1 ~始章~
・・・ミセテクレコノヨノスベテヲ・・・
******
車窓から外を見るのも飽きたな、と思いながら私は軽く目を閉じた。シートから伝わる振動が眠気を誘う。
列車の通路を挟んだ親子連れの騒がしくない程度の会話もまた旅情を掻き立てると思えば気にはならない。
東京駅から出るC央本線の下り特急に乗ること三時間、そろそろ降車駅のことを頭と体に意識させる時間かと思いながら私は閉じた目をうっすらと開けてブラインドを下ろした窓の外を見た。
(ー雨になるかもしれない)
フッと視界に弾けた黒い粒子が私に天気の心配をさせる。他の乗客は気づいていないだろう、まあそれもいつものことだ。
ーーー
(祥子ちゃん、今年の夏、うちに遊びにこーへん?)
(はあ、ちょっと考えさせてもらってもいいでしょうか)
信州のN県に私の親戚の家がある。東京育ちの私から見れば土と木の匂いがむせ返るばかりの田舎なのだが、そこの母方の叔母がわが家に電話をかけてきたのは一ヶ月ほど前、大学の定期試験の勉強をそろそろ始めるかという梅雨の最中であった。
電話を受けた私は普段それほどつき合いのない叔母からいきなり暖かいー場合によっては遠慮を知らないとも言えるーお誘いを受けたわけだが、話は簡単で今年の夏休みの時期に私の両親が結婚25年のお祝いに長期海外旅行に出かける為に家を空けるので、女一人で留守をさせるのは物騒だということらしい。
「つまりお母さんが叔母さんに手を回していたのね」
とりあえず一旦電話を切った私はそう呟いた。娘を心配するのは結構だが本人に相談もせずにことを進めるのはどうかと思う。
だがよくよく考えてみると悪い話ではない。叔母の話では滞在期間は一日でもいいし、一ヶ月でもいい。寝泊まりの準備はしておく。ただ旅館では無いので最低限の家事はしてくれとのことだった。
まあ予定がある程度埋まった普通の大学生の夏休みを過ごすつもりではあったが、たまには田舎で夏を過ごすのも悪くないだろう。
正直近年の地球温暖化の悪影響を一手に引き受けたとしか言えない猛暑の東京の夏を逃れられるのは助かる。
一時間ほど考えて決断した私は叔母の家に電話をいれた。
まずは誘っていただいたことの礼を述べた後、「五日間だけ泊めていただけますか」とお願いしたのだ。
「あらー、もっと泊まってもいいのよ?」
「あまり長いと荷物も増えますし」
そんな短いやり取りの末、私の夏の田舎行きは決まったのだ。
ーーー
(最後にあの家にいったのは五年前か。ずいぶん間があいたね)
シートに身を沈め手持ち無沙汰の手で切符をもてあそびながら自分の膝あたりに視線を落とす。
座るとすっかり膝が出るブラックデニムのミニスカートにキャミソールという軽快な格好の旅装の自分。
私、若宮祥子が14歳の時は確かキュロットにTシャツだったはずだ。
背が伸び、体型が女らしくなるにつれ外見は変わる。内面はどうかと自問し、どうかなと心の中で首を捻る。
第一志望の女子大に受かり、親しい友人と共に楽しいキャンパスライフ。まずまず上等な現在だが物質的な豊かさが即内面の充実につながるかはまた別な気もする。
(考え過ぎかな)
来年になれば将来の選択に腰を据えて取り掛かる夏になる。その前に遠い田舎で童心に帰るのは悪いことではないだろう。
゛もうすぐ当列車はS駅へと到着致します。お降りのお客様はお荷物のお忘れがないようご注意ください゛
特急列車のスピードが車掌のアナウンスと共に緩まりつつある。荷物を棚から持ち上げながら私が最後にちらりと見た外にはやはり黒い粒子、それに絡みつくような青い粒子が走っていた。
「多分、雷雨になるー」
ぽつりと呟きながら私はザックを担ぎ乗降口へと移動した。隣の親子連れは一駅前で降りたのかもういない。
S駅に降りた私を待っていたのは予想通りの夕立だった。先程までの晴天が嘘のよう水の弾丸が補修が必要そうなアスファルトに勢いよく降り注ぐ。
