2 ~終章~
三日経過した。この間、私の周りでは特に何の異変もなく穏やかに時間が過ぎた。
私の旅の最終日である今日は黒森山でのお祭りがある日だ。それに参加して何かが分かるかもしれないし、分からないかもしれないが明日には東京に帰るのだ。
「ねえ、祥子ちゃん。お祭り行く時にこの浴衣着ない?」
叔母が箪笥から見つけてきた浴衣一式を手に取る。薄紫をベースにしたシックな柄だ。
「お借りしてもいいんですか?」
「いいわよ。どうせ誰かが着てこそ意味があるんだから」
その言葉で納得し、有り難く借りることにする。どうせなら祭りに相応しい格好の方が良い。美広が着付けを手伝ってくれるというので手を借りることにした。
「ありがとう、美広ちゃん」
「任せといて、こういうの得意だから」
そう言いながら美広はテキパキと手伝ってくれる。本当に器用だ。帯の結び方もちゃんとしている。
「あ、そういえば祥子ちゃん。さっき淳司さんと会ってね、祥子ちゃんが来てること話したよ」
「淳司さんって・・・誰?」
いきなり知らない名前を出された私はきょとんとした。
いや、どこかで聞き覚えがある気もするが。
「もーやだなー。あっくんだよ、あっくん。こっちに遊びに来ていた時、一緒に遊んでくれたあっくん!」
淳司というのか。いつもあっくんと呼んでいたので名前を忘れていた。
「ごめんごめん、淳司さんて言うんだ。そっか、大きくなったんだろうね」
五年前に挨拶だけした時も背が高くなっていた。私と同い年だったはずだから今は19歳か20歳かそれくらいだ。
「うん、180cmくらいある。神奈川の大学に今通っていて帰省してるんだって。それでね、今日のお祭りに淳司さんも行くっていうからさ」
そこで美広は意味ありげに口を閉じた。
タイミングよくチリン、と風鈴が鳴る。
「祥子ちゃん、二人でいっといでよ」
「え?何でよ?美広ちゃんは?」
「いやいや、どうせなら男女二人の方がお祭りって雰囲気あるじゃん。あたしに遠慮することないから」
別に遠慮はしてはいない。淳司さんーあっくんが嫌なわけでもない。だが祭りに二人で行くというのは少々気が引ける。
「んー、あっくんは二人で行こうというのは知ってるの?」
「うん。実はあたし先にあっくんにこの話したから。嬉しそうだったよ、ほら、祥子ちゃん綺麗だから」
逃げ道を塞がれた。多分叔母が浴衣を貸してくれたのも美広の考えに同意してのことか。
しかし美広め、ハードルを上げてくれる。あっくんの記憶にある私は五年前の私だ。せいぜい可愛いが適切だろう。
(まあ、いいか)
久々の田舎の幼なじみと会うのも悪くない。それに一応私も女だ。浴衣姿で祭りに行くならばエスコートしてくれる男性がいた方が気は浮き立つ。
******
昼と夜の境目の時間帯、この地方の空気は透明度を増すようだ。山の稜線を掠めて斜めに差し掛かる夕日の残照が畑や田を赤く染める。その中の道を行く人々は浴衣や甚平に身を包んでいる人が多い。
「バイク二人乗りとかいいのかしら」
「ヘルメットしてるし大丈夫だよ」
私がかけた声に淳司さんことあっくんが前を向いたまま答えた。そう、私は迎えにきた彼の中型バイクの後部座席に乗せてもらっている。
再会の挨拶もそこそこに後ろに乗って、と言う彼に「二人乗りなんかしたら彼女さんに悪いわ」と躊躇うと「別にいないからね」と笑われた。
比較的ゆっくりとはいえバイクに横座りだ、普通なら怖いはずがなぜか恐怖心は感じない。
10分ほど走ると大きめの川に渡った橋を越えた。ガタン、と少しだけバイクが弾みすぐに正常運転に戻る。
「ああ、見えた。もうすぐだよ」
バイクの音に負けない声で運転席のあっくんが口を開く。その視線の先に夕日に赤く染まるのは黒森山の麓。いつもと違い祭の為の提灯の明かりが灯り雰囲気が違う。
暗くなり始めていたのであっくんはバイクのライトをつけた。薄暗い道に白いライトが更に道を作り、そこをなぞるようにバイクは走る。
ガタゴト、ガタゴトと・・・
