陣野隆司という人間
5
宏哉さんは夕食の下ごしらえを終えて早十分。
ようやく音衣さんが降りてきた。既にもう日もどっぷり暮れていた。
「お待たせ―ッ!」
「待たせ過ぎ、……」
「あ……」
音衣さんを見てぼくら男どもは呆気に取られてしまった。
何と音衣さんの格好はこの家に入る前と同じ、つまり制服のままだったのだ。
しかし、ちょっとオシャレはしている。爪には薄くラメ入りのネイルが塗られていたし(もしかしたら付け爪かもしれないけどぼくにはそれは見極められない)、髪はちょっとフリフリのついたバンドで括られていた。
「音衣。なんで制服なんだよお前は!!」
ちょっと沸点をオーバーしたのか宏哉さんは声を荒げた。
「だって、隆司君の家に行くのも初めてでしょ?だったらまずはお友達ですってアピールしておかないと。だから制服で行くの」
頭いーでしょと彼女はちょっと胸を張った。そうして兄の方に歩み寄り少し、頭を傾けた。
「えへーっ。なでなでして」
ぶほっっ!?とぼくはむせ返ってしまった。
なんだその破壊力抜群の甘え声。
不満そうに眉を顰めた宏哉さんは妹が望んだとおりその頭を優しく撫でる。
しかし不意に彼の目が血走ったかと思うと撫でていた手が音衣の頭を鷲掴みした。
「このバカ妹ーっ!!」
「痛いっ!兄さんっ!!なんで、なでなでからのアイアンクロー!?」
がやがやと騒ぐ兄妹。大変仲がよろしいようで結構なことだと他人事で思った。
ちなみになでなでからのアイアンクローは森田家男子の一子相伝の技らしい。
心底どうでもいいと、音衣さんから聞いたぼくは思った。
数十分後。
本当に家にまで着いて来た音衣さんたちだった。
こっそり帰ろうと思ったぼくのもくろみも淡く崩れ、帰宅した父親を迎える母親、つまり両親としっかりばったり遭遇してしまった。
ところが意外なことに両親はむしろ森田兄妹の突然の訪問を快く受け入れ、遠慮というより既に用意している夕食の処理法故に断る宏哉さんを強引に押し切り、うちで夕食を取らせた。
なんだか気まずい思いをしながらも食事を終えたころにはもう九時になろうかとしていた。母親の「送ってあげなさい」という助け舟のおかげで、両親からの質問攻めという拷問は延期された。
ぼくは暗い街を音衣さんの隣を歩いて進んだ。宏哉さんはぼくらのすぐ後ろに着いていた。
「いや~、すっかりごちそうになっちゃったね」
振り向いて宏哉さんに話を振る音衣さん。
「あれだけ断ったというのに、強引な御両親だな」
「はははっ。ぼくもあんな人たちだとは知りませんでした」
乾いた笑い声と共に冷や汗が流れた。本当に知らなかったんですよ宏哉さん。だからそんな恨めしそうな目で睨まないでください。コワいですから本当に。
持ち前の鋭い瞳の視線がちくちくとぼくの背を刺す。
そのまましばらく進んでいき公園に差し掛かったころ、音衣さんが変な声を出し始めた。
「あ~あ~あ~」
発声練習前に声の調子を確かめるかのように「あ~あ~あ~」と繰り返す音衣さんに、宏哉さんは掌に拳を下した。ガッテン?。
「すまん。俺は用事があるから、陣野は音衣を送ってやってくれ~。あ、音衣、これ鍵な」
すごい棒読みでそう言って、彼は止める間もなく宵闇の向こうに消えた。
「え?何今の?」
「なんでしょーねー。兄さんはたまに意味不明な行動をするから、気にしないでね」
さっきの「あ~あ~あ~」も、大分意味不明な行動だった気がするのだけど、これも気にしない方がいいのだろうか。いいのだろうな、精神衛生上。
「ちょっとおなかが一杯で疲れちゃった。ちょっと公園で一休みしない?」
と言いながらぼくの手を掴んで連行する音衣さん。なるほどつまりぼくの意思は関係ナッシングってことだね。
無理やりというか強引というか、とにかくぼくらは夜の公園のベンチまで行った。
人ひとり分のスペースを開けて音衣さんとぼくは隣に座った。
「え~っと、おなか大丈夫?」
とりあえず名目上のおなかのことを訊いてみた。
「しばらくすれば大丈夫。それよりも」
彼女は急に空いていた距離を詰めてぼくの瞳を覗き込む。
「隆司君は大丈夫なの?」
黒々とした彼女の瞳にはブラックホール並みの引力が秘められていた。
ぼくもまた、その引力に引き込まれる。
「な、何が?」
かろうじてそう返答することができた。彼女は目をぱちぱちさせた。