雨の降り始めの独特の埃っぽい匂い、この緑濃い地方にはそれに濃厚な草っぽい匂いが絡み付く。
電波が通じるか心配になってスマホに目を落とすと三本きちんとアンテナマークが応えてくれた。東京からバカンスに来たのに都会の情報に飢えている自分を笑いながら駅前の車溜まりでタクシーを拾った。
「xx町のxx丁目へお願いします」
雨を避けて車内へ飛び込んだ私は運転手にそう告げてザックからタオルを取り出した。駅からタクシーまでは大した距離では無かったのに最大出力のシャワーをかけられたように水滴が肌を伝うのが不快だ。
キャミソール一枚なので男の運転手の目が気になるというのもある。
「お客さん、東京から?」
「はい。親戚がこちらにいるので」
「ああ、そう。いいよね、避暑にはいいよ、ここは」
有りがちなタクシーの運転手と客の会話。それを意識半分でこなしながら私は左側に見える黒々とした塊に目をやった。バシバシとタクシーの窓に叩きつける雨を通してなおその黒い塊は大きな存在感があった。
「左側に見えるのって黒森山ですか?」
「そうよ。よう知ってるねえ」
私の問いに運転手はほがらかに答える。
「あそこのお祭り行ったことありますから。今年はいつでしたっけ?」
「四日後だね。ここいら娯楽が少ないから皆楽しみにしてるよ」
そうか。この旅行の最終日か、それなら行ってもいいな。
そう思いながら私は黒森山を見た。名の通り黒々とするほど広葉樹が生い茂る山は雨の中でどんよりと佇んでいる。
その時、カカッと鋭い音がしたかと思うと視界が白く染まった。雷が近くに落ちたのだと気づいたのは私が山の黒い木々が白く浮き彫りになった光景を見た後だ。
何故だかその白と黒の光景に赤い粒子が浮かぶ様まで見えた気がして、私は右目を思わず押さえた。
(ー何かある?いや、気のせいかな)
タクシーは雷にもかかわらず雨の田舎道を飛ばしていく。
******
「祥子ちゃん!よう来たねえー、酷い雨やねえ」
「おー、祥子姉さん久しぶりー!」
叔母の家に着いた時にはかなり小降りになっていた雨を突っ切り、古い日本家屋の玄関を叩いた私を出迎えてくれたのは女二人の元気な声だった。
母の妹の叔母さんはよう来たね、を繰り返しながら私を家の中へと案内し、今年高校生になったばかりの従姉妹の美広は私のザックを手に取り代わりに運んでくれた。
(さすがに美広は大きくなったね)
綺麗に掃き清められた廊下を先に行く美広の背中。私より背が高くなったかもしれない。五年前は私の肩までも無かったのにと思うとなんだか笑える。
「ごめんね、荷物重いでしょう」
「平気!部活の道具の方がもっと重いから!」
「そういえば部活って何してるの?」
「剣道部よ。中学も高校も。あれ、伯母さんから聞いてない?」
聞いたかもしれないし、母が私に話し忘れたのかもしれない。
あの人はそういううっかりな部分がある。
美広は東京に興味があるらしく好奇心むき出しで私を質問攻めにしてくる。それを見とがめた叔母に注意され首をすくめるあたり、まだまだ子供だ。
「しかし祥子ちゃん大人っぽくなったねえ。えらい綺麗になっててびっくりしたよ」
「だってもう19だよ、私?最後にあった時、中学生だもん。変わらないとおかしいわよ」
「ねえねえ、祥子姉さん。質問があります」
美広がぴんと右手を上げた。青いノースリーブから伸びた白い二の腕が眩しい。
「質問を許可します、どうぞ」
「彼氏さんは今いらっしゃいますか?」
ふざけて美広が右手をマイクを持ったようにして私の口元へ近づけた。私はわざと勿体振ってそれに答える。
「そういう話はもっと夜にしかお答え出来ません」
「だってさ。ほら、美広、あんたぼちぼち夕ごはんだから準備手伝ってね。祥子ちゃんは休んでていいから」