少しずつ祭りの明かりが大きくなる。大人も子供も明かりにつられるかのように引き寄せられて、楽しげに笑っている図が目に浮かぶようだ。
私はこの祭りに何を期待しているのだろうか。そう考えている内にバイクは神社指定の駐輪場へと入っていった。
******
この黒森山の神社が何を祭っている神社なのか私は知らない。叔母に聞いてみたものの土地神様じゃないかという返事が返ってきたが、はなはだ頼りない。まあ知っていてもいなくても変わりは無いとは思う。
「祥子ちゃんは東京の大学に通ってるの?」
「うん。家から通えるから。淳司さんは?」
「あっくんでいいよ。こそばゆい。美広ちゃんから聞いてる通り神奈川県のK大学に通ってる」
そう快活に笑ったあっくんの顔を記憶の中のそれと重ね合わせる。
五年前に会った時より少し背が伸びた。すっきりした顔立ちは昔のままだが、眉を綺麗に整えている辺りは都会に出て垢抜けたのだろう。
(ー四年前に私と会ったかどうか聞くべきか)
作り笑いを浮かべての自問。
答えはノーだ。怖くて聞けない。
代わりに当たり障りの無いことだけを話す。
「そういえば私がすごく小さい時にあっくんと二人で手つないでここのお祭りきたわね」
「ああ、覚えてるよ。あの時祥子ちゃんがいなくなって大変だったんだよな」
顔をしかめながら答えるあっくん、その背景に祭りの風景。
赤、青、緑などのカラフルな提灯に浮かび上がる非日常の空間。
林檎飴買ってとねだる女の子の声が、金魚釣りを二人で楽しむカップルの姿が、仲良くポップコーンを頬張る親子の姿が、七歳の時の私の祭りの記憶を刺激する。
(・・・皆がこうやってお祭りを楽しんでいた間、私は二時間も何を・・・)
空白の二時間、急に現れた赤い粒子、私の知らない四年前の写真。
いやそもそも粒子が見えはじめたのがあの時の祭り以降だ。何かがあるとすればこの祭りの最中にあると考えるのが妥当・・・
「どうかした?急に黙っちゃって」
あっくんの声にハッとした。考え事に集中し過ぎていたようだ。少しばかり罪悪感に駆られる。
「ううん、何でもないわ」
右目は何も感じない。まだ何も・・・
******
あっくんと談笑しながら見て回るお祭りは不思議な感じだった。彼には確かに昔の面影があるのだが、大学生となりずいぶんとおとなびたという印象が強い。
「大学卒業後の進路って考えてる?」
「ぼちぼちとはね。来年になったら進路をきちんと決めないといけないし」
とりあえず無難な話題を聞いた私にあっくんは真摯に答えてくれた。聞くとマスコミ関係に進みたいという希望があるらしい。
「だけど希望通り行く可能性なんて低いよな。いつから日本はこんなに就職が大変な国になったんだろう」
「ほんとね。女の私は多分もっと大変よ」
浴衣の裾を気にしながら私は答えた。髪は美容院に行く時間が無かったので簡単にアップにしただけだ。
「そうだね。うーん、なんか緊張するなあ」
「何が?」
「いや、幼なじみが大きくなって大人の女性になったのを見るのってさ、昔を知っているから調子狂うというか」
「ああ、なるほど・・・」
言外に異性としての意識を滲ませたあっくんの言葉に私は何とも言えない。それは私も似たような気持ちはあっくんに持っている。
(小説や映画ならここから恋に落ちるけど)
現実はそう甘くないだろう。東京に帰れば私には私の生活があり、彼には彼の生活がある。
誰かが叩く太鼓の音、それに混じる笛の音が周囲の賑やかな喧騒を引き立てる空間を私達は歩いた。
何軒かの屋台を冷やかした後だった。不意に道を塞いだ人の動きにバランスを崩した私の体をあっくんが咄嗟に支える。
がっしりした手、私の体重など簡単に受け止める体。
「ーこけなくてよかった、大丈夫?」
「ーうん、ありがとう」
こんなに大きくなっていたんだな、と改めて思う。いいや、甘酸っぱい思い出もこんな祭の夜には相応しいだろう。
ーーー
その時。
カチリ、と右目の視界に粒子が弾けた。
ーーー
(なに?)
