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月に祈る

作者:

 月が、欠けていく。満ちたり、欠けたり、なんと忙しいことか。じりじりと、時間をかけるようにみせてその実、気がつけば一周回っている。


 ———月日の流れの早いこと


 清子は、先程から真っ白のまま、何を書いてよいのやらわからない文を書く手を止めた。ため息がこぼれる。自分は今年で26になった。15で出仕し、はや幾年。お仕えする公子姫は中宮と呼ばれて久しい。この度の今上の御譲位についていかれるお心づもりのご様子。月日は、流れるものだ。


———そなたは、如何するのか


 今朝の中宮の台詞を思い出す。中宮にどこまでもついてゆくつもりであったのに。どうしよう。自分がどうしたいのか、全くわからなくなってしまった。

 かわいい息子と、娘。そして、元夫。彼らよりも、中宮の女房としての自分の道を選んだ。夫の任国へ下らないと決めたあの日に、分たれた二人であったはず。美丈夫で知られた彼のこと。任国では、良い人もあったはず。自分自身、身を焦がすような恋も、遊びも知っている。———なのに。


「俊国さま…」


 知らず、嗚咽がこぼれる。どうかご無事で、という言葉は言葉にならなかった。中宮が、あのような質問をしてきたのには理由があった。彼が、任国から帰ってきたこと。そうして、病を得ていること。病篤く、祈祷も芳しくないということ。


———二度と、会えなくなるかもしれない。


 そう思うと、たまらなかった。久しく見かけてもいない相手なのに。とうに見切ったはずの思いなのに。

 幸い、あちらには自分の息子もいる。あの子とは折々の文をかわしたり、会ったりすることもある。それにかこつければ、いくらでも文は書けるし、様子を窺うこともできる。そう思い、筆をあげたが、色々な思いが邪魔をする。今更。その言葉が、これほどに疎ましいものだとは思いもしなかった。

 ぱたぱたと、乾いた音をたてて涙がこぼれた。重ねの袖で拭うことすら忘れて、月に祈る。

———どうか、ご無事で。ご無事で。

 涙が、真っ白な紙に模様をつけていく。


「……っ。ついて、ゆけばよかった。」


 任国へついていけば、良かったのだろうか。凛々しく、聡明だった俊国様。歌も上手く、茶目っ気たっぷりの笑顔は、女房たちの憧れの的だった。自分だって、あの頃はまれに見る才女で、美人だと言われ、妻問うひとも多かった。似合いの二人だと呼ばれ、かわいい子どもも授かった。なのに。なのに、私は、どこかで間違えたのだろうか。

 徒に流れていった歳月が、無性に恨めしい。嗚咽が、とまらなかった。




 かさり。

 どれくらいの時間が経っただろうか。月は傾き、その姿を空の彼方に沈めようとしていた。止めどない涙もそのままに、どれくらい泣き続けたのだろう。庭の方から聞こえてきた、物音に我に返る。月を見る為に、いつになく端近にいた気がする。

 いけない。誰かに感づかれる。

———そんなことも、忘れるほどに、私は取り乱していたのか。なさけない…

 清子は慌てて、その辺の物を片付けようとした。


 かさり。

 そして、物音に再びどきりとする。

 物音が、近づいてくる。

 誰?

 急に不安が押し寄せてきた。後宮に忍び込む、夜遊びの公達だろうか。ここのところ、そのようなお方を見かけることもなかったのだが。


 物音は、やがて足音に変わった。

 足音は、御簾をこえ、やがて清子の局の几帳をこえて…


 ぼうっと、表れた人影に、清子はただ、言葉を失った。

「不用心が過ぎますよ。

 貴女は御自分がどんなにお綺麗かまだ、ご存じない。

 私が、さんざん教えて差し上げたのに、覚えて下さらないとはひどい人だ。」

 人影は、くすくすと笑う。

「悲しげに、涙を流して月を見上げる風情が、堪らなかった。」

 私でなくとも、堪らなかったとおもいますよ。と眉尻を下げる、その顔。その声。それはまぎれもなく…


「としくに、さま」


 あまりのことに、頭がついていかない。


「どうし…」


「昨日、中宮さまにお願い致しました。

 ———私の妻を返してほしいと。」


 彼は、真摯な口調でそう告げた。


「そんなに、お泣にならないで。」

 私も、いささか策を弄したのですよ?彼が、優しく笑う。

「帰って、きて下さいますね?」

「…っ。」

 この状況に返す言葉が、見つかるはずもなく。

「心配、いたしましたのに…っ。」

 彼は、嬉しそうに破顔し、そして私を強く抱きしめた。

「嫌だとおっしゃっても、もう離したりできませんから。

 私が意地悪でしたね。

 貴女があまりにつれないので、すこし心配して欲しかったのです。」

 そんなに悲しかったですか?と顔を覗き込むその顔が、堪らなく憎く、愛おしかった。


 

 翌朝、たくさんの涙を吸い込んだ紙は、乾いてしまい、波打ってさながら凪いだ湖面のようになっていた。思いの残滓。そんな言葉が頭をかすめる。

 ぼうっとそれを見つめていると、彼がぽつりとつぶやいた。

「一人になってみて、はじめて気がつきました。

 貴女のいた月日の重さを。

 どんなに、離れても、貴女を忘れられなかった。


 ―――それに、太郎も、喜びますね。」

 大切な何かを、取り戻した気がした。




 その後、私は御所を辞去し、彼の五条の邸に移った。

 病篤く、というのはただの作り話だったようで。

「風邪をこじらせた、という打合せだったのですよ。」

 悲しませるつもりはなかった、と彼は弁解する。

「どうやら、おもしろがった中宮様に担がれてしまったようですね。」


 そうしてみせる笑みは、どれだけの月日を重ねても、変わることはなかった。


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