叔母の言葉に私は浮かしかけた腰を元に戻した。初日はゲスト待遇なのだろうか。
「じゃ、お言葉に甘えます。すいません」
「そのかわり明日からじゃんじゃん働いてね!期待してるわよ?」
「えー、勘弁してくださいよー」
私が嘘泣きすると叔母と美広はけたけたと屈託なく笑った。そうするとほんとによく似ている。
******
夕食後、お風呂を借りた私は美広が再開した質問の嵐を避けるのに必死だった。まあ年頃の女の子としては年上の従姉妹に聞きたいことがあるのは分かるが、性体験まで赤裸々に聞いてくるのだ。
(答えてもいいけど、やっぱり恥ずかしいしなあ)
電気を消した部屋の天井を見ながら苦笑する。広い田舎の家なので東京では有り得ない平屋のこの家の一室を借りた私はゴロリと行儀悪く布団に寝転がる。東京なら熱帯夜に悩まされていたはずの夜も、この地方なら薄い掛け布団が必要な程度には涼しい。
木目が走る天井を眺める。薄明かりが差し込む程度の明度にもかかわらず、その木目の一つ一つを数えることが出来る私の目ー正確には右目。
・・・そうだ。あれは、ここに初めて来た時からだ・・・
複雑な木目の迷路を視線でなぞりながら私は自分の右目の発端を思い出していた。
******
ここ最近は都合がつかず来ていなかった叔母の家だが、私がもっと小さい時には割合頻繁に来ていた。
幼い私は都会とは異なる田舎でしか味わえない経験を満喫したものだ。
雑木林に分け入ってのカブトムシやクワガタ取り。
井戸水で冷やしたスイカを縁側に腰掛けて食べた夏の午後。
青い稲の葉に止まる大きなオニヤンマ。
綺麗な空気と水が生み出す田舎にしかない自然のプレゼントの数々は今も私の記憶に転がり、懐かしい光を放っている。
ー祥子ちゃん、こっちー
その記憶の中には一つの音声が組み込まれていた。そうだ、こっちで私が遊んでいた時にはいつも側に彼がいた。
ーあっくん、元気かなあー
苗字は覚えていない。私が覚えているのは真っ黒に日焼けした顔でほがらかに笑い、田舎での遊び方を教えてくれたあっくんと呼んでいた少年だけだ。
私と確か同い年だったはずだが今はどうしているだろうか。五年前に来た時にも顔を合わせる機会はあったが子供の頃と違い、ぎこちない挨拶しかできなかったのは今も残念に思う。
回想を頭の中で再生する。脳内の映像は私が7歳の夏、そう、初めてこちらに遊びに来た夏のものになった。
(・・・あの夏からだ、私の右目がおかしくなったのは)
暗闇の中で私は右目に手を当てた。ほんのりとした自分の体温をまぶたに感じていると、勝手に記憶は再生される。
ーーー
暑い夏だった。まだ小さかった私は初めての田舎に目を輝かせ、地方での夏を満喫していた。
あっくんとその友達は東京から来た私に意地悪するでもなく、ごく自然に仲間に入れてくれた。学級崩壊など無かった頃の幸せな時代だ。
昼ご飯の時だけ家に戻り、食べ終わったらまた外へ。どれだけ遊んでも満たされない好奇心。
夜は夜で花火をしたり、蚊帳を吊った部屋で肝試しをして遊んだりと楽しいことだらけだった。
(ーあれは、今年と同じように祭の日だった)
楽しさに彩られた7歳の夏の記憶、その最後に陣取る祭の部分だけが不可解な灰色となっている・・・
黒森山で行われる祭にせっかくだからと家族親戚全員で出かけた。
子供用の浴衣を貸してもらった私は可愛い可愛いと誉めてもらい得意げになっていた。
祭というのは非日常を楽しむものだと聞いたことがある。神を奉る神社の参拝道を挟んで立つ縁日、ドン、と腹にくる音を鳴らす和太鼓、蛍光灯ともまた違うぼんやりとした明かりを放つ裸電球。
難しいことは分からないがとにかくお祭りというだけで当時の私ははしゃいでいた。いや、はしゃぎすぎていた。
「祥子、あんまり走ると危ないぞー」
「大丈夫、あっくんもいるから!」