自分の中で緊張が一気に高まる。周囲の音が急に静まる。目の前のあっくんの姿は見えてはいるが、意識の外に弾き出す。
粒子の見えたのは一瞬だった。色はよく分からない。赤っぽいような気もしたが白黒だった気もする。
゛こっちだよ"
・・・耳を疑った。
何だ、今の声は。まるで耳の側で囁きかけられたようなとても近くで聞こえた気がするのに、同時にとても遠くから聞こえたような。
それにこの声には・・・
(覚えがある)
いつの間にか私はふらりと祭の中心となっている通りから外れていた。あっくんとははぐれたのが一人になっていた。いや、あっくんは・・・そうだ、私などと一緒にいてはいけない。
(誰、誰なのあなた?)
"分かっているのだろう?12年ぶりだね、お嬢さん"
無意識に囁く私に声が答える。含み笑いのような気持ち悪い響きが不快だ。
間違いない。12年前。あの私が行方不明になった7歳の祭の日に聞いたあの声だ。
(あなたね。私をさらって右目をおかしくしたのは)
ふらふらと道を外れながら私は呼び掛けた。やはりあの黒森山に見えた赤い粒子はこれを指していたのか。赤ならば大体危険を指すがこんな状況からはいそうですか、と戻るには好奇心が募りすぎている。
否、戻ろうとしても戻れないか。
林が目の前にある。祭の明かりは私の遥か後方に流れている。いつしか私はずいぶんと歩いたらしい。
そして私の目の前にすぅと伸びるこの黒い道は・・・
"来ないのかい?分かっているだろう、今更ー゛
声が囁く。そうだ、分かっている。
唾を飲み込む。いつしかジットリと手の平に冷や汗をかいていた。
・・・あの日の失われた二時間につながっている。
(待ってなさい。今、行くから)
ふ、と風が動いた。暗い林の奥に誘うように木々の葉が鳴く。そして道の奥にチカチカと光るのは、赤い、血のように紅い粒子の塊だ。
逃げるものか。
******
暗い道を気をつけて歩く。浴衣に草履と動きにくい服装だが幸い道は平坦だ。木の根にさえ気をつければいい。
明かり一つ無い空間だが右目は優秀で、道の起伏をきちんと拾う。
7ー8分ほど歩いただろうか、視界の端に動いていた紅い粒子が瞬いた。どうもこっちに来いと誘っているようだ。
さきほどからあの声は聞こえない。もう案内不要ということだろうか。
粒子の方へ歩く。やや道から外れた形だが幸い木の隙間を縫うようにして細い獣道があった。サク、サクという自分の足音が聞こえる。
そして唐突に視界が開けた。
うっとうしい木々の終わり、ほぼ平坦な土の地面がちょっとした公園のようにならされている。
その中央に佇むのは黒い小屋・・・いや、社だった。学校の教室程度の社。近づいてみると社を構成する木は黒く染まり、あちこちガタが来ている。
"ようこそ。さあ入りなさい。疲れたろうから"
再び頭の中で響く、いや、違う。
今度はあの声は社から聞こえた。この中が、と固まる私を無理矢理誘うようにギィと社の扉が開く。
外から社を見る。ずいぶん古い。長年打ち捨てられていたように見えるこの社に12年前のあの日の記憶が眠っているのか。
膝が笑いそうになるのをこらえ私は扉を目指した。五段ほどの小さな階段を上るともう扉だ。外側に向かって開いたそれに手をかけ、中に踏み込む。
キシ、と社が軋んだ音がまるで獲物を捕らえた罠が鳴ったように思えて背筋が震える。
******
社の中は明かり一つない。狭い木製の部屋だ。僅かに天窓と思われる箇所から差し込む月の光だけが頼りになる。
(いや、待って。私の右目、暗いとこでも作用するはず)