「さっき、図書室で、泣いてたよ」
「……」
大丈夫、とは言い切れなかった。
兄と同じように彼女のブラックホールもまた、嘘だけを取り除き、真実を詳らかにする不思議な力を持っているようだったのだ。
ぼくはそう。大丈夫ではなかった。ぼくはまだ、セカイの破壊を望むこの心を受け入れられないでいたのだ。だから、大丈夫とは言えない。まだぼくは、己の黒い輪廻から抜け出せない。
「あのね。人を癒せるのは人だけじゃないんだけど、人を温められるのは人だけなんだって」
彼女はぼくの胸に、心臓の上に掌をそっと置いた。
彼女の掌は、やっぱり温かかった。
その熱が心臓を通してぼくの血潮を温めていく。
刃のように冷たかった空気もまた、嘘のように温かく感じられた。
「ねえ、話してくれないかな?隆司君。君はどうして泣いてたの?」
それは宏哉さんの歌のおかげだった。
でもそれが彼女の聞きたいことではないのだろう。
ぼくの本質。ぼくという人間の心の在り様がぼくの苦しみの種だった。
「……ぼくはね。ぼくは、セカイが嫌いなんだ」
「……」
ぼくの心臓の真上にに掌を押し当てたまま、彼女は固まってしまった。
「人が嫌いだ。社会が嫌いだ。自然が嫌いだ。生きているのが嫌いだ。
学校が嫌いだ。クラスメイトが嫌いだ。親も嫌いだ」
厭な気分だった。自分の抱えていた暗闇がこんなに黒いものだとは知らなかったのだ。
「そして何より、全てを嫌うぼく自身が嫌いなんだ」
音衣さんはとても苦しそうに目を閉じた。一体何が苦しいのだろう。
と共に、不意に頬に感じた夜風が妙に痛かった。
どうなっているのだろうとぼくは頬に手を添えた。
ヌルっとした感触がしたそれはぼくの涙だった。
「でもね。ぼくは知ってるんだよ。人は大切だ。社会は大切だ。自然は美しく、生きているのは素晴らしい。
学校は楽しい。クラスメイトは大切だ。親にも感謝しているんだよ」
そんな二律背反を抱えてぼくは生きていた。でもそれはとても疲れることだった。
だからこそ僕はセカイが、嫌いだった。
たとえば人が大切だと言っているのに、人が傷つくこのセカイが憎くなった。
たとえば社会のためのことが、実は一部の人間のための行動になることがあるのに耐えられなかった。
たとえば自然保護を叫ぶ一方で、自然破壊が進むことが許せなかった。
そんな、
些細なことから大規模なことまで、ぼくはいろんなことが厭だったのだ。
心から。
歪んだセカイ。そんなものなら、壊してしまえ。
それとも、そう思うぼくが歪んでいるのだろうか。
ひたひたとぼくのきつく握りしめた手の甲に水滴が落ちた。
音衣さんは、その手の上に自分のもう一方の手を重ねる。
「きっとみんなそう思ってるんだよ。でもね隆司君みたいに深刻にならないんだよ。貴方は、きっとすごく優しい人で、いろんなことや、いろんな人を考えを理解できるんだと思う。だから、それぞれの違いがあなたにとって、すごくすごく苦しんじゃないかな」
彼女はぼくを定義していく。
「……わからないよ。……わからないんだ」
「うん。そうだね。私にも実はよくわかんないんだ。えへへ。ごめんね」
ぼくらは暗闇で励まし会う迷子の姉弟のようだった。
「きっと隆司君って人を、隆司君が理解できるまでにはすごく時間がかかると思うんだ。だからね。まずは受け入れてみようよ。隆司君って人をさ」
彼女はそう言って最高のスマイルでぼくを見つめた。
「私も、受け入れるから。貴方のこと」
それを証明するように、彼女はぎゅっとぼくの手をより強く、でもどこか優しくふんわりと握り締めた。
ぼくはより一層強く、彼女の体温がその手と胸にあてられた掌から伝わるのを感じた。
それだけで、ぼくは何か重しが取れた気がした。
受け入れられるのだろうか。ぼくは。ぼく自身を。
それはわからないし、受け入れられたところでどうなるのかもわからなかった。
でも、ぼくは頷いた。
彼女が受け入れると言ってくれたぼくを、ぼくもまた受け入れたかったのかもしれない。
彼女の唇が、動く。
『だから、そんなに傷つかないで……』
明日がどうなるかわからない。
歪んでいるのがぼくなのか、セカイなのかもわからない。
この世は矛盾だらけで、許せないんだけど。
でも、
ぼくに傷つかないでと言ってくれた少女が生きる世界を、ぼくは受け入れてみたいと思ったんだ。