大人に先立って祭の人混みへと飛び込む子供二人。縁日から流れてくる美味しそうな匂い、金魚すくいのビニールプール、怪しげなおじさんが勧誘してくる射的。それらがうっすらとただよう焼きとうもろこしの煙りにまかれながら五感を刺激する。
「ねえ、あっくん!あたし、あのお面が欲しい!」
ある屋台の前で私は足を止めた。よくある戦隊物のヒーローや少女向けアニメキャラクタのお面を売っている屋台だ。安っぽいプラスチックも祭の光景の中ではきらきらして見えるからたちが悪い。
隣にいたはずのあっくんを呼ぶ。だが返事がないので横を見ると彼がいない。どうもこの人混みの中ではぐれてしまったらしい、と気づきどうしようかと途方にくれる。
(お父さん、おかあさん、どこ?ねえ、あっくん、出てきてよ)
それまでの興奮が一気に冷め、代わりに不安に支配された。
所詮7歳の子供、しかも知らない土地での迷子だ。どうしようどうしようとそのお面の屋台の前で泣きそうになりながらうろうろしていた時だった。
゛お嬢ちゃん、迷子かい゛
不意に耳に飛び込んできた声に顔を上げる。聞こえてきた男とも女ともつかない声、だが私の視線の先には誰もいない。
周りには誰もいない・・・
゛もし迷子なら休んでおゆき。ほら、この道の先だ゛
再び声がした。その声の主を見つけようとして私は声が聞こえてきたとおぼしき方向に顔を向けた。
分からないままにこの迷子の不安さからその声に頼ろうとして口を開く。
「だあれ?この道ってどこ?」
゛この屋台の裏さ。覗いてごらん゛
今にして思えば不思議なのだが私は確かにその声と話したと思う。
風も無いのに私の近くの木の枝がしなり、林の奥を指差したかのように見えた。
こっちかと私はその動きに釣られるように屋台の裏に回った。なるほど、神社を囲む林の中に一本すっと黒い空間が空いている。縁日の明かりも騒音も拒むかのように黒い静寂が漂うそちらに私は子供用の草履を履いた小さな足を踏み出した。
゛来よ・・・゛
「うん、ありがとう」
普通に考えればそんな怪しげな声に釣られるなどどうかしている。
だが何故だか私には怖いという感情は無かった。
この声の言うとおりにしようと素直に従った私はその暗がりへと歩き始めた。
******
(・・・一体あの道の先に何があったんだろう)
ごろん、と寝返りを打って私は考える。
不思議なことに気がつけば私は祭の行われている広場にいた。
肩を両親につかまれ、心配そうに顔を覗きこまれていた。その隣に立つ背の高い紺色の制服を着た男の人は警察官だと知ったのは後のことだ。
怒ったり泣いたりと忙しい両親の話を聞いてみると実に二時間余りも私は姿を消していたらしい。あの後、私を見失ったあっくんが急いで両親を見つけてくれたのだが、さほど広くもない神社の敷地を皆で探し回っても全く見つからないので途方にくれていたのだという。
「そしたら神社の境内の横に浴衣姿の女の子が寝ているという連絡があって。もしやと思って駆け付けたら祥子ちゃんだったのよ」と母は説明してくれた。
二時間もの間、何をしていたのかと当然厳しく聞かれたが私自身も困惑していた。あの声の話もしたのだが全く信じてもらえなかったし、それに林の隙間を縫うように空いた道などどこにも無かったのだ。
誘拐事件の可能性もあるため警察を呼んだのだが、結局それも無駄骨になり今後は注意してくださいと警察官に両親共々怒られた。それが事の顛末だ。
いったいどこに行っていたのか、私自身が一番知りたい。だがあの林に踏み込んだ後の記憶はぽっかり抜けて気がついたら両親に保護されていた。
(そしてあの時から私の右目はおかしくなった・・・)
まだ眠れない。天井を睨む。暗闇を通してはっきりと木目が見える。
体の不調は無かったが、唯一変化が出たのは右目だ。別に痛みなどはないのだがそれまで普通に見えていた景色が時折変に見えるようになったのだ。