夜目が利く能力も右目は装備していたのにそれが働かない。今更恐怖が背筋を伝う。
自然と落ちた視線は部屋の奥へと動いた。
何か白い物が見える。
堅そうな白々とした固形物だ。あまり大きくは無い。全長30cm程度か。それが床に伏している。
(何、あれは・・・骨?いえ、違うわ)
心臓が鳴り始めた。ドクン、ドクンという鼓動に押されるようにして私は闇の中、その白い物に恐る恐る手を伸ばした。
カラン、と軽い音が響く。ままよ、とそれを持ってひっくり返す。
「ひっ・・・な、何よ、これ?」
人間の頭部に一瞬見えたが違った。その白い物は仮面。木枠に和紙を張り蝋か漆で固めたような皮膚を持った女の顔をした面だ。恐らく能面の一種なのだろうが正式な種類など私には分からない。
だが最も恐ろしかったのはこの仮面を触った瞬間に分かってしまったことだ。
私がこれに会うのは初めてではない、ということが。
"久しぶり・・・"
ギョッとする。不気味な声が空気を震わせる。その発信源は信じられないが目の前の仮面であった。作り物のはずの面の目が私を睨み、精巧な唇が動く。
驚愕と恐怖に私は私の体をコントロール出来なくなっていた。無様に後ろに倒れそうになる。手を床について転倒こそ防ぐがもう足がついてこない。
浴衣の裾がめくれるが気にする暇などない。逃げなくてはと思うが、そんな思考すら恐怖が塗り潰す。
"逃げなくてもいいじゃないか。もう思い出しただろう?"
床に落ちた面が再び喋り始めた。毒のような、あるいは甘い砂糖のような心を病ませる浸透性がそこにある。
"君が初めて私に触れた12年前を・・・"
ーーー
意識が撹拌される。
視界は白黒になり、あの日の情景を呼び出す。
肌が粟立つような感覚に捕われたまま、私はあの7歳の祭のことを・・・思い出していた。
そうです。私はあの時、暗い道を歩きました。あの日、お面屋さんの屋台の裏から歩いた私は何故か恐怖も感じずに歩いたのです。
林が終わりました。開けた土地、差し込む月光、そして中心に暗い・・・どこまでも暗い建物がありました。
戸惑う私が立ち止まっているとひとりでにその建物の扉が開きました。
"おはいり"という声が聞こえてきて、それに誘いこまれるように私はその建物へと入りました。
ええ、真っ暗な何も見えない空間、嫌な木の匂いの中で一つだけぽつんと光る物がありました。
お面に見えました。屋台で売っているおもちゃの。だけどもっと高級そうなそれに触りたくなった私はふらふらと近づきーーー
"かぶってごらん。きっと似合うから"
その不思議な空間に響いた声の誘惑に耐え切れずにーーー
白い面をかぶったのです。
ああ、それはすっぽりと私の顔を隠してくれました。夜の闇も、一人ぼっちでいることもこの面が防いでくれるような安心感に包まれた私はしばらくそのままぼうっとしていたのです。
何分経過したでしょうか。次第にお面が重くなってきたような気がして、私は面を外しました。カランカランと床に落ちた面の白が黒い床に浮かびます。その白にポツリポツリとついた赤い物は何でしょう・・・
ああ、そうか。あれは血なのです。
ワタシのミギメから流れる血だと気づき、ワタシはワタシのミギメにそっと触れ、零れた赤い滴りをそっと床に落ちた面になすりつけました。
"よくやったね。。さあ、今から私の力を貸してやろう。その代わりーミセテクレコノヨノスベテヲ"
ーーー
「アアアアアア!!」
喉を引き裂くような絶叫は私の物か。そうだ、私は全てを思い出した。
