」
百入さんのその言葉に病室の中が騒がしくなって。
そんで、皆が追い出された後医者から色々検査を受けた。
後、熱を測りながら吐き気は無いかとか目眩は無いかとか、色々聞かれた。
指を一本一本動かしたり、痺れている感覚はあるかとか。
良く解んねえけど、どうやら俺、無事だったらしいって判ったら、嬉しくて泣けて来た。
そんで、また皆が入って来て無事を喜び合ってさ。
「萌葱、お前の両親と弟が来てる」
「え……」
「ずっとお前の傍に付いてたんだが、お母さんが昨夜倒れてな」
「……そうですか」
「お前の意識が戻ったって言ったら、ここに来ると」
「来なくていいって言って下さい」
「駄目だ。ちゃんと話をしよう。それで、千歳にお前の本名を知らせる訳に行かねえから、アイツは鈍色と帰らせたから」
ふうと溜息を吐いて「わかりました」と諦めて答えた。
また、俺は母親を泣かせたんだなって思ったら、やっぱり悲しくなる。
いつもこうだ。
「萌葱、俺はお前の家族だよな?」
「……当たり前です」
「ならいい」
百入さんがそう言ってクツリと笑った。
両親と弟が来たのはそれからすぐの事だ。
入って来た途端母親が泣いて俺に抱き付いて、父親は何故か百入さんを怒鳴り付けて。
「家の息子にどうしてこんな怪我を負わせたっ!」
「申し訳ありませんでした」
頭を下げる百入さんを見るのは凄く辛かった。
父親が怒鳴る度に、百入さんが頭を下げるのが嫌で、そんで、必死に声を出した。
「いい加減にしてくれっ」
「和樹?」
起き上がろうとしたら母親がやめて、やめてと泣きながら言って来るけど、止めるべきは俺じゃねえだろ、アイツの方だろう?
「アンタも、泣くなら他所に行ってくれよ。泣いて被害者ぶって俺を責めるのを止めてくれ!」
「そ、んな、そんなつもり」
「でもアンタが泣くと俺が悪者になる。いつもいつも……、何時だってそうだっ!泣きたかったのは俺の方なのにっ!」
「萌葱、無理をするな」
「百入さん、本当にごめんなさい……、申し訳ありません……」
情けなくてボロボロ涙が零れて来る。
「俺を退治屋に預けたのは、アンタの同意があったからだよな?」
「……私じゃない、私の母が」
「嘘吐いてんじゃねえよ。十歳の子供をまったくの他人に押し付けるのに、親の同意が無きゃできる訳ねえだろうが」
俺のこの言葉はどうやら父親にとっては痛い所を突いたらしい。
むすっとして怒った顔で俺を睨んで来たが、もうそれで怯えてた子供じゃねえんだよ。
「何時まで泣いてんだよ鬱陶しい。アンタもそうだ、泣いて見せれば自分が被害者になれて楽なんだろ?アンタが泣く度俺は殴られて来たけど、アンタ、泣いてるだけで一度も庇ってくれた事無かったもんな?」
「酷いわ、和樹!お母さんはそんな、そんな事、」
「じゃあ聞くけど。アンタは一度でも俺を殴るなと言ってくれた事があるか?」
やっと身体を起こせた事に少しだけ嬉しくなった。
そんな俺を凄く心配そうに見てるのは、百入さんと弟で。
「……お前、俺を息子だなんて思った事あったのかよ、なあ?一回もねえし、今も思ってねえだろ?」
「私は、ちゃんとお前を息子だと思っているからこそ預けたんだ」
「はっ、嘘吐くなって言ってんだよ。泣いて責められたからやっと俺の居場所を吐いたくせに。自分が悪者にされるのが嫌だったんだろう?」
「さっきから聞いていれば生意気な事ばかりっ」
「出てけよ。俺は怪我の治療に専念したいんだ。アンタらはそれを邪魔してる」
「何を」
「この部屋に入れてくれたのは百入さんだ。そして、さっきからアンタらは夫婦揃って自分の心配しかしてねえじゃねえか」
「バカな事を」
「取り繕うなよ。百入さんを怒鳴りつけたのは自分の責任から逃れる為だろ。泣いて俺に抱き付いたのは自分が泣けば俺が悪いと言えるからだろ?」
父親と母親は顔色を失くし、ただ俺を凝視してた。
「出て行ってくれ。俺の家族は退治屋の皆だ」
もう、駄目だと倒れかかった所を支えてくれたのは百入さんと弟の腕だった。
「……孝樹、ごめんな」
「バアカ。そのまま死ねばよかったのに」
そんな憎まれ口を叩くのに、目に涙が浮かんでた。
「……殴りたいのに殴れねえだろうが」
「おお、今は勘弁してくれ」
百入さんと弟が二人掛かりで俺をそっと寝かせてくれたお蔭で、痛みも無く寝そべる事が出来た事に感謝する。
「なあ。今、アンタらの方が俺の近くにいたのに微動だにしなかっただろ」
俺が、ちゃんと言わないと。
そうしないと、今度は弟が犠牲になる。
父親も、母親も黙り込んだまま、何も話さなくなってしまったけど。
「はは、涙が通じないって判ったら泣き止むのか。何だ、やっぱりアンタ、最低だな」
ずっと、小さな頃から母親が泣く度に俺は泣けなくなってさ。
夜、布団の中で丸まって泣いてたんだ。
「……アンタが泣く度殴られて来たけど。それってアンタがやらせてたんだな」
「殴ってたのはお父さんよっ!私じゃないわっ!」
「悪かったな、普通の子供じゃなくてさ。アンタが勝手に思い描いた子供になれなかったから、代わりに殴らせてたんだろ?」
「どうして……、どうしてお母さんばかりを責めるの?お母さんだって、精一杯だったのよ」
「止めてくれ、虫唾が走る」
泣いて、泣き過ぎて、頭が痛くなって来たと言ったら直ぐに百入さんが医者を呼んでくれて、医者に叱られた両親は部屋を出て行った。
「孝樹」
両親と一緒に部屋を出て行こうとした弟を呼び止めれば、泣きそうな顔をした弟が振り返る。
「……何時でも、連絡してくれ。俺は、お前を弟だと思ってる」
そう言ったけど、弟はそのまま何も言わずに出て行った。
百入さんにもう寝ろと言われて瞼を閉じる。
なんで、百入さんの幸せ計画からこんな事になったんだろうなあ。
ただ俺も、幸せになりたいと思っただけだったのに。
百入さんが傍にいてくれる安心感からか、俺はボロボロ泣き続けて、いつの間にか眠ってたようで。
「安心しろ。お前は俺の家族で、俺はお前の家族だ」
そう言いながら百入さんの手が、優しく俺の額を撫でてくれた夢を見た。