例えば飛んでいるトンボの軌跡が飛ぶ前に白っぽい粒子がついて先には見えるようになったり、自宅近くの建物にオレンジの粒子が見えたと思ったら翌日の新聞でその建物が自然発生した火事に巻き込まれていたりーーー
今日だってそうだ。電車の窓から見た風景にかかる黒い粒子と青い粒子。あのあとすぐに天気は荒れた。おそらく大気中の水分や何かが可視化されるのだろうと考える。
(どちらかというと私の役に立つ力だからあまり問題視してこなかったけど、やっぱり変よね)
脳裏に蘇るのはあの奇妙な声。空白の二時間・・・そして豪雨の中でもはっきり見えた黒森山にかかった赤い粒子・・・
ーーー私がもしお祭りにいったら、この目の秘密も分かるだろうかーーー
7歳の時以来、こちらに遊びに来ることはあってもタイミングが合わずお祭りに参加する機会が無かった。
だが今年は五日目、私の旅行の最終日が祭の日だ。参加しようと思えば出来る。
(行こう。何か分かるかもしれない)
12年前のあの日何があったのか。手がかりはあまりに少なく、今の私には祭りに行って探してみるくらいしか思いつかなかった。
******
翌日から私の本格的なバカンスが始まった。
空気もおいしく、水は冷たい。浄水器無しで飲めるとは素敵なことだ。
祭りの日までは少し時間がある。大体参加しても何も得られず無駄になるかもしれないのだ。なら久しぶりの田舎を楽しむべきだろう。
「祥子ちゃん、あっくんとは会ってないのー?」
「会ってないわよ。連絡先知らないもの」
縁側でえんどう豆の鞘を剥きながら美広ちゃんと話す。入道雲も一際高い夏の午後の一時、のどかそのものだ。
「そっかー、最後に祥子ちゃんこっちに来たの四年前だもんねえ、まだ携帯やスマホ持ってなかったかな」
ー今何と言った・・・?
「美広ちゃん、今何年前に私がこっちに来たって言った?」
「え?四年前よ。祥子ちゃん一人で来たじゃない。この辺りのペンションに宿取ってるからってうちには泊まらずにすぐに帰ったわ」
ーー嘘だ。私が最後にこちらに来たのは五年前だ。はっきり覚えている、間違いないーー
「私、最後に来たの五年前だよ?一年間違えてるんじゃないの?」
「えー、そんなことないよー。はっきり覚えてるもん。そうだ、確かあの時皆で写真取ったんだ!今持ってくるね」
ぱっと笑顔になった美広は縁側から立ち上がった。私が止める暇もなく、パタパタと家の奥へと消え一枚の写真を持ってくる。細いその指に挟まれた写真が風に揺れ、なぜだか分からないが私にはひどく不吉に見えた。
「デジカメで取ったからさあ、日付も入ってるんだよね」
そう言いながら美広は私の横に座りながら写真を差し出した。いつの間にかじっとりと湿った手の平をワンピースの裾で拭きながら私は写真を見る。
この叔母の田舎で撮影されたものだ。家の門の前で撮影したのだろう、右から順に叔母、美広、そして・・・
゛私゛がいた。確かに見覚えのあるクリーム色のフレアスカートに似たような色のブラウス。ああ、そうだ、確かに私の服だ。
だがあの頃この家に来る時にはたいていジーンズかキュロットだったはずだ。
実際、五年前に来た時はTシャツにキュロットで電車に乗ったのだから。
「日付、どこ?」
「ここよ。ほら、四年前でしょ?」
美広が指差した写真の右下に視線を落とす。確かにそれは四年前の西暦による年だ。
「そんな馬鹿な・・・私、来てないよ」
私の声がよほど変だったのだろう、美広が眉をひそめる。
「ね、祥子ちゃん、大丈夫?きっとさあ、忘れちゃったんだよ。二時間くらいしかいなかったもん。印象薄かったんだよ」
「でも東京からわざわざここまで来てそんなこと、忘れるかな・・・」
有り得ない。私はどちらかといえば記憶力には自信がある。第一、四年前の夏は当時所属していたテニス部の合宿やら何やらで忙しかった。旅行に行けるはずがない。
(・・・まさか記憶障害とか?)