あの日からだ。あの祭の日に何故か疑問を持たずに誘い込まれるようにこの面に触れ、被り、そして血を流した私の右目が異常をきたしたのは。
カタカタカタと面が震える。
嘲笑のように唇を吊り上げた面が、ひとりでに床に立った。まるで生き物のように。
"思い出したね。いい子だ、若宮祥子。君はあの日から私の目になり、この社に縛りつけられていた私に外の世界を見せてくれた。感謝するよ"
「な、何よ!あなた、何なのよ!?」
混乱する。思考がまとまらない。ただ感情のままに叫ぶしか出来ない。
"人魂"
その一言だけを仮面は呟く。何だ。それは。分からない、いや、分かったところでもうこの恐怖から逃げることも出来ないだろうが。
背後を見る。覚悟はしていたが社の扉は閉まっている。逃がしてはくれない、ということか。
"物に魂が宿るというのはおまえも聞いたことがあるだろう。長年使っていた物ほどそれは強くなる・・・作り手の念が時間経過と共に化学変化を起こすといえばわかりやすいか?"
ガチガチと歯を鳴らしながら私は床にはいつくばった。それを見下ろしながら仮面は話し続ける。
"そして物が人に近いほど、その化学変化は発現しやすくなる・・・作り手の魂が篭りやすくなるからな。感情移入というやつだ。どうした、若宮祥子。これはおまえが本やネットで得た知識の中にあった。何を驚いている"
「ど、どういうこと」
恐らく私の顔は恐怖で引き攣っていただろう。冷や汗が首元から噴き出し、ジットリと不快だ。
恐怖の汚泥の中から頭をもたげた好奇心にすがりつく。それしか出来ない。
"あの日、私はおまえの右目を通してお前の体に取り付いた。まあ、取り付いたといってもお前を支配できたわけじゃない。宿り木のようにただ寄生させてもらった。だがお前の周りに起きたことは全て五感を通じて吸収させてもらったよ"
カツン、と歯を鳴らした仮面が笑う。
"魅力的だった。新鮮な空気も、水の冷たさも、砂糖の甘味も、他人との会話も、両親からの愛情も、友人との触れ合いも、本から得られる知識も、CGを使った映画も、初めての恋も、失恋の悲しみも、初めて男に抱かれた時の痛みも喜びも全部!全部!!全部!!!この社から一歩も動けない私にとっては甘露にも等しい体験だった!!"
仮面の絶叫が社に響く。あまりにあまりなそいつの話の内容に頭がついていかない。
何だ。それは。それは、こいつが私の人生を全て知っているということか。私の喜びも悲しみも楽しかったことも嫌だったことも好きだった人も辛かったことも、全部盗み見ていたのか。
茫然とした私、それとは対照的に高ぶるように話し続ける仮面。
お笑い草だ。私の人生は・・・こいつの監視下にあったようなものか。
"だが、所詮は借り物の体験だ。何年か経過するうちに私は自分自身の体が欲しくなった。自分で動いてみたくなった。だから工夫を始めたのさ"
工夫。何のだ。これ以上私から何を奪う。
"お前が生物の授業で吸収した知識を元に人間の体の組成にトライした。お前の血を基礎情報として骨格、神経、筋肉、臓器、皮膚をイメージし、それを強く念じ続ける。細胞組織に必要な水は雨で、栄養分はこの社の腐った木の養分や紛れ込んだネズミ、生えてきた茸で賄ったのさ"
「ーまさか、四年前に叔母の家に遊びに行った私というのは」
つながった。荒唐無稽な話ではあるがこいつが話していることが本当ならば、それしかない。
"そうさ、私だ。どうしても我慢出来なくなってな、お前の視覚から得た情報を元に当時のお前になりすました。人間の肉体の維持がきついために短時間しか可能では無かったが・・・嘘だと思うか?"
