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ハーヴィス王国からの出国について心配することの無くなったクレイ達は、その日一日休養を取ることにして、翌日ケイト達と一緒にリブシャ王国へ出発した。
数日を経て王城へ到着した一行は、城中の人々に心から歓待された。
その夜、王城で開かれた晩餐会にはエリー救出に携わった、サラを除く一同が会し、その働きを国王夫妻から労われた。
晩餐会は終始和やかな雰囲気だった。楽団が音楽を奏で、料理も戴冠式に引けを取らない豪華なものだったので、心地良い音楽と美味な料理にすっかり緊張が解れた騎士達が長の娘達に声をかけてダンスに誘う。
そんな賑やかな様子をぼんやりと見ていたクレイは、エリーが一人でバルコニーに向かっていることに気付くと慌てて後を追った。
クレイがバルコニーに出てみると、エリーはぽつんとバルコニーの手摺に凭れて、いくらか形を欠いた月の、しかしはっきりと明るい光に照らされながら星降る夜空を眺めていた。
「エリー」
「クレイ」
声に気付いたエリーはクレイを振り返る。
月光の下で微笑むエリーは美しかった。
今夜は柔らかい生地で作られた、花を幾重にも重ねたような淡い紫色のドレスに身を包んで、輝く金髪をきっちりと結い上げている。
その髪を美しく見せる為だけかのように、頭上のティアラが碧い光を放っていた。
ワイルダー公国の間諜を経由した報告により、エリーはリブシャ国王から話の一部始終を知らされていた。近隣の三国が同盟を結ぶことによってそれぞれの国が抱えるそれぞれの危機がほぼ解消されるということも、今回の騒ぎで死者が出なかったことも、そしてサラが帰って来ないということもエリーはクレイ達が城へ到着するよりも早い時期に知った。
そしてハーヴィス王国からはリブシャ王国へ対する丁重な謝罪文と同盟を嘆願する親書が早馬で到着しており、リブシャ国王はこの嘆願を快く受け入れるとエリーに告げていた。
「無事に帰って来てくれて嬉しいわ。しばらくお城に滞在して、ゆっくりしていって」
「いや…実はそうもいかないんだ。明朝、僕とデラは出発するよ」
「そんなに早く?」
エリーは驚いてクレイを見る。
「ワイルダー公国に帰って、父王に報告しなければならないことが沢山あるんだ。リブシャ国王からも大切な親書を預っているしね。だから、君と二人きりで話せるのは今しかないと思って」
「そうだったの…」
エリーはそう言うとバルコニーの手摺から離れ、クレイに近付いた。
「ケイト達は知っているの?」
「申し訳ないが、ケイト達には黙っていてくれ。どうせ君の姉妹達は今夜は寝ないで一晩中語り明かすだろうから、早朝の見送りなんて無理だろう?」
クレイの言葉に、エリーはぷっと吹き出す。
「そうね。みんなに恨まれるかもしれないけれど、あなたがそう言うのなら黙っておくことにするわ。クレイ、本当に…色々ありがとう。あなたの尽力に感謝します」
「尽力だなんて買い被り過ぎだよ、エリー。僕は…結局何も出来なかったんだ。約束は守れなかった。サラは…」
サラの名を聞くと、エリーはそっと睫を伏せた。しかしそれはほんの一瞬で、すぐにその碧い瞳にクレイを映す。
「いいえ。あなたは私とリブシャ王国の危機を救ってくれたわ。それだけで充分賞賛に値します。だから誇りに思っていいのよ、クレイ」
「ありがとう、エリー」
二人は穏やかな微笑みを交わす。気心の知れた友人同士のように、それから二人はそのまま何も言わずに夜空を眺めた。
「それで、結局…サラにあの話を伝えることは出来たの?」
不意にエリーに問われて、クレイははっとした。
「サラとはまともに話すことが出来なかったんだ。少なくとも僕の気持ちは伝わったと思うけど」
「だったら、どうしてサラは…」
「僕達の為だよ。僕達の為に、サラは森で暮らすことを選んだんだ。だからこれ以上、僕達の我侭をサラに無理強いするのは止そう、エリー」
「そんなの変よ、クレイ」
エリーの碧い瞳の真っ直ぐさに、数日前に納得したはずのクレイの心が揺らぐ。
しかしどんなに認めたくなかったとしても…これが事実だ。
「エリー。サラは僕を選ばなかったんだよ。ただそれだけだ。少しは傷心の婚約者を労ってくれ」
冗談めかして笑ったクレイの左頬に、不意に激しい痛みが走った。
「エリー…」
打たれた頬を押さえながら、クレイは呆然とエリーを見る。
「サラを失って一番悲しいのは私なのよ。悲しんでいいのは私だけなの。だってクレイ、あなたはまだサラに何も伝えていないわ。伝わったと思う、ですって? 伝わっていたのなら、サラは間違いなくここにいるはずよ。…クレイ、私が今、どんなに口惜しいか分かる? この国の皇女だから…ただそれだけで、さんざん大切な人達に心配をかけて、手を煩わせて、なのに一番お礼を言いたい人に自由に会いに行くことすら許されないのよ。でもあなたは…その手にその自由を摑んでいるのに、まだサラを失ってすらいないのに、肝心なことを伝えずにあっさりサラを手放そうとするなんて!」
頬を紅潮させて怒る表情さえ美しい、と呑気なことを考えていたクレイは、エリーの瞳が潤んでいることに気が付いて我に返った。
「エリー、僕が悪かった」
ぽろぽろと涙を零し始めたエリーを、クレイはそっと抱き締める。
「エリー、ごめん。無神経だったよ。自分のことばかりで、君の気持ちに考えが至らなくて」
優しく背中を撫でられて、エリーは激しく嗚咽する。そんなエリーの姿を初めて見たクレイは、それまで自分がエリーをただ美しいだけの婚約者としてしか見ていなかったことに改めて気が付いた。
同時に、エリーのことを愛せるのかと、いつの日だったかケイトがクレイに尋ねたことを思い出す。
あの時の自分は本当に…何も分かってなどいなかった。
「すまない、エリー。君はこんなにも優しく聡明な女性なのに…僕はそれに気付くことすら出来なかった」
泣きじゃくるエリーをじっと抱き締めたまま、クレイは星が無数に輝く夜空を見上げた。
…エリーが泣いている。
たゆたう意識の中でサラは思った。
もう泣かせないと決めたのに。
だから剣の腕を磨いて、乗馬も覚えて、あなたのドレスを着た。
なのに、どうして泣いているの?
それでは駄目だったの?
何かが優しく頬に触れると同時に甘く優しい花の香りがして、サラはゆっくりと目を開けた。
「お母様…」
「気分はどうですか? サラ」
「私…」
「依り代となるのは疲れるものでしょう? 貴女にはまだ荷が重過ぎたようね。でも、貴女の努力は実を結びました。リブシャ王国は近隣に強力な同盟国を得て、和平の道に進みます」
「これで、エリーも幸せに…」
思わず呟いたサラの言葉を女王は聞き咎めた。
「人間の幸せは人間が決めるのですよ、サラ。精霊が人間の幸せを決めることは出来ません。エルマ王女の幸せは、貴女ではなくエルマ王女が決めるのです。…ところで、もう動けますか? 貴女が眠っていた間に起きたことを見せましょう」
女王に誘われて起き上がったサラは、自分が女王の居室で休んでいたことを知る。
女王は大きな映し鏡の前までサラを連れて来ると、その鏡に手を翳した。