嫌な想像が頭を掠める。デジタルカメラの写真の日付は簡単にいじれるが、叔母さんや美広がそんな悪戯をする理由は無い。だから何らかの理由で四年前、私かあるいは私によく似た誰かがいたという方が可能性はある。
「ほんとに私だった?変なところなかった?その、四年前にきた時」
「ん?うん、普通だったよ。まあ強いていえば、ちょっと動作がゆっくりだった気がする。でも疲れてるの?って聞いたら電車に乗って冷房がきつくて肩がこっちゃった、なんて笑ってた」
聞けば聞くほど訳が分からない。
何が四年前あったのか。ダメだ、感情が固まって上手く頭が働かない。えんどう豆の鞘を剥く手も震える。
私は縁側から外を見る。
見慣れた風景が色彩を失い、鮮やかさを失い、全ての音が消えていく。
いきなりザ、ザ、ザと何かのノイズのような気配が私の右目に走る。あっと声を出す暇もなく、白黒に染まった庭の風景は・・・
・・・真っ赤に染まった粒子で覆い尽くされた・・・
******
ーオカエリ
ー誰?私を呼ぶあなたは誰?
ーワタシハアナタヲズットミマモッテイタモノ。イマハソレイジョウハイエナイ
ーえ、何どういう意味よ?
ージキニスグアエル
(うっ・・・)
水中から空気中に放り出された魚のようにあえぎながら私は目を覚ました。風の当たる縁側沿いの部屋にゴザが敷かれており、そこで寝かされていたと気づいたのは数分ほどぼーっとしていた後だった。
右目に手をやる。別に痛みもない、正常に見える。
(あの赤い粒子で埋め尽くされた視界。。そして今の声みたいなのは関係あるの?)
私が起きたことに気づいた美広によると私は急に意識を失い、昏倒したらしい。救急車を呼ぼうかと迷ったらしいがとりあえず熱も無かったので涼しいところで寝かせることにしたという。
「ね、祥子ちゃん、大丈夫?痛いところない?」
「うん、大丈夫。ごめん、心配かけて」
それでも喉だけは乾いている。確認を取ってから冷蔵庫から取り出したサイダーを飲み頭を落ち着けようと試みた。子供っぽいかもしれないが、サイダーは私の好きな飲み物だ。
シュワシュワという炭酸が喉に心地好い。美広は私が落ち着いているのを確認すると「何かあったら呼んでね」と言ってから洗濯物の回収に行った。もう午後三時だ。私は二時間近く寝ていたことになる。
考える。
あの写真の意味を。
目覚める直前のあの声(これは幻聴かもしれないのだが)の意味を。
そして写真を見た後、視界が真っ赤な粒子で染まったあの光景を。
全く関連がないとは考えるべきではないと私の理性が訴える。これまで統計だてて確認したわけではないが、この不思議な右目に映る粒子の色にはある程度規則性がある。
何となくだがモノトーン系の時は無害な物が、青っぽい時は安全に関することや水に関係することが見える。
逆に黄色から赤にかけては信号と同じように避けないと危険と思われるものが見えてきた。
だからそれが適用されるならばあの真っ赤に染まった粒子は私にとって何かしら危険か・・・それか重要な意味があると考えるべきなのだろう。
(東京に戻るのもありかもだけど、気になりすぎる)
ここまで来て引けるか、という意地のようなものもある。
四年前に来たらしい覚えのない自分、初めて経験した赤い粒子の氾濫。何かがおかしい。
そこではたと気づいて私は縁側へと出た。さきほど気を失う前に見ていた方角へと視線を向ける。
デジタル一眼レフの撮影対象を定めるように目を細めた私の視線の先にあるのは・・・黒森山だった。
さすがにこの距離だと視界の中央上を多少占める程度だが真っ正面に位置している。
(やっぱりお祭りが関係しているの?)
自問する。一拍置いてその推測に無理がないか考える。
(そう思うべきよね)
どう考えてもそれが現状ベストアンサーだろう。こちらに来た雨の日も赤い粒子はあの山にかかっていたのだから。