醜く仮面が笑う。そしてそれが社の床から不意に浮かび上がった。
いや、仮面から何か白い物が生え、それが支えているのだと気づく。
"ーーーこんな風にな!!!"
仮面が叫んだ。それと同時に仮面から生えていた白い物体が爆発的に伸びる。それが骨だと気づいた瞬間には骨の周りに赤い神経が走り、その上に筋肉や臓器が巻き付く。
ビクン、ビクン、と生々しく震える胃袋のリアルさに吐き気を催す。
大動脈が生える。肺に巻き付いたそれが心臓とドッキングする。ボコリと動いた心臓に全身の細胞から染み出した血液が集中し、心臓はそれをポンプの動きで送り出していった。
その間にも仮面から生えてきた体は再生を続けていた。手足の末端が完成する。白い皮膚が覆う。それは・・・間違いなく・・・私の体だった。
服を纏わぬ私の裸体がすっくと立ち上がった。まだその顔には作り物の能面が張り付いたままだが、そこに白い指が伸びる。
「や・・・止めて」
嫌だ。見たくない。その仮面の下にあるのは。
「もうー遅い」
細い指が仮面を挟み、投げ捨てる。
カツンと床にそれが弾けた音が響く闇の中で私が見た物は・・・
私と寸分違わない私だった。
少し茶色の髪の毛も、お気に入りの二重の目も、すっきり整っているとほめられた鼻筋も、卵形の顔の輪郭も。。何もかもが。
「さあ、ここまで来れば分かるよな。若宮祥子。私はお前の全てを欲する。いちいち疲れるんだ、この変身は。より完全なお前になるために・・・お前を寄越せ」
嫌だ、近寄らないで。止めて・・・!
声にならない叫び、出口を失った感情。
もう駄目かという思いとこんなところで人生終わってたまるかという足掻き。
全てがごちゃまぜになった体はまるで動こうとしない。
そんな私を哀れむように、仮面から生まれたもう一人の私は優しく笑った。
その瞬間、ワタシのイシキは暗い闇の底へと落ちていった。
最後に右目が見た光景だけが細い糸のように舞い落ちるワタシのイシキに絡みつく。
それはワタシの右目に私の細い指を差し込もうと歪んだ笑いを浮かべた私・・・
******
「お世話になりました」
「また遊びにおいでねー、祥子ちゃん」
祭の翌日、叔母の家への宿泊を終えて帰途についた。最寄り駅までは遠いのでタクシーを呼んでもらう。
「おや、お客さん。あんた前にも乗ったね」
タクシーの運転手の言葉に一瞬戸惑うもすぐに記憶を検索しその意味を探し当てる。そうだ、確かにこのタクシーだった。まだ新しい体に慣れない苛立ちを感じながら不自然にならないように作り笑いを浮かべた。
「あ、そうですね。奇遇ですね」
「なんぞいいこと見つかったかね。せっかくの旅行だもんねえ」
ははっと笑う運転手は快調にタクシーを走らせ始めた。ああ、生の体で感じる車の振動とはこういうものなのか。窓から吹き込む風とはこれほど気持ちのいいものなのかと改めて新鮮な驚きに心を踊らせながら自然と唇が笑みを作る。
「ーええ、とても。とても有意義な旅でした」
初めての電車に乗り、初めての東京を見物し、それからそれから・・・
たくさんの初めてが待ち受ける人生に向けてタクシーは走ってゆく。